第七十四話 関ヶ原より退く先は敵中なり
徳川家康は江戸に於いて寝返りを促す手紙ををひたすら書いていた。
そして石田方に与する陣営に島津の名前があることを知って目をむいた。
(兵が調達できたのか……)
惟新を伏見城に入れておけば確実に徳川方の城として確保できる。
石田方と雌雄を決する際に伏見城を拠点にして大阪城を攻める。
そこまで睨んだ上で惟新に伏見城の留守番を依頼するつもりだった。
しかし惟新には兵がいなかった。
その後も島津家が大々的に兵を送り込んでいるという情報もなかった。
島津家は戦力外として見限り、鳥居元忠を入れた。
それが今、石田方に与する勢力として加わっている。
聞けば僅かばかりの兵力であるらしい。
(霧の向こうに島津殿の旗があるのか)
家康は爪を噛みながら、決意を新たにする。
(兵庫殿には申し訳ないが、歯向かうなら死んでもらう。武士の理も理解できない石田治部少輔の世とするわけにはいかない。わしは、勝者とならねばならない)
家康もまた、信念に燃えていた。
慶長五年(一六〇〇年)九月十五日、辰の刻(午前八時)
霧の中で両軍の物見勢が不意に遭遇して撃ち合った後になって霧が晴れ、徳川方より鉄砲が射掛けられて戦いが始まった。
徳川方の福島正則と石田方の宇喜多秀家、そして徳川方の黒田長政・細川忠興と石田方の島左近の戦闘は特に激しかった。
島津軍は二番備えに豊久の千人。
四番備えに惟新に五百人の兵で着陣している。
当然ながら相手に比べたら遥かに少ない兵である。
惟新の脳裏にはこの場で裏切って石田三成の首を獲りに行くか、という考えもよぎった。
だが、どうしても大坂城に残した亀寿と愛する妻ら人質の事を考えると踏みきれなかった。
それ以上に一度与した以上、裏切るような恥ずべき行動は武士の意地にかけても出来ない、という考えが占めていた。
そうかと言って恩義のある家康方の陣に攻めるわけにも行かなかった。
前日の内に豊久らとも相談の上、
「各隊対応一任」
と決定し、剣戟と銃声を前に、静かに目を瞑るしかなかった。
そこに豊久の陣の元に一つの要請が入る。
亀井武蔵守の使いと名乗る者が、鉄砲兵を一部割いて加勢して欲しいというので、豊久はそれを許諾して四名ほどの士卒を与えたが、その中途で敗北して討死。
後で聞いた所によれば、どうやら亀井某という者は味方を裏切っていたという事だった。
惟新は戦の最中に三成の先備である島左近や雑賀内膳の陣に使者を送り、様子を探らせていた。
二時間が経過した頃、石田三成本陣から狼煙が上がる。
それからまもなく、ふと右手を見れば、小早川秀秋の軍勢が松尾山を猛然と下って大谷吉継の軍勢に攻めかかっていた。
「裏切ったか」
惟新と豊久は目を細めてそれを見つめていた。
前日に聞いていた噂通りだった。
そして豊久の元にも使者が訪れる。
その使者は石田三成の遣いで、八十島助左衛門と言った。
「三成は先陣に進み、この一戦に勝つべく敵軍と対する! 後陣の軍衆も速く前進して合戦いたせ!」
三成の使者らしい、実に不遜な態度だった。
豊久配下の将がそれに答える。
「相分かった! しかれども一人の兵とて進まぬ! 後陣にもこれを伝える必要はないぞ!」
「!?」
困惑する表情を隠さず、八十島助左衛門は石田三成の陣へ戻っていった。
しかし再び八十島が豊久の陣を訪れて同じ事を言ってきた。
「無礼者!! 石田の使者は下馬もせずに口上を述べるのか! これ以上島津を愚弄するのは許さんぞ!!」
そう言うと
「やつを討ち取れ!!」
という声が上がり、火縄銃を構えて引き金に手をかけられる。
それを見た八十島助左衛門は逃げるように陣を後にし、島津の将兵はその背中に散々罵声を浴びせるのだった。
それからすぐに石田三成が単騎で豊久の陣を訪れた。
下馬して、豊久の眼前に迫る勢いで声を上げる。
「これより敵勢に攻めかけるので、後より押し寄せいただきたい!」
それに豊久はじろりと睨みつけ、口の端を上げる。
「今日は各々で武勇に励むことにした! お主もそのように心得られよ!」
