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戦国島津史伝  作者: 貴塚木ノ実
九州平定
56/82

第五十五話 天下は未だ定まらず

筑前国の一大商業都市を博多と言った。

この都市の歴史は有史以前に遡り、日ノ本が日ノ本となる前の頃より大陸の玄関口として存在し、人が増えていくにつれ、日ノ本でも有数の巨大商業都市としての機能を持ち始めた。

故に豊かな財をもたらすこの地の支配権をめぐっては度々激しい争いが巻き起こった。

争った大名は大内、毛利、大友、龍造寺、そして島津。


その商業都市の北東へ十四キロほどの場所に立花山という、標高三百六十七メートルほどの山がある。

大商業都市に近い割に今なおクスノキ原始林が残る自然豊かな所で、福岡平野にぽっかりと突き出たその山容は、ここに山城を築くことに一欠片の疑問を抱くこともない険しさと、この地を治めるに相応しい威厳すらもあった。



天正十四年(一五八六年)八月

岩屋城を落城させた島津軍だったが、本来の目的である筑前国支配を前に完全に疲弊していた。

宝満城は降伏勧告により開城させたが、その拠点となる立花山城を包囲したものの、攻めきる力は残っていなかった。

余りに多くの将兵を失い、士気も低かった。

また山田有信ら岩屋城攻めで手負となった者たちは既に太守義久が陣を構える八代に送り出している。



「退却でございますか」


渋い顔でその報せを受けたのは筑前国攻め総大将の忠長であった。

報せの主は太守義久と義珍である。


なお、忠平は先年打診された足利幕府十五代将軍義昭より偏諱を賜り、この月から義珍と名を改めていた。


退却を告げたのは忠棟であった。


『岩屋城落城せしども被害甚大』


その報せを義久と義珍に送り


「一旦、八代まで退却すべし」


という返答が返ってきたのだった。


「退却と言っても三州まで引き下がるわけではございませぬ。一度八代本陣まで戻って態勢を立てなおすというだけです」


忠長をなだめるように忠棟は殊更大げさに言ってみせた。


「では筑前はどうなさるのです」

「一度捨て置き、再度攻め入ります」

「一万もの兵が血を流して勝ち取った城をみすみす捨てるというのか。それでは亡くなった者達の魂が浮かばれぬ」

「ですが、これは太守のご命令ですぞ」

「だが既に立花山城を下城するという報せが……」


忠長はそれでもなお渋った。


「それは虚報にございます」

「なんと!?」


忠棟の冷静な一言に、評定に参加していた諸将を驚かせた。


「先方から下城するという使者が来てから何日経ちましたか? 引越し準備があるからと時間を稼いでいる間に、毛利の先遣隊は小倉に上陸しております」

「うぬぬ。おのれ立花」


岩屋城と言い、立花山城と言い、適当にあしらわれていたことを感じてほぞを噛む忠長に、忠棟もまた、悔しそうに呟いた。


「ですが、これが策略というものでしょう。退くこともまた勇気でございます」


忠長は何かに気づいた表情で忠棟を見上げた。


「では関白二十万の大軍勢も迫るというのか」

「それならご安心ください」


忠棟は優しげな表情を浮かべて強く頷いた。


「太守が曰く『関白は未だ動かず』とのことです」

「……」


忠長はなおも渋ったが、太守が平気だというなら平気なのだろうと思い、ひとまず八代まで戻ることを決定した。


しかし問題となったのは殿軍である。

手負いと疲労で満身創痍状態の島津軍に後ろから立花山城の軍勢が攻め掛かれば、壊滅状態になるのは目に見えていた。


立花山城城主は立花宗茂。

高橋紹運と戸次道雪の遺志を継いだ西海の麒麟児である。


「我々にお任せください」


沈黙が支配する評定を破り、名乗りを上げたのは、「外国衆」でも親島津派として肩入れしていた星野吉実、吉兼の兄弟だった。


「星野殿……」

「その申し出はありがたいが、これは島津の戦である。援軍に殿を任せて逃げ失せたとなれば末代までの恥。

どうか星野殿は今すぐ安全な場所にお引きくだされ」


