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戦国島津史伝  作者: 貴塚木ノ実
平和の痕
61/82

第六十話  変化

「なに!?」


 上洛の準備をしていた龍伯は、その報せに筆を落として使者を睨みつけた。


「それは真か!」


 飯野城の義弘は、沙汰あって部屋を移る準備をしていた所で、抱えていた太刀を落とした。


「……!!」


 虎居城の歳久は、食事をしようと夫人に助けてもらい身を起こした所で報せを受けて、絶句した。


「家久が……死んだ!?」



 さざなみのように三州に広がっていく家久急死の報せは兄弟のみならず、将、領民全て、一様に驚きをもって迎えられた。

 まず最初は死去の報せが届いただけだったので、死因も不明で、どこで死んだのかも分からなかった。


 佐土原城の本丸館から転落したとか、在陣していた羽柴秀長に打ち掛かろうとして返り討ちに遭ったとか、食事中に毒があたったとか、次々と届く情報や街中に広がる噂は実に様々だった。


 しかし根も葉もない噂を棄てて整理していくと、以下の様な状況であった。


 秀吉が去り、その弟の秀長も日向より去ることになった。

 家久は、滞在していた野尻の陣に見送りのために訪れた。

 家久は簡単な酒宴を開いてもてなした後、佐土原城に帰城した。

 そこで昏倒して泡を吹き、そのまま息を引き取ったという。


「……一体何があったというのだ……」


 これには島津家も、秀長も困惑した。

 死に様から言って、毒殺の疑いが懸けられてもおかしくなかったからだ。


 謎が謎を呼び「家久公は秀長に毒殺されたのだ」という話が次第に大きくなっていく。

 だが、家久を毒殺する理由がない。むしろここで死なれたら大いに困る。


 もし本当に家久を毒殺したとして、理由なく殺したとあれば当然ながら島津家は大反発するだろう。

 二十万もの大軍を動員してようやく和睦までこぎ着けたのに、今度は三州の将兵総討死の覚悟で武装蜂起することは明らかだった。

 そしてその鎮圧に手間取れば、押さえつけていた各地の大名すらも反抗しかねない危うさがある。


 秀長はそういった反発を恐れて家久が死去した五日後、六月十五日にはお悔やみの書状を送り届けた。

 また秀吉も家久の嫡男、豊久に家督を継ぐように指示して、佐土原の安堵を申し渡して事態の収束を図った。


 これで一応家久死去に伴う混乱は収まるかのように見えたが、今度は毒殺したのは太守公、或いは家臣の誰かではないか、という噂が立ち始めた。


 九州征伐の際に幸侃に次いで太守の許可無く、秀長と和睦したからだ。

 確かに龍伯は和睦を咎める書状を送りつけたが、それ以上のことをする必要はない。

 もしそうだとしたら幸侃にこそ、太守の怒りの矛先が向くべきだ。

 それ故、龍伯暗殺説、或いは内部暗殺説を耳にした龍伯、そして義弘、歳久らも


「そのような馬鹿な話があるか!!」


 と激昂した。

 そしてその噂を口にした者は太守に対する叛逆の意思あり、忠孝に欠ける姿勢である、と言い放ち問答無用で打ち首獄門に処することを言い渡した。


 また同時に家久は昨年正月に疱瘡を患って以来、体調不良が続いていたこと。

 秀長陣中見舞いの際も長い陣の疲れが抜けておらず、かなり無理をしているように見えたこと、など身内からも証言されるに至って、以下のような結論にひとまず落ち着いた。


 家久は昨年疱瘡を患い、以来体調を崩しがちだった。

 野尻陣見舞いの際も体調を崩していた。

 佐土原城に戻った直後に亡くなった原因は食中毒にあたっただけの、ただの偶然。

 謀略はない――。


 こうして家久の死の謎は収束に向かっていったが、しかし陰謀論を好む者が居なくなるわけでもなく。

 やはりあれは関白方に謀殺されたのでは、とまことしやかに噂されることになる。