それを聞いた三成は愕然とした様子で、押し黙る。
そして気落ちした様子で、声を絞り出した。
「……そうか……。相分かった……」
そして己の陣へ帰っていった。
この頃、既にはらはらと石田方の軍は散り始め、旗色は敗北に染まりつつあった。
豊久は包囲せんと迫る敵軍を前に弓をつがえようとする。
そこに赤崎丹後守が進み出た。
「今仕掛けるはちと早いように思いますが」
「ん? そうか」
敵軍の顔も見えず、まともにあたるようには見えない、という事らしい。
しかし、さらに迫った所で再び赤崎丹後が声をかける。
「時分は宜しいかと!」
「よし! 撃て!!」
豊久は馬に乗ると、鉄砲を構え、一人頭が見えた所に撃ち放った。
続いて島津軍の鉄砲隊も一斉に弾を浴びせかける。
これに反応して敵軍が一気に押し寄せ豊久の陣は乱戦状態になった。
「合言葉!」
「ざい!」「ざい!」
「いや、そこもとは徳川方の隊だろう!」
「え!?」
乱戦状態において対峙する相手の旗色が分からなくなった時、合言葉を求める。
それは開戦直前の軍法で定められる。
しかし折も悪く、豊久の隊と乱戦状態に陥った徳川方の部隊は、合言葉が同じだった。
そして両軍入り乱れての大混乱に陥った。
同年九月十五日 午の刻
戦が始まってから四時間が経とうかという頃。
小早川秀秋の裏切りによって戦況は一変している。
大谷吉継は当初は徳川家康に与する武断派だった。
しかし石田三成の挙兵を相談されて友情に殉じた。
また石田方に与していた脇坂安治らも続々と寝返った。
石田三成に過ぎたるもの、と揶揄された島左近は早々に鉄砲に撃たれて生死不明となった。
福島正則、黒田長政らは憎き石田三成の首は我が取る、と言わんばかりに惟新、豊久の陣を素通りして奥深くに進んでいく。
惟新、そして豊久の陣は残っていた徳川方の軍勢に包囲されつつあった。
宇喜多秀家隊、石田三成の陣は既に潰走している。
小西行長隊はなお戦闘中だったが、潰走寸前である。
宇喜多直家隊の敗走兵が惟新の陣に押し寄せようとしたので、惟新は
「一兵もこの陣に入れさせるな」
と命令を下し、宇喜多直家の隊を追い払った。
「さてそろそろか」
そしてついに立ち上がる。
眼下に行き交う徳川方の軍勢を見て、惟新は悔しそうに呟く。
「薩州勢が五千もあれば今日の合戦は勝ち得たものを……」
都合三度呟き、笑みを浮かべて、一歩前に進む。
誰かが聞いた。
「如何なさいますか」
「殿が指し示す方へ拙者も向かいますぞ」
そう言って一歩進み出たのは木脇祐秀だった。
しかし答えず、じっと中空を睨む老将の姿に誰しもが息を飲んだ。
(ここで死ぬ気だ……)
その沈黙を突き破る声が響いた。
「叔父上! 今すぐ引かれよ!」
「中書か!」
豊久は僅かな供回りを連れて、乱戦状態から抜けだし、惟新の陣を訪れていた。
しかし惟新は首を振る。
豊久は下馬すると、惟新の目を真っ直ぐに見据えて、笑った。
「叔父上、頼む。生きてくれ。生きて我が島津の名、誉れ高く死んだ者たちの名を世に伝えてくれ」
惟新は息を飲んだ。
若人の覚悟を知った。
「しかし……」
「ここで死ぬは無駄死ぞ」
力強く言い放った言葉に、惟新の記憶は初陣の時まで引き戻された。
『死を恐れてはならぬ。だが焦って死地に飛び込むことはするな』
(お祖父様……。今ここで貴方の教えを破ります……)
家康の備えと思しき陣がわずか五百メートル先まで迫っているのが見えた。
惟新の周りには二百ほどの兵しかいない。
いずれも惟新を慕って遠く故郷から駆けつけた者たちばかりだ。
ふと惟新は思う。
(どうしてこうなってしまったのだろうか)
四月末に家康から伏見城の留守を任され、家康の恩義に報いるために動いていたはずなのに、いつの間にか石田方に与して、家康に弓を引こうとしている。
兵を寄越して欲しい、何度も懇願したが、龍伯も忠恒も国をあげて兵を差し寄越すことをしなかった。
どうにもしがたい挫折と屈辱にまみれた数ヶ月だった。
(……何故、兄上は何も応えてくれんかったのか!)
