第五十三話 筑後平定
天正十四年(一五八六年)一月
前年の十二月から豊後に通じて反乱を起こした阿蘇高森城の高森惟直を攻め立て落城せしめたのは二十三日になる。大将は新納武蔵守忠元だった。
義久は豊後と日向肥後国境での諍いの介入に決定したものの、もちろん関白秀吉に対して弁明することを忘れることはなかった。
『関白殿の九州での戦禁止について、天子の言葉も添えて寄越してきました。
ただ言われるまでもないことですが、先年の信長公の才覚によって近衛前久様の仰せの通りに豊薩和平に及んで、当家はこれを守ってきました。
しかし和平を望まぬ豊後の者が日向、肥後の境を破って騒がしています。
これを黙って成すがままにされるわけにはいかないので、仕方なくこれに相応の防戦をします。
そういうわけなので、当方の改易に値することではないですので、ご容赦くださるように関白殿に伝えてください。
恐々謹言』
どう見ても詭弁であることは承知の上であったが
「何もしないよりはマシであろう」
義久は心配する歳久に笑い、その書状を歌道を通じて親交のあった細川幽斎宛に送り届けた。
それまでは島津家内部でも天下に臣従すべきか、抵抗するべきか意見が二分されていた。
だがそれも五月下旬になって九州国分案の下知によって、状況が一変する。
秀吉に謁見した鎌田刑部左衛門尉からの報せに義久を始め多くの者が激怒した。
「何故肥後に大友が入るのだ!?」
「肥前に毛利が入るとは一体どういうことか!」
秀吉の九州国分案は次の通りだった。
肥後北部の半国、豊前半国、豊後、筑後一国が大友氏。
肥前に毛利氏。
筑前一国が秀吉の直轄地。
その残り(日向、薩摩、大隅、肥後の南部)が島津家。
六州の地は島津軍の名のある者、名も無き者、多くの血を流して勝ち取ってきた土地である。
島津家臣団の苦労を考えれば到底受け容れることが出来ない案だった。
「結局、得をするのは関白の威を借る大友ではないか! 武家の風上にも置けぬ卑怯者め!」
「それでなお関白の力で薩摩に攻め入ることを企てるとは、史上稀に見る大罪人である!」
口々に怒りの言葉を吐き散らす家臣団を抑える術はなかった。
また義久も、天下静謐の為云々などに従って、多くの者たちの血と涙が染みこんだ地を安々と譲ることなど出来なかった。
「秀吉という者は、最初から我らが地を安堵する気はなかったのだ」
評定の場で、義久は怒りを露わにして吐き捨てた。
「秀吉が下向する前に九州を平定し、これに相対するべし」
義久は大友征伐を決断した。
しかも秀吉本軍が九州に到達する前に九州全域を制圧しなければいけない。
「然らばいささかの迷いも見せず、ただ突き崩そう」
「これは賭けでございますな」
「島津の名、知らしめてみせましょう」
義久の意向を受けた忠平、歳久、家久、そして以久、忠長ら諸将は、その瞳に英勇の炎を灯らせて鬨の声を上げる。
関白羽柴秀吉の九州下向を前に、島津家最後の猛攻が始まろうとしていた。
同年六月七日
肥後口と日向口の二手に分かれて豊後に攻め入ることに決定。
先ず進軍目標となったのは肥前国の東端の鳥栖の地を領する筑紫広門である。
筑紫氏は元々大友家の傘下にあったが、天正六年(一五七八年)の高城川の戦いで壊滅した大友家に見切りをつけて離反。
以後龍造寺、島津家に従属したが、再び大友家臣の高橋紹運と縁戚になって再び大友家に属した。
筑紫広門が拠点としていたのは肥前国と肥後国を分かつ九州の要、鳥栖の地で、その北部一体の山全体に、勝尾城、鷹取城等、他大小様々な山城を築いていた。
