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戦国島津史伝  作者: 貴塚木ノ実
泰平の世
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最終話 江戸の世

 慶長七年(一六〇二年)十二月

 八月には上洛した忠恒だったが、その頃家康は関東に下向しており、不在だった。

 家康が上洛したのは十二月の事で、忠恒が謁見するのもそこまで待たねばならなかった。

 なお、忠恒は忠恒で、徳川家康と謁見するまでの間、蹴鞠の大家、飛鳥井家まで出向き、密かに練習していた蹴鞠を披露していた。

 忠恒の見事な鞠裁きに飛鳥井雅庸は驚愕し、後に免許皆伝の免状を送ることになる。



 同年十二月二十八日

 福島正則が先導役を務め、忠恒は家康と謁見。

 これにて島津家と徳川家康の諍いはひとまず決着を見た。


 なお、島津家の家督についても又八郎忠恒と又四郎忠仍、いずれに相続させるかで家中紛糾したが、龍伯が大隅正八幡宮にて神慮に伺いを立てた。

 その結果、忠恒と出たので龍伯は諦め家督問題についてもひとまず決着した。


 なお、宇喜多秀家が島津家が匿っている、という話はいずれ噂となったので忠恒は山口直友に宇喜多秀家の事を相談した。家康は当初宇喜多秀家を死罪とすべしと激怒した。

 だが死罪だけは避けたかった島津家は、宇喜多秀家の正室、豪姫の出である加賀国主の前田家にこれを報せて、連名で死罪を免除頂くように嘆願した。

 臣従しているとは言え、外様大名の島津家、前田家が足並みを揃えた事は、家康にとっては脅威だった。

 強行的な対応で反発が生じる不安をいだいた家康はこれを受け入れて死罪は免除された。

 だが後に宇喜多秀家は八丈島へ送られることになる。




 そして翌年。

 慶長八年(一六〇三年)二月十二日

 名目上は徳川家康は豊臣家の家臣の一人だった。

 だが若い秀頼に実権はなく、秀吉の死後より統一的な支配者の不在が続いていた。


 そしてこの日、徳川家康が正式に征夷大将軍に任ぜられたことでそれは解消され、日ノ本の政治の拠点は京から江戸へ移りゆく事になる。


 また秀吉の太閤検地以降、確立されつつあった地域武家大名を頂点とした支配機構は後の世に幕藩体制と呼ばれるようになる。

 以後、島津家の領地だった薩摩国、大隅国、日向国諸県郡は総じて、鹿児島藩となる。

 ただし政務の拠点が薩摩国にあった事から薩摩藩と称されることになる。

 また忠恒は初代薩摩藩の藩主となった。



 同年二月二十六日

 一月に伏見を出立した忠恒が鹿児島城に帰薩。

 この日、御家御安定の御祝言を上げる。

 ここに薩摩藩島津家にも太平の世が訪れた。


 島津家の政治権力は鹿児島に、そして忠恒の元に集約されていく事になるが、やはり龍伯、惟新の存在感は大きかった。

 忠恒は国分、帖佐の顔色伺いながら政務を執る事になり、島津家の御三殿体制下の軋轢は静かにくすぶり続ける。

 また忠恒と亀寿に子が恵まれず次代の世継ぎが不在だった事も、なお戦国島津家の頃より続く未決着の問題として残っていた。


 同年三月二十八日

 天皇即位の儀式に立ち会うため、二条城にて徳川家康と豊臣秀頼が会見。

 二条城で挨拶させるために秀頼を動かした、という事実は主従関係の明確な逆転を意味していた。



 慶長十一年(一六〇六年)

