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戦国島津史伝  作者: 貴塚木ノ実
天下の行く末
74/82

第七十三話 決戦の地へ

 寒い寒い冬の日だった。外は大雪が降っている。

 囲炉裏を囲んで惟新の前に又六郎がいた。

 左手の上座には義久、右手の下座には又七郎。

 若き頃、いつも見てきた光景。


 ――なあ、この難局どうすれば乗り越えられると思う?


 惟新は自信なさげに問う。


 又六郎が得意げな表情で知恵を授けている。

 又七郎は楽しげに地図を指差しながら兵法を考えているようだ。

 義久はそれを頷いて聞きながら、時々口をはさむ。

 しかし、その声は聴こえない。


 ――こんなに困っておるのに、何故応えてくれんのだ!


 ばん、と勢いよく床板を叩いた所で、惟新は目醒めた。


「夢か……」


 老いた肌、白髪交じりの顎鬚を撫で回し息を吐く。


「殿、起きてらっしゃいますか。何やら不穏な音が聞こえましたが」

「今起きた所だ」


 心配する供回りの声にため息をつき、夜が明けたばかりの大阪の梅雨空を見上げた。



 慶長五年(一六〇〇年)六月末

 朝食を済ませた午後。

 大阪の薩摩屋敷にて広場に面した縁側で惟新は徒に時を過ごしていた。

 そろそろ七月になろうかというのに、未だ惟新の前に兵がいない。


 無論、京、伏見、大阪の各邸に在勤している諸将と供回りをかき集めればそれなりの人数にはなるだろう。

 しかし大阪の御上様こと亀寿の守りには吉田美作守清孝をあてて、片時も離れないように命じているし、屋敷を無人にするわけにもいかない。


 それ故に国元の龍伯、そして忠恒には幾度も兵を差し寄越すように願っていたが、望む返事がなかった。


 忠真の母が豊家奉行方に国元の様子を悪しざまに訴えている、という話を聞いてそれを伝えた所、龍伯と忠恒もまた、忠真に動きがあるかもしれないことを疑い、無策で兵を差し向けることは難しいという事を伝えてきた。


 忠恒に至っては政務本拠を鹿児島内城から加治木平野の瓜生野城に移したいと思うが、意見はあるか。と聞いてきた。やはり鹿児島に本拠があっては大隅、庄内まで目が行き届かせるのが難しいから、という理屈らしい。

 惟新は「それどころじゃないだろう」と内心憤慨しつつ「吉田、蒲生、帖佐、山田、加治木を外城に構えて見事だとは思うが、移築に借り出される諸侍、百姓に迷惑なのでは」として渋り「それより今の場所を拡張した方がいい」という助言を送っておいた。あと「さっさと上洛しろ」という事も加えておいた。

 なお瓜生野城は別名で建昌城と呼ばれる。



 家康は既に上杉討伐のために大阪にはおらず、惟新には嫌な予感だけが募っていた。

 しかしまだ望みはあった。

 豊久が言うに、千ほどの人数がまもなく佐土原より上洛するらしい。


 となると、少なくとも守りの兵程度にはなるはずだ。


(やれるか……)