星野兄弟には立花山城から南へ十五キロの場所にある高鳥居城の城代を任せていた。


「いや、それは聞けぬ話でございます」

「え……」


きっぱりと言い切った兄、星野吉実に忠長は戸惑う。


「かつての我が主、大友宗麟という者は南蛮文化に傾倒してそれはひどい悪政を敷いたものでした。それに嫌気が差していたところに、南より一陣の大風が参られた」

「……」

「その大風は何もかも壊すのかと思いきや、菩薩の如き仁政を敷きなさる一団でござった。我らはその一団に加われたことを大層幸せに思い、そして高鳥居で背中を守らせて頂いた信義に、今こそ応えるべきと存じます」


忠長はそれでも首を振った。


「ですが星野殿は三百ばかりの手勢しかおらぬ。それでは……岩屋城の……」


二の舞いになる、と言いかけて口ごもる忠長に、兄の星野吉実がニコリと微笑んだ。


「高橋殿は大層な武勇を示された。死してなおその英名は永代にわたって語り継がれましょう」

「次は我らの番です」


弟の吉兼も続いた。


「幸いにも我らにも嫡男がおり、無事育てば星野の名は残ります」

「我らが命を以って、その名を世に留める気概にございます」


だが、となおも渋ろうとした忠長を制して、忠棟は頭を下げた。


「すまぬ。ご厚意に甘えてここは退かせていただく」


まだ何か言おうとした忠長を抑えて、退却準備にとりかかるように指示をだす。

忠棟は毛利の軍勢が迫っていることに焦っていた。




天正十四年(一五八六年)八月二十五日

高鳥居城を立花宗茂の軍が攻めかかり、落城させた。

城を守るのは星野兄弟。僅かな手勢ではあったがよく防ぎ、その間に島津の軍勢は八代まで退却した。


壮絶な討死を果たした星野兄弟を讃え、高鳥居城の跡地には塚が建てられた。

その塚は兄弟の名前から吉塚と呼ばれ、後の世まで残ることになる。

また、義久は星野兄弟が生き残ることを信じて忠孝に感謝する書状を書き起こしていたが、日付を入れる前に討死の報せを聞いて、うなだれた。



この時、義久にはこの年の四月に大友宗麟が大阪城で関白に平伏して助勢を請うた、という話が届いていた。

またその話を聞いた関白自らが20万の軍を率いて九州に下向する、という事も聞いた。


しかしそれ以来本軍を起こしたという話を聞かない。

どうやら三河の徳川家康を恐れて動けないらしい、という報せが届いた。

小牧山や長久手という地で激突した両軍は徳川軍の勝利に終わったが、これはそもそも織田家同士の戦だったようである。

秀吉が徳川と与した信長公の弟と独自に和睦することで名分を失わせ、三河まで引かせた。

しかし徳川家康は秀吉に頭を下げたわけではないので、もし秀吉が動けば徳川がその背後を突く、それを恐れているということだった。



(関白在れども、天下は未だ定まらず。まだ勝機はある)


義久は冷徹に島津軍の戦力と九州を囲む中国と四国諸大名の戦力を計算する。


(例え上陸を許しても、なお勝機は十分)


あとは徳川家康がどれほど粘れるか、関白秀吉が押し切るか。それ次第で決まりかけた天下がひっくり返る可能性もあると見ていた。

それ故に、あえて筑前から忠長の軍を引かせた。



しかし義久の目論見とは別に秀吉の配下の毛利軍、そして四国の長宗我部の軍勢の動きも素早かった。

九月になると秀吉の命を受けた毛利軍と四国の十河、長宗我部の軍勢は九州に上陸して豊前国の各城を続々と調略し、配下に治めていった。



――豊前国の多くの城が関白軍に降伏。


その報せはすぐに義久らの耳に届いた。


「早いな……」


義久の脳裏に『降伏』の二文字が思い浮かんだ。

豊前国の島津家に従属していた家は早々に秀吉に尻尾をふることで本領を安堵してもらい、家名を存続させようとでも言うのだろう。


だが島津家は降伏した所で待ち受けているのは屈辱の領地配分である。それを受け容れてしまっては、これまで流されてきた多くの血と涙が無駄になってしまう。何より犠牲になった英霊たちの魂が浮かばれない。それは義久以上に実際に犠牲になった者の家族たちの方が気持ちは強いだろう。


