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戦国島津史伝  作者: 貴塚木ノ実
九州平定
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第五十四話 壮烈、岩屋城

 筑前国に信仰を集める神社がある。

 平安の世に朝廷に仕えて高名を得た右大臣・菅原道真公が藤原時平の讒言ざんげんにあって九州に左遷され、その地に没した。

 その後、京で天変地異が多発して菅原道真公の祟りと畏れられ、没した地に天満宮を建立しその鎮魂に務めた。

 以来、そこは太宰府天満宮と称されるようになり、菅原道真公が高い学識を持っていたことから、学問の神として全国から信仰を集めるようになった。


 その太宰府天満宮から西に約三キロ。

 天満宮を望む岩屋山という標高三百メートル余りの険しい山に築かれた山城が、岩屋城である。

 病に斃れた立花道雪亡き後、衰退著しい大友家になおも忠節を尽くす名将、高橋鎮種しげたね入道紹運が城主を勤めていた。


 また太宰府天満宮の北東へ約六キロ。

 宝満山という標高八百メートル余りの山に、宝満城という城があった。ここには高橋紹運の妻子が篭もっていた。



 肥前と筑後を制圧した島津軍が岩屋城と宝満城を包囲したのは、天正十四年(一五八六年)七月十二日のことである。


 岩屋城に籠るのは将兵含めてたったの八百名余り。

 しかし一見すれば宝満城よりも攻めやすそうな岩屋城は、後に「驚固」と称されるほどの堅城であった。



 岩屋城攻めの島津軍総大将は、島津図書頭ずしょのかみ忠長。

 太宰府に着陣した後に軍議を開き、それぞれの城の麓にある観世音寺、般若寺に陣を置いた。


 そして大城である宝満城の包囲は少々の手勢で済ませ、小城の岩屋城の包囲に専念した。

 それはひとえに名将と名高い高橋紹運の存在に他ならなかった。

 包囲後もすぐに攻撃を仕掛けず、今まで例を見ないほどの礼儀を尽くして降伏の使者を送った。


 まず最初に地元の寺僧に頼んで降伏の使者とした。


「島津が御大将の言うことには、此度ここまで戦に及んだのは叛逆の賊徒、筑紫殿を討つためであって、その元々の居城である宝満城を攻め入るためと申しております。現在宝満城にはご嫡男や妻子が入られておりますが、これを守る道理もございますまい。島津が御大将も無益な者の命を奪うに忍びないと嘆いておりますので、どうか和議を結びなされ。さすれば兵を引き上げると申しております」


 白い頭巾をかぶり、鋭い眼光でその僧を見つめる将がふと笑顔を見せた。


「それを断ったら?」

「……あくまで攻め入るでしょう。見たところ、城を守るにあまりに少ない数です。どうかその生命を無駄にするようなことはお避けくださいませ」


 頭巾の将、高橋紹運は穏やかな笑顔を見せながらゆっくり首を振った。


「宝満も含めここら一帯の城は元々我らが豊後におわす主家より預かりし城であるから、その道理は通らぬよ」

「しかし……」

「どうしても欲するのであればどうぞ力づくで参られよ。我ら少勢と言えども、手強く相手致す……と島津殿にお伝えくだされ」


 寺僧はその瞳に宿った光を見て悟った。


(この御仁は死ぬ気だ)



 下城する僧の背中を見送りながら高橋紹運は眼下を埋め尽くす十字ののぼりを見つめて呟いた。


「立花山には行かせん」


 高橋紹運は既に中国の毛利家に島津軍迫るの一報を送り、堅固な宝満城に妻子らを移し、嫡男の統増を城主とした。

 そして自らは小城の岩屋城に入って軍備を整えた。


 高橋紹運は島津軍が自らを名将と讃えて畏れている節がある、という情報を入手していた。

 それを逆手に取って、自らを囮とすることを考えて、敢えて小城である岩屋城に入ったのである。


 そして立花山城には高橋紹運の実子で、立花道雪の養子となって立花家を継いだ立花宗茂が城主として島津軍を待ち受けていた。


 高橋紹運の方針にはもちろん宗茂も猛反対し、立花山城か宝満城に移るように請う書状を送った。

 また報せを受けた秀吉直臣の黒田如水も、どちらかの城に移るように指示を出したが、高橋紹運は頑なに首を縦に振らなかった。


「立花山城も宝満城も天下の大堅城であることは承知しているが、この一大事に一つの城に集まるのは良策と言えまい。いかに小城であっても城を守る精強な兵がおれば大堅城にも勝る城となる。こちらのことはどうか気にするな。各々討ち死にする覚悟を持って島津の兵に備えるように」


