第六十五話 金吾の大計
『祁答院歳久入道の事であるが、以前殿下が薩摩に下向した折、龍伯、義弘は門の外に出て落ち葉に面したにも関わらず、歳久は病と偽って出頭しなかった。
またなおも祁答院の地を離れて道案内をすると言い、険しい山道に誘い込んだ。
そればかりか、駕籠に山賊の徒をけしかけたことは何日経とうとも忘れたことはない。
さらにはその後も病と偽って上洛しなかった。
また朝鮮の軍務に行くこともしていない。
さらに梅北が逆意を企てた所に歳久の家臣が多くいるという旨を聞いた。
ここに至って憤疑の数々罪と言わずとして何を罪と言うのか。赦されることではない』
幽斎が読み上げた御朱印状に、龍伯は青ざめた。
(なんということだ……)
ちらりと横目で幽斎を見ると、厳しい表情で黙り込んでいた。
(歳久の首を、兄の俺が刎ねろと言うのか……!)
またこれに対してどう対応するべきか家臣団で詮議された。
一度は歳久にそのようなことができるはずがないので、その命には従えないという結論になりかけた。
だが、もしこれに従わなければ御家の滅亡もありえる、という話になった。
そこで一度歳久を鹿児島に招いて弁明の機会を与えよう、という事になった。
しかし龍伯の心の内は既に決まりかけていた。
「龍伯殿……」
「……」
「歳久殿について、申し開きなどはございますか」
「……」
申し開きすべきことはある。確かにある。
(歳久は既に身動きできないと言っていた。それは間違いないだろう。故に奉公しようがない)
更に言うと、梅北国兼の一揆に歳久の家臣が参加しているというのもおかしい話だった。
たかだが地頭の一人に過ぎない梅北国兼の短絡的な行動に、島津一族の直臣精鋭がその配下に付くはずがない。
龍伯には歳久の家臣が梅北国兼の自滅的な反発に参加するなぞ絶対にありえない、という確信があった。
もし参加しているとすれば偶発的に巻き込まれたくらいしか考えられない。
(だが……)
龍伯は、義弘とした京での内密の話を思い出していた。
――京の屋敷にて。
「どうやら、あやつは何かを企んでいるようです」
「!! ……謀反か?」
「いえ、虎居に兵を入れている様子はございませぬ」
「では何を……」
(又六郎が本当に関わっていたのか?)
不安がよぎった。
もしここで必要以上に庇って、本当に関わっていたとしたら――。
梅北国兼の一揆は島津家が主導となって進めていた、ということにもなりかねない。
すんでの所で取り付けた「御家にお咎め無し」の処置が覆ってしまう。
(又六郎をこれ以上庇えない……)
龍伯は覚悟を決めた。
「申し開きは……ございませぬ」
「では、切腹を命じるということで宜しいな」
「……」
黙って頷くしかなかった。
天正二十年(一五九二年)七月十七日
龍伯の出頭要請に応じて、歳久が内城に姿を現した。
しかしその姿を見て、龍伯も細川幽斎も凍りついた。
龍伯よりも四歳下にも関わらず頭はほぼ白髪であった。
目はくぼみ、頬は痩け、やつれきっている。
そればかりか、聞いていた通りまともに動けなかった。
両脇を家臣に支えられて引きづられるようにして前に進み出た。
さらにはまともに座することもできずに左半身を放り出している。
「真に……このような醜態をお見せするのは恥ずかしい限りです」
ぎこちなく頭をさげるその所作、額に浮かぶ脂汗。
痛みを我慢しているのか、眉間の皺がより険しい。
(この身なりで謀反なぞ、ありえん)
細川幽斎は確信した。これは関白の言いがかりだ、と。
「お久しゅうございましたな、兄上……」
左半身は全く動かないばかりか、右手も小刻みに震えていた。
「そう……だな……」
