第五十二話 九州惣無事令
内城にほど近い武家屋敷郡の一角に、質素な作りの屋敷があった。
茅葺きの門、茅葺きの屋根。
枝が細かく絡み合い、冬でも青々と茂る木で屋敷を囲んでいる。
広くもないが、狭くもなく、ごく普通の屋敷である。
ただ屋敷を取り囲む番兵の数の多さによって、その屋敷の主が、時の権力者である事を示していた。
間もなく陽が沈む頃。
屋敷の外れに駕籠が一つ止まる。
「ご苦労であるな」
駕籠から出てきた男が一人、番兵に声をかけた。
「金吾様、お待ちしておりました」
「うん」
歳久は狭い駕籠の中で硬直させていた身をほぐすように軽く伸びをした後、僅かな供回りを連れて屋敷に通された。
「あれ? 拙者一人で? 上と下は?」
「上は肥後の安寧で忙しいから呼んでおらん。下は追って参る」
「内密の相談とは一体何事でしょう」
歳久は夕刻になってから参るように、と言われて一人呼びだされていた。
歳久だけが他の二人の兄弟を差し置いて内密に呼び出すことなど、これまでなかったことだった。
「先ずはお主の見解を聞きたい」
義久はそれだけ言って一通の書状を、膝の前に手をついた歳久に差し出した。
「これは……」
歳久は書状の差出人を一見して言葉を失い顔を曇らせた。
『勅諚(天子の命令)によって筆をとる。
天下に泰平をもたらすように命を受け、関東は残さず奥州の果てまで残さず静謐となった。
ところで、九州において今も争っているようだな。
國や郡などの境界については、お互いの言い分を存分に聞いて天子に召し届けるので追って沙汰があるだろう。
先ずは敵味方双方が弓矢を交えることをやめるべきだ。
これは叡慮(天子の意向)であり、これを受け入れることは当然のことである。
もし争いをやめないのであれば、きっと御成敗なさるであろう。
この返答は各々がための一大事である。慎重に考慮、判断して実行すること。
十月二日 秀吉
島津修理大夫殿へ』
秀吉の九州における戦の禁止を言い渡す書状を一読した歳久は腕組みして、何処を見るというわけでもなく考えこんだ。しかし重い口を開いたのはすぐのことだった。
「『勅諚』やら『叡慮』やら、天子様を持ち出せば言うことを聞くだろうという秀吉の浅ましい魂胆は理解しました」
秀吉の不躾な書状に苛つきながらも、考えを整理しつつ歳久は言葉を選ぶ。
「この話の要は、秀吉が言う通りに戦を止めたとして、これまで当家が必死の思いで切り取った領地が安堵されるか否か、ではないでしょうか」
「うむ」
義久は腕組みして、顎髭を撫で回す。
「早々に和睦した毛利殿は安堵されたようだが、歯向かった四国の長宗我部殿は元の領地である土佐一国を安堵されたようだ」
「寛大なのか何なのか、秀吉という者はようわかりませんな」
「大人しく臣従すれば余程の不始末がない限りは安堵されるやもしれんな」
「いずれにせよ所領安堵が確約されない限り、安易に頭を下げるべきではないかと」
歳久はさらに確認するように義久に尋ねる。
「関東から奥州まで泰平にした、というのは真でしょうや?」
「それは探りを入れんと分からんな。風聞では奥州の伊達政宗公は大変な張り切りようで駆けまわっているらしいが」
また義久も歳久に問いを重ねる。
「この秀吉の書状は奥州、関東、九州の当家、豊後、各々に届けられているだろう」
「はい」
「その全ての家が書状を無視して戦に励んだら、それを大義名分として成敗に及ぶだろう」
「そうでしょうな」
「では先ずどこから仕掛けると思う?」
歳久は再び考えこんだ。しかし鋭い目つきで、義久に視線を送る。
「当家ですな」
義久は深く、何度も頷いた。
「やはり、そう思うか」
「奥州と九州なら、九州の方が京から近い。さらに奥州の冬は寒く、行軍もままならぬほど雪深い地をまたぐこともございましょう。しかし九州ならある程度、時期を選ばずに軍勢を送り込むことができまする」
「うむ」
「そして標的となるのは衰退確実で御しやすい豊後ではなく、薩摩に向くもの、と推察いたしました」
義久は眉間に縦シワを寄せて難しい表情のまま目を閉じて、長く、ゆっくりと息を吐いた。