 惟新は少し自信を取り戻し、伏見城の留守番の役目を果たすため、家康からの伏見城留守についての下知を待った。

 だが運命は惟新を翻弄していく。




 同年七月

 石田治部少輔三成挙兵す。




 同年七月十日

 朝早く、大坂の薩摩屋敷にいた惟新の元に、石田三成が訪れていた。

 七月二日以降、石田方に与するように熱心に誘いを受けていたが、惟新はそれを徹底的に無視し、その使者を返し続けていた。

 しかし業を煮やした三成自ら、薩摩屋敷に乗り込んできたのだった。


「どうか、お力を貸していただけないか」


 太閤殿下は既に亡いのに、相変わらず不遜な態度だった。

 しかしどこか以前のような事務的な冷徹さが抜け、人柄の熱さを感じる様子である。


「……」


 秀吉は島津家にとって敵だった。

 大軍を前に屈したとは言え、永代まで臣従する、或いは心中する気はない、という龍伯の意思は感じ取っていた。

 だが石田三成は別だった。


 三成は取次役として、島津家は秀吉の勘気を被らないように取り計らってくれたことを知っている。

 その点で言えば石田三成にも恩義はある。

 しかしそれも秀吉がいてこそであり、非道な難題に付き合わされただけとも言える。


 なお表情の固い惟新が問う。


「治部少輔殿はこの戦に義はあると思うておるか」

「ございます」


 即答だった。


「これはまさに大義。いや正義にございます。秀頼様を蔑ろにする悪逆を討つ、正義の戦にございます」

「……」


 内心、


(実に甘っちょろい。人を殺す戦に正義なんぞない)


 とも思ったが、余計な刺激を与えないために、惟新は黙っておいた。

 既に大阪城には御上様が人質として入っているからだ。

 余計なこと言えば、御上様の身に何があるかも分からない。


 だがなお、家康の恩義を慮れば、三成の誘いを簡単に了承するわけにはいかなかった。


「当家は内府殿より懇切を頂戴して恩義がある。故にこれに背くは武家としての恥。早々に帰られよ」


 静かな言葉だったが、凄みがあった。

 三成も殊勝に頭を下げていた秀吉存命の頃とは異なる惟新の姿に圧倒され、その場はひとまず引き下がった。


 一方で惟新は挙兵を知ってから急ぎ川上久右衛門久智を伏見城に遣わし、伏見城留守番のために入場する旨を打診した。

 しかしそこで待ち構えていたのは、城代鳥居元忠の入城拒否だった。


「我等は内府殿に伏見の留守番を頼まれた島津兵庫の遣いである。入れてくださらんか」

「ならん! 内府様より島津殿に留守番を頼んでいるとは聞いておらん!」

「いや、そこもとは確かに内府殿に――!」

「入城はならぬと言ったらならぬ! いらぬ奸計で城を盗られたら末代までの恥だ!」


 取り付く島もなかった。


「……ということですが、これは一体……」

「なんと……」


 報告を受けた惟新は首を捻り、腕組みする。


「困ったな……しかしこの乱事にこそ恩義に報いねばな……」


 惟新は困惑しながらも、どうにかして鳥居元忠の信を得て、入城することを考えていた。

 再三再四にわたって入城して共に守らんと打診したが、無下に断られるばかりだった。

 そこに再び石田三成が現れる。



 同年七月十四日午後

 伏見の薩摩屋敷にて。

 石田三成は『内府ちがいの条々』を示していた。


「この通り、内府が秀頼様を蔑ろにする悪行の数々もはや見逃すわけには参りませぬ、どうかお力を貸していただけないか」


 そう言って石田三成が頭を下げた。

 表題に『内府ちかひの条々』と書かれた家康の告発文を読み惟新は考えこむ。


(どこまでも豊臣の政を貫くか……)


 惟新は、家康が島津家に尽力したことが天下簒奪のための布石だったとしても、その全てがそうとは言い切れない、という確信があった。


 だが三成は秀頼のために尽くせと言う。

 どちらの恩義に報いるべきなのか、惟新は思い悩んだが、意を決した。


 惟新はじっと三成を睨み据え、静かに首を振る。


「治部少輔殿には恩義があるのは確かだ。それを秀頼様に尽くせというもの分かる。だが、内府殿の恩義があるのも確かなのだ。故に受けられぬ話だ」

「……そこをどうにか道理を曲げてもお願いしたいと思い、話しております」


 なお誘う三成に、どうやって断るべきか思い悩む惟新の様子を見て、三成が言いにくそうに口を開く。


「実は……先日のうちに萱野におわしました、お連れ様を既に大阪城に入れてさせて頂いております」

「なに……?」


 惟新の瞳の奥に怒りが宿った。


「どうか熟慮の上、お力を貸していただけないか」


 惟新は怒りで震える拳を悟られないように目を伏せた。


(人を信用せず、人質をいれて正義の旗をかざすか……。こうまで武士の怒りを買うに長けた者はそうはおらぬ)