 なお、その謀殺説を頑なに信じて疑わなかったのは何を隠そう新納武蔵守忠元入道拙斎、その人である。



 島津中務大輔家久。太守末弟。

 天正十五年(一五八七年)六月五日没。享年四十一。


 戒名

 長策梅天大禅定門


 四兄弟の末弟として戦国の世を駆け抜けた、太く短い人生だった。

 その人柄は串木野、後に佐土原に在って多くの者に慕われ、その死を惜しむ声が絶えなかった。




 また龍伯が降伏した後、多くの変化があった。

 先ず一つが多くの者が人質として秀吉がいる大阪に上洛したことだった。

 龍伯最愛の娘、亀寿の他には、島津家の次期後継者である又一郎久保、北郷時久嫡男忠虎、等。


 次に領地替えである。

 薩摩一国の安堵を約束された通り、手付かずとなった。

 また真っ先に降伏した忠棟による懸命の説得工作により、大隅国も安堵となった。

 しかし日向、肥後には秀吉の勅命によって全て替えられてしまった。


 特に日向国は真幸院が義弘の嫡男久保の領地として認められて残ったものの、その他の領地は島津家の手を離れた。

 まず懸、宮崎には高橋氏が入った。

 高鍋、串間福島には秋月氏、そして清武、曽井、飫肥にはなんと伊東祐兵が入った。

 これは秀吉の九州征伐の折、先導役を務めた功があってのことらしい。

 ただし飫肥城主の上原尚近を始め、多くの者が城の明け渡しを強く拒み、入城予定だった将らを困らせた。

 島津家のここに至るまでの辛労を考えれば安々と譲れなかったのである。

 龍伯の説得で飫肥城を退去し伊東祐兵が入るのはそれから一年後のことであった。


 そして肥後に入ったのは秀吉を露骨に敵対視していた佐々陸奥守成政である。

 佐々成政は元は柴田修理亮勝家の旗下に入っていた。

 秀吉を織田家乗っ取りを謀る悪逆の徒と見なすと激しく反発して争った。

 また秀吉と和睦を図る徳川家康に戦の継続を訴えるために、極寒の立山連峰を超える「さらさら超え」を果たすなど、その執念たるや凄まじいものだった。

 だが天下統一を進める秀吉に抵抗するも、虚しく敗北して秀吉の御伽衆に組み込まれてしまう。

 しかし九州征伐で功を上げて肥後一国の国主になった。


 成政が肥後の国主の座についた理由はただ一つ。

 秀吉は島津家を、龍伯を信用していなかった。

 小録に甘んじてなお忠節を尽くし、強固な絆で結ばれた島津家臣団はいつ何時、何がきっかけで反発するか分からない、と見ていた。

 それ故、武勇に優れる佐々成政を肥後国主に据えて「島津に気をつけろ」とよくよく言いつけて送り込んだのだった。

 しかしこれが後に暗い影を落とすことになる。


 これまで多くの苦労の末に勝ち取った領地を失う、まさに島津家にとって屈辱の領地替えであったが、これに刃向かうなど許されることはなかった。


 ――そして。


 最も大きな変化は、それら秀吉のお達し、つまり御朱印状が、島津家当主の龍伯ではなく弟の義弘に届けられることだった。


「これは……。これは一体どういうことだろうな?」

「さあ……関白様にも何か考えがあるのでしょうか」


 義弘は戸惑いを隠さずに秀吉からの御朱印状を見る。

 宰相もその書状を見て、首をひねる。


 ひとまず義弘はそれを「返答はこちらで書くが、どのように対応するかは兄上に一任」として兄の元に送った。

 しかしその後も御朱印状が義弘だけに届くにあたり、その意図がなんとなく分かってきた。


「これは……兄上を無視しようというのか?」


 戦となれば相手の考えていることを手に取るように察し、天賦の才で翻弄する猛将も、ことまつりごとになると根が単純な性格なせいで、腹の探り合いを苦手とした。

 だが、さすがにこの意図は理解した。


「これではまるで……」


 その先に続く言葉をはばかり、義弘は困惑した表情で口をつぐむ。


(これではまるで又四郎が当主だ、と言わんばかりだな)