「こうも安々と降りるとは、武家たる誇りはないのか」

「多少数が多いばかりの相手に尻尾を振る連中など、最初から頼りにしてはならぬ」

「武家の誇りを棄てて姑息にも大阪まで頭を下げに行った大友宗麟のような奴と同類になってたまるものか」


島津家から離反した豊前国衆の対応に家老衆からは不満の声があがった。

これは義久だけではなく、島津家の、島津家臣団の、鎌倉以来の家の誇りをかけた、言わば意地でもあった。


しかし豊前衆の現実的な対応は、今なお島津家に従属の姿勢を見せている衆も、秀吉の軍勢が迫れば簡単に寝返るということである。

島津家が怖気づいているということが分かればその流れは加速していくだろう。

そうなれば関白20万の軍勢が迫る前に九州に反島津の連合軍さえ出来かねない。

となると大軍を迎え撃つどころの話ではなくなってしまう。



「兄上、こうなったら呑気に構えている場合ではない。今すぐ豊後に攻め入ろう」


急遽開いた評定で提言したのは歳久である。


「さすが金吾様じゃ、よう言いました」


多くの家老衆がそれに賛同の声を上げた。

義珍は八代で、家久は佐土原で既に軍勢を整えている所で、内城からの出撃命令を待っている。


豊後を抑えれば、まだ逆転の勝機は残っている。

関白先遣隊の中国、四国の軍勢を蹴散らせば関白とて下手に手出しができなくなる。


皆もそう信じている。


(やるしかない)


