第四十二話 日向平定
天正三年(一五七五年)
家久が上京している間、伊東家や相良家が島津家の領地に攻めかかる様子も見られなかったので、この頃は犬追物を盛んに開催した。
その開催した数たるや都合八日以上である。
京から無事帰還した家久は、再び内城の館で義久と歳久らと面会していた。
「お主、飲みまくってるな」
「勧められて断ると何事かあったのかと哀しみますので……」
「まあ、わかるが」
家久の上洛日記を一通り読んで義久と歳久は思わず笑った。
また近衛前久の書状を受け取った義久は下向の打ち合わせをするため、今後は歳久に命じて上洛させた。
歳久は家久ほどの長期間の旅ではなく、八月に京に滞在して近衛前久と面会を果たして下向の打ち合わせをすると、早々に帰国した。
無論、京の滞在中は里村紹巴の世話になっている。
連歌会を大いに楽しみ、蹴鞠を習得するなど京文化をたっぷりと堪能した。
こうして二度の上洛によって家久と歳久の口から直接語られる道中の様子、京の事情、そして織田信長の重臣、明智光秀の歓待によって得られた情報の数々、そして近衛家との接触は義久にとっても満足の行く内容だった。
特に歳久が関白太政大臣、近衛前久と直接対面して下向の約束を取り付けたことは、これまでの近衛家と島津家の繋がりが保たれていることが確認できた意味でも、大きな功績であると言えた。
近衛家と島津家の間には、強い縁がある。
時は平安時代末期から鎌倉時代にかけてのことである。
藤原氏の嫡流から近衛家、鷹司家、九条家、一条家、二条家の五つの庶流に分かれた公家は、代々摂政や関白など、朝廷の重職を独占して日ノ本を支配して摂関家と称されるようになった。
近衛家の家司を代々勤めていたのが、惟宗氏の氏族である。
しかし時代の流れで平安時代の統治機構が衰退して、代わって武士が台頭してくると、近衛家の家司だった惟宗忠久は、源頼朝に加担してやがて鎌倉御家人に列した。
源頼朝は京の武士で朝廷の作法や京の事情に明るい惟宗忠久を重用し、その功を賞して島津荘の下司職に任命した。これが後の世に伝わる守護大名島津家の誕生である。
後に島津姓に名字を改める惟宗忠久だが、なお近衛家との繋がりを忘れず、また近衛家も島津家のことを忘れず、この戦国時代にまでその縁が続いていた。
例えばこの戦国乱世の折、情勢不安な京にあって、島津支族である喜入季久を邸宅警護のために派遣するなどである。
ともあれ義久の命を受けた歳久との交渉により近衛前久は薩摩に下向した。
その滞在期間は天正四年(一五七六年)三月二十九日から、同年七月二日までに及ぶ。
滞在中となる同年四月九日と十二日には、前久観覧の元、犬追物を開催した。
他にも鷹狩や馬追など近衛前久を大いに饗した。
余談ではあるが、犬追物とは柵で四十間(七十三メートル)四方に囲んだ中に犬を解き放ち、犬を射殺さないように鏃を丸めた矢で馬上から当てる弓術の作法の一つで、流鏑馬、笠懸と同類の騎射術の一つである。
射止めた匹数だけでなく、射止め方や射止めた場所でも評価された。
犬追物は武芸の鍛錬として鎌倉の頃より嗜まれていたが、戦国乱世となってその作法を知らない者が増えるにしたがって、島津家や小笠原家などの古くから続く家のみが作法を受け継いでいた。
犬追物を得意としたのは、特に歳久だった。
抜群こそは他の者に譲ることもあったが、歳久は常に成績上位に名を並べていた。
その上手さは島津家で武勇英略を極めたと高名を誇る忠平以上であり、あまりの上手さに義久もどうしたら犬追物がうまく出来るのか、歳久に教えを請うているほどである。
また関白近衛前久が観覧した四月の犬追物では、歳久に所望された近衛前久は次の和歌を詠んでいる。
乗駒の みちをつたえて しらまゆ〃
ひきつれつゝも 犬を追う袖
閑話休題。
近衛前久の薩摩下向については、名目上は織田信長の要請を受けての九州騒乱の鎮圧であった。
しかしその歓待役を務めるのは島津家とあっては、事実上島津家に臣従せよ、という風にも解釈できた。
そのため、この騒乱鎮圧工作はあまり功を奏さなかった。
特に反発したのは伊東義祐で、前久の使者に会おうともせず、なお城の守りを固める始末だった。
そして、前久が帰還した八月
いよいよ日向平定への軍勢を起こすことになる。
最初の進軍目標は、長倉勘解由こと長倉祐政が守る高原城である。
高原城は北郷氏の拠点である都之城の北西の地にあって、忠平が治める飯野城とも近く、霊峰霧島の麓に栄えた山城だった。
天正四年(一五七六年)八月十六日
高原城攻めに三万の大軍勢が出陣。
これを率いる総大将は島津家十六代義久。
他には歳久、家久、以久、忠長、新納忠元、吉利忠澄、頴娃久虎、山田有信、上井覚兼、等。
まさに全軍をあげての遠征である。
さらには忠平も飯野城より一万の軍勢を率いて三ツ山城を避けて霧島山麓を抜けて進軍した。
同年八月十六日
高原城の包囲を開始し、攻城戦が始まった。
三万の大軍勢の前に高原城を守る兵は四百人ほどしかいなかったが、長倉勘解由は恐れず、堅く守ってよく防いだ。
特に一の門、二の門を突破した島津軍と三の門で激しく抵抗して多大な損害を与えた。
