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戦国島津史伝  作者: 貴塚木ノ実
泰平の世
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余話 それからの江戸、そして平成の世に至る道(あとがき)

 かつて日本に内乱が絶えない時代があった。

 家のため、国のため、或いは誇りのために、或いは民のために。

 己の生き方に時には迷い、時には信じて疑わず、命を賭けた者たちが居た。

 それは武士と呼ばれる。


 西南の果て、鹿児島にも武士がいて、その武士集団をまとめる家があった。

 それは島津家と呼ばれ、江戸期になって薩摩藩の藩主となった。



 江戸の世に移行して三十年ほど経ってから騒乱が起きる。



 寛永十四年(一六三七年)

 肥前国島原の地で、弾圧されたキリスト教徒が結集して、天草四郎時貞を頭目に据えて決起した。


 戦国の戦は、五分勝ちを是として、助命嘆願すれば構わず逃す事を基本としていたようである。

 だが戦国の倣いが失われたこの頃、徹底的に虐殺しつくしたと言う。


 なお、この島原の乱に於いては薩摩藩初代藩主、家久は病身のために出陣できず、二代藩主三久が出陣した。

 またこれと前後して幕府は鎖国令を幾度も公布して外国との関わりを断つことで泰平の眠りに付いた。



 江戸泰平期における有名な事件はおよそ百年後に起きた。



 元禄十四年(一七〇一年)三月十四日

 江戸城松の廊下にて浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央へ刃傷沙汰に及び、即日切腹を命じられる。


 元禄十五年(一七〇二年)十二月十四日

 赤穂藩復活の望みを絶たれた元赤穂藩士が江戸の吉良邸に討ち入りを果たす。

 それは義挙と持て囃されて、後年になって人気の歌舞伎演目となる。


 なお時の薩摩藩三代藩主、島津家二十代綱貴は、凶刃に臥した吉良上野介義央の娘、のち上杉綱憲の養女を継室に迎えていたが、この事件と前後して離縁している。



 江戸幕府は諸藩の反乱を防ぐため、財力を削る事を目的とした命令を下すことがよくあった。

 参勤交代の他、天下普請、お手伝い普請と呼ばれる。

 薩摩藩島津家も天下普請をよく命じられ、その中でも最も過酷だったのは宝暦治水と呼ばれる事業だった。



 宝暦四年(一七五四年)一月

 幕府より薩摩藩に洪水を繰り返す木曽川、長良川、揖斐川(木曽三川)の治水工事が命じられる。

 この治水工事に於いては、完成した堤を幕府方の役人が破壊するなどの嫌がらせがあったとされ、その抗議のために多くの藩士が自害する事件にまで発展する。


 宝暦五年(一七五五年)五月

 治水事業が完了。

 これにかかった費用は延べ二十二万両にも及び、その全てが借入金であった。

 その返済には税収入が宛てられ、特に奄美以南のサトウキビは貴重な銭収入をもたらしたことから栽培が盛んに推奨された。

 なお南西諸島の人々から見るとそれは大変な苦労だったため、薩摩藩への恨みから黒糖地獄とも呼ばれたと言う。



 借金と薩摩藩は切っても切り離せない悩み事としてそれからも続くことになる。


 なお稲作に向かない土地ばかりで貧しかった薩摩藩も、江戸期に入ってタバコ、唐芋が輸入されて好転するようになった。

 タバコは国分に移った後の龍伯が栽培を推奨し、いずれ薩摩藩に貴重な銭収入をもたらした。


 〽花は霧島、煙草は国分

   燃えて上がるは オハラハー 桜島


 後の世に伝わる『鹿児島おはら節』の歌詞にその名残が見える。


 また唐芋は飢饉にも強く、貧しい土地でもよく育ったため、薩摩藩のみならず日ノ本中にも広まった。

 薩摩藩より伝わったそれは、当地では「カライモ」、諸藩では「サツマイモ」と呼ばれる。


 なお荒れ地ばかりで貧しかった大隅地方が灌漑整備されて豊かな食料庫となるのは遥か後年の事である。



 そしてその荒れ地の原因となり、噴煙が上がっているのが当たり前、噴煙がしばらく上がらないと地元衆から不安がられる桜島だが、江戸期に一度、記録に残る大噴火を起こしている。


 安永八年(一七七九年)十月一日昼過ぎ

 桜島が大噴火する。

 翌日より北岳、南岳中腹より溶岩が流出する。

 翌年七月六日には海底噴火も発生し、鹿児島湾内に幾つかの島が出来る。

 降灰は長崎、江戸でも観測される。


 その後桜島は、大正三年(一九一四年)一月一二日にも大噴火を起こし、流出した溶岩によって大隅半島と陸続きになるのはよく知られている通りである。



 外様大名の薩摩藩島津家と江戸幕府徳川家の関係が一転したのは江戸の世になって百八十年ほどの事だった。



 天明七年(一七八七年)

