表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦国島津史伝  作者: 貴塚木ノ実
九州平定
52/82

第五十一話 肥後平定

 天正十二年(一五八四年)

 龍造寺六万の大軍に島原の地で大勝した後、義久は再び肥後の制圧に勤しんだ。

 しかし四月になると肥後一揆が勃発し、その鎮圧に追われることになる。

 また義久は薩摩から肥後へはどうしても九州山地を超えねばならぬ不便さを解消するために、肥後の中ほどにある八代の地に忠平を置いて、肥後の守護代を命じた。


「拙者が兄に代わって肥後の地を治めるとは、なんという大役だ」


 忠平はここ最近、槍働きから遠のいていたので、義久の役に立てることを殊更喜んだ。



 また、島原に於ける龍造寺大敗の報せは大友家にも届いていた。

 そして大友宗麟は島津軍の強さがなお健在であることを知り、身を震わした。


「本当に六万を相手にわずか六千ばかりで破ったというのか?」


 大友宗麟は紅色に輝く南蛮酒の入った錫の器に口をつけ、続々と届く島原の報に唇を噛み締めた。


「数については誇張もあるかと存じます。伝え聞いた人数は龍造寺軍は最低二万五千、最大で六万。島津軍は三千から最大で八千程度。……いずれにせよ寡兵にございますが」

「島津恐るべし……」


 器を握りしめて、大友宗麟は島津の刃が豊後に向けられることを恐れた。

 嫡男義統に命じると島津修理大夫殿宛に高木・島原での合戦での勝利を祝う書状を贈らせた。

 その書状は五月二十八日付の事である。


 この頃の豊薩の和睦は信長亡き今、事実上その名分は喪失していたが、大友家は島津家の侵攻を恐れて。

 島津家は九州平定を進めるにあたって多勢を相手にすることを避けるために。

 お互い時々刀や馬を進上しあって、なんとか保たれているような状況だった。

 特に島津家が畏れたのは雷将と名高い戸次道雪の存在だった。


 阿蘇家の甲斐宗運しかり、龍造寺家の鍋島直茂しかり、九州の大名には要石のような存在の重臣がいる。

 島津家にとってそれは四兄弟であり、新納武蔵守忠元のような者であろう。


 ともあれ、無策な豊後攻めは利あらず、と判断した義久はその名目上の和睦関係を重視した。

 しかしそれも龍造寺家が壊滅的な被害を受けたことで、そう遠くない未来に島津対大友という構図になることは不可避であった。


 その一方で、大友宗麟は龍造寺隆信という原動力を失ったことを好機と捉えて、龍造寺家が進出していた筑後の地を平定するように戸次道雪に命じた。

 雷将道雪もこれに応えて老骨に鞭打って筑後の平定に励み、次々と筑後の龍造寺方の城を攻め落としていった。




 同年八月

 龍造寺家は隆信の跡を継いだ政家が政務にあたっていたが、島津家の侵攻には耐え切れないと判断。

 対大友家で同盟関係にあった筑前の秋月種実に、島津家への降伏と臣従を誓う起請文を送り、また秋月種実も島津家に臣従を誓う起請文を添えて、島津家家老の平田光宗に送った。


 これによって肥前国も島津家の旗下に収まり、さらには筑前の南部を治めていた秋月氏も島津家の配下に入った。

 島津家が九州平定に向けてまた一歩前進したこの頃、中央では天下が定まりつつあった。



 羽柴秀吉が織田信長に謀反を起こした明智光秀を討ち果たして頭角を表し、さらに天正十一年(一五八三年)には賤ヶ岳で柴田勝家を征して織田政権の実質的後継者となったことで、天下人への道を歩み始める。

 天正十二年(一五八四年)には徳川家康と争って、後に和睦し、朝廷へ接近を試みるようになった。

 同年十一月には従三位・権大納言、翌天正十三年(一五八五年)には正二位、内大臣を叙任。

 さらに七月には近衛前久の猶子となって関白の座につき位人臣を極めた。


「近衛様の猶子に……?」

「はい。間違いなく」


 義久は信長が本能寺に倒れて以後、その後の中央の状況について旅僧や懇意にしていた堺の商人らを通じて情報の入手に勤めていた。

 そして秀吉の去就が伝わると露骨に顔をしかめた。


 義久が聞いていた羽柴秀吉という男は、この戦国乱世が生んだ時代の寵児、という印象である。

 伝え聞く所によると、秀吉はどうやら農民か足軽辺りの領民兵の出らしい。

 低い身分から武士に成り上がるなど、余程の才覚と幸運に恵まれない限り難しい。

 信長という旧体制の破壊者がいてこそ、人の上に立てた者であることは疑いのないことだった。


(弟の嫁のようなものか?)