惟新に芽生える怒りに任せて、討死するべきか退却するべきか葛藤する中、ふと声を聞く。
『兄上、沈黙もまた答えですぞ』
(又六郎……!)
いつか、どこかで聞いた言葉だった。
(兄上は援軍要請に応えずして、何をせよと伝えるつもりだったのか……)
その答えがあと少しで出かかった所に、なお逡巡する惟新の様子を見た豊久は、惟新の肩を掴み言葉を叩きつける。
「叔父上! 天運すでに極まったと見える。このまま戦うと言うても勝敗は明らかである。……我はここで戦死する!」
「おい、何を――」
「義弘公は兵を率いて薩摩に帰られよ! 国家の存亡は公の一身にかかっているぞ!!」
引き止める暇もなかった。
豊久は背中を見せると、再び馬上の人になる。
「全軍、騎乗せよ! 義弘公を薩摩までお連れするのだ!」
「おお!」
最早躊躇している場合ではなかった。
(生きよというのか! まだ儂に生きろと……)
だがどこへ、と思い、ふと伊吹山の方を振り返る。
恐らくは石田三成、宇喜多秀家、小西行長らは退却して佐和山城へ向かうはずだ。
その時また声が聞こえた気がした。
『我等は後ろに逃げるのではありませぬ。前に逃げるのです』
(又七郎……)
惟新は再び、徳川家康の陣がある方向を見た。
「前へ……」
また一歩、前へ進む。
「殿、お馬はこちらに」
惟新は『紫』と名付けた青毛の馬にまたがった。
わずか三百ばかりの兵が惟新の下知を待っている。
「老身ゆえに伊吹の大山は越えがたいだろう。たとえ死ぬと言えども、敵に向かって死ぬべしと存じる」
その言葉に誰もが頷いた。
「敵の勢いが最も強い所はどこか!」
「東側にございます!」
「ならば馬の鼻先をそちらへ差し向けよ!」
「はっ」
「我らが行き先は……」
その扇は真っ直ぐに、前方を差した。
「敵中なり!!」
「おお!!」
その言葉で弾けたように、諸将らの動きが有機的に動き出す。
軍奉行は伊勢平左衛門貞成という者が任され先導する事になった。
伊勢貞成を中心に何人かの将が集まって、緊急の軍議を開く。
「いずこに参るべきか?」
「大垣城では?」
「いや、大垣城から煙が見える。もし入ったとしても或いは城中に異心を抱く者もいて不穏かもしれん!」
「伊勢路はどうだ!? 南宮山の四国勢が寝返っている様子はなさそうだ! 抜けられるのではないか!?」
「手薄なら駒野まで抜けられよう!」
「よし!」
話が決まれば早かった。
「騎兵は先に付け! 歩卒は阿多の元に集まれ! 鉄砲隊は横に付け!」
「俺が殿の前を行こう!」
そう言ったのは木脇祐秀だった。
「拙者が後ろに付こう!」
川上久智も続く。
「それがしは横合いだ!」
川上忠兄が惟新の脇を固める。
見る見る間に、惟新を中心に据えた鋒矢の陣が出来上がっていく。
そこに一人惟新の前に跪く者がいた。
阿多盛淳だった。
「殿、陣羽織を拝領仕りたく!」
「長寿院……!」
惟新は一瞬躊躇したが、ここまで来て留まることは許されなかった。
「頼む!」
惟新は陣羽織を脱いで阿多盛淳に渡す。
阿多盛淳は何も言わず、ただ一礼して惟新の陣羽織を拝領した。
「参るぞ!!」
関ヶ原の空に鉄砲の一斉射撃による轟音が鳴り響いた。
「かかれ!」
豊久の喊声を機に、陣を下り始める。
「こちらも参るぞ!!」
惟新を中央に据えたわずか三百ほどの兵がそれを追った。
ここに、島津軍決死の退却戦が始まった。
最初に見えたのは福島正則と黒田長政の隊だった。
それを見た誰かが惟新に問うた。
「殿! 先に見えますは皆々敵にございます! いかがいたしましょうか!」
しかし惟新はこともなく言いのける。
「敵ならば切り通る! できぬなら兵庫頭は腹を切る!」
「いずれも承りました!」