 徳川第十一代将軍に家斉が就任。

 この年、薩摩藩八代藩主、島津家二十五代重豪の娘、茂姫は近衛家の養女となり、近衛寔子ただこと名を改めた後に徳川将軍家に嫁いだ。

 寔子は後に家斉の死去に伴い、広大院と名を改める。

 なお、家斉の治世は五十年にも成り、さらには正室側室含めて十六人の間に、二十六男二十七女を授かり、その全ては寔子の子として扱われた。

 これを機に西南の果ての外様大名に過ぎなかった薩摩藩島津家は江戸治世の強く関与し始めることになる。

 また江戸期の太平の世はこの頃に極まったと言う。



 永遠に続くと思われた江戸の世も、外国との関わりによって否応なく変化せざるを得なくなる。



 嘉永六年(一八五三年)六月三日

 黒船来航す。


 それは一七七六年(安永五年)七月四日に建国したばかりの国が有する圧倒的軍事力の前に屈する事態となった。

 ここに江戸の治世は揺らぎ、激動の幕末期へと突入していく。


 なお、前年頃に藩主島津家二十八代当主斉彬により伊地知季安が記録奉行に任命された。

 伊地知季安すえよしはその子季通すえみちと薩藩旧記雑録など多数の著作を編纂していく事になる。



 幕末から明治の世となるまでの間、薩摩藩、そして長州藩、土佐藩等、多くの人々の尽力は計り知れない程である。

 尽力の結果、旧体制をわずか数十年程度で劇的に変えてしまった大偉業は、世界広しと言えどもそう例がないのではなかろうか。

 不幸にも旧幕府体制側は敵と見做されてしまったが、国を思うが故の志には敬意を払うべきと考える。


 だがそのさなか、神道を国教と定めて神仏分離が図られ、廃仏毀釈運動が盛んになったのは実に不幸な出来事だった。

 特に薩摩藩における廃仏毀釈は徹底的に行われ、多くの貴重な文化財が失われてしまった。

 後に島津日新公を祀った日新寺は竹田神社へ、島津義弘公を祀った妙円寺は徳重神社へ、島津歳久公を祀った心岳寺は平松神社と改められて復興された。

 

 なお、この三柱の偉人は薩摩藩、改め鹿児島県民に絶大な人気があったようで参詣必須の『三大詣』だった。

 特に心岳寺は歳久公の不屈の闘志に多くの軍属が感銘を受けたようで、全国各地から参詣の行列が絶えなかったようである。



 また幕末期における偉人の一人、西郷隆盛公の功績が絶大なることは疑いの無いことである。

 だが、明治の世になって十年後。

 西南の役で命を落とした悲劇の物語が、それまで戦国、江戸の記憶を完全に塗り替えてしまったようにも思える。


 そして国としても明治期に於いて日清戦争、日露戦争という外国との戦争に勝利した事が、一部の人間、或いは組織に多少なりとも不幸な勘違いと傲慢さを生じさせてしまったのではなかろうか。


 それはいずれ大日本帝国軍の暴発を招いてしまう。

 大東亜共栄圏、欧米排除、植民地開放を方便に、我が国は大変な過ちを起こしていた、と国民が気づいた頃には二発の原爆を落とされ、日本全国各地が空襲で焼け野原になっていた。