 龍伯は秀吉から頑然と突きつけられる扱いの差に、ただひたすら耐えるしかなかった。



 家久の死を存分に弔うこともできず、龍伯は六月十五日には上洛のため鹿児島出立した。そして七月十日には堺に到着する。当面の宿は京の金蓮寺をあてがわれた。

 金蓮寺は二条御所の北西、金閣寺や大徳寺の近くにあった。


 そして訪れた大阪城に龍伯は愕然とする。

 元は一向宗徒が篭もる石山本願寺という寺があったようだが、先年に織田信長が十年に及ぶ合戦の末に勝利して接収。死後に天下統一事業を引き継いだ秀吉がここに城を築いた。


 上原台地と呼ばれる台地上の北端に築かれた巨大な城は、その土台は総石垣造り。

 天守閣は外見から六階建てのようにも見えた。その壁は黒漆喰で塗り固められ漆の匂いがまだ残っている。

 また所々金箔の装飾を施されていて、よく見れば様々な意匠が彫り込まれていた。

 見れば瓦にも金箔と羽柴の家紋が彫り込まれている。


 もちろん天守閣ばかりではなく、四方の端や曲輪など、要所に三、四階建ての城郭を備えている。

 聞けばなおもまだ未完成で、城の範囲を更に広げて、「惣構え」の作りになるらしい。


(この城を攻めるとすれば……)


 龍伯はその城構えに圧倒されながらも冷徹にそれを見つめる。


 北と東西の三方は大河、淀川に囲まれ、大量の土砂が流れ込んでいる。

 湿地状になったそこは足場は悪く、進軍するのは無謀と言えた。

 結局南側から攻め立てるしかないが、緩やかそうに見える坂は所々急な坂道になっており下から攻め上がるには相当な労力が必要と見た。

 唯一南東から攻め上がれそうにも見えたが、それでもどれだけの兵力を必要として、どのような兵法を用いればいいか見当も付かなかった。


 もちろん城ばかりではない。

 往来には人が溢れ、京に匹敵するほどである。

 近くで採れた魚を売る店、育てた野菜を売る農家。家具を作り、売る店。

 堺ばかりか近隣の街から商人が押し寄せて儲けを求めて目をギラつかせている。

 そしてそれを警護する兵。


 贅を尽くした城、活気あふれる町並みを見て、龍伯は思う。


(最初から勝てるわけがなかった……)


 もっと早く降伏していれば、犠牲はより少なく済んでいたのかも知れない。

 そう思うと、龍伯はまた身を引き裂かれそうな想いに包まれるのだった。



 また秀吉は大阪城とは別に京の二条御所にほど近い場所に聚楽第と呼ばれる平城をこしらえていた。

 ここは秀吉が在住する政庁とも言える場所らしく、規模こそ大阪城とは比べるまでもないが、これも金箔を張った瓦など、目もくらむような豪華絢爛な造りだった。


 龍伯が秀吉に呼び出されて聚楽第を訪れたのは九月二日のことである。

 完成したばかりだというが、館の作りはいずれも見事なものだった。


「おう、島津殿! 遠い処からよう来たでよ! 久しぶりだらあ!」


 泰平寺の時のように、人の良さそうな笑みを浮かべて出迎えた。


「武蔵殿もようよう参ったでよ!」


 忠元もまたこれに付き従っていた。

 別の間には同行してきた諸将も控えている。


「関白様にあらせられては、ご機嫌麗しく」


 拝礼にまだぎこちなさが残る龍伯に秀吉は目を細めて笑みを絶やさない。


「そう堅苦しくならんでもええがな」

「……」


 堅い表情の龍伯は上京してから改めて関白と島津家の差を思い知っていた。

 大阪城のことはもちろん、京における秀吉の影響、特に本姓については、龍伯にとって衝撃だった。


 羽柴秀吉は当初本姓を主君の織田信長に準じて平氏と名乗っていたが、関白叙任の折、藤原姓に改め、さらに朝廷より豊姓を賜って改めていた。

 豊姓の由来はよく分からなかったが、平安以来の源平藤橘の公卿に次ぐ新たな姓であるらしい。

 秀吉は豊姓をいただく朝廷の臣から転じて、本姓を豊臣と名乗り、通称を羽柴秀吉と呼ぶらしかった。


(よもや関白がここまで朝廷に入り込んでいるとは……)