しかし福島隊はまさか島津の軍を降りてくるはずない、と見ていたようだった。
最初の豊久隊の鉄砲に驚いて兵たちは既に逃げ腰だった。
「抜刀ッ!!」
一斉に三百余りの島津兵が抜刀し、福島隊と黒田隊の間を縫うように抜けていく。
えいとう、えいとうという言葉を残して。
惟新の隊は駆け足ほどの速さの行軍だった。
えいとう、えいとうの音頭に白濱七助という者がふと舟歌を口ずさんだ。
〽 波が低けりゃ 船だせ
えいとう えいとう
船漕げ 網なげ
えいとう えいとう
網貼れ 網ひけ
えいとう えいとう
白濱七助は士卒ではあったが、国元に帰れば加治木で漁業もやっていた。
海水を含んだ網は重い。
力を合わせて他の漁師と「えいとう、えいとう」の掛け声を音頭に、網を引き上げる。
つい、加治木の舟歌が口に出た。
皆もそれに「えいとう、えいとう」と声を合わせる。
滅多に怒らない惟新もさすがに声を荒げた。
「今は合戦の最中ぞ!!」
「も、申し訳ございませぬ」
しかしすぐ目の前に、家康の備えが見えてきた。
旗本衆が慌てているのが見えた。
先導する伊勢貞成が、さらにその先を行く木脇弓作に声をかける。
「木脇! 右だ!」
「よし!」
木脇祐秀は右に――相対する家康の陣の鼻先を抜けていく。
しかしその行く手を別の隊が防いだ。
徳川方の大将は黒馬にまたがり、白糸威の鎧に、小銀杏の立物をつけた兜を身に着けていた。
片手に長刀、片手に手綱を握り、大声を張り上げる。
「何を手間取っているか! 兵庫を討て!!」
そこに川上大炊助忠兄の被官で柏木源藤という者が、鉄砲を構えながら立ち止まる。
そして狙いすまして引き金を引いた。
弾は胸板のあたりに着弾し、その勢いで大将は吹き飛ばされて落馬した。
周りの者たちも驚いて慌てふためき、それを見た惟新が叫ぶ。
「時分は今ぞ! 早や切り押し通れ!!」
「おお!」
惟新の隊が徳川方の軍勢の真ん中を駆け抜けていく。
一行は、後でその大将が井伊直政だと知った。
そして惟新は背中で聞き覚えのある声を感じた。
「平八郎!! 追え! 兵庫を逃すな!!」
「はっ!!」
(内府殿……!)
惟新が横を見ると、そこには川上忠兄が居た。
「大炊助!」
「ここに!」
「内府殿へ!」
「承知!!」
その会話だけで川上忠兄は隊を離れると、引き返して家康の本陣にたどり着き、馬から降りた。
「何奴か! 武器を捨てよ!」
家康の旗本衆に槍を突かれそうな程のところまで迫っても、なお動じずに睨みつける。
「島津兵庫入道の使者として参った川上大炊助忠兄である! 内府殿に謁することをお許しいただきたい!」
「なに!」
ざわつく旗本衆をなだめるように、声が飛ぶ。
「ひかえい! そこもとの御仁を通せ!!」
家康だった。
すぐに旗本衆が二分され、川上忠兄は兜を脱いで、家康の前に跪く。
「拙者、島津兵庫入道の使いの川上忠兄にございます! 本日の戦は内府様に背くも、兵庫入道の本意にあらず! 只今、内府殿の御前を罷り通らせていただきました! 委細については他日奉りまする!! 御免!」
川上忠兄は家康の反応を見ることもなく、踵を返すと再び馬上の人となり、惟新の隊を追いかけた。
その頃、惟新の隊は本多忠勝、井伊直政、松平忠吉の隊と乱戦状態に陥っていた。
だが阿多盛淳の隊が前に進みでて、その相手をしている隙に惟新は離脱した。
阿多盛淳は長刀を振り回して、迫る軍勢を何度も押し返した。
だが何人かの島津の兵は、怯えて逃げ出して、阿多盛淳は歯を食いしばって叱りつける。
「薩摩国までは五百里あると言うのにどこへ参ると言うか! それぞれの面立ちは皆々見知っているぞ!」
迫る敵勢は七百ばかり。
阿多盛淳の勢いに気圧されて一度目、二度目は押し返した。
