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戦国島津史伝  作者: 貴塚木ノ実
朝鮮出兵
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第六十六話 武庫の憂鬱

 歳久の死は太閤に歯向かった者の末路として島津家の将や領民に深く刻み込まれた。

 歳久を最後まで抵抗した薩摩武士の誉れとして英雄視しながらも、決してその後に続くことはなく、多少は秀吉の難題に協力的になった。


 また、琉球仕置の遅れや高麗遅陣など秀吉の思い通りにいかないことが続いた事による島津家への不満も、歳久を無実の罪で自害に追い込んだ、という負い目によって幾ばくか解消された。


 その意味ではまさに歳久が命を賭けて張り巡らした計略が成就したとも言えた。


 梅北一揆鎮圧後も続々と高麗へ渡る島津兵が続き、義弘率いる島津軍はようやく戦力となりえる程に態勢を整えることができた。

 とは言っても、高麗の地に島津軍が終結する前に朝鮮半島の大勢は既に決しつつあった。


 総勢都合十万もの大軍は釜山上陸後に北進し、わずか二十日あまりで高麗の首都、漢城を陥落させて、さらに平壌まで迫っていた。


 そんな最中で、義弘、久保、そして家久嫡男の豊久は第四軍として兵の集結を待って釜山に留まり続けていた。

 だが悪いことに梅北国兼一揆の影響で参戦はさらに遅れ、歳久自害の悲報に際して島津軍は慟哭して、三日三晩何も手が付かなかったと言う。



 しかし秀吉の高麗支配、続いて唐入する計画はやはり余りにも無謀すぎた。

 北進して補給線が伸びると、兵糧調達もままならなくなる。

 さらには高麗国の残党軍が各地で義兵として立ち上がり、遊撃作戦に出た。

 その結果、事態の収集に追われて進軍どころではなくなり、高麗制圧は膠着状態に陥った。




 天正二十年(一五九二年)は十二月八日で終わり、その翌日には文禄元年(一五九二年)十二月九日となった。

 そして翌年を迎える。


 文禄二年(一五九三年)九月

 島津家にさらなる悲劇が襲いかかる。


「又一郎の様子はどうか」

「熱に苦しんでおる様子です」

「そうか……」


 義弘と久保は高麗国の南端の島、唐島に居た。またの名を巨済島コジェドと呼ばれる島である。


 九月に入ってからすぐ、久保は熱を出した。

 瘴癘しょうれい。その土地の伝染性熱病である。


 流行病はやりやまい故に、という事で義弘は看病することも許されなかった。

 別室に隔離された久保の苦しむ様を想像して、ただひたすらに祈祷するしかなかった。


 久保は若さもあって、一度は熱が下がり回復する兆しも見えた。

 だが、三日もしないうちに再び発熱の症状が出て昏倒。そのまま息を引き取った。

 九月八日夜半過ぎのことだった。



 島津又一郎久保。義弘次男。

 文禄二年(一五九三年)九月八日没。享年二十一。


 戒名

 一唯恕参大禅定門 皇徳寺殿


 秀吉の寵愛を受けた大器は次期当主と目され一身に期待を集めた。しかしその夢叶うことなく、薩摩より遥か遠くの地で没した。


 久保の死はいずれ龍伯や秀吉の耳にも届いた。

 前年の弟の死に続く身内の死に、龍伯はただひたすら唇を噛みしめた。

 また秀吉も「あまりに不憫」と嘆き慰めの書状を送るのだった。



 久保の死は、同時に解決したはずだった家督問題の再燃を意味していた。

 大器と評判だったが故に島津家十八代の行く末は難題だった。しかし秀吉からの指名でその白羽の矢は又八郎忠恒に当たる。


「又八郎か……」


 義弘は頭を抱えて憂いた。

 無論、龍伯も義弘も順番的には忠恒になるのだろう、とは思った。

 しかし忠恒は元服して間もないころから酒食に耽り、蹴鞠に興じてまるで精進しなかった。

 その姿に呆れ果て、義弘も再三説教したが、全く改善されず


(これは出家させて御家から遠ざけるか)


 とさえ思ったほどである。

 だが龍伯しかり義弘しかり、跡目を継ぐ資格を持つ嫡流男子が少なすぎた。


 久保が若死にするなぞ万が一にもあり得ない事ながら、万が一の備えとして忠恒はそのままにされた。

 しかしその万が一の事態になってしまった。


「ふん。俺にお鉢が回ってきたか」


 この時十八歳の若者だった忠恒は栗野城に居た。

 そして面倒そうに上洛命令を聞いた。


「今を於いて島津の御家の将来は若君の双肩にかかっております」

「……そうか」


 義弘家臣の新納旅庵の言葉に忠恒は無愛想に返事をする。


(今まで又一、又一とこちらを見向きもしなかったくせに、実に都合よく手の平を返すものだ)


 内心舌打ちしながら、新納旅庵と大阪に向かったのだった。



 文禄三年(一五九四年)

