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戦国島津史伝  作者: 貴塚木ノ実
豊後教国
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第四十三話 キリシタン大名

 豊後国を政務の拠点として栄えた大友氏は、元々は藤原氏の庶流の近藤氏とも伝わる。

 大友氏の初代となる近藤能直(よしなお)は相模国の大友荘を領したことから、大友氏と名字を変えたようである。

 近藤能直の母、利根局はかつて源頼朝の(めかけ)だったようで、異説では源頼朝の御落胤(ごらくいん)ではないか、ともされているが信憑性はない。


 ともあれ、武士の時代になって大友氏初代能直が、豊前国、豊後国の守護及び鎮西奉行として下向し、守護大名となった。


 以来、戦国乱世の時代となってからは筑前国、肥前国を領する少弐氏、周防国、長門国を領する大内氏。

 大内氏没落後に代わって台頭した毛利氏と争いながら次第に勢力を広げていき、豊後、豊前、筑前、筑後といった九州の北部にかけて支配地を広げていった。


 島津家とは鎌倉時代より源頼朝に重用された縁から親しくしており、共に下向した少弐家とも合わせて九州三人衆とも称された。

 特に島津十一代忠昌は大友十六代政親の娘を正室に迎えて子を成したことから友好関係にあった。

 十一代忠昌の頃に内乱の鎮圧に追われていたが肝付、伊東らと争う島津家に肩入れして大友氏が積極的に仲裁に関与していた。


 大友氏にとって転機となるのは二十代大友義鑑(よしあき)の頃である。



 天文十九年(一五五〇年)

 病弱で将来を不安視された嫡男義鎮(よししげ)を廃して、側室の子で三男の塩市丸に家督を譲ろうとした。

 しかし家督を譲ることに反対した義鎮派の家臣を、誅殺と称して次々に殺害していったことでに対して義鎮派の家臣が反発。

 豊後国の拠点である府内館の二階で就寝していた義鑑を殺害し、義鎮が大友二十一代の家督を継いだ。

 後に「二階崩れの変」と伝わる事件である。


 義鎮は禅宗に帰依して勢力を拡大していくが、一つの転機が訪れる。


 天文二十年(一五五一年)に来訪したフランシスコ・ザビエルに面会すると布教活動を許可した。

 これは島津十五代貴久と同様に南蛮貿易によって得られる利益を目論んでのこと、とも言われている。


 貴久は後に仏教など既存宗教派閥から強く反発されて、二年後には布教を禁止したが、義鎮は禁止しなかった。


 この判断の分かれ目が、大友家と島津家の明暗を分ける遠因となった。

 キリスト教に関心を抱いていた大友義鎮は、僧らの反発、家臣からの諫言を聞き入れず、布教を禁じることをしなかった。

 これによって大友家臣団における宗教対立に端を欲する謀反が相次ぎ、国力の低下を招いた。


 そんなさなか、弘治三年(一五五七年)に大内義長を攻めて大内氏の旧領を掌握した毛利氏と争いを繰り返して、次第に勢力を拡げていくようになる。


 その大友氏と毛利氏の抗争で抜群の武功があったのが、戸次(べっき)鑑連(あきつら)という武将である。

 戸次鑑連は三十五歳の時に急な夕立にあって落雷を斬り捨てたが、その影響で左足が不具となってしまう。

 しかしそれを感じさせないほど勇猛に刀剣を奮うその姿に、雷将、雷神、とも称されて敵味方から畏れられた。


 大友家がキリスト教に傾倒して家臣団への求心力が下がっていく中、戸次鑑連は決して見捨てることなく忠節を尽くした。


 大友義鎮は永禄五年(一五六二年)に大友宗麟と名を改めると、戸次鑑連も剃髪して麟伯軒道雪と称した。


 またこの頃、守護大名少弐家の被官に過ぎなかった龍造寺家が台頭して下克上を果たしていた。

 その牽引役となったのが五州二島の太守こと龍造寺隆信である。

 享禄二年(一五二九年)二月十五日生まれのこの男は、平家物語を暗唱するほどに文芸にも通じ、力を振るえば大変な剛力を示して、肥前国一帯の支配に乗り出した。


 元亀元年(一五七〇年)

