第七話 運久
明応九年(一五〇〇年)
この頃、島津家は薩摩、大隅、日向の三州守護を名乗る十一代忠昌の治世であったが、実態は守護大名とは名ばかりでその権威は地の底に落ちていたと言っても過言ではなかった。
日向は伊東氏、北原氏らの国人衆、島津分家の一つ北郷氏と、飫肥を支配する新納氏、豊州家が領地争いを繰り返していた。
大隅は肝付氏が事実上支配下に置いていたが、寝禰氏や伊地知氏、肝付支族間で仲違いを繰り返しており、ここでも小競り合いが途絶えることはなかった。
そして薩摩では、島津宗家、島津分家、川内川流域を領する渋谷一族と、大隅と薩摩の境界を領する蒲生氏、吉田氏などの国人衆が争いを繰り返していた。
この当時の島津分家の立ち位置は、宗家に臣従する配下、というよりは宗家から領国を割譲されて委託経営する立場だった。
そのため税徴収などの裁量権などかなりの独立性が保たれていた。
その中でも特に薩州家は領する土地も多く、宗家十一代当主を継いだ忠昌と度々対立しており、分家というよりは宗家と同格にあるもう一つの島津家とも言わんばかりの勢いだった。
その薩州家では二代当主国久が文明七年(一四九八年)に死去するとその跡目をめぐって争いが起きる。
ちょうど菊三郎が海蔵院に預けられた頃である。
薩州家の跡目争いは年をまたいでなお決着がつかず、文明九年(一五〇〇年)の頃、争いの火種が伊作の南に位置する加世田城に波及した。
善久と常磐の次女、つまり菊三郎の姉は、後に太田氏を名乗る薩州家庶流である島津昌久に嫁いだ。
その昌久の弟が加世田城の城主、島津忠福だった。
忠福は薩州家を継いだ島津忠興に異を唱えて武装蜂起すると、忠興はこれに怒り、谷山から出兵して加世田へ迫らんとしていた。
加世田城に籠城する忠福は、伊作久逸に援軍を依頼し、また久逸も孫婿の弟の血縁や伊作家の安泰を考えて、その援軍要請を快諾。
そして少ない軍勢ながら加世田城まで出陣したが、薩州家本家を継いだ島津忠興の軍の襲撃を受け、あえなく討死してしまったのた。
久逸討死の報はほどなく伊作にも伝わり、常磐は愕然とした。
「なんと……。なんということでしょう……」
当主善久を失い、実質的に後見だった義父の久逸までも討死し、伊作家の命運はここに尽きたかのように感じた。
常磐は泣きたくなる気持ちを堪え、考えを巡らせる。
なんとしても善久の遺児・菊三郎を守らねば。伊作家の血筋を残さねば。
ただその一念のみであった。
(怨敵薩州家には頼れない。むしろこれを機に伊作へ攻め込んで来るのでは)
常磐の頭の中を薩摩、大隅、日向の版図と、それを領する分家の名前が次々と浮かんでは消える。
(新納に頼る? いや、遠すぎるし宗家に取り次いでいてはとても間に合わない)
そして常磐の脳裏に最後に浮かんだのは、伊作と加世田の間にある田布施、阿多を領する相州家島津運久だった。
相州家とは島津宗家九代当主忠国より分かれた分家の一つであり、相模守の官僚名を代々自称していた。
そのことから相州家と呼ばれるようになっている氏族である。
善久の死後、実はこの相州家二代当主運久から事あるたびに婚姻の打診があった。
もちろん西国一とも言われるほどの美貌の持ち主で、賢妻と評判だった常磐に惚れ込んでいたからだった。
常磐はなおも亡き善久を慕っていた。
それ故に運久の申し出には、久逸を通してその都度断っていた。
だが伊作家唯一の支えであったはずの久逸を失った今、背に腹は代えられない状況にある。
常磐は伊作家名代として運久に書を送り、薩州家に対して共に相対するように請うた。
幸いだったのは、相州家にとっても薩州家の騒動はうるさく感じており、また信を置けない存在であったこともあって、運久からは同盟を了承する書が届いた。
もちろん、婚姻を求める書をわざわざ別にして。
「奥方様、相州様より便書が届いております」
「またですか……」
女中から書を渡されると一読して脇に置いた。
「私の心は今なお亡き夫と共にあります」
それだけ言うと筆を取り、紙に次の一句を書いて運久に送った。
うき節に
沈みもやらで
河竹の
世にためしなき
名をや流さむ
これは平家物語第一巻の「二代后」に詠まれている句である。
七十六代近衛天皇の后、藤原多子は天下に聞こえるほどの美しさだったが、近衛天皇崩御の後は近衛河原の御所で余生を過ごすつもりでいた。
しかしその評判を聞きつけた七十八代二条天皇に入内するよう決められてしまう。
亡き近衛天皇に想いを馳せて涙にくれた多子が詠んだ句がそれだった。
その句を引用して常磐は婚姻を拒否する意思を示したつもりだった。
だが、運久には通用しなかった。
なおも、と使者を寄越して迫られ、常磐はついに苛つきながら使者に伝える。
「相州様には正室がいらっしゃるではありませんか! 私は伊作家の室としてこれまで御家を支えて参りました。これを側室とするのは、島津分家衆である伊作を軽輩とみて蔑んでいるのでしょうか? 話の筋としておかしくありませんか!?」