島津軍が肥前筑紫攻めのために鹿児島を出立したのは同年六月十三日のことである。
総大将は島津家十六代、六州太守修理大夫義久。
以下大将は肥後国守護代である忠平、歳久、家久。そして義虎、忠長、歳久の嫡養子である忠隣ら。
他、伊集院忠棟、喜入季久、鎌田政近、新納忠元、山田有信、梅北国兼、等。
そして島原の合戦で龍造寺隆信の首を討ち取る大功を上げた川上左京亮忠堅の姿もあった。
同年六月十八日
筑紫勝尾城を包囲して攻め立て、一日で落城させた島津軍はさらに一帯の支配に向けて攻勢を強めた。
同年七月六日には勝尾城の支城の一つ、肥前鷹取城を包囲した。本城の勝尾城は既に落城していたが、なお頑強に抵抗を続けていたのである。
ここには筑紫広門の弟、筑紫晴門が城主を務めて籠っていた。
鷹取城の包囲を担当していたのは、歳久の嫡養子、三郎次郎忠隣。そして川上忠堅、喜入季久らの諸将である。
「筑紫城は既に落ちたというのに実に頑固ですな」
「いっそ力攻めといかんでしょうか。こうしている間にも秀吉の軍勢が迫っておるかもしれないのに……」
軍議でボヤく季久に、焦りを隠さずに声を上げたのは忠隣だった。
「若殿、焦られるな。焦って無駄に兵を失うことになれば、秀吉が軍勢が迫った時に抵抗する兵がおらんことになります」
「忠隣に秘策がございます。拙者に五十ばかり兵を預けてくだされ。裏手から密かに攻め上がります」
季久は歳久から忠隣を預けられた際に「無謀と勇気を履き違えている節があるので、無理なことを言ったら遠慮せずに諌めてくれ」と言いつけられていた。
(なるほど、これがそうか)
季久は得心して、その無謀さを丁寧に諌めた。
「それは策ではございませぬ。策とは相手の虚をつくことで手足をもぎ、思考を止めさせること」
「う……」
「密かに攻め上がると言って城から丸見えの土塀に取り付いたところで、鉄砲でズドン、です」
「うーん……」
忠隣は口を尖らせて、腰を落とした。
忠隣は天正十四年(一五八六年)のこの時、十八歳。
元服して大人の仲間入りを果たしたというのに、まだまだ若いと思われているのが大層気に入らない様子で、軍功を上げて周りに認めさせようと焦っていた。
「もう一度、下城勧告を致しましょう」
川上忠堅はそう言うと、筑紫城は既に落城してこれ以上の抵抗は無意味なので早々に降りるように、と伝える降伏の使者を立てた。
それまで降伏を進める使者に会おうともせずに追い返していた筑紫晴門だったが、この降伏勧告の使者に応じた。
「一騎打ち?」
筑紫晴門の返答に島津の将兵が誰しも口を揃えて驚いた。
「はあ。
『当方既に抗する力なしと言えども、兄より城を預かった身。武士の誇りあり。この誇りを汚さんためにも一騎打ちにて勝敗を決したり』
とのことです」
もう一度、晴門に面会した使僧が晴門の伝言を口状する。
「このご時世に一騎打ちとはなあ」
一騎打ちは平安の世の後わり頃から合戦の形として盛んにあった様式である。
大将、もしくはそれに同格の将同士が争って戦の勝敗を決した。しかし武士の時代になって組織化、集団化されていって一騎打ちの風習は廃れていった。
もちろん戦国の世にあっても、戦場における偶発的な一騎打ちはあったが、こうも正々堂々と一騎打ちを申し込まれることはなくなっていた。
困惑した季久を尻目に、喜々として立ち上がったのは忠隣だった。
「面白い! 是非拙者にお任せくだされ!」
「いやいや、若殿。お控えくだされ」
季久が首を振りながらそれを制する。
「止めてくれるな摂津守。島津の御家は武士の誇りを汚すようなことを良しとするのか」
「ご自身のお立場をお考えくだされ、と申しているのです」
