第四十四話 石ノ城の攻防
天正六年(一五七八年)六月六日
義久は、末弟の家久を佐土原城の城主に任じて、耳川の南岸まで軍を進めるように命令した。
いずれ迫るであろう大友軍を迎え撃つためである。
同年七月
また義久は、新納院石ノ城に籠る長倉勘解由討伐のために叔父尚久の遺児、島津図書頭忠長を総大将に任命。伊集院忠棟もこれに従軍した。軍勢はおよそ七千余りである。
対する長倉勘解由が籠る石ノ城は数百人程度。
石ノ城は高城川の上流にある山城で、大きく蛇行する高城川が岩を削りとったような崖の上に築城されていた。
あたかも高城川が三方を囲む水堀に、岩崖を石垣に見立てた天然の要害であった。
同年七月六日
忠長の軍配を合図に石ノ城攻めを開始。
石ノ城を攻める場所は一つしかない。ただ本丸から西へ降りる所のみである。
北、西、南は高城川へ落ちる断崖であった。
「かかれ! 弓矢を放て! 鉄砲を撃ちかけよ!」
忠長の号令で七千余りの大軍勢が一斉に攻撃を仕掛ける。
対する石ノ城からも弓矢、鉄砲が降り注いだ。
一方先陣大将を務める伊集院忠棟も城攻め隊に加わっていたが、あまりに厳しい防御に閉口していた。
(このままでは勝てぬ……!)
何人かの兵が忠棟を守るように弓矢の盾になって犠牲になった。
難航する城攻めに業を煮やした忠長から突撃の命令が下った。
自ら攻め手に加わった忠長に異変があったのはそれからすぐのことである。
「殿! 殿!」
馬廻衆が一斉に忠長に駆け寄る。
忠長は腕を押さえて倒れていた。
「いや、何事もない。矢がちと刺さっただけだ」
忠長も矢を引き抜くと左腕を押さえながら苦し紛れに強がったが、激痛に苦悶の表情が浮かぶ。
そこに異変を察知した忠棟も駆けつけた。
「図書様、ご無事か!」
「おう、忠棟か。射られたが平気よ!」
「豪気なことは感嘆いたしますが、まずは退却いたしましょう。」
「いや、俺はまだやれる!」
「ここで無理をすべきではございませぬ! 図書殿は今後の島津家の躍進を支えるべき大身でございますぞ!」
忠棟の厳しい言葉に忠長は圧倒され、島津軍は石ノ城から一時退却となった。
同年七月六日夜。
傷の手当を受けた忠長は、忠棟と評定を行っていた。
「いたた……」
「お堪えくださいませ」
「ううむ」
眉間にしわを寄せ左腕を押さえた忠長は、石ノ城とその周囲を描いた地図に目を落とした。
「外から見て手強い城だと思っていたが、よもやここまでとは。相手方の人数は千もないだろう?」
「はい。おそらくは五百程度の兵かと存じます」
「七千の兵を預かっておいてこのザマとは、我ながら情けないわ」
「……致し方ございません。この石ノ城は川と岩崖を利用した天然の要害。攻め手口が限られております、いくら大勢で攻めかかっても、数を活かせぬ造りです」
「然らばどうする?」
「相手方はいわば死兵と化しており、無理攻めはただ人を失うだけかと存じまする。何かこれを打ち破る策が必要かと」
「策……か」
忠長は高城川を挟んで臨む石ノ城を睨みつけた。
もちろん相手方の弓矢や鉄砲弾は無限ではない。いずれ矢弾は尽きるだろう。
矢弾が尽きれば、力攻めでも城を落とすことも出来るだろう。
「……『城を攻め取りました。生き残った兵は千人です』となったら何の意味はないな」
「その通りでございます」
「如何にしてこちらの被害を抑えて、攻め落とすか……」
「それがしも今は妙案はございませんが、相手方にも少なからず被害が出ておりますので、ここは一旦退却いたしましょう」
(……父上ならどうなさるだろうか)
忠長はふと幼い記憶に残る父・尚久のことを思い出した。