 朝鮮遅陣や梅北一揆などの混乱は、島津家の統治に一大変革を招く直接的なきっかけとなった。


 世に言う太閤検地である。


 経済の基軸となる田畑がどれほどあるのか。どれほどの収穫量が見込めるのか。

 中央政権の定めた統一的な方法で測量を行い、内実を調査するものである。

 測量結果によってその国の石高が決まり、それを基準に治めるべき年貢(税金)と戦時の賦役も決まる。


 賦役とはつまり例えば百石につき五人の兵役を課す、という風に定められることである。

 仮に一万石の大名に「百石五人役」を課せられた場合、五百人の徴兵義務が発生するのだ。

 一万石でどれほどの人数を養えるかは考え方次第だが、一石が一人一年分の食料という換算なので、単純計算で一万人ということになりそうだ。

 ただ実際には余った米を売って銭に換え、それで武具や馬、日用品なども調達しなければいけないので一人につき二石が生活できる最低限と考えるとする。

 となると一万石で養える人口は単純計算で五千人程度ということになる。

 これを世帯を考えると、父母、子三人の合計五人を標準的な世帯構成と考えると、千世帯が一万石の領地に存在する。

 その中から五百の兵を拠出しなければいけないので、二世帯につき一世帯は出兵に応じなければいけない事になる。

 当然ながら世帯の子供が未成年、あるいは全員女子だと父親が出兵するし、子供三人全員男子だった場合、三人の内、二人が徴兵に応じる事もあり得る。

 こう考えると「百石五人役」は村から男がほぼ居なくなるも同然である。

 男が居なくなると非力な女子ばかりでは満足に田畑が耕せなくなり、国力の低下をまねく事になる。

 これがどれほど過酷なものか理解できるだろう。


 なお文禄の役に於いて島津家や九州、西国の諸大名にはこの「百石五人役」が課せられていた。



 戦国時代における検地と課税、賦役の仕組みは後北条氏の祖、北条早雲が初めて行ったとされる。

 信長の代にも行われ、当時の木下藤吉郎も奉行人として実務を担当していたようだ。


 だがこの検地自体には地頭を始め強い反発があった。

 日ノ本の地の所有権は元々は朝廷にあり、時の権力者にその統治を委託されているという認識があった。

 だが現実的な見方をすると領地には私領、公領という区分がある。

 公領はその収益のほとんどが朝廷に献上され、私領は委託統治者の懐に入る。

 ただし私領の収益の何割かを時の権力者に献上するのが、それまでの仕組みだった。


 当然のことながら納税も徴兵も無いほうが良いに決まっている。

 領地の収益全てが委託統治者の懐に入るからだ。


 だが社会の効率的な発展や近代化、強大化にはある程度の我欲を捨て、社会全体へ貢献や奉仕。言わば「支えあい」が必要になる。社会へ参加、つまり貢献と奉仕することで、自らが至らない時の保険として、福祉として戻ってくるからだ。

 織田信長、豊臣秀吉の強大な軍事力と経済力は、検地という近代的な経済観念の導入に成功して支えられていた側面が非常に強い。


 戦国時代を経て日ノ本が発展するには、この検地の導入は必要不可欠だったとも言える。


 だが、検地以前の統治が常識となっていた者たちにとって、その導入は認めがたいものだった。

 検地を感覚的に言えば、土地や家屋、家財道具一式、財布の中身や貯金、一分一毛一厘に至る全財産を調べ上げられ、それを元に税金や非常時の拠出を求められるのだ。

 検地の導入は被支配の下層階級からの視点で見ると、上層による管理社会への反発とも言える。



 検知に強く反発したのは龍伯だった。

 それまでの島津家も当然ながら税や徴兵を領地や領民に求めている。

 だが年貢としていくら収めるべきか、徴兵にどれほど応じるべきかは、領民らのその時の事情や心づもり、気概にある程度委ねられていた。(無論、最低限収めるべき年貢や土地の広さを基準にした徴兵を定めている)

 領民は統治者が求める「忠節」を示し、統治者はそれを「信頼」することを基本にした年貢であり徴兵であった。

 それはある意味では「心の高潔さ」に委ねた中世的な価値基準である。

 だが信長、秀吉がもたらしたそれは、「心」という不確かなものには頼らない統一的な事務手続きによるもので、近代的な価値基準だった。


 心の高潔さに依存する統治は究極の理想形である。万人が聖人であれば恐らくは桃源郷となるであろう。

 だが人間には欲望がある。生物的な観点から言っても欲を棄てることは不可能である。

 よって心の高潔さに依存する統治には限界がある。

 それを破壊し、変革したのが織田信長という存在であり、それを引き継いだのが豊臣秀吉である。


 関白秀吉と島津家の争い、広義的には戦国時代というのは中世から近世に移行する際の価値感の争いでもあった。


 島津家が朝鮮出兵の際に求められた一万五千という兵役に、龍伯は過酷過ぎると強く反発した。

 そして家康にとりなしてもらって一万まで減らしてもらった。

 だがそれでも兵が集まらずに遅陣したことで「ならば実際どれくらい動員できるのか。石高はどれほどなのか」という理屈で丸め込まれ、太閤検地を受け容れざるをえない下地が出来てしまった。