「あとは……六州太守が農民に頭を下げることを臣下が許すか否か、といったところですかな」
義久は苦笑して「お主らしい言い草だ」と呟いた。
「秀吉という者は百姓の身分から天下人になろうというのですから、やはり一廉の人物なのでしょう」
義久は「うむ」と相槌を打つ。
「此度の難題について、これまで通り最終的な決断は兄上に一任することに変わりはございませぬ。一戦交えて武家の矜持を示すことも、また出自はともかく、天下に頭を下げることが島津が領民の安寧のために必要とあれば致し方ないこととも存じます」
歳久は微かに笑って冗談ぽく付け加えた。
「……拙者としては一度天下人相手に戦ってみたい気もしますが」
笑みを浮かべながら鋭く光る眼差しに、歳久の言葉が本当に冗談なのか、義久には判断が付かなかった。
「風聞によれば二十万の軍勢を起こせるらしいぞ」
「それはそれは……。桁が一つ違いますなあ」
歳久は首をすくめて、二十万の軍勢が内城を囲む様を想像しようとしたが、見当もつかないので振り払った。
「談合衆はどうなさるので?」
「又七郎と図書頭、あとは北郷殿、家老衆といったところだな。返答案やら細かいことは連中に任せる」
「ちなみに拙者だけ密かに呼んだのは……」
「お主がいると談合にならん。お主はお祖父様の『終始の利害を察する云々』という評判が一人歩きしているからな」
「談合では大人しくするのに……」
口を尖らせる歳久に、義久は思わず声に出して笑った。
既に日が暮れて辺りは暗く、折角なので、ということでそのまま義久の邸宅で久々に二人きりで酒を飲み交わすことになった。
大根の漬物と鹿児島湾で釣れた魚を焼いたものを肴に、焼酎をお互いの猪口に注ぐ。
あいにくと月は既に西の空に隠れていたので、蝋燭の僅かな灯りで星見酒と洒落こんだ。
と言っても義久は下戸で、ほとんどお酒を飲めなかったので、お湯を九割、酒を一割のほぼ水のような焼酎である。
「虫気の方はどうなので?」
「相変わらずだな。なんともない時はなんともないが、痛む時はことさら痛い」
「これからの難事、兄上がおらんことにはどうにもなりませんぞ。養生してくだされ」
歳久は一息で猪口を空にして自ら注ぐ。
「お主こそどうなのだ。最近、時折手足が痺れるとか言っておったが」
「相変わらずですな」
「お互い年を取ったものだ」
「全くで」
膝を崩して語らい、笑い合う兄弟を松虫の声が包み込む。
天正十三年(一五八五年)のこの年、義久五十三歳、忠平五十一歳、歳久四十九歳、そして家久三十九歳。
義久辺りは戦国の世のならいとして、そろそろ人生の幕引きを考えだす年齢である。
しかし義久には重大な課題が残っていた。それは島津家の家督問題である。
「家督はやはり万寿丸に?」
「おう。あれはいいぞ。亀寿も大層気に入って花嫁修業に本腰を入れておる」
「来年かそこらには元服ですかな」
「うむ」
義久はニコリと笑って猪口を空にした。
結局、義久に嫡男は恵まれず、三人の女子を授かった。
長女の於平は出水の薩摩守義虎の元に嫁いで六男一女の子宝に恵まれた。
次女の於玉は叔父忠将の孫、彰久に嫁いでこの年四月に嫡男を生んだ。
そして三女は亀寿で、この年十五歳になる。
亀寿は誰が口にするわけでもなかったが、決して美人ではなかった。
衆目美麗と評判だった島津家の国母、梅窓夫人の血を継いだ子供たちは、いずれも美男美女揃いと評判だったが、亀寿だけはどういうわけかパッとしない顔つきだった。
太い眉に、少しタレ気味な大きい瞳に、浅黒い肌。
色白が好まれた当世では誰しもその将来を心配してしまうほどである。
しかし、義久だけは外見ではなくその優れた内面に目を細めた。
人当たりの良いおっとりとした性格で、そのくせ細かく気配りが効いて、頭脳明晰な亀寿こそが島津家を代表するに相応しい武家の女である、と溺愛した。
嫡男に恵まれなかった義久は、周りの者たちとも相談して、忠平の次男、万寿丸を養子に迎えると同時に、亀寿と婚姻させて家督を継がせると決めた。
忠平と宰相殿の間には五男一女を授かったが、長男は夭折。しかし次男の万寿丸は健やかに育った。