義久は、覚悟を決めた。

ここに至り、打つ手はもはや一つしかない。


――島津は引かず。関白の首を狙う。


その気概に感じ入った者たちの協力を仰ぐしかない。

もし関白を討ち取れば天下は島津家に転がってくる。そうなれば褒賞も思いのまま。

その夢を見れる者がどれほどいるか。



島津軍が再び九州を北上したのは十月のことである。

肥後口の総大将を義珍が務めて三万の軍勢を、日向口の総大将を家久が務めて一万の軍勢を率いた。


歳久も肥後口の軍勢に参陣して従軍した。

その立場はいつもの通りの副将ではあるが、実質的な参謀であり、目付役でもある。


「兄上、武蔵守は熊本城に無事寝かしつけました」

「ご苦労であったな、又六郎」


後ろから追いかけてきた歳久が義珍とようやく並んだ。


大口地頭の武蔵守忠元も肥後口の軍勢に参陣したが、熱風邪を得て病に臥した。

本人は口も達者で


「構わず参陣する」


と言って聞かなかったが、バタリとその場に昏倒したものだから、義珍を始めとした多くの諸将が


「今、武蔵守に死なれたら困る」


と説き伏せて、ただの熱風邪と侮ることなく、ただひたすら養生するように厳命した。


「往年の武勇の士も、風邪には敵わぬようで」

「武蔵守に限らず、お主も年齢も気になりだす頃だろう。痺れは平気か」

「兄上が元気すぎるのだ」


歳久は苦笑して痺れを感じる左手を何度も握りしめる。

太守義久は虫気の持病、三男歳久は手足の痺れを患っている。

また末弟の家久はこの年の正月早々に疱瘡を患った。


疱瘡、とは後の世で言う天然痘である。

罹患すれば致死率四割とも言われる恐るべき流行病であった。

発症後は四十度前後の高熱や頭痛、腹痛に悩まされ、さらには全身に泡立つような出来物が生じる。つまり発疹である。また出来物が目に及んで失明の危険もあった。


疱瘡を発症すると高熱によって呼吸もままならなくなり、いずれ死に至る場合が多かったが、幸運にも熱が下がることがある。

しかし出来物の瘡は残り、それがまた心の傷として残るのだ。


時にはそれが顔に現れて痘痕が残ることで、醜女しこめ醜男ぶおとこと呼ばれ、結婚を諦める原因ともなった。

疱瘡は当世何よりも恐ろしい敵でもあり、疱瘡によって命を奪われる者が多くいた。

もちろん中には、疱瘡によって片目を摘出したが、いずれ大成した者もいる。

独眼竜とあだ名された者のように。


人類が疱瘡に打ち勝ち、根絶に成功するのは遥か後の世である。



家久もまた幸いにも疱瘡を克服し、また出来物の瘡は背中と肩だけに残ったので、外見上はさしあたり問題ない。

しかし誰もが予想していなかったが、疱瘡によって体力を大分落としており、思わず目を見開くほどにやつれていた。

この十月の出陣において、ようやく体力を取り戻したので日向路の大将を任せるに至った次第である。


そんな中にあって唯一、矍鑠かくしゃくとしていたのが義珍である。



また義珍と歳久はこの遠征行軍の最中で既に察していた。

おそらくこの遠征が関白の軍勢と対抗するための最後の機会となる。

この遠征で豊後国さらに豊前国門司城まで制圧すれば、関門環境を挟んで対峙することになる。


いくら二十万の軍勢と言っても豊前の海岸は容易く上陸できる地勢ではない。


海を挟んで睨み合いのまま幾月か持ちこたえれば、関白も和睦条件を探らざるをえなくなる。

そうすれば結果的に九州の一部を手放すことになろうとも三州は保たれるばかりか、関白を折らせた島津恐るべし、という評判が高まる。


そこまで計算した上での遠征軍である。


しかしその遠征における敵は大友家や関白だけではなく、四人のうち三人に襲いかかっている健康不安だった。



そしていよいよ肥後の義珍軍と日向の家久軍の侵攻が始まった。