これに対して義久は水ノ手口を封鎖して城に流れ込む水を塞ぐ作戦に出た。
さらには弓矢鉄砲を撃ちかけて徹底的に士気を削いだ。
また伊東義祐は高原城侵攻の報せを受けて佐土原城を出陣したが、わずかな兵しか率いることができず、戦わずして退却した。
水不足に陥った長倉勘解由は降参を決意。
矢文で降参の意思を示した。
同年八月二十三日
和睦交渉を行い、高原城は開城。陥落した。
高原城を落城させた翌日に義久の元に朗報が届いた。
「三ツ山城が?」
「はっ。三ツ山城城主、米良矩重が曰く、本領安堵を条件に、三ツ山城、須木城を差し出すとのこと」
「安堵か……まあ、よかろう」
こうして、なお忌まわしい記憶が残る三ツ山城も島津家の領地となり、真幸院は完全に島津家の支配下に置かれた。
同年八月二十八日
島津三万の兵が三ツ山城に入城。
義久は諸将を前に太平の鬨をあげた。また、従軍した諸将も太刀をかざして祝儀をあげた。
また、三ツ山城は忠平の管理下に置かれると、城名を地名から取って小林城へと改められた。
同年九月九日
鹿児島に義久ら本軍が凱旋帰国し、三州の完全平定にまた一歩近づいたことを改めて祝った。
その後飫肥での起きた散発的な争い以外静穏となった。
また義久も軍勢を起こさず内政に励んで国力を蓄えることに専念した。
義祐は永正九年(一五一二年)の生まれで、四十九歳となる永禄三年(一五六〇年)には、嫡男伊東義益に家督を譲っていた。
しかし後見という立場から佐土原に在って、実権を握り続けた。
義益は佐土原城から西へ六キロ余に位置する都於郡城に在って、義祐と共に二殿体制を敷いていた。
しかし義益は永禄十二年(一五六九年)に三十二歳の若さで病にかかり急死。
義益の嫡男はまだ幼かったため、義益の弟で、飫肥に入っていた伊東祐兵が十二代当主として家督を相続した。
年が明けて――。
天正五年(一五七七年)
冬が明けると飫肥地方の制圧に動き出した。
同年四月
島津本軍は大隅高山の肝付勢を軍に加えて、串間福島の地に侵攻しこれを制圧。
同年六月
伊東義祐は、飫肥城主の祐兵と共に、櫛間に攻め入ったが、島津側の援軍に敗れて後退し、逆に飫肥城を包囲される事態になった。
この頃になると伊東家内部でも義祐の求心力も急速に衰え始める。
同年八月
人心の一新を図るために義益の嫡男で嫡孫にもあたる義賢を家督を譲らせ、義祐は後見についた。
しかし島津家に対抗する力は既になかった。
同年十二月七日
真幸院と境界を接し、都於郡城、佐土原城の西の守りの最前線であった野尻城の城主、福永丹波守佑友が島津家に内応。島津軍を野尻城に引き入れた。
福永氏は伊東氏に古くから仕える重臣で、城主福永佑友が対島津家の窮状を訴えてなお、義祐はこれを聞き入れることがなかったため、福永佑友の心は急速に義祐から離れていた。
高原城陥落後に城主となった島津家の家老、上原尚近からの説得工作もあっての内応であった。
しかしこの福永佑友は、伊東氏とは婚姻関係にあった。
婚姻関係にあった家臣の内応の影響は大きく、伊東家臣団の崩壊を加速させた。
宮崎城のすぐ西、また佐土原城と都於郡城の南にある内山城は、いわば本拠地の最終防波堤としての役割を果たしていたが、その城主野村刑部少輔文綱は、福永佑友の内応を知って島津家に使者を立てて降伏。
さらには真幸院の北の外れにある紙屋城の米良主水助も降伏し、日向に流れる大河、大淀川付近までが、島津家の支配地となった。
同年十二月八日
ここに至って伊東義祐もようやく事態の深刻さを悟り、急遽手勢を集めて佐土原城を出立したが、佐土原城のすぐ西になる綾の富田城や戸崎城など、背後の各城主に謀反の気配あり、と伝え聞くと出陣を中止して佐土原城に戻ってしまった。
さらに評定を重ねて、日向国の政務拠点である佐土原城、都於郡城、そして飫肥の地の放棄を決定。
佐土原城から北へ約二十キロにある、高城川沿いの高城に戦力を集中させることを考えた。
同年十二月九日
しかしこの間にも、島津軍は綾にある富田城を攻めると、城主の湯地出雲守は争うこともなく降参。
同年十二月十日
義久の本軍は都於郡と佐土原城に入城。
肝付、禰寝らの軍勢は飫肥、清武、宮崎の地に入って完全に制圧下に置いた。
義祐もついに高城に入ることを諦め、わずか百五十名ほどの手勢で脱出すると、九州山地に入って米良山、さらに北へ向かって肥後国と豊後国に接する高千穂辺りまで逃れた。
同年十二月二十五日
伊東義祐は大友宗麟に保護を求める使者を立てた。
年が明けて、
天正六年(一五七八年)一月
大友宗麟より伊東残党を受け入れる旨の返事があって、伊東義祐一派は豊後へ逃れた。
ここに日向国は完全に島津家の支配下に置かれた。
三州に広がる島津荘が開拓された平安時代。
公家から武士の世になって三州守護大名となった島津家も、室町末期の戦国の荒波に飲まれて多くの領地を失った。
しかし薩摩、大隅、日向の三州は、ついに島津十六代義久の元で再び完全に平定された。
天正六年(一五七八年)一月
この時、義久四十六歳、忠平四十四歳、歳久四十二歳、家久三十二歳。
大永六年(一五二六年)に十五代貴久が島津宗家を継ぎ、三州平定を望んでから、実に五十二年かけての悲願達成だった。