父は、兄の忠将公を永禄四年(一五六一年)の戦で失うと、それからすぐに病にかかった。
祖父も、伯父もしきりに看病に見舞い、祈祷したと言う。
強弓を引き、五尺(一メートル半)の大太刀を振り回すほど屈強な父も、亡くなる頃には痩せこけた。
亡くなる前日に、父の口から聞いた言葉は今も忘れていない。
「太守に尽くせ。何をすれば御家の為になるかを考えろ」
父が亡くなったとき、忠長は元服前の十二歳だった。
当時はただただ悲しくて泣きすがるばかりだったが、今や一軍を預かる大将にまでなった。
いや太守のご意向により大将を任せられていると言っていい。
元服した時の太守の兄弟たちの言葉を思い出す。
「そなたの父は島津家を支える名将であった。あの方がいなければ今の島津家はない」
「お主も父に劣らぬ将となれ」
強い意志を持って三州平定の戦に臨んできたつもりだった。
「恥を偲んで一時退くも勇気……か」
幼いながら戦帰りの父に戦のコツを聞いたことがあって、その時に返ってきた言葉をふと思い出した。
聞けば祖父日新公の戦の心得らしい。
島津図書頭忠長、この時二十八歳。
父の教えを思い出し、退却を命じた。
石ノ城が島津軍を退却させた、という報せは、対島津で協力する伊東残党軍を活気づけた。
これに呼応するように石ノ城の南へ十六キロの地にある穂北城でも島津家に対抗する軍勢が起きた。
城を守るのは壱岐加賀守らである。
しかし島津の大軍勢に攻めいるほどの兵力でもないため、お互い手出しできずに睨み合いが続いた。
同年八月
義久は思わず耳を疑った。
耳川の南岸に着陣していた家久から届いた報せに言葉を詰まらせた。
「それは……真か?」
「……はい。確かな情報のようです」
「大友宗麟、あの御仁はなんと畏れ多いことをするのだ」
義久は愕然として、まだ姿を表さぬ大友の軍勢の不気味さに身を震わした。
四月に懸城を攻め落とした大友軍は未だ耳川まで進軍してこなかった。
懸から耳川まで、直線距離にして三十六キロほどである。
人一人なら一日かかる距離なので大軍ならもう少しかかるだろうが、明らかに遅すぎた。
一体何事かと思って敵情に放った山くぐり衆がもたらした情報は衝撃的なものだった。
「よもや道中の寺社を全て破却しているから時間がかかっているとは……」
義久は思わず頭を振って、脳裏に浮かんだ恐ろしい光景を振り払った。
「南蛮の教えはそれほど人を狂わすものなのか? それとも大友殿が狂っているのか?」
「どうやら、あの一帯に南蛮の町を作ろうとしているとか」
「げに恐ろしきは人の業……か」
同年九月
大友・伊東連合軍との睨み合いが続く中、義久の元に一通の書状が届いた。
その書状を送ってきた相手の名前を見て思わず苦笑した。
「まさかこの期に及んで幕府とは」
足利幕府15代将軍義昭の名で届いたその書状には次のように書かれていた。
『この度、帰洛しようと毛利輝元殿と相談しているが、中々動こうとしない。どうやら大友殿に背後を突かれることを警戒して動けないようである。そこで島津家には豊後を攻めてほしい』
この時既に十五代将軍義昭は織田信長に京を追われて毛利家の庇護下にあった。
もはや何の権力もないに等しい存在ではあったが、名目上として存在している以上はこれを無碍に断ることもできないし、世間体も悪かった。
またご丁寧にも伊集院忠棟や喜入季久の老中にもそれぞれ小早川隆景、吉川元春からの密書が届けられていた。
しかし幕府からの大友攻めの打診は、考え方を変えれば、豊後を攻め入るための大義名分にもなりうる。
