第七十一話 庄内の乱
慶長四年(一五九九年)三月九日午後
下之屋形の門をくぐり、茶室の前で立ち止まる男が一人。
小さな戸を軽く叩くと、中からくぐもった声が聞こえた。
「幸侃か、入れ入れ」
小さな戸を前に幸侃は腰の刀を抜いて、立てかけられた忠恒の刀の隣に置いた。
そして腰ほどの高さの戸をくぐり、茶室に入る。
「お招き頂きありがき幸せ」
茶頭の位置に忠恒が座り、にこやかな笑みで幸侃を出迎えた。
幸侃は恭しく頭を下げ、客席に移る。
「父上は二人とも畏まった茶の席は好まぬようだが、なかなかどうして」
忠恒の冗談に、幸侃も愛想笑いで返す。
忠恒から茶の湯に招かれたのはこれが初めてだった。
幸侃は忠恒から「今後のことについて語らいたい」そう言われて招かれた。
気は進まなかったが、相手は島津家当主十八代である。
断ることはできなかった。
よく言えば手際の良い。悪く言えば侘びも寂びもない所作で茶を点てた忠恒に、幸侃は内心うんざりした。
(こんな御点前で茶頭をやるかね……。みっともない……)
しかし出された茶碗を取ってすすり
「結構なお点前です」
と形だけでも礼は尽くしておいた。
そして茶菓子を出され、お互い頬張りながら、静かに口を開く。
「ずいぶんと老いたように見えるが、歳はいくつだったか」
「五十九になります」
「左様か」
忠恒は頷き、遠くを見つめるように落ち着いた様子を見せる。
その意味では粗忽すぎる以前よりかは、多少よくなっているようには見えた。
「下之屋敷の植木が少し枯れかけているようでな。あれはどうにかならんか」
「左様でございますか。ではこちらで手配いたしましょう」
「よしなに頼む」
茶をひとすすりして、一息ついた。
「何やら天下が騒がしいな」
「まことに……」
大阪も伏見も、街中で次の天下人は誰か、という話を公然とし始めていた。
やはり徳川か、豊臣家の存続を訴える石田三成か、といった所である。
「お主はどうだ? やはり石田治部少輔に与するか?」
忠恒の質問は意地が悪いようにも聞こえた。
しかし豊臣直臣にも近い存在だった幸侃には無理からぬ問いでもあった。
「いや、そこもとは島津の御家のためであれば石田殿も内府殿も関係ございませぬ」
その答えに忠恒は内心舌打ちする。
(よくも抜け抜けと……)
そして冷徹に言い放った。
「ならば何故知行地を差し出さぬ」
「え……」
幸侃は眉間に皺を作って、思わず忠恒を睨んだ。
「秀吉が死して、豊臣の天下なんぞ終わるのは目に見えているだろう」
「何を仰るのですか。どこに豊家の耳目があるかわからないのに、迂闊な物言いはおやめください」
幸侃はなおも睨みつけ、声を潜めた。
しかし忠恒は決して声を荒げることなく、しかし低い声で続ける。
「我等が七年も高麗の軍役に付いている間、お主は何をしていたか」
「……」
「我等が寒さに凍え、飢えに苦しんでいる間、お主はただ茶菓子を食らって腹を膨らましただけか」
さらに言葉を叩きつける。
「日隅八万石を抱いて今まで何をしてきたか」
幸侃は何も言い返せなかった。
忠恒の言わんとすることに自覚はあったからだ。
「お主はもはや島津の将ではない。稲荷大明神でもない。猿のおこぼれを貰う虫けら以下だ」
だが軍役自体は嫡男の忠真がこれを率いていたから、そこまで言われる覚えもなかった。
苛つきながら、忠恒を睨む。
「拙者はあくまで島津の御家を守るために働いてきております」
「我が首を狙うのも御家のためか」
「!?」
忠恒の思いもよらぬ言葉に幸侃は動揺を隠すことができなかった。
視線を泳がせながら目を伏せる。
(企てを探られたか……)
幸侃は茶碗に継ぎ足した白湯を音を立てて飲み干す。
「御家のためを思えばこそ……」
幸侃がそこまで言ってところで、忠恒は不意に表情を崩した。
「お主の言うことも分かる」
「え……」
「確かに俺も以前は兄上とは違って、だいぶ不出来だったからな」
