第五十六話 戸次川の戦い
義珍はなお頑強に防ぐ岡城で時間と兵を取られることを恐れ、岡城を除く周辺の制圧に乗り出した。
また家久も激しく抵抗する佐伯の地で敗走した後、攻略することを諦め、鶴賀城へ向かった。
もちろんそれぞれ最低限の兵を押さえとして残したので、豊後国の制圧にはより困難が伴った。
義久の命令は豊後国の制圧である。
その最終目標は豊後国の政務拠点である府内館。
ここには大友家二十二代義統が在城しており、島津軍の侵攻に備えていた。
また先代大友宗麟は府内から南東に三十キロ余りの地にある臼杵城に隠居しており、ここで島津軍を待ち構えていた。
天正十四年(一五八六年)十一月二十六日
家久は豊後竹田から東へ約20キロの場所にある三重の地に着陣して、鶴賀城の制圧にとりかかった。
家久の軍が包囲した鶴賀城は三重から大野川沿いへ二十キロ余りの場所に築城された城で、府内館と臼杵城の中間にある。
ここを制圧して義珍の軍勢と合流し、府内館、臼杵城の制圧拠点にしようという考えがあった。
鶴賀城の城主は利光鑑教入道宗魚と言う。
先々代の大友義鑑から大友家に仕える重臣である。
妻は立花道雪の妹で、立花道雪と高橋紹運亡き後、衰退していく大友家をなお支える忠臣だった。
同年十二月五日
家久は鶴賀城に押し寄せるにあたって、臼杵城の備えとして白浜周防守、野村備中守の両人に騎馬武者百五十余を与えて臼杵城に攻めかからせ、少しばかり矢を射掛けては退く、ということをさせた。
臼杵城主の大友宗麟は家久率いる島津の軍勢は一万から二万という報告を受けていた。
この余りに小規模な攻勢は、城内から誘い出すための罠だ、と判断する。
「臼杵城を出れば島津の兵が何処に潜んでいるか分からぬぞ!守りに専念して関白殿下が下向されるまで持ちこたえるのだ!」
家久の策によって臼杵城の兵三千余りが動くことはなく、鶴賀城の救援を阻止させた。
大友宗麟にとって高城川そして耳川での敗戦は、島津軍の恐怖として植え付けられていたのである。
同年十二月六日
鶴賀城を攻めるために、家久は物見役として百人ほどが鶴賀城の麓に送り込んだ。
しかしその様子を城中から見つけた者がいて、利光宗魚配下の竹中久蔵、岩瀬玄蕃が三百余を率いてこれを急襲。
島津兵もよく抵抗して三十人余りを討ち取ったが、多勢に無勢であり全滅してしまう。
だが討ち取った島津兵を弔わずに鶴賀城の城下に首を晒して獄門にかけているという話が飛び込んできた。
「なんと哀れな! なんと無残なことをする!」
激昂したのは島津の下級将兵だった。
首を晒すとは罪があったものを世の民に知らしめるための見せしめ行為である。
戦場は武士の働き場、そこに罪などない。
誰が発起するともなく兵が集まり、五百余りの軍に膨れ上がった。
そして晒された首を取り返すために家久の命令なく鶴賀城に出撃した。
しかし上戸次大塔まで迫った所で鶴賀城からも利光伊勢守、佐藤美作守が三百余りの手勢を率いてこれを迎え撃った。
「先程の敗軍は我らの本意に非ず! 晒された首を受け取りたい!」
「は! 首なんぞ既に烏の餌になったわ!」
その願いをあざ笑うかのように罵倒する利光伊勢守に、島津の将兵は怒り、猛然と三百余りの兵に攻めかかる。
「どこまでも愚弄するか利光! 大友の将兵は武家の誇りを捨てたかっ!」
激しく罵倒し、争い、利光陣営は三十二人が討死、島津陣営も五十人あまりが討死した。
激しく槍を合わせること数度、疲労が見え始めた夕刻になって互いの陣へ退いた。
家久は許可無く出撃した四百人余りを前に険しい表情を作っていた。
軍律を犯した以上は罰せねばならない。