三度目に打ち寄せる軍勢を前に、阿多盛淳が誰かに問う。
「殿様の者らは如何程までお引きなされたか!」
「敵中を押し分けて退かれたようだ! もはや程遠くあってここからは見えぬ!!」
阿多盛淳はその答えに殿の退却を確信した。
そして惟新から拝領した陣羽織を着用し、さらに石田三成から拝領した団扇を掲げて絶叫する。
「島津兵庫入道は死に物狂いなり!!」
その声は徳川方の軍勢の視線が集め、大功をあげよ、という掛け声に大勢の敵兵が飛びかかっていった。
そこから少し進んだ所で、また木脇弓作、帖佐彦左衛門、山田民部少輔有栄もその場で踏みとどまっていた。
惟新の姿を捉えられ、五、六人の敵兵が迫っていた。
「我は薩摩の今弁慶なり! 存分に参られよ!!」
木脇祐秀は絶叫して六尺の大太刀を振り回し
「三つ! 四つ!」
と斬り捨てて行く。
帖佐彦左衛門は、乱戦の最中にふと周りを見渡すと、惟新からはぐれていることに気がついた。
「しまった、殿はいずこや!」
そこに豊久の隊とばったりと巡り会った。
「中書様! 武庫様はいずこにおりますか!」
「分からぬ!」
豊久も乱戦の中で太刀を振り回していた。
その時、木脇弓作の声が聞こえた。
「帖佐彦左衛門!」
そちらに向かって行こうとして、ふと豊久と目があった。
「行け!」
「承知!!」
それが惟新の隊の者が、豊久を見た最後だった。
この時の退却行軍は早足でついていける速度に落ちていた。
だが騎兵ならいざ知らず、歩卒の者は重い武具を装着したままなので、いずれ足が鈍る。
また一人、また一人と立ち止まる。しかし、ただ止まるばかりではなかった。
「鉄砲を寄越せ!!」
騎兵の一人に声をかけて奪い取るように鉄砲をもらい、また騎兵の者もその足元に鉄砲玉と火薬を投げ捨てる。
「頼む!!」
それは『捨奸』と呼ばれる島津軍が編み出した退却戦における最終手段だった。
また前詰め型装填の火縄銃は手間がかかる。
だが鉄砲が伝来して以来、島津の鉄砲撃ちの練度は最高位に達していた。
早合と呼ばれる弾と火薬を一体化させた弾薬包を持って、その場に座る。
そして僅か十八秒で装填を済ませ、近づいてくる徳川方の追手を次々に射抜いていった。
そして弾が尽きると鉄砲を捨て、太刀を抜いて仁王立ちとなる。
「ここは一兵足りとも通さぬ! 存分に御相手しよう!!」
そして追手に飲み込まれていった。
その様子を見たところで、また退却軍から切り離される。
新納近江守久元、喜入摂津守忠政、川上助七久林、川上久右衛門久智、そして押川郷兵衛ら主従合わせて五十程の兵である。
「臆するなよ!」
「応よ!」
矢継ぎ早に鉄砲を打ち掛け、迫る追手を次々と撃ち落としたが、再び追手の軍勢に飲み込まれていった。
惟新らの隊は徳川方の追手の乱戦を抜けて、伊勢路を南に向かって再び隊列を整えていた。
その周りは既に半数以上、百ほどに減っている。
南宮山の南の麓に差し掛かった所で目の前に大軍が見えてきた。
徳川方の追手を振り切り、駆け足ほどの速度だった行軍は再び歩く程度の速度まで落ちている。
そこに伊勢貞成が惟新の元まで近づいて声を潜めた。
「この大勢を抜けることは難しいかと存じます」
「敵であれば討死するだけだ。味方であれば『ざい』の合図を振って馳せ行け」
「承知仕りました」
一礼して伊勢貞成は単騎で長束の軍の前に進み出る。
そして先日の軍法で取り決めていた合図をした。
幸いにも前日に決めていた合図が帰ってきたので、味方だと判明した。
それは長宗我部、長束らが率いる四国の兵だった。
伊勢貞成はほっと胸を撫で下ろして、近づいた所、長束正家の姿を見つけて下馬して頭を下げる。
「そこもとは島津兵庫入道の隊である! 退却中につき、御前を罷り通るが宜しいか!」