 その高橋紹運の言葉に、宗茂は父が討死するつもりであることを知り、涙にくれた。

 また立花山城の将兵たちも名将の覚悟に驚き、嘆き、悲しんだ。


 どうしても父を見捨てることが出来なかった宗茂は、遠慮がちに救援兵を募り、討死覚悟の40名余りが集まった所で岩屋城に送り込んだ。



 その後も忠長はもう一度だけ説得しようと軍議をまとめ、再度使僧を差し向けた。


「この度の戦に及ぶ前に、大友家の振る舞いは見ておりましたでしょう。酒食も耽り、人臣を蔑ろにした、その非道たるやおぞましき日々。島津家は代々神仏を尊び、その高潔なる志は、高橋殿とも相通じるものもございます。

 もしここで和議に及んだとしても何一つ恥いることはございませぬ。島津家に忠孝を尽くすこともまた、武士として生きる道にございませんか。どうかお聞き遂げください。拙僧もここで天下の名将を失うは余りに不憫にございます」


 高橋紹運は、しかしそれも一蹴して穏やかに笑った。

 そして使の僧を送り届けると、やおら島津軍に姿が見える場所まで駆け下り、大声で叫んだ。


「既に主家は関白秀吉公の下にある! よって関白の上意によって預かったこの城を許可無く明け渡すことは出来ない話である! 今ここで露命を惜しんで危難を逃れたとしても、我が名は千年もの間いたずらに誹られ続けよう! ならば居城にて腹を切り、この首を島津が家にお渡しし、その名を後の世に留めることこそが、賢臣二君に仕えずの法を守り通すべき武士の本懐である!! この高橋紹運は、その本懐を持って今生の想い出にしたいと存じる!!」