 義久は秀吉の出自の話を聞いた時、忠平が溺愛する出自の低い妻、『宰相殿』のことが脳裏に浮かんだ。

 信長の死後、織田家の内部抗争を勝ち抜いた秀吉であったが、朝廷からの征夷大将軍の推薦を断り、関白を目指した。

 秀吉が武家の頂点である征夷大将軍ではなく、公家の頂点である関白職を望んだことに、義久は奇妙な違和感を覚え、その魂胆を推察して嫌悪感に変わった。


 戦国乱世以前、日ノ本の統治機構はまず天皇があり、その天皇に仕える公家という貴族がいた。

 律令制に基づく思想に反発する形で土地を守る武士という概念が登場し、その集合体を武家と呼ぶようになった。その内、武家もまた朝廷に仕える存在として成立するようになった。


 中でも関白は摂家と呼ばれる藤原氏の特定の家のみが代々継承してきた公家の位であったので、それを望む秀吉の大胆不敵さ、畏れのなさ、公家や武家が大切にしてきた伝統を踏みにじる無遠慮さに、激しい拒否感と嫌悪感を抱いた。


 しかし風聞によれば関白の座をめぐって摂家の間で揉め事があったという。

 その結果として秀吉の元に関白推薦の話が転がり込んできて、関白宣下のために形式上近衛家の猶子になったというから、義久にとってはその経緯も含めて、大いに嘆かせた。


「なんとも……関白とやらも随分と軽い位になったものだな」

「左様でございますな」


 苦虫を噛み潰したような顔で義久がふと呟いた言葉に、筆頭家老の伊集院忠棟はただ同意する他なかった。



 天正十三年(一五八五年)七月

 羽柴秀吉が関白の座についたのは夏の頃である。

 しかし九州での島津家と大友家の睨み合いばかりではなく、日ノ本ではなお各地で争いが続いていた。


 東北では前年に伊達家の家督を相続した伊達政宗が戦国乱世最後の旋風を巻き起こそうとしており、北陸では上杉景勝が秀吉と誼を通じて家名存続に腐心していた。

 関東・東海地方では後北条家が地域抗争を続けつつも中央の様子を見守り、徳川家康は秀吉と和睦したものの、臣従することに逡巡していた。

 また、四国では長宗我部元親が羽柴秀吉と争って最後の意地を見せようとしていた。


 天正十三年(一五八五年)のこの年、日ノ本で応仁・文明の大乱が起きてから実に一二〇年余りのことである。

 長きに渡って続いた戦国の世はようやく収束に向かおうとしていた。



 しかし九州太守を望んだ義久は、その大きな流れに逆らうことを選んだ。


 転機となったのは和睦関係にあった阿蘇氏との争いである。

 島津家の支配に対して抵抗の原動力となっていた阿蘇氏の重臣、甲斐親直入道宗運が七月に亡くなったという話が飛び込んできた。


 そして、同年翌八月十日

 甲斐宗運の嫡男親英の軍勢が、花の山城を奇襲した。

 花の山城は阿蘇氏の動静を睨む目的で築かれた山城で、八代城から北へ二十キロメートルの白岩山の南に築かれた城だった。


 城代として入っていた鎌田左京亮政虎、木脇刑部左衛門尉祐昌は武略を奮ったが、阿蘇軍の兵の人数はあまりにも多く、花の山城に入っていた兵30余りを含めて悉く戦死した。


 花の山城を奇襲した甲斐親英は、父・甲斐宗運の死後に阿蘇氏の筆頭家老となった家臣である。

 生前の父とは折り合いが悪く、阿蘇氏の家名存続にこだわってひたすら守りに徹する父の方針に強く反発した。

 後に義久が伝え聞いたことによれば、甲斐宗運は阿蘇氏に忠節を尽くすあまり、無断で伊東家に接触を図った自らの息子すらも誅殺するほど苛烈な処罰を下す人物であったらしい。