龍伯は呆然としすぎていて、それだけ言うのが精一杯だった。
「この度、関白様の御勘気被ったとは如何様なことでございましょうか」
「……」
龍伯は躊躇した。
手元にある御朱印状を見せた瞬間に、全てが決まってしまう。
死ね、と。
腹を切って死ね、と言わなければいけない。
父も母も全く同じ。まさに血肉を分けた実の弟に対して。
龍伯は目を伏せて御朱印状を睨みつけた。
(なんとか、なんとかやり過ごせないか)
龍伯は必死に考えを巡らす。
しかしそれが出来たらとうの昔にやっていた。
御朱印状が届いてから既に七日経っている。
早急に処置せねば、関白の怒りの矛先が島津家に向いてしまう。
逡巡する龍伯に、横から口を出したのは細川幽斎だった。
「関白様からのお達しはそちらにございます。拝読くだされ」
「畏まりました」
そう言うと歳久の家臣が滑りよって龍伯の前にあった御朱印状を歳久に渡す。
歳久も御朱印状を頭上に掲げて一礼した後、広げて畳に置いた。
(ああ……。又六郎よ、その御朱印状は読むな。読んでくれるな……)
龍伯の目には自然と涙があふれていた。
またそれを見守っていた家老衆からもすすり泣く声が漏れ始めていた。
「……」
龍伯は伏せたまま、歳久の表情を見ることができなかった。
切腹を命じるのだ、と心の中で何度も自分に言い聞かせた。
「これは……困りましたなあ」
予想以上に静かで穏やかな声だった。
「ここまでお怒りとは……」
歳久ののんびりとした声に、龍伯は睨みつけるように顔を上げる。
(何を呑気なことを……!)
龍伯は涙で濁る目で睨みつける。
しかしそこには若いままの溌剌とした歳久がいた。
「!?」
「それでよいのです。兄上」
歳久が穏やかな笑みのまま喋った気がした。
(どういうことだ!?)
「これも、拙者の計略です」
「!?」
自信あり気に、まるで人を食ったような笑みを浮かべる歳久がいた。
龍伯は袖で頬を拭き、もう一度歳久を見る。
そこには先程から座っている、今にも死に斃れそうな歳久がいた。
(幻……?)
歳久と龍伯はじっとお互い見つめたまま、ゆっくりと時が流れるような気がした。
「兄上、この通り動かせぬ体にて大した奉公もできませなんだ」
「……!」
龍伯はビクリと体を震わした。
(待て、それ以上言うな。何も言うな……!)
しかし最後まで歳久の声は穏やかだった。
「最後にご挨拶できたのは何よりだったと存じます」
そう言って一礼した。
(ああ……)
龍伯から止めどもなく涙が溢れだした。
そして歳久は体を幽斎の方にもわずかに向けた。
「細川幽斎様にはお初にお目にかかります。この度、当家の者がご迷惑をお掛けしてお詫び致します」
「……うむ」
「では……」
歳久は再び一礼して、後ろに控えた家臣に目配せすると、また両脇を抱えられて退出していく。
その様子を龍伯はただひたすら見守るしかなかった。
(行ってしまう、又六郎が行ってしまう……)
龍伯は歳久の肩を掴んで引き止めるかのように、一瞬手を伸ばしかけた。
だがその横には秀吉の耳目となって監視している幽斎がいる。
その手前、不用意なことは出来なかった。
拳を震わせ、姿が見えなくなるまで見つめるしかなかった。
歳久の切腹は決まったが、龍伯は切腹の日にちを決めることができないでいた。
(なんとか歳久の潔白を証明できるものはないか)
龍伯は一縷の望みを託して山くぐり衆を放ち、弁明の機会を探った。
しかしその日の夜。
歳久は一通の書き置きを残して姿を消した。
『病により悩まされてきましたが、最後は切腹できること、本望にございます。
宜しく太守様にお申しください。