まず義珍の軍勢は肥後から阿蘇に入り、南郷、野尻の地を抜けた。

その侵攻目標は豊後国の竹田の地である。


そして豊後国の境界を超えた頃に、大友に与していた者たちの離反が相次いだ。

まず騎牟礼きむれ城城主の入田宗和の父子が城と千人余りの兵を率いて島津軍に降伏した。

さらには志賀道易という者も千人の兵を率いて降伏し、豊後国の道案内役を務めることになった。


竹田の地には大野川という大河が流れており、その川を下ればいずれ豊後国の拠点である府内館に繋がる。

この竹田の地を押さえれば、府内館の喉元に刃を突きつけたも同然と言えた。


義珍の軍勢は騎牟礼城に入ると、ここを拠点に一帯の制圧に乗り出した。

松尾塁及び烏嶽城、そして津ヶ牟礼城へ侵攻する。


同年十月二十一日

松尾塁及び烏嶽城落城。


同年十月二十四日

津ヶ牟礼城その城主は戸次べっき摂津守統貞むねさだという者だったが、島津軍に包囲されて降伏した。

これは先に降伏した入田宗和、志賀道易の勧めが功を奏した。


そして、岡城が次の標的となった。

岡城は別名で臥牛がぎゅう城とも、豊後竹田城とも呼ばれる城である。

北に稲葉川、南に白滝川に挟まれており、さらに四方をむき出しの岩肌に囲まれた山地に築かれた城で、その嶮峻さから日ノ本でも随一の難攻不落の城と評判の城だった。


またこの岡城を本当に標的とするのか、大いに物議を醸した。

おそらくこれを攻めるには相当な時間と兵がいる。


別の将が中心となって、夜になって何人かの兵を選び抜くと、密かに川を渡らせて本丸に続く岩肌を登らせた。

少数の手勢で館を占拠してその混乱に乗じて攻めかかろうという考えである。

しかし一人は侵入に成功したが、たちまち敵に見つかって斬り殺された。


また、義珍はこれを受けてまともに攻めることを断念した。

岩剣城、龍ヶ城、三ツ山城、これまで散々山城に悩まされてきた島津軍である。

この手の城の攻略にどれほどの労力がかかるか、理解し過ぎるほどに理解していた。


ここで時間をかけることも、兵を失いすぎることも避けなければならない。

幸いにも、この岡城の城主を務めていたのは志賀道易の嫡子で志賀親次である。


入田宗和の説得工作に託すことにした。



岡城の本丸にて、十八歳の若者は凛とした表情で入田宗和を出迎えた。

目は細く、ややツリ目で真一文字に結んだ口元は意思の強さをあらわしていた。

一見するとどこにでもいそうな若者であったが、一つ他と違うのは胸元に南蛮宗の十字架がかかっていたことである。

志賀親次はキリシタンだった。


「なあ親次殿よ」

「……」


ゆっくり、諭すように宗和に口を開いた。


「確かにこの城の守りは堅い。だが島津殿の軍勢を見ただろう? 例え堅くともこれ以上のこもることに何の意味がある?」

「……」


しかし宗和の言葉が届いていないかのように反応を示さない。


「島津殿はこのまま下城すれば領地も命も救けると言うておる。どうか聞いてくれぬか」

「……」


なお頑なにピクリとも顔を動かさない親次に、宗和はため息を付いた。


「何故ここまで頑なになるのだ? 理由を聞かせてくれ。大友殿は仕えるに価値のある御方とでも言うのか?」


問われて、ようやく親次は薄く目を開けた。宗和をじっと見て、口を開く。


「我が母は先代の娘にて、拙者は大友と心中する覚悟にございます。義父の不所業はそれを諌めることができなかった家臣が謗りを受けるべきこと。故にこの生命を捧げることで忠節を示します」


宗和は絶句した。

父志賀道易にとって妻は政の縁あって妻となっただけで、しかし他人である。

故に大友家から離反した。

だがその子にとって母は一人しかいない。

故に大友と心中する。


その理屈は宗和には理解できたが、自分には絶対にできないことだった。


(これは説得は無理だ)