 惟新は苦悩した。

 今ここで石田三成を殺して家康に首をもっていく事も考えられた。


 しかしそうなると大阪城の人質がどうなるか分からい。

 宰相殿と亀寿の身に万が一のことがあれば、腹を何回切って詫びをいれても死に切れない。

 末代まで日ノ本中に大怨を撒き散らしてもまだ気がすまない気がした。


「……是非もない次第か」

「それはありがたい! 是非勝利を掴みましょう」


 そう言って三成は礼もそこそこに薩摩屋敷を後にした。

 同席していた大坂の在番家老、吉田美作守も苦渋の表情で呟く。


「よろしかったのでしょうか……」

「致し方あるまい……」


 否応なく大乱に身を投じる事になった島津の行く末に、図らずも漏れる溜息を一つついて、惟新は思い悩む。


(兄上、愚弟はどうすればよかったのだろうか……)


 表向きは「内府ちがいの条々に感じ入ったので従う」としながらも、如何にしてこの難局を乗り切るかを考えはじめていた。

 石田方に与してどこまで戦うべきなのか、どうすれば恩義のある内府に弓を引かずに済むのか。

 或いはこの首を差し出して家を守るか、ということも考えた。


(だから俺はこういう腹の探り合いは嫌なのだ……!)


 惟新は、内心身悶えしながら、またため息を付く。


「又六郎ならどうしたかなあ……」

「又六……?」


 吉田美作守が首を傾げる。


「なんでもない」


 と手を振り、惟新はつい吐きかけた弱音をぐっと飲み込む。

 島津兵庫入道は、皆の前では伝説の名将、鬼島津でなければならないのだ。


(兄上がいれば……。そばに又六郎がいれば……)


 眉を八の字にして、図らずもうっすらと浮かんだ涙を誤魔化すように茶をすすった。

 惟新の悩みは付きなかったが、戦いはすでに始まっている。


 何はともあれ人数は必要だった。


(あと三千五百は必要だ)