晴蓑めが 玉のありかを 人問わば
いざ白雲の 上と答ゑん
七月十七日 左衛門督入道晴蓑
白濱次郎左衛門尉へ
比志島紀伊守へ』
龍伯は歳久がどこか知らない場所に消え失せて腹を切るようなことはしない、と確信していた。
しかし、事態は思っていた以上に深刻だった。
「龍伯殿、もしここで見失えば……」
「分かっております……」
事の成り行きを監視し、心配する幽斎の手前、急いで捜索隊を手配した。
鹿児島から吉野、吉田へ繋がる道、帖佐に抜ける白銀坂、さらには南の谷山の道を完全に封鎖するように命じた。
そして――。
「……町田、伊集院、追ってくれるか」
「畏まりました……」
陸路を町田久倍入道存松、海路を伊集院久治入道抱節の家老衆が歳久の行方を追った。
そしてすぐに多賀山の麓で見かけた、という情報が入った。
龍伯はまた涙をこらえて呟く。
「一体何処に行こうというのだ又六郎……」
(宮之城と言わず、せめて吉田で腹を切りたかったのだが……)
歳久は当初、鹿児島から吉野、もしくは坂元を通って吉田を通り、蒲生、宮之城に逃れ、そこで切腹するつもりだった。
だが手の者に行く先を探らせた所、既に厳しい警護が敷かれ打ち過ぎることは難しいと言う。
そこで海路で帖佐に行き、そこから宮之城へ向かうつもりだった。
だがそれすらも難しそうなのでせめて吉田へ、とも考えた。
供回り二十八名に連れられて、小さな手漕ぎ船で鹿児島湾に出たが、すぐに追手に囚われた。
「金吾様! どうか、どうか留まりくださいませ。どうか、どうか……」
伊集院久治は涙ながらに声掛けし、歳久の進路を阻む。
歳久は動かない体で輿に乗せられていたが、ゼイゼイと息が荒かった。
(さすが精強なる島津軍、一度動くと素早い)
こんな時にも武士の性分がうずいて分析する己に思わず苦笑いを浮かべ、押し付けられるように海岸に舟を付け、上陸した。
家臣に両脇を抱えられ、海岸線沿いの狭い道に打ち捨てられた岩に腰掛ける。
ふと見渡せば海沿いには島津十字紋を掲げた伊集院久治の舟が涙を飲んで様子を伺っている。
南に向けば町田久倍の僅かな兵が攻撃をしかけるまでもなく、見守っている。
吉田は歳久が二十年近く過ごした、第二の故郷とも言える場所だった。
吉田もまた他の薩摩の地と同じように貧しい所である。
小さな川の両側にわずかに広がる稲作地に、農民たちは汗を流して田畑を耕した。
吉田の領民は歳久を「島津の殿様」と呼んで慕ってくれた。
在城の折、太守の所に出仕するからと言って出かけると、決まって行列を送り出す舞を踊ってくれた。
賑やかな囃子と太鼓。「また戻って来てください」そう唄って送り出すのだ。
貧しくて何もない所だが、こんな場所でもいいなら、戻ってきて欲しい。
領民たちの温かい願いでもあった。
しかし歳久にはその心遣いが嬉しかった。
少々年増だったが、愛する妻と出会ったのも、その吉田だった。
「そこだけは無念だな」
歳久は唇を噛み締めて、ふと見上げる。
雄大な桜島が海上に浮かんでいる。珍しく噴煙が上がっていなかった。
「間近で見ると、やはり見事なものだ」
そして頭を左に向ける。
遠く、霧島の剣峰が見えた。
「これはいい。ここにしよう」
良く晴れた夏の青空だった。
追手と睨み合う家臣に声をかけて、切腹の場と定めた。
「ではせめて、腹を召されるまでのお時間を稼ぎます」
「すまんな」
そこは竜ケ水という地名だった。
夏の大雨が降り続くと竜のごとき水が流れ落ちる場所で、鹿児島と帖佐を繋ぐ難所だった。
時間を稼ぐ、と言っても同じ島津の十字紋を背負う者同士である。
また鎧装束とは言え、槍や鉄砲など武器の数も少なかった。