島津家にとって三州平定という大望を果たした今、次の目標は九州平定というのは義久ならずとも家中の人間は誰もが思っていたことであり、これを断る理由もなかった。
「そのためには先ずは石ノ城だ」
こうして耳川南岸側で島津家に抵抗する穂北城と石ノ城攻めの軍勢を起こした。
総大将は亡き尚久の遺児、以久。
そして伊集院忠棟、平田光宗、上井覚兼らも従軍した。
同年九月十一日
穂北城を急襲した島津の軍勢の前に驚いた壱岐加賀守だったが、よく堪えたものの十五日には落城した。
同年九月十七日
再度石ノ城に攻め寄せた島津軍が包囲した。
まず高城川を挟んで石ノ城と向かい合う位置に簡易な砦を作った。
「さて、右衛門大夫殿、いかがいたす?」
「お任せあれ」
以久の問いに力強く頷いた忠棟は手の者に命じて一斉に周囲の木を切り倒した。
「おぉ、これは」
「攻め口がなければ、攻め口を作ればよいのです」
忠棟はそう言って得意げな表情を見せる。
見る見る間に、石ノ城を三方から囲む高城川に橋がかかった。
「ここらの川は急流で深さもありますが、少々狭い。ならば木をかけただけの急ごしらえの橋でも十分攻め口となります」
こうして馬一頭が通れる程度の橋がかかった石ノ城を四方から攻めかかった。
攻め手口が一つだけならそこの兵力を集中させればいいが、四方から攻められるとあっては話は違ってくる。
兵力を分散させざるをえず、石ノ城の守勢は弱まった。
そして大手口から攻め上がり、ようやく本丸に続く最後の門まで辿り着いた時、最前線で戦う兵が奇妙なものを発見した。
「や、あれは御大将の御名ではないか?」
見れば城内から塀の上に、稲わらで人形が成した物が突き出ており、その体には「嶋津右馬頭」という紙が貼られている。
「なんだあれは……。まさか呪おうとしているのか?」
そう口々に囁いて攻め手を躊躇してしまった。
その話を聞きつけた以久はどうするべきか周りに相談した。
「ならば射るべきです」
答えたのは前田備後という者だった。
「よし」
以久は馬に乗り、その人形に弓矢が届く位置まで駆け寄せると、ただの一射でその人形を抜いた。
その光景を見ていた島津兵たちからも「お見事!」「さすが殿だ!」と口々にやんやの喝采を浴びせる。
それを見届けた前田備後が大声で叫んだ。
「見たか! これは城が落ちる吉兆である!」
その声に反応するように一気に島津の軍勢の士気があがり、四方から鬨の声をあげて総攻撃が始まった。
石ノ城を囲む断崖絶壁も、登るために全く手がかりになる出っ張りがないわけではない。
しかし普通の者なら考えもしない急峻な崖をよじ登って攻めてくる島津兵の鬼の如き表情に、石ノ城の兵たちは完全に怖気づいた。
さらには水ノ手口を絶って、城内に引き込む水を絶ったことで石ノ城は水不足に陥った。
昼夜を問わず攻め寄せること十日以上。
同年九月二十九日
城主長倉勘解由から和睦の申し入れが届いた。
城内から餓死者が出ているらしい、という話を聞いた以久は哀れに思い、忠棟を始めとした諸将と相談して和睦することを決定した。
また島津軍は食料と水、酒を長倉勘解由に与え、さらに負傷した兵たちの傷の手当を行い礼儀を尽くした。
長倉勘解由もこれに深く感謝して長刀を以久に献上すると、その日の内に石ノ城を退去した。
同年九月末
七ヶ月近くに及んだ石ノ城の攻防にようやく決着を着けた島津軍だったが、その頃大友軍もようやく耳川を渡河して南岸に着陣していた。
これに備えていたのは家久の軍勢だったが、多勢の前に無理は禁物、と判断して徐々に後退しながら山田有信が守る高城を目指した。
島津家と大友家の運命を分かつ一戦が刻一刻と近づいていた。