 大友家は急速に勢力を拡大する龍造寺家を討伐するために肥前国に攻め込み佐賀城を包囲した。

 包囲は数ヶ月にも及んで佐賀城内に降伏すべき、との論調も出始めた頃、大友宗麟は弟の大友親貞に三千の兵を与えて総攻撃の命令を与えた。

 しかしその攻撃を察知した竜造寺隆信と義兄弟の契りを結んだ鍋島直茂が本陣に夜襲を仕掛けて大友親貞を討ち取った。

 後に伝わる今山の合戦で勝利したことで竜造寺家は命脈を保たれ、表面上は大友家に従属する姿勢を見せることで大友家は退却した。

 しかしその間に竜造寺隆信は何かと理由をつけて肥前の国人衆や豪族を討ち滅ぼして肥前国の支配を拡げ、虎視眈々と大友家からの離脱を狙っていた。



 対する大友家も、北九州への支配を拡げていった。

 元亀二年(一五七一年)

 戸次道雪が筑前国の守護職に就任して、大友支族の立花氏の名跡を継承。

 以後、筑前と筑後の侵攻を繰り返して、大友氏は九州六カ国を支配する最大の版図を拡げた。



 そして迎えたのこの年、九州の諸大名の運命を決定づける。



 天正六年(一五七八年)一月末

 日向国を占領した義久は、日向国の政務拠点である都於郡城に在って、山田有信を呼びだした。


「殿、山田民部少輔殿が参りました」

「うむ。通せ」


 近習の連絡に義久は頷くと、茶をひとすすりした。

 山田有信は歳は三十五ほど。太い眉毛、厚い唇は年よりも若く見え、気骨あふれる『ぼっけもん』と称されるに相応しい風格があった。『ぼっけもん』とは、薩摩訛りで豪胆な人、という意味である。


「山田民部少輔、お呼ばれして参上いたしました」

「おう、楽にいたせ」

「は」


 短い言葉の中にも、この主従関係には特別な想いが漂っていた。

 日新斎悔恨の事件により山田有信の祖父が切腹して以来、山田家は代々島津家に重用されてきた。

 有信も永禄十一年(一五六八年)から義久の家老を任され、常に義久のそばにあって補佐してきた。

 また有信も、その心遣いに深く感謝し、いかなる命令にも迷うことなく即答して忠節を尽くしていた。


「民部少輔に一つ、城を任せたい」

「ありがたき幸せ」


 義久の言葉に有信は深々と頭を下げた。


「任せたい城は、日向の高城だ」

「高城……確か高鍋の北西にある、高城川にある城でしたか」


 有信は微かに目を伏せて、かつて日向遠征で制圧した城の数々から当該の城の記憶を呼び起こす。


「よう覚えておるものだ」


 義久は微笑んで頷く。


「任せる理由は二つある」

「……」

「先日、伊東殿が豊後に逃れたことは承知しておるな」

「は」

「しかし伊東殿の残党や地頭が取り残されて島津の兵に怯えているようだ」

「なんと……。哀れな……」

「うむ。そこで高城を拠点に、取り残された者たちを説得することが一つ。残された者らには当家の臣下に入るか、どうしても断るようなら豊後の伊東殿の元に向かえるように手配してほしい。……まあ、場合によっては弓矢が飛び交うような一悶着もあるかもしれんが、その裁量は任せる」