幸侃も忠恒の殺意が消えたのが分かって胸をなでおろす。
その様子を見て、忠恒の表情もなお和らいだ。
「今後はお互い身を改めて、家のために尽くそうではないか」
「…はっ」
「今日は散会としよう」
幸侃は心の底で震えながらも頭を下げる。
ひとまず乗り切った、と安堵した。
そして茶室を後にしようと立ち上がる。
例え殺意があったとしても刀は外にある。真っ先に茶室を出て逃げれば大丈夫だ、そう思っていた。
だが、背中を向けた瞬間――、
「ガハッ」
――幸侃は背中を斬られた。
「一体何を……」
幸侃は激痛に顔を歪めて、忠恒を睨む。
冷酷ながら激憤を露わにした忠恒がそこに居た。
その手にはどこに隠していたのか、脇差が握られている。
「上意は得ている」
「上意とは……武庫様ですか? それとも……」
「御両殿だ」
「!?」
そこに小さな戸を引いて乗り込んだ忠恒の小姓がとどめの一撃を入れる。
絶命寸前のさなか、幸侃の脳裏に走馬灯が流れた。
――龍伯様に謀られたか。
そう思う前に意識が途切れた。
幸侃を斬り捨てた後、忠恒の行動は早かった。
すぐさま伏見城下の幸侃の屋敷にいた一族に誅殺に及んだ口上を述べ、東福寺へ退去するように命じる。
そして石田三成、家康側近の山口直友、奉行の寺沢広高宛に事の次第を報せ、自らは京より西の外れにある高雄山の寺に謹慎した。
報せを受けた石田三成は激昂した。
豊臣政権の幕臣とも言うべき幸侃を手打ちにしたことは、政権への反逆とも受け取れたからだ。
島津家に謀反の意思あるや、と龍伯に三月十五日付で詰問状を叩きつけた。
龍伯は三成の詰問状を見て驚き、『御意を得ての事かと思っていた』が『又八郎の短慮』で『言語道断で是非に及ばない、また自分に相談もなく曲事』つまり道理に合わないことだ、と憤る姿勢を見せた。さらには弟の『兵庫入道も知らないのではないか?』と呆れ果て『ご立腹は至極尤も』と同情した。
その返信は閏三月一日付で送ったが石田三成は見ることはなかった。また仮に見たとしても何一つ事態の進展に繋がることはなかっただろう。
同年閏三月三日
前田利家の死によって重しを失った武断派が、石田三成を襲撃する事件がおきたからだ。
徳川家康がこの仲裁に乗り出し、三成が半ば奉行職を辞任する形で騒動は収まる。これによって三成は島津家の騒動への対処どころではなくなってしまった。
代わってこの騒動を担当することになったのは、徳川家康である。
そして家康の側近の一人である山口直友がその取次役となった。
山口直友は、元は丹波国の赤井氏の生まれだと言う。のちに徳川家康に仕えて信濃国の山口の地を領して、苗字を改めた。
なお、赤井氏とは戦国きっての名将、赤井直正を排出した豪族である。その赤井直正が島津家と縁の深い近衛前久の娘を継室に迎えていた事から島津家担当の取次役になったとも言われる。
家康は来るべき天下簒奪の戦を見据え、島津家を味方に引き入れるため、悉く島津家に有利となる処置を下す。
まず忠恒の蟄居を解除し、騒動鎮圧のために帰国命令を出した。
また合わせて暇願いの申請を出していた中務大輔豊久も帰国許可を出し、それぞれ国元に帰国した。
なお、豊久はこの年の二月に念願だった父家久と同じ官職名である中務大輔を名乗ることを許されている。
一方龍伯は、三月十三日に富隈の私宅に到着していた。
それから数日も立たないうちに飛脚が持ってきた文で、忠恒の凶行の報せを得ていた。
その龍伯の元に、父の死を知った都之城の城主、伊集院忠真が訪れる。
伊集院忠真は忠恒と同じ年生まれで、この時二十四歳の若者だった。
「龍伯様のお耳に入っておるやもしれませぬが、忠恒様に老父を殺されてしまいました。一体何故でしょうか……!?」
涙ながらに訴える忠真に、しかし龍伯は冷徹に見つめる。
「上意である」
「上意!? 太閤殿下は既に世に無く、上意とはどなたの上意でございましょうや」
