第七十八話 それぞれの決着
関ヶ原より無事に退却し、いずれ帰国した者たちがいる一方でその途中で討死する者もいた。
入来院氏十五代当主でもあった入来院又六重時は退却する途中ではぐれ、納屋に隠れている所に追討軍に遭遇。主従七名がその場で討ち取られた。
なお、関ヶ原から退却できたのは惟新らが率いた八十八名ばかりではない。
例えば新納近江守久元は退却戦の途中で井伊直政との乱戦に巻き込まれ、食い止めるために残った。
惟新が退却したのを見届けると、伊吹山に向かって脱出。
近江路を艱難辛苦の果て数日を経て京に入り、島津家と昵懇にしていた公家、近衛信尹に匿われた。
近衛信尹は公家ながら武家に肩入れしていたようで、天皇や秀吉の怒りを買って薩摩国坊津に三年ほど配流されており、島津家もこれをよく世話した。それ故に近衛信尹も島津家の敗残兵を丁重に扱った。
彼らが帰国を果たすのは慶長六年(一六〇一年)三月のことである。
さらには新納旅庵、喜入摂津守忠政、川上助七久林、川上久右衛門久智、押川郷兵衛らも近江路を通って退却。
九月十八日に鞍馬山に入り、その後京に忍び入った。
だが九月十九日に山口勘兵衛直友の率いる捜索隊に見つかり、捕まってしまう。
しかしそこで新納旅庵への尋問が、島津家を救うきっかけでもあった。
京の屋敷の一角で、縄目を受けた新納旅庵が山口直友と接見していた。
「旅庵殿、お久しゅうございますな」
「勘兵衛殿も息災のようで何よりです」
京に滞在することが多かった新納旅庵、そして徳川家康の島津家取次役でもあった山口直友は顔もよく見知り、親しい間柄でもあった。
だがこの時ばかりは敵味方、あるいは勝者と敗者である。
「惟新様の行方を探しております。生死はご存じですか」
「存じあげませぬ」
「……では此度の御逆意、 惟新様の御心の通りですか」
「それは決して本意にございませぬ!」
旅庵の言葉に熱が帯びる。
「惟新様は申しておりました! 少将の室、惟新様の室を人質に取られ、害に及ぶことを考えたら致し方なかった、と」
「ふむ……」
この尋問の結果はいずれ徳川家康の耳にも入ることになり、島津同情論へ傾くきっかけとなる。
なお、豊久が討死したのか最後まで不明だった。
その首を誰も見ていないからである。
ただ、誰かが豊久の馬を見かけたと言い、だが血塗れの鞍上で豊久がおらず
「ああ、討死されたのだ」
と思ったと言う。
惟新はそれを聞いても信じることが出来ず、一縷の望みを託して生還した押川郷兵衛に命じた。
「すまぬが関ヶ原周辺に当家の兵が残っておらぬか調べて来て欲しい」
「承知仕りました」
それから押川郷兵衛は三年かけて関ヶ原一帯をくまなく調べあげた。
だが豊久や阿多長淳のもの、と伝わる墓所を突き止めて、失意の帰国となる。
同年十月二日
騒乱を引き起こした石田治部少輔が京都六条河原で斬首。
同年十月三日
この日、徳川家康は伊東祐兵宛に一通の書状を送る。
肥後球磨の相良頼房、高鍋の秋月種長、延岡の高橋元種らと相談して薩摩に攻め入るべし、という内容だった。
同年十月十日
惟新は片時も離れず同行した諸士にその忠孝を称える感服状を送り、また後日に少ないならが知行地を分け与えた。
同年十月二十二日
山口直友、寺澤志摩守の詰問状に対する弁明として、龍伯、忠恒の連名で書状を送る。
『此度の乱について惟新より巨細があって確認したが、どうやら惟新が勝手に企てに参加しただけのようだ。内府殿の恩義を忘れたことなどないし、それは内府殿も承知しているはずだ』
としながらも
『秀頼様への忠節を尽くすのも君臣の道であるので惟新が企てを知った上で黙ったままでいろ、というのも難しく、心ならずも取り込まれたのでは』
と弁護した。
同年十月二十七日
立花宗茂は豊後沖で惟新と別れた後、筑後柳川城に入って徳川方と争っていた。
だが鍋島直茂らが率いる軍勢らにも包囲されて開城を決意。
この日、その旨を伝える書状を島津家に送った。
同年十一月四日
山口直友、寺澤志摩守の詰問状に対する弁明として、龍伯、忠恒の連名で書状を送る。
『上方の不慮の乱については勿論、遠国に有ったが故に承知していない。島津家としても兵を送っていない』
これら一連の弁明は新納旅庵と同じ内容だったので山口直友ら家康の側近方では島津家に対する同情論が主流になり始めた。