 この年、筆頭家老の伊勢貞昌の進言もあって、忠恒は徳川家康より偏諱を賜り家久と名を改めた。

 龍伯、惟新は、末弟と同じ名にどのような思いを抱いたか。



 慶長十四年(一六〇九年)三月七日

 それまで友好関係にあった琉球国と関係が悪化し、徳川家康の御朱印を得て島津家が征伐軍を派遣。

 奄美大島、徳之島、沖縄本島を次々と制圧していき、四月には制圧を完了した。


 翌年には幕府に認められて、琉球国は薩摩藩に組み込まれた。




 なおこの頃になると島津家でも戦国乱世を生きた多くの者たちの天命が尽き始める。


 新納旅庵

 慶長七年(一六〇二年)十月二十六日没。享年五十。


 園田清左衛門の女、広瀬助宗養女。義弘継室。通称、宰相殿

 慶長十二年(一六〇七年)二月一日没。享年不明(五十六か)

 戒名

 実窓芳眞大姉


 山田越前守有信入道理安

 慶長十四年(一六〇九年)六月十四日。享年六十五。

 戒名

 利安慶哲居士


 島津右馬頭以久

 慶長十五年(一六一〇年)四月九日没。享年六十一。

 戒名

 高月院殿照誉宗憤恕大居士


 島津図書頭忠長

 慶長十五年(一六一〇年)十一月九日没。享年六十。

 戒名

 既成宗功庵主


 新納武蔵守忠元入道拙斎

 慶長十五年(一六一一年)十二月三日没。享年八十五。

 戒名

 耆翁良英庵主


 そして、戦国島津家の全盛を築き上げた男も、その時を迎える。


 慶長十六年(一六一一年)一月

 年が明けて早々に龍伯の虫気が再発した。

 忠恒改め家久、惟新らも相次いで国分に出向いて見舞った。


「お父様、平気ですか?」

「兄上……」

「龍伯様……」

「……」


 何も答えられずただ顔をしかめる龍伯に一同は覚悟を決めた。

 十日頃に意識を失い、それから一度は持ち直した。

 しかし再び意識を失い、最後は眠るように息を引き取った。


 島津修理大夫義久入道龍伯

 慶長十六年(一六一一年)一月二一日没。享年七十九。

 戒名

 妙谷寺殿貫明存忠庵主


 殉死者は十五名に及んだ。


   世の中の よねと水とを くみ尽くし

     つくしてのちは 天つ大空


 龍伯辞世の句と伝わる。


 四兄弟で最後まで残ったのは惟新だった。

 惟新とて老身ながら矍鑠かくしゃくとした日々を過ごしていたが、戦場を共にした者たちの死、さらに兄の死に一時は塞ぎこんで寂しい思いを募らせる日々が続いた。

 だがその惟新を喜ばせる出来事も起きる。



 慶長十六年(一六一一年)夏

 加治木の城に一人の中年が訪れていた。

 中年の男は汗を拭い、荒れた息を落ち着かせた所で加治木城の門番に声をかける。


「御免あろう。こちらはかの島津兵庫入道殿の城か」

「……そうだが……その言葉、上方の者か?」

「うーん。まあ……そう、といえばそうだ」

「何用かな」

「関ヶ原の又右衛門がお会いしたい、とお伝えいただけるとありがたい」

「関ヶ原の……? 相分かった。しばし待たれよ」


 取次役は怪訝そうな顔で城に入っていく。

 それから少しして、城館からバタバタと慌てる音が聞こえてきて、息を切って帖佐彦左衛門が駆けつけた。


「又右衛門殿! 又右衛門殿ではないか!」

「彦左衛門殿! ご無沙汰であった!」

「息災そうで何よりだ!」


 頬に皺が入り始めた五十ばかりの中年が二人、満面を笑みを浮かべて再会を喜ぶ。

 関ヶ原で無理やりに道案内を頼み込んだ又右衛門と帖佐彦左衛門は奇しくも同じ年であった。


「惟新殿がご存命のうちに、今一度お目通り掛かるべしと思い、罷り下った次第だ」

「それは殿も喜ぶぞ。殿も在城である。ささ、参れ参れ」


 又右衛門と帖佐彦左衛門は肩を並べて、惟新の御前に参じた。


「又右衛門殿! 実に久しぶりだ!」

「惟新殿、ご無沙汰しておりました。拙者、美濃国より参りました……」

「あいや待たれよ。それ以上名乗る必要はない」


 惟新はそれを制して微笑む。


「又右衛門殿は又右衛門殿だ。苗字が知れるようになればお主に罪がかかるやもしれん。そうなれば悔やんでも悔やみきれぬ」


 そう言って頷く惟新の心使いに、又右衛門も微笑んだ。


「あの道中、真に大変でしたなあ」

「まこと、真になあ……」


 その日、加治木城には惟新と又右衛門、そして関ヶ原の退却路を共にした者たちが集まった。

 そこでまた再会を喜び、関ヶ原の昔話で大いに盛り上がった。