 同じく朝廷に連なる者として、鎌倉以来の家という誇りが脆くも崩れ去りそうな気がしていた。

 同時に如何に出自が低かろうとも、金さえ積めばどうにでもなる公卿連中の節操の無さに、大きく気落ちした。

 その龍伯にさらに追い打ちをかける。


「まあようよう、ゆるりとするとええ。薩摩のことは弟にでも任せとけばええがね」

「……!」


 はっきりと断言された。

 龍伯はもはや島津家の当主ではない。その家督を義弘に譲れ、と言われたも同然だった。


 これは島津家十七代義弘が誕生した瞬間でもある。


 しかし一方では義弘はそれを強く拒んだ。

 決して自らを島津家十七代とは自覚せず、あくまで太守は龍伯である、とした。

 後に義弘も断言する。『予、辱くも義久公の舎弟となりて』と。

 だが、また一方では関白からは当主扱いされるため、島津家中は混乱することになる。

 表向きの政務執行は義弘が勤め、その裏では龍伯の顔色を伺う、奇妙な統治体制に移行することになった。


 だが歴然たる事実として、義弘が島津家を代表する者、つまり家督を相続したものである、と周囲が見なしたことは確かだった。


「十月には茶会をやるでよ」


 深刻そうな表情を見せる龍伯を余所に、秀吉は笑顔を見せる。


「島津殿も和歌やら風雅を心得ていると聞いておるがね、まあ楽しみにしん」

「はっ……」


 そう言って笑う秀吉に対して、龍伯はなお深刻な表情で畏まるしかなかった。



 京の北野天満宮で北野大茶会きたのだいさのえと称される大規模な茶会が催されたのは十月二日のことだった。これは七月末から予告されていたもので十日間にも及ぶものであったらしい。

 ここに龍伯も招かれた。


 秀吉は何よりも相手を喜ぶ姿を見ることを至上の喜びとした。

 それは天下人となって強権を手に入れたことでより強まっていく。


 それ故に気を削がれることを強く嫌ったし、心を尽くしたにも関わらず楽しまない者には機嫌を損ねた。


 この北野大茶会では不幸なことがいくつかあった。


 一つは肥後国の国主として赴任した佐々成政の騒動である。

 成政は肥後の掌握に焦るあまり国人衆の反発を招いて武装蜂起されるに至った。


 後の世に肥後国人一揆と称されるこの騒動は七月に起こり、なおも収まる気配を見せなかった。

 佐々成政から関白の元に救援要請が届いたのは茶会の直前のことである。


 その知らせに秀吉は大いに激昂して九州の諸将にこれの鎮圧を命じる。

 九州一円の大名はもちろん、義弘、忠棟らにも鎮圧命令が下った。


 そしてもう一つ。

 午前中のうちに呼ばれた龍伯は茶頭を務める秀吉の元を訪れた。


「おう、島津殿。どうかね、楽しんでおるかや」

「はっ……実に見事な茶会にございます。数奇の数々に目を驚かしております。真にこれは関白様にしか成し得ぬ当世一流の饗し。拙身に余りある事ばかりで感じ入っております」

「だがね、だがね」


 お世辞でも何でもなく、龍伯の正直な感想だった。

 こんなことは薩摩はもちろん、九州、他どの大名にもできるはずがない。

 秀吉も龍伯の言葉に満足そうに茶を点てて振る舞う。


「結構な御点前にございます」

「ゆるりとしていくとええがね」


 一通り茶湯の作法を披露した龍伯は、次の客に押し出されるように元の席に戻る。

 その龍伯の背中に内心舌打ちする秀吉がいた。


 それは龍伯に沈鬱な表情が抜けていなかったからだった。

 肥後が一揆で騒がしいこと、国元に残した弟らを放って呑気に茶会に顔をだし、関白の機嫌を損ねないように振る舞う我が身の情けなさに忸怩じくじたる思いが募っていた。

 また秀吉も龍伯の言葉とは裏腹な表情に、内心機嫌を損ねた。


 十日間の予定だった大茶会がわずか一日で終えたのは、何も龍伯のせいではないだろう。


 中止となった理由一つに七月末から告知していたにも関わらず秀吉が思っていた程の人数が集まらなかったとも言われる。

 天下の大号令が届かぬ者がいるとあっては天下人の沽券に関わると思ったようだ。


 現実として九州は平定したものの、関東の北条は表向き従う素振りをしながら上洛していなかったし、東北の伊達政宗は天下を狙わんばかりの勢いで領土の拡大を図って戦に明け暮れている。


 肥後国人一揆が鎮圧されたのはこの年の十二月だった。

 さらに佐々成政がその責任を問われて切腹するのは翌年の閏五月のことである。

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