同年十一月八日
大口、新納武蔵守より龍伯の元に火急の報せが届く。
肥後国水俣まで兵が指し下っているという。
ただちに様子を探らせると同時に、肥後と国境を接する出水に軍を送る支度をし、さらには最終防衛拠点として蒲生龍ヶ城、さらには大隅隼人城の改修を開始する。
同年十一月十六日
黒田如水より惟新宛に徳川方に詫びを入れるべし、と進言があり、これを受け容れ惟新より後日詫び状を送付。
また関ヶ原で一戦交えた井伊直政にも執り成しを依頼し、井伊直政もこれを快諾。
島津家に対する同情論を背景に、穏便な処分を願うようになる。
これにより徳川家康より薩摩討伐の中止を決定し、徳川方と島津家による全面戦争は回避された。
だがそれ以後、立花左近宗茂や、徳川方の大名の黒田甲斐守長政など、「今すぐ上洛した方がいい」「年内には上洛を」という進言を全て拒否し、島津家の行く末は交渉の場に委ねられた。
そして翌年。
慶長六年(一六〇一年)一月十二日
忠恒は不機嫌だった。
年が明けて弓初め、鎧初め、馬乗初め等、式三献の儀が続き、右馬頭以久の出仕等々年始めの様々な儀式ををこなしていた。
この日、富隈の龍伯の所に挨拶に行くため移動していた。帰りには帖佐の惟新の元に挨拶する予定である。
(家督は継いでいるはずなのに、龍伯様や父上には挨拶しにいかねばならぬ……)
朱子学に書の一つ、孟子に長幼の序の教え、というものがある。
それは年長と年少の間にある秩序で、年長は年少を慈しみ、年少は年長を敬うことを説くものである。
これが乱れれば世も乱れる、という理屈は忠恒は分かっていたし、挨拶に出向くことも当然と言えた。
だが関ヶ原の後の処理で龍伯が主導的に動いていた。
忠恒には島津家次代へ権力移行という点を考えると、いつまで龍伯や惟新の干渉を許すべきなのか、悩んでいた。
(上洛の頃合いもどうにか鹿児島で決めたいものだが……)
勿論、惟新にとっては忠恒はいつまでも頼りない又八郎だったし、龍伯にとっては亀寿との間に子供が恵まれないことが気がかりだった。
そのため、忠恒の存在はかなり危うかった。
ただ忠恒と亀寿の間に子供が恵まれないことについては、ある意味では仕方がないとも言える。
亀寿は人質として上洛しており、又一郎久保と婚姻したが、その久保が早世。
次代の家督は又八郎に引き継がれ、同時に亀寿は忠恒と再婚することになった。
しかし忠恒は早々に朝鮮に出兵。
帰国した後は幸侃誅殺、その後の乱平定のために亀寿を残したまま薩摩へ帰国している。
亀寿は十七歳の時に上洛したが、関ヶ原の大乱があって惟新と共に帰国した慶長五年(一六〇〇年)には三十歳になっていた。
三十歳を超えての出産は母子への負担が掛かることから、当世では避けられていた。
子作りに励もうかと思った頃には時期を失していたとも言える。
また忠恒から見ると亀寿は五つ年上の従姉妹であり、また亀寿の気位が高く、気品のある振る舞いがどうにも愛情を注ぐには躊躇わせ、接するには遠慮がちになった。
会話のない夫婦は直に疎遠になり、不仲へと発展していく。
忠恒と亀寿との不仲、そして龍伯の血が入った世継ぎの不在、という事情は、島津家の家督問題をさらに複雑なものにしていくのだった。
ただ忠恒にとっては自らの存在云々はともかくも、島津家がこのような形で揺らぐことが気がかりだった。
いかなる家系も三代目までは続くが、三代目以降へ継承で多くの家が失敗するという。
島津日新斎から数えて三世代目の義久から四世代目となる忠恒の継承は、戦国島津家から太平の世に移行する島津家の正念場でもあった。
(これもこれで、決着をつけねばな……)
富隈に向かう駕籠の中で、忠恒は頭を悩ませた。
なお、しきりに続く徳川方の上洛要請に対しては龍伯が許さなかった。
その理由は単純で、誼を通じていた龍伯が感じていた徳川家康の人間性にあった。
後の世に狸と称されるほどに、徳川家康には策略家という印象がつきまとうが、実際に策略を張り巡らせているのは家康の横に付き従っていた本多佐渡守正信の方である。
徳川家康は献策を承認していたにすぎない。
世は関ヶ原に勝利した徳川家康が次の天下人になるだろう、という見立てはあった。
しかし豊臣家は健在であるし、天下の政務拠点はなお伏見城にあった。