岡城を去る宗和の背中に、親次は声をかけた。


「父上にお伝えくだされ。戦場で会おうとも遠慮無用と」

「……伝えておく」


南蛮文化に傾倒して、あるいは高城川での大敗を機に主君に愛想を尽かして大友家は離反が相次いだが、最後まで命を賭けて忠節を尽くした武将がいた。

その名は立花道雪、高橋紹運。

最後まで大友家を支えた名将の遺伝子は、立花山城の宗茂以外にも、ここにも確かに受け継がれていた。


こうして義珍らの軍は岡城に釘付けとなり、豊後侵攻に大幅な遅れが生じることになる。




一方その頃日向口には太守義久の本軍も十月十四日に鹿児島を出立し、千余りの兵で日向塩見城に着陣していた。

塩見城は土持氏が領する懸より二十キロほど南の地にある場所にある。


日向口の軍勢は家久が大将であった。

山田有信、吉利忠澄、上井覚兼ら一万の兵を率いて、日向より豊後へ侵入する。



同年十月二十四日

緒方城を攻め取り、勢いに乗って佐伯さいきに迫った。

佐伯さいきという地は豊後国の南東にある海に面した街で、入り組んだ海岸線が見事な景観を生み、豊かな自然に恵まれた場所でもある。

佐伯の地一帯を支配する城を栂牟礼とがむれ城と言った。栂牟礼城は番匠ばんじょう川を望む栂牟礼山に築かれた山城である。

この城の城主は大友家の忠臣、佐伯惟定。島津家の侵攻に備えて多くの支城を築いて待ち構えていた。


この攻略にも多くの時間と兵を費やす事になる。

家久はまず降伏勧告の使者を出した。



栂牟礼城の本丸でが島津軍の降伏勧告へどう対処するか評定が行われていた。

佐伯家十四代惟定は十八歳の若者である。大友家の家臣はこのような若年当主がとても多い。

なぜなら天正六年(一五七八年)に起きた島津家との高城川の戦いで、多くの将が討死してしまったからである。


「ここで抵抗して命を散らすより、家名を守るべきことを優先すべきかと存じます」

「左様。他の諸将も既に島津殿に従い、生き残りをかけております。今さら大友殿に従う道理もございませぬ」

「ですが頭を下げるにも、下げる頃合いや作法もありましょう。我らにとって有利となるようにしなければ」


佐伯惟定を支える多くの家臣は既に島津家臣従の道を探り始めている。


惟定は、最初は降伏勧告を撥ね付け、討死する覚悟を持って臨んでいた。

だがその覚悟も弱気な家臣たちの意見を前にして早々と挫かれそうになっている。


だが、その惟定を支える者がいた。


「なんと嘆かわしい!わらわの嫁いだ佐伯はかような軟弱者ばかりだったとは!」

「母上……」


その評定を横から見守っていた惟定の母である。

惟定の母は諸氏の出ではあるが、佐伯に嫁いで惟定を生み、奥を取り仕切って支えてきた。

今は尼の形を成して栂牟礼城に残っている。


「耳川で失った義父や先代の無念に報いようという気概はないのですか!」

「……ですが、相手は多勢で……」

「これまで佐伯の世話になりながら、多勢が迫るとあればその恩を忘れて犬の如く尻尾を振るとは武士とは呼びませぬ! ただの犬畜生でございます!」

「……!」


母の訴えに、家臣団の顔色が変わった。


「そんなに島津が恐ろしいのであれば早々に立ち去ればよろしい! 例え一族皆殺しになろうとも島津と相対する者だけがこの城に残ればよろしいのです!」


そこまで言われて家臣達に火が付かないわけがなかった。


「……大友殿が仕えるに値する主君かどうかは、もはや関係ないな」


主君への忠節。

それは武士にとって第一のものである。

しかし忠節を尽くす価値のない主君など見捨てて当然である。

だが家臣たちは気付かされた。

それを言い訳にして、家名を残すことに執心していたことに。


武士にとってまた大事なことは誇りである。その誇りを自ら汚すことも、他者に汚されることもあってはならない。

その誇りがあるからこそ、人は正しく生きることができる。

南蛮がどうとか、考えの違いではない。その誇りこそが、武士が武士たりえる礎である。

誇りを失った者など武士ではない。


佐伯の家臣団もまた、腹が決まった。


「これは大友殿への忠節ではなく、佐伯家の、武家としての意地である。この意地を以って、島津殿に一矢報いようではないか」


惟定の言葉に家臣団は力強く頷く。

ここにも立花道雪、高橋紹運の遺伝子が残っていた。


そしてその意地が家久に襲いかかる。



栂牟礼城は降伏するというので、何人かの佐伯城の将が島津の陣を訪れたのは夜遅くになってからだった。

そして城へ案内すると言って城受取人の島津の将兵十九名の先導するという。


「気をつけろ、罠の可能性もある」

「承知」


しかしその途に伏せていた佐伯の兵が、島津兵を全て斬り伏せた。

その報告を受けた家久は降伏受け容れは虚報で、その意志がないことを悟った。


「卑劣なり佐伯! やはり戦う他に道はないようだ。一気に蹴散らすぞ。各々、気合を入れていけよ!」

「はっ」


家久は栂牟礼城を包囲するべく城の手前にある堅田村まで二千余りの兵を進めた。

しかし堅田の地に入った所で異変に気づく。


「これは……包囲されている?」


佐伯の軍勢は栂牟礼城の城下、堅田の地を決戦の地であると定めていた。そして少ない兵に分けて山野に潜ませていた。

そこに前日の奇襲によって島津軍を怒らせたことが功を奏して、島津軍を誘い込めることができた。

既に襲撃を受けている先陣の様子を見て、家久は冷静さを取り戻して撤退命令を出す。


「佐伯惟定 やりおる 。その名は忘れんぞ」


恨み節を残して家久は一度軍を退いた。

家久の素早い判断によって、被害を最小限に抑えることが出来たが、「佐伯が島津を退けた」という風聞はなお大友家に忠節を尽くす諸将には心強い支えとなった。

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