常磐は一気にまくし立て、その大変な剣幕に運久の使者もたじろいだが
「そのままお伝えいたします」
とだけ答えると、早々田布施の相州家本拠まで戻った。
それから運久から婚姻の打診はなかったが、しばらくして常磐の元に耳を疑うような報せが届く。
運久室、子女共々、市来の浦にて舟遊びをしているところを突如として雷に打たれ、悉く焼死。
運久から婚姻打診の便りが届いたのは、その喪が明けてまもなくの事である。
常磐は戦慄した。
正室とその子、全て焼死とは只事ではない。
本当に雷に打たれた不幸な事故だったのかもしれないが、しかし、常磐の女の勘が運久が手を下したのだ、と告げていた。
常盤は大いに悩んだ。
(よもや私を迎えるために、そこまでなさる方とは……)
側室ではなく、正室なき後の継室となる。常磐が挙げていた断る理由は失われていた。
亡き夫への想いを胸に出家し、なおも断ることも考えた。
しかし別の考えが頭に浮かぶ。
(もしここでなお突き放したたら、今度は伊作に軍勢を差し向けて攻め入ってくるのでは……。それでは義父が、夫が守ろうとした領土も民も、その残虐な振る舞いの元で全て失われてしまう。それどころか菊三郎の命さえどうなるか)
常磐は地獄の底に続く絶望の淵に立たされたような境地にありながら、運久の書を再び見やる。
そして思いを定めると筆を取って返事を書いた。
その書を受け取った相州家の使者は、急いで田布施へ戻っていった。
伊作川を下っていくと金峯山の西に田布施という地があり、その政務拠点として亀ヶ城という城があった。
年は三十過ぎたばかりでまだ若々しいが、表情にどこか暗さがある男が書状を受け取っていた。
相州家当主運久である。
常磐からの返事を受け取った運久はそれを読むと、ニタリと笑った。
悪巧みをして思う通りの結果が得られた時に、運久がこういう嫌らしい笑みを浮かべる。
それを知っていた家老が様子を伺う。
「見よ、なんとも業の深い女だ」
「これは、なんと……」
運久の家老が常磐の書を受け取り、一読すると絶句した。
その返事にはこう書かれていた。
『婚姻の申し出、ありがたく思います。
またご正室が亡くなれましたこと、大変悲しく哀れんでおります。これまで申し出を頑なにお断りしていたのは亡き夫の忘れ形見、菊三郎に伊作を継がせるためです。我が身を伊作に捧げていればこそ、婚姻の話もお断りしてきました。もしそれでも、とおっしゃるのであれば我が子、菊三郎が元服した際に伊作家と相州家を継がせていただけませんか。それを承諾してくださるのであれば、婚姻の申し出を受けましょう』
家老は戸惑いながら、運久の言葉を待った。
「美しいだけでなく、幼いころより宋学を修めて聡いと聞いておったが、よもや自らを条件に相州家を欲するとは恐れいったわ」
「して、いかがいたしましょう。返事の次第によっては伊作に人数を差し向けるとの話もございましたが」
「その話はもうよい。麗しき姫が婚姻を受けると言ったのだ。何の問題があるか」
「ですが、殿」
運久は家老を睨みつけると、再びニヤリと笑った。
「薩州めがこうるさく、宗家はどうにも頼りない。前妻は器量が悪く毛嫌いしていたところに、伊作に賢く美しい女が入ったのは天運だ。その女に育てられているという、その息子も聡いであろうから、我が相州の家を任せるのも一興よ」
そこまで一息にまくし立てなおも表情を曇らせる家老を見る。
「なあに、もし菊三郎とやらが愚鈍の輩であれば常磐殿を説き伏せて別に嫡を立てるまで」
家老も運久の目つきを見て本気であることを悟ると、常磐の申し出に承諾の返事を書かせて伊作に使者を立てた。
しかし、その使者が困惑した様子でさらに常磐の返事を持って帰ってきた。
運久は常磐直筆の書を読むと豪快に笑った。
その書にはこう書かれていた。
『婚姻の申し出を承諾してくださったこと、嬉しく思います。ただ、返事の早さを察するに、相州様のご独断でお決めになったことではございませんか。ご家臣の方々はこれを不服としていませんか』
はっきりとは書かれていなかったが、相州家に仕える家臣団に対しても、菊三郎が継いだ暁には、これに仕えるように誓いを立てよ、と要求しているも同然だった。
「ますます面白い女じゃ。士分にある者は残さず誓紙を差し出すように伝えよ!」
そう言うと運久も起請文を書き起こすと、相州家に仕える家臣団の誓紙共々常磐の元に届けさせた。
こうして常磐もついに観念したのか、運久と再婚することになった。
時は明応から代わり――。
文亀元年(一五〇一年
相州家島津運久三十四歳、常磐三十歳、そして菊三郎十歳の時だった。
相州家の後見を得た伊作家はひとまず断絶の危機を回避し、菊三郎が元服する時を静かに待っていた。