 その紹運の覚悟は敵味方双方の軍勢に聞こえ「これこそが真の武士よ」と感嘆せしめた。




 天正十四年(一五八六年)七月十四日

 高橋紹運の覚悟の大演説の前に、降伏させることを断念した忠長は、諸将に命じて総攻撃を開始した。

 岩屋城下の街を悉く焼き払い、その岩屋城の麓に島津軍五万の兵が押し寄せた。


 その軍勢は薩隅日の兵ばかりか島津家に従属する各国人衆の軍勢も含まれていた。

 筑前国の秋月、豊前からは城井、長野。筑後からは原田、星野、草野。肥前からは龍造寺政家の軍勢も三千余りの兵で参陣していた。


 東の山の方には長野、秋月ら筑前筑後の衆。

 城の西にある大手口には薩摩大隅肥後の島津本軍。

 野首には日向の衆が詰め寄せ、忠長の号令で猛然と岩屋城に総攻撃を開始した。


「鉄砲を撃ちかけよ! 焦って味方を撃つなよ!」


 鉄砲大将を務めたのは伊集院忠棟であった。

 しかし急峻な崖が続き、木々も残る山城ではその破壊力を発揮することは難しかった。


「さあ押し攻めよ! 臆するは末代までの恥となるぞ!」


 自ら槍を奮って攻め上がるのは山田有信、上井覚兼らだった。


 しかし忠長や島津の将兵には誤算があった。

 それは「外国衆」と称した島津以外の援軍の士気の低さである。


 六州太守である義久を尊敬してやまない島津兵は、大将に恥をかかすまい、島津の名を汚すまい、という誇りがあった。

 その心意気は、おそらく日ノ本の諸大名と比べて類も見ないほどである。

 それはつまり、褒賞のことは二の次とも言えるものだった。


 島津の大将はいずれも優しかった。

 功がなくとも


「命がけで槍働きをしたのに、今回は運がなかったな。次は功をあげるだろうから、よく励むのだぞ」


 そう温かい言葉をかけた。


 功あれば褒美は出るし、功がなくても気を遣う大将に、将兵はいずれも懸命に槍を奮う風土が出来上がっていたのである。

 名君日新斎が残した「いろは唄」の教えは確かに島津の将兵に根付き、それは恐るべき精強さとなって力を発揮するようになっていた。


 しかし、である。

 この岩屋城攻めに参陣した秋月、城井、龍造寺ら諸将の兵は其々三千余りの大軍ではあったが、言わば島津に脅されて、嫌々ながら参陣したに過ぎない。


 援軍の兵たちにとって重要なのは、この戦で褒賞が出るか否か、であった。

 この戦で勝利して褒賞が出るか、あるいは支配地が増えるかというと、それは限らない。

 少なくともこの戦で支配地が増えないのは確実であった。

 筑前国という大商業地帯を島津家が手放すわけがないのはわかりきっていたからだ。


 よってこの褒賞の望めない戦に身が入らないのは、至極当然でもあった。

 もちろん星野のように反大友、親島津感情を抱いて参陣した士気の高い将もいた。


 しかし岩屋城に迫る諸軍に高橋紹運ら八百余りの刃は容赦なく襲いかかり、岩屋城に至る山道には多くの兵の遺骸が次々と積み重なっていった。



 島津軍の攻勢は午前中から攻撃が始まり、夜は子刻(夜零時)まで十二時間も続いた。

 しかし、壮絶にして苛烈な戦が三日も過ぎた頃、島津軍にも動揺が出始めた。


「図書殿。これは非常事態です。全くもってよろしくない」


 垢ですっかり黒ずんだ肌になった伊集院忠棟がいつもの愛想のいい顔つきもなく、厳しい表情で軍議で声を荒げた。


「水ノ手口はまだ見つからんのか?」


 大将の忠長はもちろん言われるまでもなく、この状況のまずさを理解していた。

 この三日間で失った兵の数はあまりにも多すぎた。その数、既に二千余りという報告があがっている。


「くまなく探していますが……」

「言い訳はいい! よく探せ! この際、非道と謗りを受けてもいたし方ない。近隣の農民を折檻してでも聞き出せ」

「……はっ」


 忠長の命を受けて、再び島津の将兵は岩屋山の山林に分け入っていった。



 水ノ手口にはいくつかの意味がある。

 一つは城内の取水場に、城外の川水や、湧き水を引き込む水道である。

 もう一つ、湧き水がなく、川水を引き込むことができない山城の場合は、外の川や湧水地まで手桶を担いで水を汲みに降りる道である。


 いずれも共通して言えるのは、水ノ手口は城を防衛する上で絶対に見つかってはならない場所であるということだ。

 飲み水が枯れれば、尽きないほどの矢弾があっても戦う兵は飢え死にしてしまう。


 そしてこの岩屋城は山城であり、完全に包囲して川に水を汲みに行く道を全て防いでいたので、どこかに湧水があり、それを城内に引き込んでいることは間違いなかった。


 ――水ノ手口を探せ。


 忠長の厳命を受けた島津将兵は手をつくして岩屋山を探した。

 また、近隣の農民に聞いて回ったが、領民は高橋紹運を慕っていずれも口は堅かった。


 しかし。


 一人の老婆が、目もくらむような大金を渡されて、ついに口を割った。

