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戦国島津史伝  作者: 貴塚木ノ実
九州平定
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第五十八話  決断の時

「戦に兵の数は関係ない」


 それは日新斎、貴久、そして四兄弟が多くの戦を経てたどり着いた答えである。

 それは確かに正しい。

 圧倒的な兵力差があっても地の利を活かし、策を張り巡らせ、武勇英略を尽くし、兵法を駆使すればその差は覆すことができる。

 それは三州平定、九州平定の戦で証明してきた。


 しかし義珍、家久ら島津軍が体験した根白坂の戦いは、それまでの戦を全て否定するものだった。



 前日、高城を超えて根白坂に陣取った関白の軍勢を襲撃するため、家久と義珍は夜の内に都於郡城を発った。

 そして根白坂の山林から兵を忍び込ませようとした。


 十六夜の下、時折雲で月灯りがなくなる隙を狙って兵を動かしたが、断念した。

 夜だというのに見張りの兵の数が圧倒的に違う。


 数ばかりでなく、絶え間がない。

 半刻ごとに休憩が入る関白軍の兵は疲れも知らず街道、山林に目を光らせて策を巡らすことを防いだ。


 また戦が始まっても慎重だった。

 伏兵がいるという前提で、身を隠すことができる山林、背高の葦原に向かって矢玉を放ってから進軍するのである。

 これでは伏せ兵など無意味だった。

 貴重な矢弾は十万の軍勢であっても尽きることを知らない、圧倒的な物量を示すものだった。


 さらには決して根白坂から動こうとしない。

 一夜にして空堀をこしらえ、木柵で囲み、ただひたすらに守りを固めて攻めかかる島津軍に矢弾を放つのだった。



 ただ、合戦に及んで槍を合わせれば島津軍は強かった。


 伍組と称した五人一組の足軽兵は逃げることを許さず、ただ前へ前へ突き進み、関白軍の先陣大将、宮部継潤の部隊を幾度も突き崩した。

 しかし突き崩す度に後詰めが寄せて押し返される。

 それの繰り返しだった。


 また、高城に入って山田有信は決して降りず、しかし隙間なく包囲されて打ち出ることも敵わず、根白坂に押し寄せる関白軍の背中を見送るしかなかった。


 十万対二万。圧倒的な兵力差、そして物量差。

 それが根白坂における天下人と西南の果ての大名との戦の実情である。



 天正十五年四月十七日、都於郡城。

 義久は逡巡している。

 次々と届く悪い報せは、既に敗北を意味する事は明らかだった。


 歳久の嫡養子、島津三郎次郎忠隣は討死した。

 関白軍を前に鋒矢の陣で突撃することを進言したが、家久に無謀すぎると反対された。

 しかしそれを聞き入れず「拙者は未だ武名を得るに至っていない。家久公は優れた武名を誇っているが、今の拙者はさほど劣っているようには見えない」と言い放ち僅かな手勢で突撃し、鉄砲に撃たれて死んだ。享年十九。余りに短い人生であった。


 その他、猿渡信光ら三百人余りの将がこの戦で露命を散らした。いずれもこれまでの戦で功のあった歴戦の勇士だった。


「太守様」


 根白坂のある中空を睨みつける義久の背中に伊集院忠棟が声をかける。

 しかし返事をしない義久に、言葉を続ける。


「今は最早、弓は折れ矢が尽きようとしております。薩摩の運はここに尽きて叶う術はございませぬ。近年の肥後、肥前、筑後、筑前の陣旅、さらには昨年十月より豊後の出陣で三州の者共はみな疲れております。また、物具、兵糧もこれ以上続き難いと見えます」


 義久の耳にそれは届いているのか、いないのか。

 なお静かに戦の声と鉄砲の音が聞こえる空を見つめる。


「この戦で日ノ本国衆を引き受けて籠城、あるいは一戦を交えたとしても、その果てには得るものはないものと存じまする。かたや死を覚悟して一戦を好んだとして、もし仕損なえでもすれば、鎌倉以来の御家は絶えてしまいます」