 この難局を乗り切るための人数の見立てだった。

 手前には総勢千五百余りの兵がいる。三千五百が追加されれば五千の大軍となる。

 精強なる島津軍が五千もいれば、相手が誰であっても、いかなる戦であっても勝利できる。

 惟新には確たる自信があった。


 長宗我部盛親は兵役二千の所を五千人を徴兵。

 立花宗茂は千三百の兵役の所を四千人徴兵して参陣しているらしい。

 一枚岩になって力を尽くす他家が惟新には羨ましくもあった。


 惟新は一縷の望みを託して国元へ兵を送るように懇願し続ける。

 国として兵を送れないなら、せめて志ある者が上洛することを止めないで欲しい。

 そう願って。



 同年七月十五日

 翌日になって石田三成が再び訪れる。


「必勝の策を講じたいのです」


 聞けば会津の上杉景勝宛に惟新も石田方の味方に付いたことを知らせて欲しい、という事だった。


「どう知らせろと言うのだ。景勝殿とはさしたる面識はないが」

「文面についてはこちらで素案がございますので、その通りで結構です」

「……承った」


 また一つため息を付き、惟新は言われるがままに景勝宛の書状をしたためるのだった。



 なお石田三成は東国へ通じる関所を封鎖していた。

 そして上杉討伐に参陣するつもりだった長宗我部軍らを食い止めて半ば無理矢理に石田方に引き入れた。

 当初は武断派を始め、多くの者に嫌われていた石田三成に味方する兵なぞ無く、勝機はないもの、と見られていた。

 しかし蓋を開けて見れば士気の差はあれども豊臣恩顧の将を中心に、徳川家康が率いる上杉討伐軍と同数以上の軍勢となっていた。



 同年七月十八日

 そして伏見城攻めが始まる。鳥居元忠らは討死覚悟でこれを守った。

 わずか千八百の兵で石田三成連合軍、四万の兵を前に奮戦した。



 同年七月二十四日

 下野国、小山の地で石田三成義挙の報せを受けた上杉討伐軍が軍議を開く。

 これに従軍していた福島正則、黒田長政、山内一豊ら諸将の意見もあって、上杉討伐は中止され西へ転進することが決定する。



 同年七月二十八日

 頃合いよく上洛中だった新納旅庵が大坂に到着、その日のうちに惟新に謁見した。

 また伏見城の鳥居元忠とは知人だと言うことだったので、入城する事を視野に入れて説得に向かわせたが、やはりこれも拒否された。



 同年八月一日

 総攻撃の前に鳥居元忠の奮戦むなしく伏見城落城。

 島津軍もこれに参陣しており、有馬藤七兵衛純房、白坂助六篤次ら、二十二名の死者を出した。

 惟新は複雑な心境で手負いとなった者たちの手当を施す。


「殿の御危難の折、このように不甲斐ない……」


 それは松岡勝兵衛という者だった。


「気に病むな。お主にはこのまま伏見に残る人質の警護を頼みたい」

「ですが……もし殿の御身に万が一のことがあれば……」

「お主のような忠臣がいるからこそ、安心して前に進めるのだ。頼まれてくれるな」

「……承知いたしました」


 松岡勝兵衛は涙ながらに伏見の薩摩屋敷の警護として残る事を了承するのだった。



 一方その頃、薩摩にようやく石田三成挙兵の報せが届いていた。


「あやつは何をやっているのだ……。内府殿の恩義を忘れたのか」


 龍伯は額を押さえてため息を付く。


「何故に石田方に与しているのか……」


 龍伯、そして忠恒の元にも家康を弾劾する『内府違いの条々』が届き、また惟新からも石田方に付いたという七月十四日付の書状が届いていた。


「父上にはそうせざるを得なかったのかもしれません。『是非も無い次第に候』とありますので」

「人質か……」

「おそらくは」


 龍伯の顔つきは、また一頃のような険しい太守の顔に戻っていた。

 鋭い眼光で、忠恒を見る。


「又八郎は石田治部少輔を存じているな」

「はい」

「彼の者をどう見る?」

「うーむ……」


 忠恒は腕組みしながら記憶を探る。


「彼の者は、恐らくは政務の手腕に限れば日ノ本に於いて右に出る者はおりませぬ。あの才覚たるや絶後ではないかと存じます。……ですが彼の者は武士ではありませぬ」

「いい見立てだ」


 龍伯は僅かに微笑みを浮かべて頷く。


「『太閤殿下がご存命であれば』という断りを入れてその見立てに同意する」


 茶を一口すすり、さらに言葉を続ける。


「彼の者は清廉潔白にして究極の理想家、いや夢想家ではなかろうか。秀吉の夢想を実現しうるのは治部少輔の他にいまい。……ただ唐入りの大妄だけは如何ともしがったようだが」

「……」

「夢想家故に、豊家の世が永代まで続くと疑っていないだろう……。ただ彼の者は武士に非ず。故に武士の理や矜持が理解できないし、通じない。それが横柄、不遜な態度に現れ、上下際限なく怒りを集めてしまう」

「であれば此度の騒乱、石田治部少輔に勝ち目はないのでは?」

「……だろうな。だが、武庫は石田方に与した」

「然らば……いや、だからこそ兵を送って内府殿に寝返るよう父上に進言すれば宜しい」


 しかし龍伯はゆっくりと首を振る。


「寝返って内府殿が勝ったとしても、どうなるかも分からん」

「えっ。ですが龍伯様は内府殿とは随分と仲がよいと聞きます」

「どうだかな」


 忠恒は目の前の老人を見て悟った。


(なんと、なんと哀れな方なのだ)