しかしそれも義心あふれる余りの行動であり、慎重に裁かなければいけなかった。
「軍律を犯したこと、申し開きはございませぬ。いかなる沙汰も受け容れます」
家久は腕組みして、泥だらけの下級兵士を睨みつける。
「確かに、お主らの行動は軍律違反。許可無く出撃するは大勢を決する大事にもなりかねず、本来は打首も同然である」
「……」
家久の言葉を諸将は唇を噛みしめて聞いた。
家久にはその胸の内の言葉は分からなかったが、気持ちは分かった。島津家に武家の誇りを汚されて平気でいられる者はいない。
「だが、お主たちのそれは義挙である。よってその罰は城攻めで命を散らすこととする」
「……!」
「城攻めは明日早朝! お主らは鶴賀城に命を捨てるつもりで攻め上がれ! 城が落ちた時にお主らの罪は許されると思え!」
「はっ!」
同年十二月七日
家久の激励でますます士気が上がる島津軍は、八千騎を以って早朝より攻めかかった。
対する鶴賀城には士卒にない者も含めて三千余りが入っていた。
士卒にない者――女、童、老若共らも、一命を露と散ることも惜しまず、戦に備えていた。
島津軍は先陣を伊集院美作守久宣が五百騎。二番備えを新納大膳正が三千騎をもってこれに撃ちかかり、猛然と攻めかかった。
先陣部隊には、先日軍律を犯した者らも入っていた。
島津軍の猛攻に鶴賀城もよく耐えた。
さらには物見台に顔を出した城主、利光宗魚が額を撃ち抜かれて討死する不測の事態もあったが、これを島津軍に悟られぬように伏せた。
まさに三千総討死の覚悟を以って臨む防勢に、戦いは十一日まで続く。
そして島津軍も千余りの兵を失う被害も出てしまっていた。
だがそれでもなお鶴賀城は持ちこたえていたのである。
家久の元に
『府内館より鶴賀城救援兵来る』
の報せが届いたのは、十一日の夕刻だった。
「数は?」
「八千余りです」
「八千? 意外と少ないな」
家久は府内館の動きを見張らせていた兵の報せを陣幕の中で聞いた。
「ふむ……」
同じく聞いた臣下の将も家久の言葉に臣下の兵も思わず顔を見合わせる。
「関白直々の四国軍というから、てっきり五、六万はあると思っていたのだが」
対する家久の軍勢は総勢九千余り。
当初一万の居た兵は千余りが失われ、さらに千近くが手負いとなって後方に下がっていた。
しかし後方の後詰め陣から千の兵が増援で送られてきており、それが加わった次第である。
だが九千から、鶴賀城の備え、後方の備えに兵を割かざるを得ないので実質的に相対できるのは七千程度しかない。
八千対七千。誰しもが不安を感じる兵力の差。
しかし、家久は全く違った。
「十分勝機はあるな」
何一つ迷うことなく、躊躇することもなく、事も無げに、自信ありげに微笑む家久の言葉に、これまでどれほど多くの将が勇気づけられただろう。
「しかし勝てるかどうかはお主らの働き次第だ」
諸将を見渡して家久は言いのける。
「俺は生きて故郷に帰れると思うておらん。お主らもそう思え。この一戦にこそ、当家の未来がかかっている」
「はっ!」
大野川を下っていくと別の者は違う名前で呼ぶこともあった。それは戸次川である。
後の世にこの戦は戸次川の戦いと呼ばれるようになる。
関白軍と島津軍の初めての戦であった。
同年十二月十二日早朝
大野川を隔てて対陣する四国軍と島津軍。
「あの十字の幟が島津の軍か。意外と少ないな」
その先陣は仙石権兵衛秀久という将が務めていた。
生まれは美濃の国人衆で、織田軍に参加する一兵卒に過ぎなかった。
しかし織田信長の目に止まって羽柴秀吉の寄騎となると、その運命も一変する。