 同年八月十五日正午

 昭和天皇の玉音放送。

 この日を以って終戦の日と成す。


 民の苦労を考えれば勝てない戦は控えるべし。

 屈辱に耐えて頭を下げるべき相手に頭を下げる事もいとわず。

 命賭けの交渉を以って家と国の存続を図るべし。

 武士の世では当たり前に出来た事が、文明開化と共に強大な武器を手に入れてしまった事で、政治判断を狂わせたように思える。


 かつて、武士はその力を以って、朝廷と公家から民と土地を奪い取った。

 それは平安期における律令制度を崩壊させ、平安後期以降に誕生した平氏、そして源氏の武家政権に証明されている。


 だが武士は無闇矢鱈にその力を振るうことを良しとしなかった。

 代わりに、心の高潔さを以って世を支配した。


 その心の高潔さは確かに日本人に根付いたようだ。

 それは東日本大震災など非常事態で強く見受けられる。



 世界を相手にした戦争に敗北した事によって日本が歩むべき道は変わった。

 だが現世うつしよを見るに、日本はやはり外国との付き合いが避けられない事を思い知らされる。

 鎖国を敷いて泰平の眠りにつくことを許してくれないようだ。


 諸外国に対して、或いは諸外国との間に発生する問題にどうやって向き合い、対処すべきか。

 今こそ武士が見出した心の高潔さが求められるのではなかろうか。



 かつて日本に内乱が絶えない時代があった。

 家のため、国のため、或いは誇りのために、或いは民のために。

 己の生き方に時には迷い、時には信じて疑わず、命を賭けた者たちが居た。

 それは武士と呼ばれる。


 かつて西南の果て、薩摩、大隅、日向の地に版図を広げた島津家という武家があった。


 その庶流に常磐という少女がいた。

 常磐は幼い頃に桂庵玄樹から学び、いずれ伊作島津家という小領主の妻となった。常磐はその身に振りかかる様々な困難を前にしても怯むことなく、腹を痛めた我が子を厳しく養育し、後を託した。


 その子供は元服していずれ島津忠良、入道して日新斎と呼ばれた。

 日新公の子孫が三州を、そして九州、全国へと名を知られることになったのは、物語の通りである。


 また一つ、日新公は重要な教えを遺した。

 それは「日新公いろは唄」という人の生き方、武士の生き方を指し示すものだった。


 新納忠元、町田久倍、阿多長淳らが日新公いろは唄を取り込んだ「二才にせばなし格式かくしき定目じょうもく」を定めたのは文禄五年(一五九六年)の事である。


 これは戦国の世が終わりを告げた後、島津家家臣団の教育法となった。

 さらに江戸期に入るとそれは郷中教育という薩摩藩の教えに発展し、多くの若者が学んだ。


 郷中教育が西郷隆盛公を始めとした薩摩出身の偉人の礎となり、いずれ日本に大変革を巻き起こす原動力となった事は否定できないだろう。


 無論それは栄光をもたらしたばかりではなく、多くの不幸な側面があった事も否定しない。

 歴史的事実も立場、見方を変えれば様々な苦労があった事は間違いなく、それらにも真摯に向き合うべきと思う。



 さて。

 平成二十八年(二〇一六年)

 鹿児島中央駅は東口を出ると目の前には高層ビルが立ち並び、桜島が見えなかったことに拍子抜けした。

 長旅の出口にシンボルが見えないとは、実にお粗末な観光地であるように思う。

 またその右手、南側にアーケード街がある。

 そこは一番街と呼ばれ、戦後復興の折、戦災の不幸にもめげず商いの場として栄えた所である。

 アーケード街に入ると、人名を掲げたのぼりがあった。


 西郷隆盛、小松帯刀、篤姫、島津斉彬……。


 いずれも幕末期の著名人ばかりでその原点とも言える戦国時代の島津家の名将達の勇名はどこにもない。

 かつて実在し、多くの苦労の末に全てを後に託した方々の御霊は、この現状を見てどう思うのだろうか、とふと考える。

 とても寂しい限りである。


 観光だとか商いだとか目先のことはひとまず横に置いて、かつて戦国の大乱期に生きた人々の事を、どうか思い出して欲しいと心から願う。

 それがきっと鹿児島の新しい魅力になると確信している。

 ここまでお読みいただきありがとうございました。


 この物語は「鹿児島県史料 旧記雑録」他、島津家史料、常山紀談、名将言行録などの逸話集、さらには鹿児島県市町村の郷土史や地元に残る口伝などを参考に創作しました。

 地の文、会話文などは史料からそのまま引用しているものも有ります。


 また、この余計な話が昨日書き上がりましたので、一気に全話を公開した次第です。

 新規話数の追加更新は以上ですが、また最初から読みなおして描写が足りない所、分かり難い所、史料の読み誤りにより事実関係がおかしい所などは随時改稿を重ねます。



 江戸期は大きな争いごともなく、とても平和な時代だったと言われます。

 しかし黒船が来航して外国の干渉を受けるようになって以来、日本は様変わりしました。

 変わらざるを得ませんでした。

 江戸期と今の世、果たしてどちらが幸せな時代と言えるのでしょうね。

 無論、今さら江戸期に戻るべし!と言うつもりはありませんが、心の在り方まで変わってしまうのでしょうか。



 現在、何やら島津義弘公を主人公にした大河ドラマを!という運動があるようです。

 個人的には義久公を主人公に据えた方が、生涯にわたって兄を太守として立てた義弘公の御遺志にも沿うと思うのですが……。


 拙作ではございますが、これを機に一人でも戦国島津家ファンが増えて、運動の一助となれば幸いでございます。

 愛すべき我が故郷、鹿児島と宮崎に脚光が浴びる事を願ってやみません。


 ありがとうございました。

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