まともに戦うつもりはなく、無謀に挑みかかって何人かが討死した。
また何人かは武器も持たず、両手を拡げ、涙を流して
「どうか、どうか幾ばくかお時間をいただけないか」
と言って、町田の兵を押しとどめようとするだけだった。
「さて……」
歳久は懐から短刀を取り出すと、抜き払って腹に当てた。
左半身は動かず、右手も震えて力が入らない。
左手を短刀の柄に添えて固定すると、右手に持った岩をあてがい、一気に腹に押し込んだ。
「ぐぅ……」
やはり力が足りず、わずかしか食い込まなかった。
しかしそれでも十分に痛かった。
だが、そのままでは苦痛が続くばかりで死ぬことができない。
「誰かある! はやく近づき来たりて首を取れ!」
歳久は遠く見守る町田の兵に声をかけた。
だが太守の骨肉同胞とも言える人を手にかけることなぞ出来ようもない。
息を呑んで戸惑い、躊躇している所に、原田基次という軽輩者がつと走り寄った。
歳久はそれを見て「よう参った」と声をかける。
「しかしこれは痛いな。女子の産みの苦しみとはこのようなものであろうか」
原田基次はがくがくと震える手を抑えて、太刀を抜いて歳久を見下ろす。
「余は……死して女子の出産の痛みを全て引き受けるとしよう、兄上にもそう宜しく伝えてくれ」
「……畏まりました」
しかし痛みのあまり気を失いかけて、思わずうなだれた所で、原田基次の刀が振り下ろされた。
その様子を見守っていた歳久の家臣、町田の兵、船上の伊集院の兵が一斉に槍、刀を取り落とす。
「うわああああああああああああああああああああああ!!」
慟哭。――絶叫、悲鳴。
「金吾さまああああああああああああああああああ!!!」
鬼神を欺く剛卒も、木にうなだれ、岩陰に倒れ伏し、声を上げて泣いた。
鹿児島湾のさざ波もそれをかき消すことができなかった。
島津左衛門督歳久入道晴蓑。太守次弟。
天正二十年(一五九二年)七月十八日没。享年五十六。
戒名
心岳良空大禅伯
義弘や家久ほど派手な活躍はなかった。
しかし副将、参謀として常に太守を陰で支える姿は武士の美徳と言われ、誰もが憧れた。
最期まで同行していた歳久の家臣二十七名はその場で全て討死、或いは追い腹を切って果てた。
その殉死者の名前は一通の書状に記されて竹に挟まれ、残されていた。
殉死者二十七名は、島津家累代に於いて例がない。
島津歳久とはどういう人だったかと問われた時、「二十七名もの殉死者を出した方である」とだけ答えれば十分だろう。
歳久の遺骸を改めると鎧の背中部分に一通の書が縫い付けられていた。
宛先は「近習中」となっていたが、龍伯宛であるのは疑いようのないことだった。
そこには、病で手足が動かない事、殿下の奉公も敵わない事、太守の慈恩に感謝する事、殿下に歯向かう意思がない事、しかしそれでも腹を切るが、御家累代の罪を一身に引き受ける事、君臣武勇の本文である事、など歳久らしい言葉が並んでいた。
龍伯のことを最期まで「太守」と呼んでいたことが、更に胸を締め付けた。
「これで……満足ですか」
歳久の辞世の句、殉死者の名前を記した名簿、そして歳久の遺書を幽斎の足元に叩きつけ、龍伯はただ涙を流すしかなかった。
「……太閤殿下も納得されると存じます」
幽斎は合掌し、その書状を懐に入れた。
しかしまだこの騒動はまだ終わらない。
歳久自害の報せを受けた宮之城虎居城の夫人らが唯一の嫡流である孫の袈裟菊を擁して門を閉め、立てこもった。
同年七月二十日
家老比志島国貞を使いに出して下城を求めたが話を聞くことはなかった。
その後も龍伯は母子、及び家来の安堵を約束する起請文を提出し、さらには袈裟菊が成人の暁には跡目を継がせることを約束した。