 そして深く恨みを買って身内に毒を盛られて暗殺されたということだった。


 その結果、父の方針に反発した甲斐親英は花の山城を奇襲したということだった。


 しかし島津家にとってはそんな阿蘇氏の事情など関係ない。

 和睦関係にあった島津家と阿蘇氏の関係は崩壊し「卑怯な阿蘇、打ち潰すべし」の号令の元に大軍勢を起こすと阿蘇氏の領する肥後北部へ猛然と襲いかかった。



 同年閏八月十三日

 忠平は主力部隊一万余りを率いて甲佐城、堅志田城を攻めかかった。

 全てを燃やし尽くす勢いで放火し、城下の炎は制御不能に陥るほどだった。


「哀れなものだ。軽挙で身を滅ぼすことになろうとはな」


 忠平は本陣から眼下に広がる赤い炎を見つめていた。

 落城後、各々攻め手口から帰ってきた兵たちを出迎えた時に、豪快な笑い声をあげる将兵に目が止まった。


「あれは中馬だな」

「はい、何か手柄をあげたのでしょう」

「ふふ、そうか。またあとで褒めてやらねばな」


 忠平は中馬重方の姿を認めると、泰平祝いの席で御前に出るように、と命じた。


 忠平は中馬重方という将兵がとても気に入っていた。

 市来郷の地頭、比志島国貞の配下の一人で、比志島に言わせると、大変粗野で礼儀知らずな所があり、さらに言うことを聞かないことがあって扱いづらいということだった。

 しかし別の者の評によると、とても勇気があり、死をも恐れぬその戦いぶりは他の将兵にも見習うべき所があるという。


 中馬重方が初陣を上げたのは天正八年(一五八〇年)の宇土半島制圧戦の時だった。

 そこで勇猛果敢に攻めかかって首級をあげたので、戦勝後の祝いの宴の席で忠平の御前に出た。


「初陣で首をあげるとはようやったな。名はなんというか」

「お褒めに預かり、真にありがとうございます! 俺は中馬与八郎重方と申します!」

「なかなか元気であるな。年は?」

「どうやら十五になります!」

「どうやら?」

「忠孝に年の数は関係ないと思い、あまり数えておりませぬ!」

「確かにその通りだ」


 そう言って忠平は声を上げて笑った。

 忠平は確かに比志島の言葉の通り、粗野な所があると思った。しかし口の聞き方が忠平を面白がらせた。

 目上の者に対する敬語は一応できているが、妙に無遠慮な所もある。


 忠平は太守の舎弟として、一軍を預かる将として、飯野城の城主として周りから腫れ物を触るような扱いをされる機会が増えていった。

 今となっては気安く口が聞けるのは兄弟と宰相くらいだ。


 重方と口を聞いていると、そういったことを忘れさせてくれるような、どこか懐かしい感じがした。


(ああ、この感じは少し叔父貴にも似ているのかもな)


 顔つきは全く似ていないが、若い頃慕っていた叔父、忠将が時々剽げて無遠慮に接する姿を重ね合わせて、忠平の胸は少し熱くなった。

 以来、忠平に従軍してその姿を見かけた時には必ず声をかけていた。

 また重方も忠平のことを命をかけて仕えるべき主君と心酔してより励むのだった。



 翌日。

 同年閏八月十四日

 阿蘇家が領していた最後の外城である三船、津守城が落城。


 残りは本拠の矢部城だけであったが、阿蘇家の当主はわずか二歳の阿蘇惟光だった。

 抵抗する力なし、として母親に連れられて目丸山へ逃れた。

 目丸山は九州山脈の剣峰、国見岳の北にある山で、地元の人間ですら近づくのを躊躇うほど奥深い場所にある。

 源平合戦に敗れた平家の落人が流れ着いて出来た村があると言われた地だった。



 さらに島津軍の標的は支配下に入ることを拒む肥後の国人衆にも目を向けられ、その圧迫から隈庄氏らの国人衆も降伏し、島津家の傘下に入った。

 こうして後の世に阿蘇合戦とも伝わる島津家の猛攻は、八月十三日から閏八月を挟んで三ヶ月に及び、ようやく肥後全域の平定に至ろうとしていた。


 島津家の肥後平定にとことん手を焼かせた肥後国人衆の気骨は、その数年後に一つの乱を巻き起こすことになるのだが、別の話である。



 そして、義久の元に一通の書状が届く。

 差出人は関白・羽柴秀吉であった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