第七十二話 大乱の予兆
慶長五年(一六〇〇年)
この年、戦国時代が終焉の時を迎えてから十年の時が過ぎていた。
しかし時の支配者が亡くなってから二年。
世は太平の眠りに付くことを許さず、再び天下が揺らぐ。
その予兆はすぐに現れ、政権崩壊を企んだのは後見役として政権の五大老に名を連ねた徳川家康だった。
家康は禁止されていた他家との婚姻を進めるなど法度破りを重ねて秀吉の定めた法の有名無実化を計っていく。
さらに政敵でもあった五奉行の石田治部少輔を失脚に追い込むと、大阪に詰めていた日ノ本各地の諸将に帰国を促した。
諸将は朝鮮の役以後、しばらく国元から離れていたこともあって続々と帰国していく。
家康はその隙を狙って伏見城から親豊臣政権の幕閣を全て追い出して占拠し、その留守居役に家康方に与する西国衆に任せていた。
一方義弘は宰相殿が病で臥せっていた事や、国元には龍伯と忠恒が居ることもあって帰国せずに大阪に留まり続けていた。
当然ながら義弘も家康に請われて伏見城に配下の者を入れて留守居役を務めている。
そして家康は大阪城の西の丸に本丸同様の天守閣を築き上げる。
表向きは豊臣政権の幕臣として、また秀吉の遺児、秀頼を支えることを誓って振る舞い、しかしその裏では本多正信らと共に天下簒奪の計略を張り巡らせていた。
徳川家康は元来源氏好みで特に源頼朝への尊崇の念が深かったと言う。
それ故か鎌倉以来、と言われる島津家への肩入れ具合は思わず口元を抑える程だった。
例えそれが天下を狙う目論見があったのだろうと言えども、である。
朝鮮戦役における唯一の加増、先年からの庄内の乱の尽力ぶりはもちろん、島津家が京、大阪での住まい、屋敷建築、維持修繕などで商人に借金をしていると知るや
「商人への借金はよくないですな」
として黄金二百枚を貸し与えてその返済にあてさせる程である。
商いは儒教思想において卑しい行為と見なされ、島津家ともあろう名家が商人に頭を下げることをなさってはならぬ、とでも思ったのかもしれない。
また龍伯も家康と知り合って十数年来の付き合いになっていた。家康が鷹狩を好むと知って「これは見事」と感激するような大鷹を進上するなど、心安く交流を深めていた。
このことから島津家が例え豊臣政権下でそれなりの恩があったとしても、また例え徳川家康の計略に思う所があったとしても、島津家が徳川方に与するべき道理は通りすぎる程に通っていた。
事の始まりは惟新が庄内の乱鎮圧の礼の為、伏見城に居た徳川家康の元を訪れた時である。
同年四月二十七日
朝食を早々に済ませて、惟新は伏見城を訪れていた。
「や、これは兵庫殿。よくぞ参られました」
島津兵庫頭義弘入道惟新斎六十六歳、徳川内大臣家康五十八歳。
天下に最も近い男も、生ける伝説となりつつあった名将を前に、はちきれんばかりの笑顔で出迎える。
「お忙しい所をかたじけない。どうしても面と向かって一言御礼申し上げたくてな」
庄内の乱が伊集院忠真の降伏によってひとまず決着が付きそうだ、という三月十二日付の書状が届いたのは四月五日。続けて全て決着が付いた、という報せは十日過ぎに届いた。
それからこの騒乱の収拾に尽力した山口直友が大阪に戻ったのは四月二十三日。
惟新は「徳川殿に改めて御礼申し上げたい」と打診していた。だが家康も家康で諸々の準備で忙しくて中々日程が合わず、ようやくこの日になった次第である。
「それに山口殿にも随分と苦労をかけてしまった」
「滅相もございませぬ。大役を果たせたこと安堵しております」
律儀に頭を下げる惟新に、山口直友も恐縮して頭を下げ、満足そうな笑みを浮かべる。
「重言にき慇懃無礼かと存じますが、薩摩少将殿より頂いた大鷹は実に見事。改めて御礼申しますぞ」
「気に入って頂いたようでなにより。愚息には落ち着き次第早々に上洛して庄内鎮圧の御礼を申し上げるように伝えますので、今はやつがれの頭にてご容赦いただきたい」