当世、家康は関ヶ原に勝利したものの、時々は関東に下向し、幼い秀頼に代わって政務を執るために伏見に上洛する立場に過ぎない、という見方が残っていた。
龍伯は徳川家康が腹の底が見えない事に、不審を抱いていたのだった。
故に本領の安堵が確約されるまでは断じて上洛するべからず、という厳命が下っていた。
そんな最中、島津家をさらに頭を悩ませる事案が発生する。
慶長六年(一六〇一年)六月
敵中を突破して退却に成功し、さらには家康と交渉中の島津家の元に、惟新を頼って石田方に与していた元大名が逃れてきた。
僅かな供回りで訪れたその人の名はかつての五大老の一人、宇喜多秀家である。
龍伯、惟新、そして忠恒もさすがに慌てた。
惟新を頼って逃れてきた宇喜多秀家を家康に突き出すことは武士としてあまりに無情である。
とは言え、本領安堵を勝ち取るために徳川方と交渉中だったため、宇喜多秀家の身柄は密かに垂水は牛根の地に移された。
また忠恒は、上洛命令を拒み続けることは薩摩討伐論が再発しかねない事を危惧していた。
そこで家老の一人、鎌田出雲守政近を上洛させることを決断する。
鎌田出雲守政近はこの時、五十七歳で、日新斎の看経所に名を連ねた鎌田政年の一族ではある。
だが、生まれ自体は鎌田家の分家筋の人間だった。
宗家筋の血が絶えそうだったため、宗家に養子として入っていた経緯がある。
大友軍との激戦を繰り広げた高城での攻防戦で山田有信と共に援軍が到来するまで持ちこたえるなど多くの軍功があり、関白秀吉の九州平定度に家老に任ぜられるほどの才覚があった。
鎌田政近は慶長六年(一六〇一年)七月二日に日向国細島を立ち、二十二日に室津へ到着。
その後大坂に渡った。
そこで鎌田政近が知ったのは、関ヶ原勃発の要因となった上杉景勝が上洛して徳川家康、豊臣秀吉に謝罪。
減封はされる見込みではあるが本領を安堵された、という事だった。
八月二日付の鎌田政近の書状によって、島津家内部にも所領安堵の見込みがあるのなら、上洛してもよいのでは、という論調が生じた。
徳川家康が鎌田政近に要求した事は、龍伯の上洛だった。
だが龍伯が老齢だった事、龍伯が根本的に家康を信用していなかった事で表向きは臣従の意を示しながら、裏では蒲生龍ヶ城、大隅隼人城の改修を進めて侵攻に備える、という状況になっていた。
これに業を煮やしたのは忠恒である。
同年八月七日
忠恒は「一大事なので」という名分で、鹿児島は内城に龍伯と惟新を呼び出した。
龍伯を上座に置いたが、三者三様に不機嫌そうな顔を並べた。
「もういいではありませんか」
「なにがだ」
「鎌田出雲守の書状はご覧になったでしょう」
「読んだ」
「ここが頭の下げ時ではないですか」
呆れた様子で忠恒は龍伯を諭す。
「お主は見えてない」
「見えていないなあ」
「一体、何が見えていないのですか!」
「お主はまるで内府殿の腹積もりが見えておらん」
忠恒は顔をしかめて、二人のわからず屋をどうやって説得するべきか言葉を考える。
「隼人の城と蒲生の城の囲いの物音が京都に聞こえていることはご存じですか」
「だろうな。徳川殿の隠密が忍び込んでいるという話は山くぐりから聞いている」
「では何故そうも……」
「御家の存亡がかかるのであれば、国を守りを固めるのは当然であろう」
「……」
忠恒は覚悟を決めた。
「父上たちの言うことは理に叶うとは思います。ですがこれ以上、上洛を拒むことは、御家のためにはなるとは思えませぬ。長幼の序とは言え、過ぎたる強情は家を取り潰す事に繋がるとは考えませんか」
「……」
「……もうそろそろ身を引いてくれませんか……」
忠恒の声は少し震えていた。
「これまで御家の一大事には神慮に委ねてきたと聞きます」
そう言って忠恒は龍伯の前に何枚かの封書を差し出す。
「ここに、上洛すべきか否か、そして上洛するならいつか、籤を用意しました。籤は大隅正八幡宮の神官に用意してもらっており、どれがどれかは拙者は関知しておりませぬ」
忠恒の必死の懇願にしばしの沈黙が続いた。
だがそこに龍伯が口を開く。
「……いいだろう」
「兄上、いいのか」
「うむ。又八郎もそれなりに覚悟しているだろうからな」
「はい。諸々覚悟しております」
そして神慮に問うた結果、上洛は慶長七年(一六〇二年)の秋、と決まった。