また細川幽斎も秀吉が要求したのは歳久の御首だけで、他は一切求めない、という起請文を起こした。
それでもなお信用出来ないとして頑なになり、新納武蔵守忠元らの必死の説得が続けられた。
そしてようやく下城したのは八月十一日のことだった。
細川幽斎は名護屋に戻ったが、そこに秀吉はいなかった。
秀吉の母、大政所が大阪の地で死去したからだった。
同年八月十九日。
幽斎は大阪で一連の騒動が決着したことを秀吉に報告した。
なお、歳久の辞世の句は幽斎に添削されて報告された。
晴蓑めが 玉の有りかを 人問わば
いさ白雲の 末もしられす
「以上になります」
「……」
秀吉が伊集院幸侃より聞いた歳久評は「深慮遠謀に長けた、食えぬ人」だった。
それ故に梅北国兼の一揆を計画したのは歳久だ、と断定した。
だが細川幽斎の報告はそれを否定するものだった。
(これではまるで――)
秀吉は苦虫を噛み潰すような顔で中空を睨みつける。
そして秀吉の顔色を伺う幽斎に視線を移す。
「気分が悪い」
それだけ言って奥に引っ込んだ。
歳久の首は京まで運ばれ、一条戻橋に「天下の大悪逆人」という立て札と共に晒された。
だがその日の内に何者かに盗み出されて、首は行方知れずになった。
またその報告を聞いた秀吉もそれ以上追求しなかった。
なお、歳久の首を盗みだしたのは人質として上洛していた忠長が手配した僧で、首は京の浄福寺に埋葬されたという。
歳久が自害した場所には歳久と二十七の小さな墓が建てられた。
天下の反逆人と扱われたため、家を挙げて大々的に葬式をあげる事もできなかった。
だが、歳久今際の時は島津家ばかりか他の家にまで伝わっていった。
すると歳久の墓には島津家領ばかりか領外からも参拝客が訪れるようになる。
最期まで天下に弓を引き続けた不屈の烈士という評判に、多くの軍属にある者がその武功にあやかろうと参拝するようになった。
また今際の時の話が伝わると、妊婦も参詣するようになった。
出産前に境内の石を拾い上げて持ち帰り、無事出産できたら石を戻して積み上げる、という安産祈願が流行するようになる。
竜ケ水の地に建てられた小さな墓は、お香が絶えることがなかったと言う。
梅北国兼一揆から歳久自害、宮之城虎居城退去までの一連の騒動がようやく決着を迎えた夜。
龍伯は久しぶりに晩酌をした。
それもいつものような焼酎が一割の、ほぼ水のような飲み方ではなく、歳久が好んだ度数のきつい焼酎の飲み方だった。
「……! ゲホッ、ケホッ」
盃を傾けた瞬間に、胸の中をカッと熱いものが駆け広がり、思わずむせた。
(あやつ、こんなものを飲んでいたのか)
険しい顔つきで呆れ、盃を見る。
まん丸に近づく月の姿に目を細めてまた盃を呷る。
そして、むせた。
住みなれし 跡の軒端を 訪ね来て
滴ならねと 濡るる袖かな
龍伯が詠んだ歳久を追悼する句である。
酔いが回ったところでそろそろ寝ようかと思った頃、コツリ、という音を聞いた。
ふと見ると縁側の下に紙くずが投げ込まれている事に気づいた。
(投げ文か?)
龍伯は怪訝そうにそれを拾い上げ、広げ読む。
目をむいて一瞬にして酔いが醒めた。
震える手を抑えて書いたのだろう。
それは間違いなく――
(又六郎の字だ……!)
龍伯は急速に高鳴る胸を抑えこんだ。
これを見られていなかったか、周りを見渡して警戒する。
その投げ文は生前に記したものに違いなかった。
全てが決着したのを見届けてから投げ入れるように腹心の者に託したのか。
龍伯はもう一度だけ短い文に目を落とす。
『太守とのヽ 虫気の因 幸侃にあると覚えし』