「……」
忠隣は露骨に不機嫌そうな顔に変わり、その場でうつむく。
「若殿は太守の御孫であり、太守の次弟、当家が誇る金吾大将軍が嫡子にございます。もし若殿の身に万が一のことがあれば、金吾様より若殿をお預かりした拙者も申し開きができませぬ。そればかりか若殿のお命によって相手方が勢いづくかもしれませぬ。若殿の身の振り方一つで、大勢さえも動きかねないということをよくよく心得てくだされ」
季久の優しい声の説教は忠隣に理解させるのに十分だったが、まだ納得させることはできなかった。
「では先方の申し出をいかが致すのだ」
忠隣のふてくされた声に応えたのは、かの名将であった。
「ならば拙者がお相手いたそう」
「左京亮殿……」
活力みなぎる川上忠堅が、すっくと立ち上がった。
川上忠堅はこの肥前鷹取城包囲陣の大将を勤めている。
「肥前の名君、隆信公を討ち取りし拙者であれば、いかなる結果になっても先方も納得しよう」
「しかし陣大将自ら一騎打ちとは……」
季久はなおも渋ったが、それ以上は止めようもなかった。
「では――」
それに付け加えて忠隣も立ち上がった。
「――ではせめて拙者も見届人として名乗らせてくだされ」
同年七月六日午後
鷹取城の大手口前に四十間余りの広さがある場所で、一騎打ちが行われることになった。
両軍が固唾を呑んで見守る中に、鎧装束を脱いで身軽な袴姿になった両者が相対する。
「此度の申し出を引き受けてくださったこと、島津家の心意気を真に嬉しく思う! いかなる結果であっても全てを受け入れることを神仏に誓おう!」
最初に名乗りを上げたのは筑紫晴門だった。
「拙者は鷹取城が城主、筑紫広門の舎弟、晴門である!」
大太鼓が打ち鳴らされ、筑紫勢からやんやの喝采が起きる。
「筑紫殿の一騎打ちの申し出、その心意気や天晴である! その心意気に応えるは武士の誉!」
その名乗りに応える、忠堅。
「拙者は島津が陣大将、川上左京亮忠堅である!!」
一際大きい声が鷹取城に響き、筑紫勢よりも大きな太鼓と喝采が島津勢より上がった。
筑紫の兵たちから「川上左京?ひょっとして肥前隆信公を討ち取ったという……」とおざわつくのを制するように、島津軍からも一人、鎧武者が名乗りでた。
「この一騎打ちは島津家御大将の舎弟が一人、左衛門督歳久の嫡子、三郎次郎忠隣が見届人を果たす! 双方、一切卑怯な振る舞いを許さず、しかと刮目すべし!!」
その声に、両軍からワッと喝采があがり、すぐに静まりかえる。
死と隣合わせの緊張感に包まれて、両軍の兵全ての視線が中央の二人の武者に集まった。
合図があるわけでもなく、どちらかと言うこともなく、二人は抜刀し構えた。
忠堅は太刀を右手に持って下段の構え。
晴門は太刀を両手に持って中段に構えた。
すり足で間合いを詰めて、太刀が届く、と誰しも思った刹那に三撃。
忠堅の下段の太刀を避けた晴門が胴薙ぎの中段を打ち込み、忠堅は刀を合わせて払ったが、さらに上段から打ちかかった晴門の太刀をいなす。其の反動で躰を引いた晴門の隙に忠堅の刃が喉元を突いたが、それを紙一重でかわし、間合いから外れた。
「おお」
瞬きを許さぬ刹那の攻防に、どちらかというわけでもなく、静かなどよめきが両軍から沸き立つ。
「互角……」
季久が生唾を飲み込み、厳しい表情を見せた。
しかし、勝負は思いがけない形で決着した。
再びすり足で間合いを詰めた所で、晴門が足元の土を蹴り上げた。
「あっ」
蹴りあげた土は忠堅の顔にかかり、虚を突かれた忠堅を右上から左下に、袈裟斬りに刀を振り下ろした。
――避けられない!