 恐らくは龍伯はまるで人を信じることができなくなっている。

 日新公の薫陶を受けて太守たらんと振る舞ってきたにも関わらず、秀吉に敗北して上京した事で、人の正邪に触れすぎたのだ。


(ただ家を守るということだけを考えて、世の動きから目を背けているのか……)


 忠恒は龍伯を哀れみ、また龍伯もまた険しい顔でこの先に待ち受ける未来を見据えようとしている。

 だが忠恒は聞いていた。

 惟新がこの大乱を切り抜けようと、もがき苦しんでいる事を。

 伊勢貞成、本田正親が曰く、惟新の書状が届いていて「帖佐衆は既に多くの者が上洛しているから難しいだろうが、それでも心有る者は上洛して欲しい」と悲鳴を上げている。


「では……父を見捨てるのですか? 龍伯様と血肉を分けた、最後の弟を……」

「……!」


 龍伯は驚いたような顔で忠恒を見る。

 泳ぐ目つきは、明らかに動揺していた。


「見捨てる……見捨てることは……できぬ」

「では……」

「だが、兵は送らぬ。ただ……。ただ、あやつの危難を救わんと上洛する者を引き留めることはせぬ」

「……分かりました。では、その旨を領内に触れ回っても宜しいですな?」

「正式な令でなければよい」

「承知仕りました」


 忠恒がなんとか引き出せた譲歩だった。

 忠恒自身も上洛することを止められている以上、無理して動くこともできない。

 ただ、惟新の無事を祈るしかなかった。



 同年八月十五日

 島津軍は伏見を出発し、琵琶湖を船で北上し、佐和山に到着。



 同年八月十六日

 垂井宿に到着。

 だが、惟新は京や伏見、大坂に在住していた将とその小者らわずかな兵を率いるばかりでなおも肩身の狭い思いをしていた。



 同年八月二十二日

 石田三成の要請で墨俣城に豊久の軍が入城。

 墨俣の砦は大垣城より東へ約七キロの位置にある。長良川沿いの小さな砦、言わば最前線の場所だった。

 千ほどの軍勢で岐阜城の備えとして防衛の任についた。

 また惟新も、その日の内に大垣城に入城した。


 徳川方の先鋒が尾張国清州城に入城したという報せが入る。

 またその軍勢も多人数だという風聞もあった。

 さらに物見役が言うに、野も山も人で満ち満ちていると言う。

 それを聞いた惟新はポツリと呟いた。


もっともそうであろうな。いずれ今度の戦に於いては石田方は敗北するだろう」


 それは帖佐彦左衛門が聞いた、惟新の悲壮な覚悟だった。



 同年八月二十三日

 福島正則ら徳川方の軍勢が岐阜城を攻め立てる。

 その救援のために墨俣、大垣からも島津の軍勢も出陣して目と鼻の先に陣を構えた。


 新納忠増、川上久智、大田吉兵衛忠好らが墨俣の最前線の一つ、六之渡瀬と呼ばれる場所で関東方の軍勢の少兵と戦闘中だった。

 その中にあって木脇弓作が


「薩摩の今弁慶なり!」


 と名乗りでて、馬上から長刀を振り回して奮戦中していた。

 その戦闘は夜中のことだったが、鉄砲の音が鳴り響き、ふと見れば北の空が明るい。