 その中で又右衛門が入道するという話になる。


「実は、それがしも入道しようかと存じております。そこで惟新様に名付け親になっていただきたく」

「そうだったか。では、そうだな……一作と名乗るのは如何かな」

「それはありがたい! では拙僧はこれより一作でございます」

「わっはっは! 一作殿とこうして再会できた今日は実にめでたいことだ」


 またその後も場所を移して宴となった。

 なんとそこには鹿児島より家久まで訪れた。


「そなたが又右衛門殿か、よくぞ父をお救いいただいた。それがしからも感謝申し上げますぞ」

「勿体無く存じます。どうぞ頭を上げてくだされ」

「島津の御両殿が頭を下げる相手は天下広しと言えどもそうはおるまい! 受け取っておけ、又右衛門殿!」


 笑顔があふれる加治木城となった。



 そして太平の世はゆるやかに過ぎていき、そして戦国時代の記憶は伝記、逸話となって残っていく事になる。

 だが江戸の世を迎えてから十年余、戦国時代の記憶を呼び起こす事件が起きる。



 慶長十九年(一六一四年)四月

 秀吉の肝煎で開眼し、島津家も屋久杉を献上した方広寺大仏殿は、同十四年より再建が始まっていた。

 だが収められた梵鐘に「国家安康」「君臣豊楽」の文字があり、これには徳川家康を裂き、豊臣家の再興を願う呪詛である、として見咎められた。


 後の世に言う、方広寺鐘銘事件である。

 これを口実に徳川家康は豊臣家に天下を乱す逆意あり、として征伐の下知を下す。



 同年十月二日

 大阪城に在って豊臣家が戦争を準備し始めた事で、対決は避けられないものとなる。



 同年十月十一日

 徳川家康が軍勢を率いて駿府を出立。



 同年十一月十九日

 木津川口で両軍が激突し、その後散発的な戦いの後、大阪城に籠城。



 同年十二月

 徳川方二十万の兵によって大阪城を包囲するに至る。

 真田信繁が大阪城の南東部分に出城、通称真田丸を築き上げ果敢に抵抗する。

 しかし相次ぐ大砲攻撃によって淀君が怯え、和睦することを命令。

 ここに後に言う慶長十九年の大阪冬の陣は終わる。


 だが家康は和睦の条件として取り付けた二の丸、三の丸の破壊と外堀の埋め立てを行い、手を焼いた真田丸を徹底的に破壊し、次に備えた。



 そして翌年。

 慶長二十年(一六一五年)三月十五日

 大坂方の浪人による乱暴狼藉、放火など不穏な動きがあるとして豊臣家の移封を要求。

 豊臣家家臣の大野治長はこれを拒否すると再び対決は避けられなくなる。



 同年四月二十六日

 籠城戦に勝ち目なし、と判断した豊臣方は野戦にてこれを決するべく出陣し、大和国郡山城を攻め落とすなどもあったが、徳川方十五万の兵の前に次第に押し込まれていく。



 同年五月七日

 大阪城の南側、天王寺口と岡山口で両軍が激突。

 真田信繁は茶臼山に陣取り、徳川家康本陣に三度突撃を繰り返して、家康の首まであと一歩まで迫ったが、遂に及ぶに至らなかった。

 後に大坂夏の陣と呼ばれる戦いはこの日を以って決着がつき、大阪城は炎上。


 翌日、炎の中で淀君、大野治長、豊臣秀頼は自刃。

 ここに豊臣家は滅亡した。


 なお、この大坂の冬、夏、両陣とも忠恒率いる島津軍は参陣していない。

 参陣命令があってから軍勢を起こし上洛の途にあったが、開戦に間に合わなかったためである。

 ただ上方務めの島津家の者より大坂の陣の様子は事細かに記録され、六月十一日付けの書状で忠恒、惟新らの知る所になる。

 その最後の決戦における模様を伝える一節には以下のようにあった。


『五月七日に、御所様(徳川家康)の御陣へ真田左衛門信繁が仕掛ける。

 御陣衆を散々に追い散らし、討ち取った。これに御陣衆も三里(十キロ)ほども逃げて、辛うじて生き残ることが出来た。

 だが三度目の突撃で真田も討死にした。

 真田日本一の兵。いにしえの物語にも無い戦ぶりだった』



 日ノ本の人間は生来『判官ほうがん贔屓びいき』な気質がある。

 源九郎判官義経の悲劇然り、平家物語然り、不遇な身の上や弱者への同情、または応援。或いは世の支配者に歯向かった気質を褒め称え、その悲劇の物語に涙することを好む。


 豊臣秀吉死後からの徳川家康への政治権力の移行は多少なり強引であった事から、江戸の太平の世を歓迎しつつも、支配者に対する声なき抗議は『判官贔屓』な気質も相まって伝説性を帯びることになる。

