第八話 島津忠良
文亀元年(一五〇一年)
常磐にとって相州家島津運久との婚姻は、伊作家のため、菊三郎のためという思いがあったが、やはり気の進まないことだった。
また自身が相州家に嫁ぐ上に、久逸の後見も失った今、確実に伊作家を相続させるために常磐は一計を案じた。
それは菊三郎の後見人として仕えさせるため、志布志の新納右衛門忠澄を召し抱えることであった。
菊三郎には頼れる相手や相談できる相手が姉二人を除けばいなかった。
むろん、伊作家に仕える家臣団もいるにはいるが、常盤は信を置くにより相応しい人物を探し出すことにした。
常磐に新納友義という兄がいた。
新納友義には二人の男子がいて、嫡男が忠祐、次男が忠澄である。
つまり常磐にとって忠澄は甥という間柄にあたる。
常磐は伊作に移ってからも新納宗家の家臣として仕えていた兄とは手紙をやり取りを続けていた。
その手紙で、忠澄が武勇に優れるだけでなく、仏教、儒学、神道、政治にも通じていることを聞き及んでいた。
忠澄には万が一自分の身に何かあった場合に菊三郎と伊作家を守らせるため、伊作家へ仕えることを願ったのだった。
また、伊作久逸、新納是久の飫肥における反乱以降、是久庶流は志布志の領主から新納宗家へ仕える家臣格へ落ちている。
そのため、自らの出である是久庶流に今一度活躍の機会を与えたい、という気持ちがあった。
余談ではあるが、この新納忠澄の孫が新納旅庵。
忠澄の兄、新納忠祐の孫が新納武蔵守忠元である。
是久の氏族から生まれたこの2人の新納が、島津家最大の危機を救い、あるいは島津家武功第一の伝説的な活躍を見せるのだが、それは後の話である。
閑話休題。
一方、運久との再婚は常磐の杞憂に過ぎなかった。
田布施に移ってからというもの、前妻を自ら手にかけたという噂が嘘のように思えるほど、美しい常磐にとても優しかった。
再婚時には運久三十四歳、常磐三十歳であったが、その後二人の女子をもうける事になる。
また、婚姻の儀で菊三郎と面会した運久は、十歳にしては大人びて賢いその様子を見て、いたく気に入った。
伊作に渋谷一党が攻め入る気配ありと見ては援軍を差し向けてこれを守るなど、伊作家のために手を尽くした。
また菊三郎も海蔵院に在って頼増和尚と新納忠澄の元で、当主に相応しい大器へと育てられていくのであった。
それから五年の年月が過ぎた。
時は移り、元号は永正に代わる。
永正三年(一五〇六年)
菊三郎が十五歳の時、ついに元服の日を迎える。
幼名、菊三郎は元服して、島津三郎左衛門尉忠良と名を改めると、伊作家の当主の座を継いだ。
そして伊作亀丸城の本丸で母子は久々に対面していた。
上座には忠良、その向かいに母・常磐。
万感の思いで常磐はたくましい若武者に成長した忠良を見つめた。
「立派な大将になりましたね」
「これも母上のおかげです」
「お寺に預けたときに大泣きした坊とは思えません」
「随分と苦労をかけました」
そう言って常磐は笑い、忠良も照れくさそうに鼻をかく。
その横には神妙な面持ちで新納忠澄が座していた。
「忠澄にも随分苦労をかけました」
「滅相もございません。叔母様には伊作家で身を立てていただけるように図っていただき、感謝に堪えません」
「これからも……き、三郎をお願いしますね。三郎も右衛門によく相談し、伊作をよく治めなさい」
「はっ」
こうして伊作の地で忠良の治世が始まった。
忠良は母の期待に応えて学を修め、仁政を敷いて領民を慈しんだ。
その評判は次第に高まり、伊作は他の領地にもその声が聞こえ届くほど、よく栄えていった。
二月初旬のそんなある日のこと。
その日は大変に寒く、忠良はわずかな供回りと共に日課としていた領内の見回りを行っていた。
伊作家を継いだ後、大乱に巻き込まれることもなく平穏無事だった。
だが境界を隣接する渋谷一族や薩州家との小さな争乱は常に絶えず、逃れてきた敗残兵が時折迷い込むこともあったからだ。
ふと山を見上げると杉の濃い緑の合間から、開花を迎えた二、三本の梅が桃色の花を付けて春の訪れを告げていた。
「相変わらず見事で美しい梅だ」
そういうと馬を止めてしばらく魅入った。
ふと脳裏に母の顔を思い出した忠良は、梅の苗を取り寄せると常磐のいる田布施亀ヶ城に送った。
常磐もまた、それを自らの住まいに植えさせて、毎年のように梅の開花を心待ちにするのだった
永正七年(一五一〇年)