常に羽柴秀吉と供にあって戦場を駆けまわり、秀吉の昇進と共に秀久の身分も高まっていった。
そしてついには四国を征伐した関白秀吉に命じられて淡路国、讃岐国の大名にまで上り詰めた。
ある意味では羽柴秀吉と同等の「成り上がり者」である。
府内館に入っていたのは四国の将たちである。
その軍勢には四国の覇者、長宗我部元親とその嫡子信親、そして名門三好氏の血を引く十河存保が従軍していた。
だがこの四国軍は士気が目に見えて低かった。
まず長宗我部氏と十河氏は長年争った間柄である。
その軍監には何処から湧いたかも分からない仙石などという関白の威を借る将。
さらには前年までの戦疲れが抜けていない。
両者とも関白の大軍勢を前に跪くことを強要されただけで、わだかまりは解消されていない。
さらにはまた気の進まない九州攻めとあっては、士気を高めろというのが難しかった。
また仙石秀久も秀吉から「本軍到着まで仕掛けるな」という命があったにも関わらず、一介の国人衆から大名に成り上がったせいで、さらに秀吉のご機嫌を得るべく、あるいは身の丈不相応な役目を負ってしまったことで、肩肘をはろうと頑張りすぎた。
鶴賀城からの救援要請に対する軍議で秀吉の命を盾に出陣を控えるように進言する四国の名将らに対して散々煽り、誹謗し、口論となった。
その結果として無鉄砲なこの戦に臨もうとしていた。
またこの軍には当然ながら府内館の主、大友義統の軍勢三千余りも加わっている。
だがそれも島津軍の恐ろしさを前に完全に怯えてしまって士気は著しく低かった。
しかしそんな事情など知りもしない家久は着実に迎え撃つ準備を済ませ、相手の渡河を待っている。
「仕掛けてきませぬな」
「うむ、だが焦るなよ。こちらは待ち構えるだけでよいのだ」
先陣を務める伊集院美作守から矢弾を浴びせて誘い込みましょう、と相談された家久は、それを却下してひたすら待ちの一手を選択した。
完全に日が昇った頃、四国、大友連合軍が渡河して戦いが始まった。
家久を慌てさせたのは仙石の軍勢と長宗我部信親の軍勢の勢いだった。
士気は低いように見えたが、勢いはあった。
まるで大将自ら一番太刀を狙って怒り任せに槍を奮っているように見えた。
危うく先陣を務める伊集院美作守が崩壊しかけたが、家久自ら助けて支え、すんでの所で潰走を食い止めた。
そして無事所定の位置まで引かせ、仕掛けた。
「横から敵襲にございます!」
渡河した後、鶴賀の麓に差し掛かった山林に突如出現した島津軍。その攻撃を知らせる兵の声。
しかし長宗我部信親の耳にその声が届いたであろうか。
何しろ伏せ兵が現れた同時に銃弾が左腿に突き刺さり、落馬する。
そして、退却しようともがいているところに、島津兵と乱戦になり、首を討ち取られてしまった。
他にも十河存保も討死にし、仙石秀久は混乱の最中に逃走。
長宗我部元親も嫡男の死を嘆きながら伊予国へ敗走した。
翌日、この戸次川での敗戦で四国の軍勢が去り、また府内館を守る兵もなくなったため、大友義統は退去。
豊前妙見龍王まで逃走した。
また敗走の報せにそれまで頑強に抵抗していた鶴賀城も降伏、臼杵城の大友宗麟も豊前まで逃れて大友家は完全に壊滅。
また兵庫頭義珍や武蔵守忠元らが進めていた竹田周辺の城攻めも軒並み完了し、ここに家久は悠々と府内館に入城。
十月に出陣してからわずか二ヶ月の短期間で、島津軍は豊後国の制圧を完了させたのである。
九州で残すは豊後国の大友残党と、豊前の毛利軍、そして筑前の立花一族。
しかし島津家の前に関白軍以外の敵が迫っていた。
それは『病』という名の抗い難いものであった。