 また一つ、ひときわ大きな爆裂音が聞こえた。

 大友の大砲、国崩の音である。島津の兵の悲鳴が聞こえた気がした。


「今ここで降参し和平を結ばれれば、例え三カ国が関白の公領となったとしても、或いは薩摩一カ国が残ることも考えられます。然らば御家も残るべきかと存じまする」


 忠棟はいつの間にか涙を流していた。


「どうか、ここで和平を結ばれませぬか」


 義久は振り向き、しかし硬い表情のまま口を開く。


「忠棟」

「……はっ」

「全軍に退却を命じる。自決は一切許さず」

「では、降伏する旨を?」


 しかし義久はその問いには答えなかった。


「退却せよ、と言った」


 降伏するのではなく、ただ退却を指示するだけだった。

 忠棟はその真意を図りかねた。しかし指示の通り、退却するように使者を送った。



 家久と豊久の先陣には疲労の色が濃い。

 見つめるその先には関白の軍勢を示す様々な旗が揺らいでいる。


 家久も豊久も、幾度と無く槍を合わせて戦った。何度押しても数に任せて押し返される。

 その繰り返しに「もはやこれまで」の思いがよぎっていた。


 後詰陣からも義珍も前線まで出てきて太刀を振るった。


「兵の強さはこちらが上、それは間違いない」

「はい、ですが……」

「数が違いすぎる」


 家久と義珍の心はもはや限界だった。


「一度立て直す」


 そう言って義珍は後陣に戻ったが、恐らく次は討死覚悟で攻めかかるだろう。

 策など何もない。


「金吾兄がおれば、どうしたであろうか……」


 家久の脳裏には不意に病床につく兄のことが浮かんだ。

 降伏することを勧めた豊後の評定を思い出す。


「何もかも見通しているような目をされていたが、これが見えていたとでもいうのか」


 家久は唇を噛み締めて歳久の険しい顔を思い出した。


「だが、引き下がれんのだ」


 家久は再び兜の緒を締めて槍を握った。


「この生命、くれてやる……!」



 その時本陣の使者が訪れた。

 使者の名を帖佐彦左衛門宗辰と言った。


「太守よりご命令です。直ちに佐土原まで退却すべしとのこと」

「ふっ。あいにくと馬も射抜かれ、退却の足がない。よってここで討死するとお伝えあれ」


 事もなく言いのける家久に、宗辰も戸惑うことなく答えた。


「拙者は太守のご主意を得て参った次第です。その役目を果たせぬ以上はここで自決いたしまする。御免」


 そう言って兜を脱いで脇差しを抜き放つと、その首元に当てた。


「ちょ……ま、待て!」


 さすがの家久も慌てた。


「分かった、分かったから、ここで死ぬな」

「では……」

「……」


 家久は考えあぐねた。


「聞けぬというのであればやはり……」


 今度は腹を切ろうと脇差をあてがう帖佐彦左衛門に、家久も折れた。


「分かった。直ちに引く。太守が曰く、ここが死に場所ではない、ということだな」

「是非にでもお引きくだされ」




 天正十五年(一五八七年)四月十七日

 島津軍は関白軍を相手に完膚なきまで叩きのめされた。

 諸将は各領地に退却。

 また義久も鹿児島は内城まで戻った。


 その一方で都於郡城で伊集院忠棟は剃髪して羽柴秀長と謁見した。

 そして自らを人質として義久の許可無く和睦した。

 その翌日には佐土原城の家久も、羽柴秀長、安国寺恵瓊、石田治部少輔三成らと謁見して和睦した。

 忠棟に説得されてのことだった。


 秀吉はこの二人に対して真っ先に降伏したことを褒めて幸侃の肝付、家久の佐土原を返還して安堵することを約束した。

 それとは別に出水の島津薩摩守忠辰も秀吉の関白本軍を前に降伏していた。



 同年四月二十一日

 義久はなおも逡巡している。


 長陣の疲れが癒えぬまま、いつものように朝の看経を終えると内城の私室に入った。

 その部屋には和漢の悪党と称される者の名、あるいは肖像画が飾られている。

 いずれも悪行無道を敷いて国を滅ぼし、家を失った者たちばかりである。


 私室を訪れた臣下の者から、何故このような悪党の名や御影だけ置いているのか聞かれたことがある。


「善い行いは自ら心がけることができるが、悪しき行いはいつの間にか手にかけてしまい、また悪しき行いをしていると気づかないものだ。古の悪しき者たちを常に耳目に触れさせることで、悪しき行いをしないように心がけている」


 それを聞いた臣下の者たちは一様に「さすが太守様だ」と感心した。


 そして今。

 自らはどうか。



 義久は忠棟や家久が許可無く降伏したという話を聞いて


『島津家の世間体というものを考えろ』


 と忠告する書状を送った。

 しかしそれはあくまで軍律違反を犯したという事実に対する形だけのものだった。

 ここで和睦する者が出てくるだろうことは既に想定していた。

 また内城に戻った後、太守の意向を伺いに来た家老衆を前にして言ってのけた。


「何も考える必要はないだろう。ただ目の前に迫る敵を斬り倒して、死の艶花を咲かせればよいだけだ」


 しかし家老衆からは口々に


「これ以上抵抗すると家名の存続も危ういのでは」


 と弱腰の声が漏れるばかりだった。




(今まで九州を平定すると言って励んできたのは何だったのだろうな……)