元服して伊作家を継いでから四年後となる、十九歳の時に薩州家島津成久の三女、御東を正室に迎えた。
伊作家にとって薩州家は久逸を討死させた仇敵であったが、分家間で無用な争いを繰り広げることを嫌って、政略結婚という形で和解を図った。
なお成久は薩州家三代当主である。
永正八年(一五一一年)
その翌年には双子の女子が誕生。
御南、御隅と名付けられた。
永正九年(一五一二年)。
相州家島津運久は忠良の領地経営の評判を聞き及んで満足したのか、常磐との約束を守り、相州家の家督、領地、そして家臣をそのまま全て相続させた。
そして忠良に自らの官僚名、相模守を名乗らせ、自らは田布施亀ヶ城より阿多城に移って隠居を決め込んだ。
永正十一年(一五一四年)。
忠良と御東の間に待望の嫡男が誕生。幼名は虎寿丸。
忠良は虎寿丸を跡継ぎと定めて、よく教え、よく鍛えたため、その評判は幼い頃より高かった。
正式に相州家の家督を継いで伊作、田布施、阿多、高橋の広大な日置平野一円を領することになった忠良は、田布施亀ヶ城に移り住んだ。
そこでも善政に励み、その評判は高まって、島津家中でも強い影響力を発揮するようになっていく。
「相州の殿さまが治めるところは戦もなく、田畑はよく耕されて、そこで働く連中も生き生きとしているそうだ」
評判が評判を呼び、忠良の領地には多くの民が集まっていったが、その忠良の仁政は民に優しいばかりではない。
ある日のこと、とある農民の父子が喧嘩の末に子供が手をあげて老いた父親を殴った、という事件が奉行衆の耳に届いた。
その報告を聞いた忠良は脇息を蹴り飛ばして立ち上がると、怒気を込めて家臣に言い放った。
「親に拳を上げるとはなんたる不孝者か! 打首の刑に処す!」
即断即決。
あえなくその農民は首を打たれてしまった。
しかし忠良はその仕置次第の報告を聞いて今度は家臣に怒った。
「それではいつか首が流れでた時に、ただ首を打たれた者だと思うだろう。それではダメだ! その首の額に、こやつは親に手をあげた不孝者だと焼いて印を付けよ!」
その忠良の怒りようは民の間にも知れ渡るようになって、忠良が治める領地では年下の者は年長を敬い、しかし年長の者も威張らずに年下の者を慈しみ、秩序ある社会ができあがっていった。
こうして、順調とも言える忠良による治世は、大きな争いに巻き込まれることもなく十年以上続いた。
その一方で悲しい別離もあった。
大永五年(一五二五年)十月
秋になり過ごしやすくなった頃、忠良の元に急報の使者が訪れた。
常磐危篤。
その報せを受けて忠良は運久と常磐の夫婦が住む阿多城に急行した。
常磐の過ごした城を重苦しい空気が包み込み、忠良は運久への挨拶はそこそこに交わす言葉も少なく、常磐が病の床に伏せる間へ通された。
忠良は足音を立てないように間近までにじり寄ると、そっと常磐を覗き込んだ。
美しいと評判だった面影は僅かに残るものの、やせ細って頬や目尻に刻み込まれたシワがそれまでの苦労を物語っていた。
忠良はそれを見て目頭が熱くなるのをこらえた。
「母さま……」
思わず幼い頃の呼び方が口をつく。
それに反応するように、常磐はゆっくりと目を開けて、意識を取り戻した。
そして忠良に手を伸ばす。
忠良はその手を取ると、しっかりと握りしめた。
「大の男が泣くものじゃありませんよ」
それは弱々しく、か細い声であったが、幼いころから厳しく菊三郎と接してきた母の声だった。
その声と共に忠良に幼い頃の記憶が蘇り、涙が堰を切ったようにあふれだす。
「よく励みなさい」
「……はい」
幼い頃からのよく交わされていた会話が、二人の最後の会話だった。
新納是久女。島津善久室、のちに島津運久継室。常磐。
大永五年(一五二五年)十月十日死没。享年五十四。
戒名
梅窓妙芳大姉西福寺殿
常磐の灰塚は西福寺に、墓は伊作家の菩提寺、多宝寺に収められた。
忠良はそれからも時間を見つけては供養の祈りを捧げる日々が続いた。
なお、常盤は名代としても一頃伊作の地で政務を執り仕切ったこともあって、伊作の領民は常磐の在りし日の頃を思い出しては梅窓さまと称していつまでも懐かしむのだった。
伊作島津家の危機を支え、後に島津家中興の祖と称される英傑を産んだ母の物語はここで終わる。
世は戦国とは言え忠良の治世は大きな争いもなく平穏無事だったが、その翌年には島津宗家と薩州家を巡る激動の争いが巻き起こる事になる。