「承知いたしました」


 有信は任務を承り、頭を下げた。


「もうひとつの理由だが」

「は」

「どうやら豊後殿は伊東殿を保護して、日向に迫る動きがあるようだ」


 有信の目が静かに光る。己の任務を既に理解した。

 しかし義久はなお言葉を続ける。


「日向にあって豊後と接するのは(あがた)城の土持殿。いわば最前線だな」

「心得ております」

「民部少輔には豊後の抑えとなってほしい」

「かような大任……。見事応えて見せまする。……が、豊後がもし日向に攻めてきた場合、土持殿への支援はいかがいたしましょうか?」

「うむ。懸と高城は耳川の大河を挟んで、一日以上離れており、急いて駆けつけるには離れすぎておる」

「……」

「これに至る道中の山城は旧伊東家家臣や地頭は当家に臣従している者もいるが、身の安全の確保にはまだ不安が残る。」

「では支援は不要、と」

「いや、支援はするが、民部少輔が少数で急いで駆けつける必要はない。あくまで大軍を以ってこれに対応する」

「承知いたしました」



 天正六年(一五七八年)二月十四日

 こうして、高城川の上流のほとりにある山城、高城に山田有信が城主として入城した。

 なお、高城川は後の世に小丸川と呼ばるようになる。


 しかし、この島津家の日向平定の動きに対して、伊東残党軍もなお反抗を試みた。



 同年二月二十三日

 島津家の降伏勧告に従った門川、潮見地頭、米良四郎右衛門尉、右松四郎左衛門尉、米良喜内らは密かに談合して伊東残存勢力を率いて島津家に叛乱を起こし、懸城へ攻めかかる気配を見せた。



 懸城を守るのは土持親成である。

 土持氏は奈良時代の頃に下向してきたと伝えられる氏族で、鎌倉の世になってからは三州守護の島津家を補佐するような立場にいたが、戦国乱世の時代になると伊東家と日向国主の座を争うようになった。

 しかし伊東氏に敗北すると日向の北端、五ヶ瀬川河口付近の懸の地に踏みとどまって豊後の大友氏に従属して命脈を保っていた。

 その後、大友宗麟がキリスト教に傾倒していき、さらに伊東氏と島津家が争うようになると、大友氏の傘下から離脱し島津家の臣従して南進し、領地の拡大を図った。


 また、門川は懸から南へ十五キロほどの地に開かれた平野部で、懸城の土持氏が早々に島津家への臣従を表明したことから、無理に抗戦するに利益なしと判断して島津家への降伏を決めた経緯がある。

 しかし、豊後に逃れた伊東義祐の家臣より大友宗麟が日向奪還に向けて出兵する動きあり、という情報がもたらされるとあっさりと島津家に反旗を翻した。


 それと時を同じくして、伊東残党軍の動きがさらに活発になる。



 同年三月三日

 旧伊東家家臣、高原城の城主だった長倉勘解由祐政は、旧地回復を目指して新納院の石ノ城で残兵を集めると一揆を起こした。

 石ノ城は、高城の北西十五キロの位置にある山城で、伊東氏が敗走した後は棄てられて廃城状態の城だった。

 長倉祐政は、ここを修復して対島津家の反抗拠点と定めた。


 祐政が率いる一揆軍は綾の町に放火を繰り返し、都於郡城に迫ろうとしたがこれは山田有信ら島津軍に制圧された。



 同年四月

 大友二十一代宗麟より家督を継いだ大友二十二代義統は、土持氏の征伐のため豊後梓山を出立。

 この動きを察知した島津軍も懸の救援に向かおうとしたが、新納石城に籠もった伊東残党軍に牽制されて救援軍が遅れた。



 同年四月八日

 迫る大友家の約三万の大軍勢を前に対抗する土持氏の懸城はわずか千人ほど。

 土持氏も七百年以上続く先祖代々の地を守るために決死の覚悟で臨んだ。



 同年四月十五日

 必死の防戦虚しく、懸城陥落。

 土持親成は少数の手勢を率いて脱出し、なお潜んで本陣襲撃の機会を狙っていたが、捕らえられて豊後に送られ斬首された。


 ここに、耳川を境に日向北部を大友家と伊東家の残党が支配し、その南部を島津家が支配する状態になった。

 しかしその南部の山中には伊東残党軍が石ノ城が籠っており、迫る大友の大軍勢に対して十分に備えることができないでいた。

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