「いや鬼島津殿の頭では勿体なく存じます」
そう言ってお互いに笑い会釈をする。
一息ついた所で
「勘兵衛、ちとすまんが」
家康は遠慮するように手をかざすと、山口直友は一礼して退室し、客間は家康と惟新、二人きりになった。
「徳川殿も随分とお忙しいようですな」
「皆々心を合わせて秀頼様をお立てしなければならぬ所を、恨みを買う身はなかなかつらい」
そう言って笑う家康に、惟新も思わず苦笑した。
(この期に及んでまだその口ぶり……。天下を狙うとは、かくも気を使うものか)
惟新はため息をついて同情しつつ政の苦労を慮る。
「会津殿の上洛延引の儀、その後いかがですかな」
「いや、実はそれが……」
そう言って家康は顔をしかめる。
上洛しない上杉景勝に対して謀反の疑いあり、と家康は嫌疑をかけた。
この年の四月上旬、それに対し上杉家老の直江兼続は家康の顔を殴りつけるような弁明を書き記した書状を叩きつけ、それを読んだ家康を激怒させたという話は惟新の耳にも入っていた。
後の世に言う直江状事件である。
「六月上旬には会津へ下向しようかと考えておりましてな」
「ほう」
惟新の瞳が微かに輝き、血が騒いだ。
(ついに動くか)
「とは言っても、やはり伏見や大阪に我が手の者を残すのは少々不安でございまして」
そう言って、ちらりを誘うような目つきで惟新を見た。
惟新もそれを見て頷いた。
「島津は徳川殿に恩義ある身、如何様にもお申し付けくだされ」
「……では兵庫殿に折り入って頼みがございます」
そう言って、家康は膝を改めて頭を下げる。
「伏見の留守番を兵庫殿にお頼みしたいのです。兵庫殿が伏見にいらっしゃれば誰とて手出しはできませぬ。然らば会津に下向する事に何一つ不安はございませぬ」
「それは是非にも……と言いたい所だが……」
家康にとっては予想外の答えに、惟新は申し訳なさそうに苦笑する。
「手前無人であるので、留守番が務まるかどうかは即答出来ませぬ。確証もなく引き受けて万が一のことがあれば徳川殿にも申し訳ない。今すぐにでも国元に兵を寄越すように願うので、答えは少々お待ちいただけまいか」
「承知した」
家康は内心
(さすが、兵庫殿)
と感心した。何も文字通りの留守番ではなく。家康が離れれば大阪、あるいは伏見で一悶着起きうると読んでいるのだ、と理解した。
「賦役をお伺いしても宜しいか」
「無論」
そう言って家康はそろばんを弾くような真似をする。
「会津に向かう諸将には百石三人役をお願いしもうした。遠国であれば百石一人役」
「百石一人役……」
島津家の領地は五十七万石。
うち蔵入地等、兵役が課せられない土地もあるので、百石一人役であれば四千から五千程度の徴兵という計算である。
惟新は
(先ごろの戦疲れで多少鈍るかな……)
という予測はしたが、それでも少なくとも四千は国元から確実に送られてくるだろう、という計算をしていた。
(上洛ついでに忠恒が兵を引き連れてくれば徳川殿にも面目は立つし、伏見城の留守番で万が一があった場合でも対応できる)
そこまで計算して惟新は大きく頷いた。
「では兵が揃い次第、伏見に入りましょう」
「良しなにお取り計らいくだされ」
伏見城で密談を終えた惟新と家康は、家康がこの後御所に行くというので見送りがてら伏見城の門まで同行した。なお、惟新の後ろには新納旅庵や帖佐彦左衛門ら京都常勤の臣下もいた。
別れ際にふと思い出したように惟新は家康に耳打ちした。
「上洛の件については内府殿からも催促した方がよいかもしれませぬ」
「相分かり申した。後でお送りしましょう」
懇ろに挨拶を済ませて、惟新は薩摩屋敷に戻ると大急ぎで国元に伏見城の留守番役を任された事と、留守番するにも人数が必要なので早急に寄越して欲しい、という書状を認めた。
もちろん御家の為と念押しし、又八郎へ御熟談が肝要とよくよくお願いし、その日のうちに書状を龍伯の元へ送った。