「真田日本一の兵」の激闘もまた、世の天下人である徳川家康に切腹を覚悟させた、という伝説も相まって人々の賞賛を得る事になり、真田信繁の代名詞となっていく。


 なお、豊臣秀頼、真田信繁は密かに戦場を離脱して西南の果て、薩摩へ逃れたという伝承がある。

 豊臣秀頼の墓は鹿児島の南、谷山の地に、真田信繁の墓は頴娃に伝わっている。

 薩摩の地に残る木下きのした姓は公の子孫とも伝わるが、はてさて真なるや。




 元和二年(一六一六年)四月十七日

 大坂の陣における豊臣家の滅亡を見届けた徳川家康も七十五歳の人生に幕を下ろす。

 島津家を安堵したことが余程気がかりだったのか、遺骸を西に向けて置くように、と遺言したと伝わる。

 それもまた真なるや。



 そして島津家もまた――。



 元和五年(一六一九年)七月

 惟新の晩年は自ら立ち上がる事も食事を取る事すらもままならず、耄碌もうろくした。

 家臣らは最後の希望にかけて、朦朧とする惟新の耳元で告げる。


「殿、敵勢にございます!」


 庭で出陣を告げる法螺貝を吹くと、それまでが嘘のように目を見開いた。

 そして飛び跳ねるように起き上がる。


「敵はやはり徳川か! 何処より進軍しているか!」


 と叫んでその場で粥を食らい、武者装束を身に付けるのを手伝わせた。


「桂太郎兵衛、山田民部少輔はいるか! あやつらに先陣を任せよ! 馬を引け! 馬廻りには中馬と木脇をつけさせよ!」


 次々と陣大将の名を呼んで着陣場所の下知を下していく。

 だがそれが虚報と分かると


「なんだ、脅かすな」


 と腹を立てて、またヨタヨタと横になった。

 それから数週間後の事だった。


 島津兵庫頭義弘入道惟新斎

 元和五年(一六一九年)七月二十一日没。享年八十五。

 戒名

 妙円寺殿松齢自貞庵主


 辞世の句は二首伝わる。


   天地あめつちの 開けぬ先の 我なれば

     生くるにもなし 死するにもなし


   春秋しゅんじゅうの 花も紅葉も 留まらず

     人も空しき 関路なりけり


 惟新の死後、殉死禁止令下にも関わらず、十三名が殉死した。

 殉死者の中には関ヶ原の退却路を共にした者も多く、木脇弓作佑秀らの名前もあった。

 これには家久も大いに腹を立てて御家断絶の処置を下したが、後に子孫を再び家臣に取り立てている。



 時は江戸。

 太平の世はゆらりゆらりと揺れ移る。



 元和八年(一六二二年)七月

 家久は上ノ山城の山頂にある天守の館にいた。

 天守と言っても天に突き刺すような天守閣ではなく、小さな庵のような建物だったが。


 茶をすする眼下に鹿児島城の城下町が広がっていた。

 そこに筆頭家老の伊勢貞昌が少し息があがった様子で襖越しに声をかける。


「殿、こちらにおわしますか」

「うん。入れ」

「珍しいですな」

「たまにはここにも来ないと、埃がかぶると思ってな」