 義久の胸にこれまでの事が去来していた。

 ある種の虚しさだった。


 惣無事令に対して関白は出自も分からぬ下賤の輩、と嘲り笑い、鎌倉以来の名家は決して降りず、と強気に言い放った気概はどこに行ったのか。

 豪気で筋の通らぬことに腹を立てる薩摩隼人の意地は何処に行ってしまったのか。

 日新斎と貴久が土台を作り、その上に兄弟が力を合わせて作り上げた精強な家臣団も、天下の大軍を前にして腰が砕けている。


 無論、大勢は既に決して敗軍であることは火を見るよりも明らかである。

 義珍辺りは有利な講和条件を引き出すために、なおも城に篭って勝機を探っている。

 だがいずれにせよ敵わぬ相手であることに違いないだろう。


「降伏するべし」ではなく「退却するべし」とだけ命じた。


 皆の覚悟を知りたかったからだった。

 それでもなお命を賭して天下人と戦おうという者はどれほどいるのだろうか。


「卑怯な太守だ」


 義久は自らを謗り、嘲笑した。そんな試すような事をする必要はない。


 なお頑なに「ここで一兵残さず討死するべし」と命令すればいいだけだ。

 最初は驚くだろうし、何人かは助命嘆願に走るだろうが、多くの者は喜んで死んでいくだろう。「ここが死に場所だ」と、「島津の名は絶えても永久に名を残せる」と武家の誇りを胸に死ぬだろう。


 九州の覇者は誰がなんと言おうと島津家である。

 島津宗家を継いだ先代より足掛け六十年の時が過ぎていた。

 肝付、伊東、龍造寺、大友。

 島津家の前に立ちふさがった九州の大名は悉く島津家に膝を折り、手をついた。

 或いは雪辱に燃えながら背中を見せた。


 多くの血を流し、涙をこらえ、前に進み、時には引き、ただひたすらそれが人民の安寧に繋がるのだ、という信念を胸に、島津家は九州の覇者に君臨したのだ。


 そして今、目の前まで手繰り寄せた九州太平の世が、こぼれ落ちようとしている。




 義久はこの世に生を受けてからずっと怖かった。

 望むも望まざるも、自らの意志とは関係なく、島津家の頭領として育てられた。

 いっそ逃げ出そうかと思ったこともある。

 だが祖父も、父も、兄弟も、多くの家臣がそれを許さなかった。


 太守として在らなければいけない。

 太守らしく振る舞わなければいけない。



 義久は怖かった。

 負けを認めることを。

 鎌倉以来十五代に渡って守り抜いてきた家の名誉が傷つくことを。



 義久は怖かった。

 負けを認めて、これまで尽くしてきた者達に侮られることを。



 義久は怖かった。

 負けを認めて、後世に愚かな太守だと誹られることを。



 関白の軍勢が一歩一歩鹿児島に近づくたびに、太守の衣が一枚一枚剥ぎ取られていく。

 それは虚勢という名の衣。


 だが決断の時が迫っている。



 義久には全ての衣を剥ぎ取られた痩せ男が戦国乱世の焼け野原に一人で立っているような気がしていた。

 その手には三州の将、領民、全ての命運が委ねられている。


(もしも島津家が最後まで抵抗して総勢討死にし、薩摩に他の家が入ってきたらどうなるのだろう……)


 義久の脳裏に浮かんだのは三州の平和な風景だった。


 鹿児島湾で魚を追い、漁網を投げ広げる領民。

 桜島はなお勢いよく煙を吹き、それを困った笑顔で見上げる者たち。

 大口の焼酎が美味いか、都之城の焼酎が美味いか、飲み比べて笑い転げる者たち。

 川内川の大河に委ねて、釣りを楽しむ数多の小舟。

 毎朝、霊峰霧島に合掌してから川沿いに広がる僅かな稲作地を耕す農民。


 家久はいつもように兄たちの顔色を伺いながら、家に尽くそうと熱心に兵法の心得を説いている。

 また豊久も父の歩んできた道を誇りながら、馬にまたがり、槍を奮う。


 歳久は相変わらず皮肉屋で、小難しそうな顔をしている。

 だが裏ではいつも兄弟のことを、家のことを考えてきた。

 そして年増の夫人と仲睦まじく縁側で茶なぞ飲んでいる。


 義珍は人の良さそうな顔で親しげに話しかけるから、多くの者に慕われている。

 溺愛する宰相とも子宝に恵まれた。

 何人かは夭折する不幸もあったが、何人かの子は健やかに育った。

 そして次代を託すに相応しい希望がそこにある。



 島津家菩提寺玉龍山福昌寺。

 伊作家菩提寺多宝寺。

 そして祖父が眠る日新寺。

 島津家を支えてきた多くの者たちの墓。


 これまで武家の誇りをかけて、あるいは故郷の家族を想い、前線で戦い死んだ者のこと。

 さらにはその遺族たちの気持ちを考えると、体が張り裂けそうな気がした。


(もし島津家が絶えたら……)


 その全てはいつか忘れ去られ、失われていくだろう。




「……まだ戦えなど、言えるはずがない……」




 天正十五年(一五八七年)四月二十一日

 この日、義久は降伏を決意した。

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