また、先年体調を崩していた宰相殿はなんとか動かせる程度には持ち直し、摂津国の萱野という地に養生のために移していた。
萱野は伊丹城から北東へ約十キロ、大阪城から淀川を超えて北へ約十八キロの場所にある。
万が一大阪城、あるいは伏見城が戦場となったとしても宰相の身の安全を図れる、という判断だった。
しかし惟新は待てども暮らせども国元から兵が送られることはなかった。
一方その頃薩摩では、龍伯と忠恒の複雑な関係が露見していた。
惟新の書状が届いたのは五月に入ってからだった。
忠恒は僅かな供回りを連れて、富隈の城館の龍伯を訪れる。
「お義父上様、この通り父上より人数の催促が来ております。何故下知を下さぬのです」
「……」
「この通り、内府からも上洛も促されておりますので、これを延引すれば会津と同じく謀反の嫌疑をかけられる事も考えられます」
「……」
龍伯は何も言わず、まるで畳の目を数えるかのように目を細める。
「何故何も仰らないのですか」
つい苛立ちを隠さない忠恒に、あごひげを遊びながら龍伯はふと呟くように口を開く。
「お主はまるで民草が見えておらんな。高麗の迷惑、庄内の迷惑で田畑は荒れ放題だ。庄内の配置換えで将兵らもそれどころではない。 お主はどれだけ民に負担をかければ気が済むのだ? 一揆が起きて殺されでもしたら我が一族末代までの恥ぞ」
「ぐ……」
忠恒は口を噤んで黙りこくる。
「今すぐ兵は送れん。それに……」
「……?」
「頴娃の方も気になる」
「伊集院忠真ですか? あやつは大人しくしておりましょう」
「今はな……」
「……」
島津家の家督は忠恒に相続され、忠恒も島津家の政務本拠である鹿児島に入っている。
だが龍伯は富隈に移ってなお、強い影響力を残していた。
その結果、惟新の派兵要請に対し、島津家としての意思決定、行動は極めて鈍重になっていた。
秀吉は龍伯冷遇策を取ることで島津家の崩壊、兄弟相克を目論んだとも言われる。
しかし惟新がどれほど秀吉に当主扱いされ、厚遇されようとも、日新公の教えを守って龍伯を立てた。
それ故、秀吉の策は成就することはなかった。
だがいつの間にか真綿で首を絞めるように効いていた。
秀吉が亡くなり次代へ引き継ぐ頃になって、島津家の統治機構に亀裂が入り始めていたのである。
豊久が伏見に上洛して家康に接見したのは同年五月十二日。
さらに帰国の暇を与えられたのは六月五日のことである。
そして大阪の薩摩屋敷で挨拶のために惟新の元に訪れていた。
「叔父上、拙者は暇を頂戴したので佐土原に戻るつもりでしたが、叔父上は帰らないのですか?」
「いや、内府殿に会津討伐の間、留守番を任せられているので帰らぬ」
「え、そうだったのですか。しかし……」
豊久は声を潜める。
「……叔父上の兵は少ない様子でしたが、どうやって守るのです?」
「それは……国元から兵を差し寄越すように請うておる」
「……」
惟新の悲壮な表情に豊久は悟った。
今、惟新はとんでもない事に巻き込まれようとしている。
それがなんなのかは分からなかったが、豊久は即座に決意した。
(叔父上を故郷に帰さねば……。これは島津の御家の一大事になりうる)
豊久は力強く微笑み、頭を下げる。
「では、その任は拙者にお任せいただけませんか。叔父上は薩摩にお帰りくださいませ」
「……その申し出はありがたいが……。ならぬ。一人では帰れぬ」
「一人では……? あ……」
疑問を口にした所で、豊久がふと思い当たる。
「宰相殿ですか……」
「う、うむ。共に帰ろう、と約束した。約束を違えることはできぬ。それに御上様もいる」
照れくさそうな表情で口をとがらせる老人に、
(年甲斐もない)
と笑いかけたが、豊久とて、いや島津一族で惟新と宰相殿の仲睦まじさを知らぬ者はいない。