「おい、あれは岐阜城が燃えているんじゃないのか?」

「なんと、早すぎないか」

「確認せよ」


 堤の上に登って目を凝らすと、確かに炎上して天守閣辺りが闇夜に浮かび上がっている。


「まことに岐阜城だ。まさか落城したのか」

「ともあれ殿にお知らせせよ」

「よし」



 そして決戦の地における島津軍の動きを決定づける事件が起きる。



 大垣城と墨俣城の中間辺りの距離に陣を貼っていた石田三成は、惟新、小西行長らの将兵を招いて岐阜城救援策について軍議を開いていた。

 そこに渡瀬での敗戦、そして岐阜城陥落間近の報せが届く。

 石田三成はあまりに早すぎる報せに狼狽した。


「軍議どころではない!」


 そう言って立ち上がる。


「治部少輔殿、どこへ行かれるのか! 我が軍がまだ墨俣に残っている! 軍が戻るまで留まるべきであろう!」


 三成は惟新の声を振り切って、あっという間に馬上の人になった。

 供回りも付けず、ただ一人陣を立とうとする。

 そこに島津の将、新納弥右衛門、川上久右衛門が追いかけてきて、馬のくつわを押さえる。


「治部少輔殿は島津の兵を見捨てて何処へ行くのか!」

「えい、離されよ」


 三成は怒声を浴びながら手綱を握って馬の腹を蹴った。


「あいや待たれよ! まだ当家の将がまだ墨俣に残って戦っておろうが!」

「岐阜を落とされ、敵軍は北に陣して包囲せんとしている! 然らば利せず、陣を移動すると言うことだ! お主らも早々に移られよ!」


 そう言って石田三成は二人を振り払うと、大垣城へ戻っていった。

 この時、豊久らの一軍はまだ墨俣にいた。

 例え精強なる島津軍と言えども、徳川方数万の大軍に包囲されればひとたまりもない。

 実質上の大将格である三成が軍議を重ねることなく大垣城へ撤退した、という報せに島津の将兵は激怒した。


 川上久右衛門は大垣城に慌てて戻る石田三成の背中に


「えい、あの茶坊主め!」


 と罵声を浴びせ、急いで惟新の元に報告に行った。

 しかし石田三成がどこぞに行ってしまった、という報告を受けた惟新は、殊の外冷静だった。


「まずは全軍に今すぐ退却するよう伝えよ。大垣城に戻るのはそれからだ」


 豊久らの一軍が翌日になって惟新と合流して大垣城まで無傷で戻れたのは、ある意味で幸運だった。

 徳川方もまた命令系統に乱れが有り、人数が多いだけで組織だった動きができていなかったのである。


 大垣城に戻った時、石田三成が謝罪も兼ねて惟新らを出迎えた。


「先日は身勝手な行動で不快な思いをさせ、真に相すまぬ。決して中書殿を見捨てるつもりはなかったのだ」


 そう言って頭を下げる姿に、惟新は穏やかな笑みを浮かべて頷き、許した。

 しかし多くの将兵はそれを冷めた目で見ていた。



 その日の夜。

 島津の将の一人、押川郷兵衛公近が鉄砲を担いで物見役に出た。

 押川郷兵衛は朝鮮戦役以来、惟新のそばに付き従っていた者である。


 墨俣の近くまで忍び葦原に身を隠した郷兵衛は、川向うに巡回する騎馬武者を見つけた。