忠真は困惑したが、龍伯の様子がおかしい事を悟った。
(父上は島津家にやってはならぬ、何かをやってしまったのだ……)
目をつぶり、拳を震わせて身を正す。
「ならば致し方ございませぬ。我等の進退はお委ねします……」
しかし龍伯の言葉は忠真の予想を裏切るものだった。
「ならば一族もろとも腹を召されるが宜しかろう」
「そ、それは……どういう……」
困惑する忠真に、龍伯は沈黙のまま鋭い眼光を見せた。
「こ、殺される……!」
忠真は龍伯が庄内の地を全て召し上げる魂胆だ、と悟った。
逃げるように戻った忠真は都之城とその十二の外城に兵を入れさせて籠城した。
ここに、後の世に庄内の乱と呼ばれる島津家の内乱が勃発した。
さらに忠真はこの凶状を義弘に訴え、どうにか収まらないかと懇願する。
それに対して義弘すらも『幸侃の悪心は歴然に付き、ご成敗に及んだことは是非にも及ばない事』と突き放すばかりか、進退については『龍伯様の諚次第』つまり、仰せの通りとして、降伏するように説得する書状を八月六日付で送る始末だった。
同年六月には帰国した忠恒が鹿児島衆を引き連れて出陣する事になる。
特にこの乱の制圧において総軍を率いて我武者羅に働いたのは宮之城の北郷三久である。
北郷三久は北郷家十代時久の三男だったが、兄で十一代忠虎が文禄三年(一五九五年)に若くして死に、北郷宗家は忠虎の嫡男忠能に相続された。
しかし忠能は天正十八年(一五九〇年)生まれで幼年だったため、家督代として北郷氏を率いていた。
大領を拝した伊集院幸侃に故郷を追われたため、この戦で武功を上げれば旧知復活が叶う、と信じて大いに働いた。
なおこの乱は島津家旗下全軍あげての征伐戦だった。
北郷軍だけでなく佐土原より豊久、さらには大口より新納武蔵守忠元も御年七十四にも関わらず出陣している。
足腰も弱った老身ながら手の者に輿を担がせ戦場を駆け回ったと言う。
領内に非常事態を宣下され体が動く男子は全て徴兵された。
その結果、島津軍の兵力は総勢三万とも四万とも言われた。
対する伊集院の軍勢は八千余り。
この乱はすぐにでも鎮圧されるもとと見られていたが、誤算があった。
長きに渡る戦役から帰国して間もなく発生したため兵の指揮は低く、また幸侃らが築いた城はいずれも堅城だったことだ。
すぐさまこの乱を鎮圧することもできず、長期化してしまう事になる。
また一方その頃、幸侃夫人も家康に忠恒の凶行を訴えるために面会を要求していた。
幸侃夫人は夫の死を前にしても涙を見せず、怒りを露わにして悔しがっていたという。
その願いが聞き遂げられ、山口直友は東福寺より幸侃夫人を招いて接見した。
一通りの挨拶を済ませ、直友が「申し開きがあるそうだが」と声をかけた瞬間に、堰を切ったように幸侃夫人が口を開く。
「うちんげあんさんがうっせられて、こはないごてけち、くっから血ィが出るばっかい、憎たらしか思いをしよっとこいに、今日はほんなこっ、こげな機を頂いてあいがともさげもした! 忠恒はどけん言いよっか知らんごっ、あげんはてしゅの器じゃなかっちあんさんは言いおったげんな、そいを恨まれてぼっけもんが刀を振り回したにちげがなかちおもっ。どげんかしてあいも悪しきにせに、ばっをくらわしくいやったもんせ!」
「……う、うむ」
大層な剣幕で、一気にまくし立てる幸侃夫人に圧倒されて直友は目を丸くする。
その後も忠恒がなぜ凶行に及んだのかを問い、また幸侃夫人も熱心にそれを説明したが、その度に直友はとりあえず頷くだけだった。
そして時間が来たのでとりあえず接見を終えた。
表情の固い直友の様子を見て幸侃夫人は何か言いたげだったが「また機会を設けますので」と説得されて東福寺まで戻っていった。
直友は腕組みして困り果てた。横目で同席していた近習に聞く。
「かの室はなんて言いおった?」