万寿丸は大変勇気があって弓矢や槍の扱いが上手いばかりか、詩歌も覚えて賢く、政の機微も察しがいい、と幼い頃から大器と評判だった。
その評判に義久、忠平ばかりか一族からも「このまま太守に嫡男が恵まれないようなら万寿丸を太守の御養子に」となるのは自然の流れだった。
この年、万寿丸は十三歳。来年か再来年には元服式を執り行なおう、という話をしていた。
また万寿丸と亀寿はつい最近になって顔合わせを行った。
少しだけ話をさせたが万寿丸は亀寿をとても気に入り、亀寿も万寿丸に一目惚れした様子で、遠慮気味に「次はいつ逢えますでしょうか」と父に尋ねる可愛らしいその姿に義久は嬉しくもあり、娘を手放すことになる切なさに、うっすらと涙をこぼした。
ちなみに万寿丸の下に十歳になる弟がいて米菊丸と言った。
こちらは周囲から期待を一身に背負う万寿丸と違って、武士の習いをよくサボり、そのくせ妙に疑い深く、さらには人を見て態度を変えるひねくれた物の見方をする性格で、相当な問題児だった。
なお、家督については忠平に相続させてから万寿丸に継がせる、という手順も相談したが、忠平は頑なに
「拙者は太守の一舎弟であって、太守を差し置いて家督を継ぐことだけは断固として辞したい」
と拒絶したので、万寿丸を義久の養子としてから相続させる、という話でまとまっていた。
「そういえば、お主の子息はどうなのだ」
「忠隣は若いですな。勇気と無謀を履き違えております。もし戦場で無理を言うようであれば、よくよく諌めてくだされ」
「誰に似たのやら」
「全くです」
歳久もまた、嫡男に恵まれなかった。
そこで薩摩守義虎の子、つまり義久にとっては孫にあたる、次男の忠隣を養子に迎えると、歳久の長女と結婚させてその跡目に据えた。
「うーむ。どうやら酒が回ってきたな。酒はもういい、茶を持ってまいれ」
「え、もうですか?」
「無理なもんは無理だ」
そう言うと義久は奥のふすまに向かって茶を持ってくるように命じた。
義久は下戸だと言って、酒を嗜むことがなかった。
酒宴の席では義久の代わりに歳久が盃を受けることが専らだった。
義久は照れくさそうに笑って誤魔化すが、歳久は、実は義久が人並み程度に酒を飲めることを知っていた。
そして何故酒を飲まないのか、その理由を考え、察していた。
義久は島津家の頭領であり、六州太守である。
その双肩には六州の将、兵、領民。何万、何十万という命がかかっていた。
義久の命令一つでそれらを活かすことも、全滅させることもできる。
太守はいつ何時、不意に判断を迫られるか分からない。
その強い責任感から、判断を鈍らせる酒に浸ることを嫌っているのではないか。
「兄上は随分と堅苦しい生き方をなさる」
歳久は独りごちて義久の生き方を哀れんだこともある。
忠平、家久は肥後国守護代、佐土原城主という責任ある立場に就いているが、所詮は次男と末弟である。
その生命の重さは、義久のそれとは比べようもない。
気ままに槍を奮う忠平と家久に、義久が憧れを抱いていることを、歳久は知っていた。
それでも全ての感情を飲み込んで冷徹に太守として振る舞い、島津家が進む道を照らし、示す義久に、歳久は心から尊敬していた。
もちろん忠平も家久も太守として兄としての義久を心から尊敬していたが、歳久のそれは少しだけ趣きが異なっているのかもしれない。
秋の夜長に義久と歳久はその後も島津家のこと、兄弟のこと、そして昔話に花を咲かせてこの日は一泊し、翌早朝にはまた密かに宮之城の居城、虎居城まで戻っていった。
中務大輔家久、図書頭忠長、北郷時久、そして筆頭家老の伊集院忠棟、平田光宗、町田久倍、本田親貞、伊集院久治、上原尚近、上井覚兼らが集まったのは十月七日のことである。
後の世に九州惣無事令と呼ばれる今回の書状に対する対応、そして返答内容について喧々諤々の相談が連日行われた。
その談合では、鎌倉以来の名家である島津家に比べて、関白秀吉の出自について疑問を呈された。
書状の内容は無視してもいいのでは、という極論から返答を返すにしても本人ではなく別の者に返すぐらいでいいのでは、さらには生糸を献上してご機嫌とりでもしておくのはどうか、等々の話が出てきた。