 逆に検地を歓迎したのは義弘だった。

 上洛して武士の気概ではどうしようもできない圧倒的な力量差を目の当たりにした事、また石田治部少輔の恫喝で豊家への忠孝を示すには、或いは島津家の今後の発展のためには、中央政権同様の価値基準の導入が欠かせないと判断した事も大きかった。


 もちろん、朝鮮出兵の際に徴兵に応じない国衆の反応の悪さに辟易したことは想像に難くない。

 ここに島津家は、太閤の介入に反発する旧体制の龍伯と、それを歓迎する新体制の義弘、という対決構図ができつつあった。



 文禄三年(一五九四年)九月十四日

 薩摩、大隅、そして日向の真幸院、庄内と称される都之城周辺の一帯に及んでいた島津家の領地のうち、最大級の稲作地でもあった大口から検地が始まった。


 石田治部少輔、細川幽斎が奉行としてこれを担当し、島津家からも伊集院幸侃や義弘家老の阿多盛淳らが道先案内役としてこれに対応した。


 検地は翌年の文禄四年(一五九五年)二月二十九日までに及ぶことになる。

 その検地の結果は御朱印状で義弘に届いたが、これが知れ渡ると島津家に動揺と怨嗟の声があがった。


 まず大隅国に関白方の蔵入地、つまり直轄地が定められた。

 太閤秀吉に大隅国姶良郡加治木の地、一万石。

 石田治部少輔に大隅国曽於郡の地、六三二八石。

 細川幽斎に大隅国肝付の地、三〇〇五石。


 ここまではある意味では仕方がなかった。

 しかしその後の島津家の領地、及び領主と定められた結果に眉をひそませる。


 龍伯に大隅国、十万石。

 義弘に薩摩国、十万石。

 右馬頭以久に大隅国種子島の地、一万石。

 そして伊集院幸侃に日向国庄内郡、八万石。


 残り、寺社方に三千石。

 給人領、つまり地頭職の領地として二十六万石。


 島津家の領地は合計で五十七万石と決まった。



 島津家の政務拠点は代々薩摩国、鹿児島の地である。

 故にここを治める者が島津家の頭領であるという暗黙の了解が出来上がったし、それは秀吉にも認識されていた。


 だが検地によって薩摩国の領主――つまりは島津家の当主は義弘である、という秀吉の命が正式に下ったことになる。

 龍伯が降伏して以後、御朱印状を主に義弘に送っていたことから義弘を実質的な家督相続者として見ていたが、この太閤検地によって、それが明確になってしまった。


 龍伯は龍伯で、その下知を潔く受け容れ、国分は富隈の地に城館を築いて引っ越した。

 そして龍伯は義弘に一通の書状を送る。



 栗野城。

 顔をしかめながらで茶をすする義弘が居た。

 朝鮮の戦は休戦状態になり、和睦交渉中である。

 また検地の結果を受領するため新納旅庵を朝鮮に残して、一時帰国が許されていた。


「殿、龍伯様より書状が届いております」

「うむ……」


 阿多盛淳から龍伯の書状を受け取った義弘は恐る恐る包を開く。


『検地の結果に従い、鹿児島に移ること』


 短い文章だった。


(兄上は怒っておられるのかな……)


 義弘の脳裏には京での穏やかな顔つきの龍伯ではなく、太守時代の険しい表情の義久が思い起こされていた。


「はあ……」


 自然とため息が出る。

 秀吉の御朱印状が届くようになって以来、義弘はため息を付くことが増えた。


 戦国乱世は親子や兄弟の相克が当たり前の時代である。

 だが島津家は、少なくとも日新斎の一族は決してそのようなことはなかった。

 兄弟と言えどもあくまで太守を盛りたてるべし、という日新斎の教えに従っていたからだった。

 だからこそ、九州の覇者となったのだ。


 だがそれも秀吉という脅威によってかき乱されようとしている。


(もしこれで鹿児島に入ったら、又六郎辺りが嫌味を言うだろうなあ……)


 だがその歳久は既に居ない。


 義弘は討死覚悟で関白軍に抵抗したが、説得されて降伏した。

 当初は渋々従ったが上洛した事で秀吉の脅威を目の当たりにした。

 そして、その強大さを島津家にも求めた。

 太守のため、家を守るため、豊臣氏への忠孝も必要なことだと割りきった。だからこそ秀吉の命にも忠実に従った。

 だが義弘の心が従うべき道理は秀吉ではなく、日新斎の教えだった。


「鹿児島には入らん。帖佐に移る」

「は、はあ……」


 この年、義弘は帖佐の地に城館を築いて政務にあたることになった。

 また鹿児島には又八郎忠恒が代わりに入れさせた。


 これ以後、島津家の統治は富隈の龍伯、帖佐の義弘、鹿児島の忠恒という、三殿体制に移行し、ますます混迷の度合いを深めていくことになる。

 戦国時代当時、薩隅向の人口は二十万人程度と推測しています。

 故に二万人、三万人の動員がどの程度酷なものか理解いただけると思います。

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