 老婆は身寄りがなく、畑に出て働くこともできず、村から除け者にされて寂しかったらしい。

 老婆に案内されて湧き水の地を探り当てた島津兵は、これを埋め立てて、城へ繋がる水道を破壊した。


「水ノ手口を切りましたぞ!」

「よくやった!」


 事態を好転させる大功に島津軍諸将は沸き立ち、士気もあがった。

 それから三日間、静観していた岩屋城に変化が生じた。


 それまで軍勢が迫れば追い返すように激しく矢弾を射掛けて来て、投石攻撃を仕掛けるばかりだった岩屋城の兵たち五十人ばかりが打って出てきた。


 平地の戦であれば、この日ノ本で島津の兵に敵う軍などありはしない。

 その確固たる信念を持って、一人残らず全滅に追い込み、再び好機と捉えて岩屋城攻めを再開した。


 同年七月二十七日早朝

 これが最終決戦と言わんばかりに、猛然と攻め上がる島津軍に投石を繰り返してまた多くの者犠牲を払いながら各曲輪を制圧していった。

 そして残すは本丸のみとなった。



「ようやく、ようやくここまで攻め上がれたか」


 疲れ果てた様子で三の丸に着陣した忠長が肩を落とす。


「あと一歩でございます。気を抜いている場合ではございませぬ」


 忠棟が温かくも厳しい言葉をかけて忠長を励ました。

 遅れて参陣した上井伊勢守覚兼、山田越前守有信らも投石で拳を砕かれるなどの手傷を負っていた。


 もはや島津軍の将兵は大小問わず怪我をしていない者など一人もいなかっただろう。

 それでも、最後にもう一度だけ降伏を勧めようということになり、伊集院忠棟が本丸に通じる門の前で口上を述べた。


「ここまでの戦い見事でございました! 我ら一同名将の死を欲せず! ただそのお生命をお救いいたしたく存じます! どうか門を開け、城を下りてくだされ!!」


 その声は本丸館の高橋紹運の耳に届いていた。


「ふふ。島津殿は真に噂通りの高潔な家であるようだ。もし生まれ変わるようなことがあれば、島津家にお仕えしてみるのも面白いのかもしれんな」


 だがその紹運の言葉は誰の耳にも届いていなかった。

 周りの兵八百余りは全て討死し、岩屋城に残るのは高橋紹運を含め、十名程度までになっていた。

 いずれの兵も戦う力は既になく、辛うじて息をしている程度のものだった。


 その紹運も、唇はかさつき、頬は痩けていた。もう何日も食料も水も口にしていなかった。

 しかし不思議と腹は空いていなかった。



「だが今世に於いて忠節を尽くすは大友であると決めたのであればこそ」


 朦朧とする意識を振り払い、鉄砲を杖代わりにふらつく足で館の天井裏を伝って屋根に上がると、門の外にいる将らしき姿に種子島を構えた。


 もちろんそれは島津軍にも見えていた。


「右衛門殿! お下がりください、狙われています!」

「ならぬ!」


 忠棟の鋭い声が、騒ぎ立てる島津兵を鎮めた。


「これは高橋殿の最後の意地である! これに臆するは島津が将の恥である!」


 そう言って、直立不動のまま屋根の上に構えた高橋紹運に呼びかけた。


「さあどうした! 島津家筆頭家老、伊集院右衛門大夫はここだ! 逃げも隠れもせぬ! 見事のこの眉間を撃ちぬいてみせよ!!」


 岩屋城に訪れる一瞬の静寂。


「よう言うた!」


 ――名将の声と、鳴り響く轟音。


 しかし、忠棟のはるか後方に土煙があがった。

 もはや紹運に照準を定める力は残っていなかった。


 高橋紹運は入道である。仏教は自殺を禁じるとされる。よって命運は決すれども自らの腹を切れない。

 紹運は念仏を三回唱えると屋根を駆け下りた。そして残った兵を集めて本丸を包囲した島津兵に飛び込み、乱戦の最中で全員がその生命を散らした。



 骸をば 岩屋の苔に 埋てぞ

 雲井の空に 名を留むべき



 高橋紹運、辞世の句と伝わる。




 天正十四年(一五八六年)七月二十七日

 島津軍が岩屋城を攻め、ついに落城。


 城主高橋紹運は自決。

 城兵七百六十三名、全て討死。


 これを攻めた島津軍は五万とも。

 その被害は甚大でその死者は二千とも負傷者は五千とも、数えきれず。



 首実検に及んだ忠長は敵軍の名将の死を深く嘆き、跪いて悲しんだ。


 本丸館から遺骸を下ろす時、島津兵の誰かが言った。

 銃を撃つ前に、絶対に聞こえないような小さな声だったが、確かに屋根の上からその声を聞いたと言う。


「だが、我らの勝ちだ」




 また、落城のきっかけになった名も無き老婆の裏切りは、いずれ農民たちの知る所になり、怒った農民たちは老婆を湧き水の近くまで引き連れると、上から石を積み重ねて生き埋めにしてしまったという。


 その「石こづんばば」の伝説は後の世に残っている。

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