「おお、島津殿か!」
長束正家もまた合戦できなかった。
吉川広家の隊に行く手を阻まれた。
何故動かぬか、と押し問答になり、弁当を食っているから今しばらく待たれよ、と言われた。
それからすぐに石田方が潰走したことを知って、退却を開始した。
「心安く通られよ、道案内を一人つけよう」
「ありがたい。もののついでに一つ頼んでもよろしいか」
「何用か」
「島津が兵がまだ戦場に残っているようだ。兵庫入道は抜けたので各々退却すべし、と伝えて欲しい」
「承知した」
それに頷いたのは長宗我部盛親だった。
「ありがたい! では」
伊勢貞成は一礼して、惟新の元に駆け戻る。
(なんと、兵庫殿は敵中を抜けてここまで逃げおうせたのか……)
驚愕の退却劇を目の当たりにして、心服するしかなかった。
そして、立ち止まっていた惟新の隊は会釈しながら粛々と長宗我部盛親、長束正家らの隊の前を抜けた。
なお、長束正家より預かった道案内役は一夜だけ付き合ってもらい、再び戻っていく事になる。
またしばらく行って、どうやら追手を振り切ったらしい、と思った時、将の一人が惟新の前に進み出る。
中馬重方だった。
「殿、指物は忍ばせ、馬印は折り捨てましょう」
「……うむ。そうだな」
「ありがたき幸せ。おい! 馬印は折り捨てよ!」
「分かった!」
馬印はその場で折られて捨て去られ、また丸十字の家紋があしらわれた旗指物は竿から抜かれて懐にしまわれた。
惟新がふと見れば、川が流れている。
「各々ら、ひとまず止まって休もうか。血を洗い流そう」
「はっ」
一斉に下馬し、周囲を警戒しながら代わる代わる川に入って手足、顔に付いた血を洗い流す。
また鎧に付いた血、刀を洗い、大鎧に刺さっていた矢を引き抜いて、ひとまず身なりを整えた。
「はあ、生き返ったな」
口々に安堵の息を吐いて、また出発する。
しかし程なくして再び大軍と出くわした。
「あれは……徳川方の隊では……?」
「いかが致しましょうか」
「……」
惟新はふと見渡す。
騎兵の者はほとんどおらず、歩卒がほとんどだった。馬は乱戦の最中に傷を負ってほぼ手放していた。
惟新は意を決して馬を降り、命じる。
「戦になれば切腹するのみ。押し通れ」
「はっ」
惟新の強行突破の下知に従い、再び全速力で大軍勢を横合いに貫いて駆け抜ける。
また油断していたのか、その軍勢もそれを呆然と見送るのだった。
ようやく、ようやく危機を脱したように見えた。
追手は既に振り切った。
見渡せば、三百ほどいた人数は百人程まで減っていた。
既に日は傾きはじめている。
惟新は一息付いて、色が濃く染まりつつある美濃の空を見上げる。
(まずは生き残ったか……)
そこは養老と呼ばれる地だったが、土地に不案内な惟新らには美濃のどこかだろう、と予測していた。
慶長五年(一六〇〇年)九月十五日、申の刻(午後四時)
徳川家康は追撃中止の命令を下し、関が原の戦いは終わった。
これに参加した兵の人数は、石田三成方の軍勢総数十一万八千。徳川家康方の軍勢は総数七万五千だったと言う。
日ノ本を二分した戦いは、後の世に石田方を西軍、あるいは大阪軍。
徳川方を東軍、或いは関東軍と称して線引され、天下分け目の戦と呼ばれるようになる。
そして島津惟新斎は図らずも西軍に参じることになった。
惟新が関ヶ原で見せた脅威の敵中突破劇はその後の西軍方の悲惨な末路も相まって、大いに顕彰されることになる。
しかし当の惟新にとって、この戦は敵中突破した段階でまだ終わってはいなかった。
むしろその後の逃避行で死の淵を垣間見る。
普通ならこの辺で「めでたしめでたし」でさっくり終わるパターンですが、生憎とまだ終わりません。
引き続きお付き合いください。