島津軍が誰しも覚悟した時、忠堅は大胆な行動を取った。
「ふん!」
その太刀を右肘で受け止めたのだ。
「なんと!?」
驚愕の表情を見せて動きが止まった晴門の心臓を、忠堅は左手に持ち替えた太刀が深々と突き刺し、その刃は背中に抜けた。
「お……お見事……」
忠堅に覆いかぶさるように晴門が崩れ落ちて絶命した。
「勝負あり!!」
忠隣は手を上げて、忠堅に駆け寄る。
周りはどよめきとも、悲鳴ともつかない声に包まれていた。
「左京、左京! 大丈夫か!」
忠隣の腕の中で、忠堅も崩れ落ちた。
「無残な……」
忠堅の右肘から下は斬り落とされ、刃が左の鎖骨を砕いて届いていた。
肘から溢れだす血の塊が大地を赤く染める。
「どうです。拙者の勝ちにございます」
「見事だ、見事であったぞ、左京。島津が武士の意地、しかと見せてもらった」
忠隣は血で汚れることも気にせず、止血処理を施しながら勇気ある島津の豪将の栄誉を称えた。
「なんの……これしき……」
呟くように忠堅は意識を失った。
その時だった。
「おのれ島津一族め! 覚悟!!」
晴門の遺骸を引き取ろうとした筑紫の将兵の一人が、双方油断していると見るや忠隣に斬りかかってきた。
刃は忠隣の肩をかすめて大地に突き刺さり、転倒する。
「不届き者!」
一斉に抜刀した島津の兵たちに押しかかられて、その将兵はあっという間に絶命した。
「若殿平気か」
「大丈夫だ、肩を少し斬られただけだ」
季久に抱えられた忠隣は苦悶の表情を浮かべて頷いた。
「筑紫の将兵ども! 見事武士の矜持を示したお主らの大将の名誉を汚すようなことがあらば、この場で全員討ち果たすぞ!!」
季久の怒号に筑紫兵が押し黙る。
一触即発状態の中、筑紫の兵から一人、袴姿の老人が進み出た。恐らくは名のある将の長老のはずだった。
「そこもとのご無礼の段、ご容赦いたしたく、吾が腹でお赦しあれ!!」
そう言って素早く衣服の前を開けて正座すると、その腹に自らの脇差を突き立てた。
短い呻き声をあげて、老人が前のめりになった所で、筑紫の兵が一人進み出た。
「お見事にございます!」
そう言って老人の首を斬り落とした。
天正十四年(一五八六年)七月六日
肥前鷹取城落城。
島津左衛門督歳久の養嫡子、忠隣も手傷を負ったが、島津一族に身を置くとはどういう事であるか、思い知った戦でもあった。
また、一騎打ちを征した川上左京亮忠堅も相打ちとなって、翌明け方に息を引き取った。
享年二十九歳。
それを看取った多くの島津の将兵が篭手を濡らし、豪将の死を惜しんだ。
同年七月十日
最後に残っていた鳥栖の城、勝山城を包囲された筑紫広門は降参。
城を放棄して何処かに逃れた。
筑紫広門は時流を読んで、大友、龍造寺、島津、そして再び大友へ属して生き残りに腐心した将である。
その節操の無さと忠孝心の無さに多くの者が嘲り笑ったが、弱小国人衆が生き残って名を後世に残すためには、どれほどの策があろうというのだろうか。その答えは岩屋城に一つあるのだが、筑紫広門は戦国乱世の荒波に飲み込まれた悲運の将として、その名が残る。
なお、山中へ逃れる姿を見て、古い和歌を思い出して残したと言う
なからへは また世に出でん 折もあり
山の奥迄 照らせ月影
こうして筑後から肥前東端の一帯を治めた島津軍はさらに北上して、ついに筑前国に侵入した。
筑前国の進軍目標は岩屋城、そして立花山城。
筑前国を制圧すれば残るは豊後国と豊前国である。
しかし豊前国は城井氏が既に島津家に従属するなど既にその大半が島津家の旗下に入っていた。
事実上、大友家の支配地は豊後国と筑前国の二国のみである。
岩屋城の城主は高橋鎮種入道紹運。
そして立花山城の城主は立花統虎。
高橋紹運は雷将・戸次道雪と共に、衰退著しい大友家を支えた重臣の一人で、なお忠節を示す武勇の誉れ高い名将であった。
そして立花宗茂は高橋紹運の実子で、幼い頃から才覚を現した。その評判を聞き及んだ戸次道雪に懇願されて立花家の養子に入り、その跡目を継いだ。
後の世に西国無双とも称賛される立花統虎と島津家の運命の出会いが、この立花山城で待ち受けていた。
一方その頃、大阪城。
痩せこけて頬の出張った一人の男が本丸館の上座に在って報告を聞いた。
その身には不釣り合いなほど金色の糸で縫い合わせた派手な身なりで、ちろちろとまばらに伸びた鼻髭をなでつける。
「島津が動いたかよ。まっこと聞き分けのない田舎武士よ」
「軍勢二十万、すぐにでも起こせます」
それを聞いた男は、ふぇふぇふぇ、と息の抜けた笑い声を上げて扇子を開いた。
「急くな、急くな。三成」
一扇ぎして、閉じた扇子を手元で転がして遊ぶ。
「徳川殿が未だ頭を下げに参らん以上よ、まだ動けんわ。毛利殿に九州に出張るように命じてたもれ」
「畏まりました」
頭を下げた石田三成に付け加える。
「朕が赴くまで無理に戦を仕掛けんでもええで」
「承知仕りました」
退出する三成を見送った関白秀吉の瞳が怪しく光っていた。