結論としては、今回の秀吉の惣無事令に従うこととした。
ひとまず義久は日向、肥後、薩摩、大隅、以上4つの地が島津家の直轄地。
肥前は龍造寺、筑後は秋月等、島津家に従属する諸家の支配する地と定め、残りの豊前、豊後、筑前については大友家の地という認識の元、秀吉の下向を待った。
なお、この年忠平は足利幕府十四代将軍義昭より十一月十八日付の書状で偏諱を賜ることを許可された。
天正十四年(一五八六年)八月に義珍と諱を変え、さらに義弘と改めるのは天正十五年(一五八七年)の事である。
天下のうねりに島津家もまた、生き残りを賭けた慎重な舵取りを要求される中、義久を悩ませる事態が起きる。
そのきっかけはこの年、天正十三年(一五八五年)十二月に起きた阿蘇における騒乱であった。
豊後国に接する肥後の地が、阿蘇である。
火ノ岳、阿蘇山を擁するこの地は古くから信仰の対象となって栄えた歴史を持ち、この地を治めた阿蘇大宮司とそれを支える甲斐氏は既に衰退していた。
しかし島津家の門をくぐることを良しとせず阿蘇山南側の外輪部に阿蘇高森城を築き上げ、島津家の肥後平定に抵抗する最後の砦として気炎を上げていたのが高森惟直である。
一方の義久も秀吉の惣無事令の手前、無理な肥後平定は秀吉の九州下向の名分を与えることになる、と考えていたので、敢えて捨て置いていた。
しかし高森惟直が豊後と通じて豊後兵を阿蘇に引き込む気配あり、という報せを受けてその考えを改めた。
さらには、高知尾の地における豊後勢の騒乱だった。
豊後国に接する日向の山間には高知尾と呼ばれる地がある。
高知尾もまた天岩戸伝説など神話の舞台となった名残がある場所であった。
高知尾の地は別に高千穂とも呼ばれる。
その地で大友家に恨みがあって離反した入田義実らの一党が豊後の討ち手と争い、多数の死者が出る騒ぎがあった。
義久は思いを巡らせた。
この国境での争いに介入すれば秀吉の惣無事令に反した、として島津家に討ち入る名分を与えてしまうだろう。
ではだからと言って騒乱を治めずに見逃していたら一体どうなるのか。
義久は高森惟直がそこまで考えて行動しているのかわからなかった。ひょっとしたら関白の謀略か、とも疑った。
一つ確かなのは大友宗麟がこの春に上洛して秀吉に謁見し、九州に下向して島津を誅伐するように願い出た、ということが判明したことだった。
どうやら秀吉にも事情があって今すぐの下向は無理だが、ということで、あの惣無事令の書状が届いた経緯を知った。
「秀吉の天下などやはり言葉だけのもので、実に軽々しいものよ。大友の訴えに便乗して、最初から九州に下向する名分が欲しいだけなのだ」
義久は嫌悪感を露わにして、日向と肥後の境界での争いに介入することを決定した。
しかしこの時、秀吉には九州の諍いに介入できない止事無き事情があった。
一つは徳川家との争い。
小牧・長久手の戦いでの和睦した後も上洛を拒んでいた徳川家康の説得工作が続いており、予断を許さない状況だった。
もう一つはこの年の十一月二十九日に起きた大地震。
夜遅く丑の刻(二十二時頃)に発生した大地震は天正地震と呼ばれ、後の世の調査研究においても震源地不明な広域大震災である。
被害としてはまず北の若狭湾、南の伊勢湾でそれぞれ津波が発生し死者を出した。
秀吉配下の近畿から東海地方にかけての各城が倒壊し、中には火災が起きて全焼する所もあった。
極めつけは飛騨国の帰雲城である。
大地震によって山崩れが発生して帰雲城を飲み込み、これを埋め尽くした。
帰雲城の城主は内ケ島氏理と言って、飛騨国の国主となった秀吉配下の金森長近と和睦したばかりであった。
折も悪く帰雲城の城主、内ケ島氏の氏族は和睦によって家名が守られたことを祝うため、子女を含めた一党、家臣全員が城内に居たため、この瞬間を以って内ケ島氏は滅亡した。
秀吉はこれらの震災からの復興のため、九州に軍勢を差し寄越すところではなくなってしまった。
そんな不幸な行き違いもあり、九州と島津家の運命は大きく揺れ動いていく。




