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戦国島津史伝  作者: 貴塚木ノ実
島原血風
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第四十七話 三州平定の先へ

 天正七年(一五七九年)

 この年は三州安寧を中心に動いた年だった。


 戦で亡くなった者たちの埋葬はもちろん、霊魂を鎮めるために寺社を整備し、鎮魂の石塔を建立した。

 また戦で主を亡くした家の慰労、さらには跡継ぎを失った家には養子をあてがい家名を存続させるなど、兵力の回復に努めた。

 そして荒れた土地を開墾して国力の回復に務めた。


 またこれまでの一連の戦で見捨てられた遺体が残っていないか、三州内をくまなく巡回して丁重に弔った。



 同年春

 正式に佐土原一帯を家久の領地と定めて、各地に地頭を置いていった。



「中務様、お久しぶりでございました」

「おう、信介。参ろうか」

「はっ」


 佐土原城主となった家久と、高城城主の山田有信は、もしまた何処かの軍勢が攻め寄せられた時はどうしようか、と相談することがあった。

 そこで復興が進む日向各地の城下や農村を巡回しながら相談しよう、という話になった。

 佐土原城に有信を出迎えた家久は、早速僅かな供を連れて馬廻衆もつけずに自ら手綱を握る。

 そして有信と轡を並べて巡回にでかけたが、相談事もいつしか自然と別の話題になっていた。


「殿の耳には入っておりませんか。この先のこと」

「……三州平定の先、よなあ」

「……はい」

「最近、御太守は金吾兄とよく密かに相談している、というのは聞いたことがある」

「ああ、金吾様が……」

「今や金吾兄は御太守の知恵袋みたいなものだからな」

「金吾様であれば間違いはございませぬ。ただどうしてもやはり気になるのは、この先のことでございます」

「だよなぁ」


 家久は道脇に退いて頭を下げる農民に「ご苦労であるな」と笑顔で声掛けし、さらに言葉を続ける。


「豊後に攻める名分はある。これは間違いない。だが深く豊後に攻めると脇を肥後に突かれるから、これをどうにかせんと」

「名分なき戦は無謀な戦……。大友のようにしてやられることもありえます」

「そこよ。きっと御太守と金吾兄が相談しているのは、如何にして『九州平定』の名分を得るか、ということことであろう」

「今はただ機を待つしかございませんか」

「うむ。もし肥後に攻め入るならば真幸院か米良を通って人吉に攻める事になろう。あるいは懸まで行ってから阿蘇を攻めるか、ということも考えられる。その道中に山賊が出ないよう、我らは任された地でよくよく民を慈しまなければならん」

「畏まりました」



 一方この頃の外交情勢はと言うと、大友家は高城川の戦いで角隈石宗ら多くの将を失っただけでなく、敗戦を機に、それまで従属する姿勢を見せていた龍造寺、蒲池、といった氏族も大友傘下から離脱していた。

 さらには大友支配下の六州各地の国人衆の叛乱が相次ぐようになり、家運は落ち込む一方だった。

 この時、島津家の豊後侵攻を恐れた大友宗麟が取った行動は、天下を目前まで手繰り寄せていた織田信長への接近だった。

 織田信長を通して島津家と大友家が和睦するように取り計らってもらうよう、南蛮の珍品を献上して誼を通じるようになる。


 また、大友家を頼って豊後に逃れていた伊東氏の一党は見限って、同年四月には伊予国へ、さらに播磨国へと逃れていった。


 特に龍造寺隆信はそれまで押さえつけられてきた鬱憤を晴らすがごとく、あっという間に肥前を統一すると、筑前、筑後、さらには肥後北部への侵攻を企てるようになる。

 この頃の九州は、島津・大友の二強時代から、島津・大友・龍造寺の鼎立時代へ突入しようとしていた。


 高城川の戦いでの島津家の大勝は、九州の情勢を混沌とした状況を生み出していたが、もちろん肥後の界隈でもこの動きを呑気に見守るばかりではなかった。

 例えば春には肥後の沿岸にある天草城の城主、天草尾張守鎮尚(しげひさ)入道紹白は、大口地頭の新納忠元や出水領主島津義虎を通じて島津家への友好関係を得るために頻繁にやり取りを繰り返していた。



 また三州を平定したことで島津の名も中央によく届くようになっていた。

 織田信長が日向鷹を所望するやり取りが頻繁になるのはこの頃からである。


 織田信長はただ日向鷹を所望するだけではなく、大友家との争いをやめて和睦するようことを勧めていた。

 しかし義久はこの大友家との和睦は意図的に無視し、日向鷹だけ進上した。


 織田信長の和睦勧告は大友宗麟の意向が含まれていたのは誰が見ても明らかだったし、織田信長の言う通りにするということは、島津家は織田家の言うことを聞く、という風にも受け取れる。

 未だ天下の定まっていないこの時から織田家に臣従することは、多くの血と涙を流して勝ち取った三州と、その平定のために力を尽くしてくれた家臣団、一族らを納得させることはできないことは、痛いほどよく分かっていた。


 中央と島津家の間でそんなやり取りがありつつ、状況が動いたのはその年の十二月のことである。



 同年十二月

 肥後熊本城の城主、(じょう)越前守親賢(ちかまさ)が大友家より離反することを宣言すると、周辺の地域を押し攻めて配下に収めた。

 熊本城は周辺に広大な平野が広がる肥沃な土地で、北は筑後に接する、いわば九州の要地とも言える場所である。

 当然これに強く反発したのは大友家だった。


 阿蘇の神社宮司を出自とする阿蘇家は大友家の命令を受けて熊本城の叛乱の鎮圧せんと攻めかかった。

 これに城親賢は抵抗しながら、その助勢に島津家を頼ったのである。



 それまで三州太守という立場から領地へ攻め来る敵を迎え撃つことが多かった島津家にとって新たな挑戦への始まりでもあった。

 戦いは未知の地へ攻め入る戦いへ移り変わって行く。

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