「……さぞお怒りのご様子でしたが……」
幸侃夫人は薩摩訛りがきつすぎて、言い分が全く通じなかったと言う。
元々家康は島津家を味方に付ける事を重視していた。
それ故に幸侃夫人と接見した所で忠恒の凶行が罰せられることはなかったが、親豊臣政権側の目もあったので、その後も都合三度に渡って接見に応じた。しかし決定が覆ることはなかった。
また幸侃夫人も自ら筆を取って忠恒を断じるため、九州に於いて島津家の監視役でもあった加藤清正、黒田如水宛に庄内への出兵を願うなど、乱の行く末は混沌としていた。
同年六月
大阪、薩摩屋敷。
忠恒が乱鎮圧のために出馬している頃、義弘こと惟新は青ざめていた。
愛する妻、宰相殿が三月になって庄内の騒乱に心を痛め、心労で臥せるようになっていた。
伊集院忠真には愛娘次女の御下が嫁いでいたからだ。
さらに六月十日ころから、食事も取れないほどの重篤に陥っていた。
やつれきって苦しそうな表情で床に臥せる宰相の手を握る。
(もしこのまま宰相が亡くなってしまったら……)
涙目になりながら、 惟新は熱心に看病を続けた。
一度は回復の兆しも見せたが、幾度も病は重くなり、容体が安定するのは年が明けてからになる。
同年六月二十三日
忠恒の出陣によって鹿児島の軍勢は都之城の本城の北へ約十二キロの場所にある山田城が落城。
同年六月二十五日
都之城の本城の北西へ約二十五キロの場所にある恒吉城も樺山久高の説得により開城。
しかし、ここに来て限界が生じて戦線が停滞する。
龍伯も財部城を攻め立てたが落城に至らず、膠着状態に陥った。
またこの事態に家康は山口直友、奉行方の寺沢志摩守広高を派遣し、都之城に楯籠る忠真を説得したがこれが聞き入れらなかった。
さらに立花宗茂、秋月種長、小西行長、伊東祐兵ら九州の諸家に援軍要請を出した。
しかしこれが判明すると忠恒が厳しい口調で拒否した。
「これは島津家の争いにて、他家の手出しは無用にございます!」
「そうは言うても……」
直友は呆れたが、庄内の境界を封鎖して他家の軍勢が入ることを防いだため、どうにもならなくなってしまった。
一度徳川家康に事の次第を報告するために大阪に戻り、その翌年。
再び調停のために山口直友が下向する。
慶長五年(一六〇〇年)一月十三日
再び下向した山口直友は忠真と面会して説得を試みたが、なお頑なに拒否された。
その数日後。富隈城。
「年賀のご挨拶が遅れました。あけましておめでとうございます」
「こちらこそ山口殿には苦労ばかりかけて申し訳ない」
「なんの、これも内府様のご意向ですので」
直友はひとしきり挨拶を済ませると、膝を正して頭を下げる。
「この度は龍伯様にお願いがございます。彼の者たちの命はひと先ず安堵とし、変わらず仕えさせることをお約束していただきたいのです」
「それは……」
龍伯は眉を潜めて、腕組みする。
「これは内府様のご進言でございまして、一旦安堵としてまずは下城させることで是とし、その後改めて処置をするのは如何か、と」
「内府殿が……。ふむ……」
龍伯は考えた後、得心がいったように頷く。
「承知いたした。又八郎にも言っておこうか」
「是非そのようにお取り計らいくださいませ」
山口直友が忠恒の元にも行く間、龍伯は助命を約束する起請文を書き起こした。
その後も伊集院忠真の説得工作が続けられ、続々と各外城が武装解除されていった。
そして都之城も開城されたのは三月十三日なってのことである。
その翌日には龍伯、忠恒が共に都之城に入城。翌十五日太平吐気を岩切三河入道が述べた。
ここに庄内の乱はひとまず終結し、薩摩、大隅の各地は再び平穏の時を迎える。
庄内の地は一旦島津家預かりとなり、その後北郷旧地に召し置かれた。
忠真は召しだされて島津家臣に連ねることを許され、頴娃一万石へ移封となった。
だがその頃、内府こと徳川家康天下簒奪の計略が発動しようとしていた。