「御上様より御伝言がございまして……」

「なんだ」

「虎寿丸様を次代の世継ぎと定めます、と」

「ふっ……。はっはっは!」


 結局、家久と正室亀寿の間に子供は恵まれず、むしろ遠ざけた。

 龍伯が亡くなるまでは遠慮していたが、亡くなった途端に家久は続々と側室を迎えて、次々と子をなしていった。

 そうした中で薩州島津義虎と龍伯の娘、御平との間に生まれた島津忠清の娘が十二歳の時に、側室の一人に迎えた。


 元和二年(一六一六年)六月二日に家久との間に生まれた子は虎寿丸と名付けられ、亀寿が養母となった。

 亀寿は家久の扱いには頭に来ていた。

 この年、七歳の虎寿丸に財産を相続させることを宣言し、実質的に世継ぎと定められた。


「御上様も随分と腹を据えかねておるか。それとも義久公の御遺言か」

「さあ……」

「まあこれで、義久公の血も入るのだ。文句はなかろう」

「だといいのですが……」


 そう言って伊勢貞昌は家久の顔色を伺う。

 嫡子を勝手に決められたにも関わらず、何やら機嫌はよさそうだった。


「ご無礼ながら宜しいでしょうか」

「なんだ」

「一体、御上様の何がお気に召さなかったのでしょうか」

「そうさなあ」


 家久は腕を組み、いたずらっぽく微笑む。


「亡き父上と同じ、年下好みだっただけだ」


 なお家久は側室の間に生まれた子供たちを薩摩藩の有力家臣、島津分家に嫁がせた。

 また嫡子のいない家には養子として送り込み、自身への権力集約化に勤しむことになる。

 形はどうあれ、ひとまずこれで戦国乱世より続いた島津家の世継ぎ問題もこれで決着することになった。

 なお、虎寿丸は後に元服して三久と名を改め、桜島を眼前に臨む磯という場所に仙巌園という島津家の別邸を建てる。


「なあ貞昌よ」

「は」

「江戸の世はいつまで続くと思う?」

「えっ!? そのようなことをあまり仰せにならない方が……」


 伊勢貞昌は、肩をすくめて思わず辺りを見回す。


「構うものか、徳川殿の公儀隠密は薩摩に通しておらんと山くぐり衆より報告があがっておる」


 伊勢貞昌はそれでも何を言い出すのかと家久の様子を伺う。


「よく考えてもみろ、過去を振り返れば京、鎌倉、室町、大坂と世の支配者は決して永代まで続いておらぬ。いずれ滅び去るものよ」

「……それがしには見当も尽きませぬ」

「ふん。まあよい、それは我が島津にも言えることだからな」


 家久は笑い、木々の間から見える雄大な桜島に視線を移す。


「さて。この太平の世、いつまで続くことやら」


 家久の瞳が捉えているものは桜島か、その先か。


「お、噴いた、噴いた」


 その時、桜島の山頂から音もなく黒色の煙が吹き上がり、家久は膝を叩いた。

本編は以上です。ありがとうございました。

次の余話で本当の終わりです。

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