「ふむ」


 月灯りは少々あったが時折雲で隠れている。

 郷兵衛は鉄砲を脇に置いて鎧を脱ぎ、身軽になった。

 そして音を立てずに忍び、川を渡り始めた。


 暗い夜道。

 徳川方の警備兵の耳に、ぽちゃん、という音が届いた。

 墨俣川をじっと睨んでいた所に、後ろから忍び寄った郷兵衛に組み付かれる。


「不――」


 ――届き者。と叫ぶ前に首に短刀を突かれ、絶命した。


 何食わぬ顔で大垣城に戻った押川郷兵衛は、徳川方の警備兵の首を差し出した。

 また石田三成は


「これは大垣の太刀初めなり!」


 と大いに喜んだ。


「是非この首を討ち取った者をお呼びだていただけないか」


 と言うので押川郷兵衛を御前に呼ぶと大判金一枚を下賜かしした。

 普段は物静かな男もこれには得意気な笑みを浮かべ、それを見た他の島津の将兵も


「うらやましいのう……」


 つい本音が溢れるのだった。



 同年九月五日

 手前無人を嘆き窮状を訴えて一ヶ月以上。

 なおも現れない救援に、惟新は大垣城内に宛てがわれた島津軍の陣でただ待つしかなかった。


 連日続く険しい顔に誰しもが不機嫌な様子を見て取れて、声をかけるも憚るほどである。

 だがその惟新に待望の報せが届いた。


「島津殿、何やら桂太郎兵衛という方が救援に参ったとのことですが、素性が分かりませんので確認いただけますか」

「おお」


 惟新は跳びはねるようにして城の外に向かう。

 そしてすぐに城の外、門の近くで揉めている集団を見つけた。


「だから我等は兵庫入道の家臣と言うておろうが! 真に耳の聞かん連中だ!」

「ですから素性が確認できるまで今しばし待たれよ、と言うておる! ただ今、兵庫様に参られるようお呼びしているので――」

「殿! あれは真に殿だ!」

「皆の衆!」


 惟新はあまりに懐かしい薩摩訛りを聞いて、胸に熱いものがこみ上げた。

 薩摩から駆けつけた者たちも、惟新の姿を認めて門番を突き倒す勢いで走り寄る。


「殿!」

「おお!」


 そして続々と長旅で薄汚れた者たちが、惟新の足元に駆け寄り、跪く。

 見ればいずれも幾度の戦いで、共に駆けまわってきた惟新配下の者たちばかりだった。


「殿が御危難とのこと参上いたしました! 桂太郎兵衛尉にございます!」

「同じく! 鎌田次右衛門尉参上いたしました!」

「本田与兵衛尉、参上仕りました!」


 口々に名乗り、頭を下げる。


「皆々、よう来てくれた!」


 惟新は熱い思いで大垣城に駆け込んでくる歴戦の勇士に泣き出しそうな程に胸を震わせた。


「しかし又八郎はおらんのか? それに慮外に少ないようだが、龍伯様はなんと?」


 それを聞いて、桂太郎兵衛尉は気まずそうにうつむく。


「『島津は天下の騒乱に与せず故、兵を送らず。ただ兵庫入道危難の折、志ある者が上洛することは引き止めず』との事」

「なんと……」

「内々のお達しにございました」


 惟新は愕然とした。


(兵を送らんということか……)