その想いを汲み取れば無碍に帰れ、など言えないし惟新の様子を見れば梃子でも動かないことは明らかだった。
豊久に自然と優しい笑みが浮かび、ため息を付く。
「承知仕りました。では拙者と宰相殿と、御上様と、皆々で故郷へ戻りましょう」
「……すまんな」
「しかし、御上様や宰相殿は大坂より移した方がいいかもしれません」
「……お主もそう思うか?」
「……はい。内府殿が会津に行く間に何かあるのではないか、と不穏な噂もございますので……」
「うむ。宰相は今、摂州の萱野という地で養生させておる。何かの名分が立てば御上様も移せるだろう」
「そうなさいませ」
「お主には迷惑をかけてしまうな」
「なんの。こうして叔父上と共に過ごせるだけでも亡き父の無念を慮れば……」
そこまで言ってお互いがお互い、目を伏せる。
「お主の父は……」
そこまで言って、惟新は口を閉じた。
「父上が何か?」
「あ……いや。なんでもない」
「気になりますなあ」
そう言って豊久は笑う。
「お主の父のことは、故郷に戻る船の中でゆるりと話すとしよう」
「はい」
まさか「お主の父は毒殺されたのだ」などと蒸し返すわけにもいかず――。
首を傾げて微笑む三十一歳の好青年を前に、惟新は胸の奥に言葉をしまった。
同年六月十六日
家康は諸将を率いて大阪を出陣。伏見城に入城。
これには惟新も同行していた。
同年六月十八日
家康が伏見城を出立する。その行き先は江戸、そして会津である。
惟新は家康を送りだすため途中まで同行することにした。
「兵庫殿にこうしてお見送りしていただくとはかたじけない」
「伏見城留守番の御役目、手前無人のため果たせず申し訳ござらん。国元より早々に差し寄越すようには伝えておるのだが……」
「大変そうですなあ」
「して、伏見城に入るとしたらどなたの旗下に入れば宜しいか」
「……それは追々お知らせします」
恐縮して頭を下げる惟新に家康も笑って応えた。
この時家康は、既に鳥居元忠らに伏見城の守りを託している。
家康は伏見城の城番が惟新であれば、例え旗色が紅白いずれかであっても、おいそれと手出しすることができないだろう、という目論見があった。
だが結局、惟新に兵が集まらなかった。確実に計算ができない以上は頼れない。
しかも万が一のことがあれば鳥居元忠は討死する覚悟である。
(巻き込むわけにはいかぬ)
家康は、言葉を濁すしかなかった。
「そう言えば、先日伊集院殿の御母堂が直訴に参りましてな」
「なんと」
惟新はぎょっとして険しい表情を作る。
伊集院の御母堂とは伊集院幸侃の妻、忠真の母である。
「聞けば都合三度も大阪城へ推参し、三度目には儂に会わせろと大層な剣幕だったようで」
「それはまたいらぬご迷惑を……。何か悪しさまに申しておいででしたか」
「いや、心配ご無用」
そう言って家康はカラカラと笑う。
「言葉がまるで通じなかった故、この耳には入りませなんだ」
「それは……」
惟新も思わず苦笑してしまった。
「ではこちらでそろそろ」
「ご武運を」
山科に差し掛かった所でまた挨拶を交わし惟新は家康の一行を見送った。
惟新と島津家に存亡がかかる危機が迫ろうとしている。
しかし未だ惟新の前に島津の兵がいない。
伊集院幸侃夫人の訴えは言葉が通じず耳に入らなかった、というのは
「鹿児島県史料 旧記雑録 後編 三、1117号」に見られる記述です。
『源二郎母三度大坂御城へ到推参、二三日宛罷居、殊三度目ニ、内府様へ直訴仕、種々之儀雖申上候、言葉不通故、委不入御耳候』
(慶長五年七月二日付惟新公より忠恒公宛の書状より)
この物語では薩摩訛りの分かり難さを笑い話として取り上げました。
ですが、本当に言葉が通じなかった、とは到底考えにくいです。
やはり家康は島津家を味方に引き入れるため、何があっても訴えを聞き入れるつもりはなかった、薩摩訛りを利用した方便だったと推測します。
(この物語の裏設定でも同様です)