 しかし、それでも来てくれた者たちの気持ちが嬉しかった。一人一人の手をとり、激励した。

 その後も続々と大垣城に勇士が駆けつけてくるのだった。


「まずは者共、旅の垢を落とすがよかろう。事の次第はそれからだ。まずはゆるりと休むがよい」

「はっ」


 この日大垣城に駆けつけたのは人数は決して多くはなかった。

 しかし惟新は万人力にもなったような気分だった。

 聞けばこの後もまだ上洛の途にあるはずだ、と言う。

 惟新は兵の数よりも、慕って駆けつけてくれたその気持ちが、ただただ嬉しかった。


 この日、富隈より四十五人、鹿児島より二十二人、他合わせて都合二百八十七人の勇士が、惟新の危難を救わんと駆けつけてくれた。

 富隈や鹿児島からも勇士が駆けつけたことは、決して龍伯や忠恒は見捨てているわけでない、と言うことがわかって嬉しくもあった。



 同年九月七日

 惟新は手前無人を嘆き、口惜しい次第と、ひたすら兵を送るように訴え続けたが、この日に送った書状が最後になった。



 同年九月十三日

 大垣城外に置いた陣で軍議を開こうとしていた時の事。


「間に合って何よりでございました。山田民部少輔、参上仕りました」


 参陣したのは山田有栄である。他にも阿多長淳、赤崎丹後らも居た。

 そして帖佐や蒲生、福山の兵らも引き連れていた。

 山田有栄の父は高城の城主有信である。


「老父も参上せねばと物具を取り出したので、これを縄で布団に縛り付けていたために遅くなりました」

「そうか。よくぞきてくれたな」

「なお、武蔵老も『輿こしに乗せて連れて行け』と暴れて柱に縛り付けられたと聞いております」

「わっはっは! さすが武蔵守だ!」


 そう言って涙を浮かべて笑う。

 そして惟新は到着したばかりの勇将を石田三成らに紹介した。


「そこもとは我等が島津の勇敢の誉れの者達である。よしなにお頼み申す」

「おお。長寿院殿ではないか! 遠路ご苦労であった!」


 石田三成もこれに大いに悦び、その場で軍配と団扇を贈った。

 豊久の佐土原衆を入れて、島津軍全体で約千五百の人数になっていた。



 同年九月十四日

 徳川方先鋒は大垣城の北、わずか約五キロにある赤坂の地に陣を張って集結していた。

 そこに三成旗下の島左近の兵五百余りが奇襲をかけて三十余りの首級を上げる。

 いわゆる杭瀬川の戦いという小さな戦いではあったが、士気の低い石田方の軍勢は大いに盛り上がった。


 その最中、徳川方の軍勢が美濃国と近江国の間、伊吹山の麓を通って東へ向かう模様、という情報が入る。

 当初は南宮山に着陣して徳川方と決するべし、という話だったため、急遽軍議を開いた。

 そして関ヶ原という地に陣を張ってこれを迎え撃つべし、という結論に至った。


 松尾山城には大垣城主の伊藤盛正が入っていたが、小早川秀秋が既に追い出すように入城している。

 それを踏まえた上で鶴翼の備えと定めて各隊の着陣場所を決め、夜が更けてから移動するという事になった。


 そして日が沈む。



 同年九月十四日深夜

 月灯りは雲に覆われて見えなかった。

 折から降りだした雨の中、石田方の諸将は大垣城を出立し、西へ約十五キロの位置、関ヶ原に着陣する。


 雨に打たれながら定められた陣立ての通り、木柵、矢楯を配置して戦に備えていった。


 伊吹山の麓に石田三成の本陣。

 そこから東の一番備えの場所に島左近、雑賀内膳らの陣。

 街道を挟んで南側、天満山を背中にして惟新、その東百メートル余りの場所に豊久の陣が二番備え。

 そこから百五十メートル余り南に小西行長、宇喜多秀家、大谷吉継と着陣している。


 そして松尾山には小早川秀秋。

 その麓には赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治ら。


 一通り陣立てが終わった後、ようやく雨がやんだ。

 雨に濡れた鎧を乾かすために、島津の将兵が稲わらを燃やして暖を取っていた。


「うう、寒い寒い」

「こうしていると高麗のことを思い出すわ」

「然り、それを言おうとしていた」

「あの時は実に難儀であったなあ」

「うむ。それに比べたら分はありそうだ」

「そうだ、なんとしても殿を薩摩にお連れ戻さねばな……」


 そこに足音を踏み鳴らしながら、汗だくになって駆けつけた者が居た。


「殿! お待たせ致しました! この中馬重方、ただいま参上いたしましたぞ!」


 褌一丁姿で物具を担いだ中馬重方だった。


「中馬! 中馬ではないか! お主ならきっと来てくれると信じていた」


 手を取って喜ぶ惟新に、中馬重方は鼻をすすって笑う。


「しかし、風呂はござらんか」

「おい! 藪から棒に無礼だろう!」


 慌てて中馬を止める者たちを制して、惟新も笑った。



 そして夜は更けて、日付が改まる。



 慶長五年(一六〇〇年)九月一五日

 天下人豊臣秀吉によって戦国時代が終焉の時を迎えてから十年の時が過ぎていた。

 しかし秀吉が亡くなってから二年が経ったこの年、再び天下は揺らぐ。

 美濃国は関ヶ原の地で全てを決しようとしていた。


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