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戦国島津史伝  作者: 貴塚木ノ実
三州平定
42/82

第四十一話 現代語訳:家久君上京日記(抜粋版)

 この度、中務太輔家久は上洛することになった。

 薩摩、大隅、日向で戦乱が起きず、太守が忠節を集めて三州を治めることができたのは神の御加護を得たことは疑いの無いことなので、伊勢神宮や愛宕山、その他神社仏閣にお礼参りに行こう、ということである。



 天文三年(一五七五年)二月七日

 この日はお屋形様に暇を申し出て、許可をもらった。


 二月八日

 鹿児島で一泊して串木野に戻った。

 その後、旅支度色々準備を済ませて二十日に出発ということになった。


 二月二十日

 午後十二時頃に串木野を出発。

 串木野の近くにある老いた母、妻と子供が住んでいらっしゃる場所で酒宴を開く。

 お別れを済ませて川内川の開聞という場所に到着した際に、平佐の住民たちがお酒を持って迎えてくれた。

 川内川を渡って新田神社の鳥居前に到着。

 今度は東郷、中郷の衆が数えきれない程の食籠を持ってきて酒宴を開く。

 その後は新田神社に参詣。神前でお神酒を三献を頂いた。

 その後正宮寺にも立ち寄り、お酒を少し飲んだ。

 新田神社の鳥居前から船に乗ったが、ゆらゆら揺れて酒に酔っていい気分になり、歌を吟じたり、その他色々たくさん楽しんだ。

 川内川の途中にある高江という場所で、山田有信が用意してくれた休憩所に立ち寄り、お茶漬けを食べ、お酒を少し飲んだ。

 この日は川内川の河口近くにある久見崎の港の、膳介という人のところで一泊。

 なおもお酒や肴がたくさん届いたが、あまりにも多すぎるので省略。


 二月二十五日

 肥後の松橋という港に到着して上陸。

 歩いて行くと左手に宇土殿が治める城が見えた。


 二月二十七日

 午前八時に出発。

 歩いて山鹿という町に到着。ここは町中に温泉が湧いていて、入浴。


 二月二十九日

 関所を避けるために夜暗いうちに出発。

 関所を五、六つくらいを迂回して進んだ所に右手に蒲地殿の城があった。

 また進んだ所で関所にぶつかる。関所の番人の詮索が厳しく、無理を言ってしつこいので、同行の家臣が番人をぶん殴る。これで全員何事もなく通過。


 三月五日

 英彦山に登って全員で参詣。

 途中、英彦山の修験者たちがお勤めしていて、各々法螺貝を吹いていた。

 心が天に帰るような気持ちになるくらい感動した。その後英彦山の寺社を一回り見学。

 般若坊という所にそれは見事な緋桜が咲いていた。


 三月十日

 八時頃に出発。曽袮の町を通過して十四時頃に小倉の町に到着。

 高橋殿の屋敷を見学。


 三月二十四日

 厳島神社に参詣して社殿を一通り見学。

 大鳥居の高さは十三ひろ(十七メートル)、幅は九ひろ(十一メートル)。柱は六本であった。

 海辺を見た所、この島には死んだ者を置いておけるお墓がなく、明神がおられる所なので、海の向うへ十三艘の舟で送っており、念仏を唱える声が哀しげに聞こえた。


 四月十三日

 堺は情勢不安で危なく、あらぬ噂があるというので行きたくないと船頭が言い出したので、足止めされてしまった。その間に熊野衆、高野衆、日向衆、南覚坊が寄り集まって相談し、岩屋の船を1艘借りて乗り換えようという事になった。

 ところが岩屋の船頭が「この船は板を乗せる船で、あなたたちを乗せる船ではない」と言い、さらに色々と悪口を言ってきた。

 南覚坊がとりなそうとしたが、一閑が(善い振る舞いであるが)船頭の顔を殴った。

 船から降りるか、という話にもなったが同行の地元の人間の意見もあって二十二時頃に出航。

 夜通しひたすら漕いで、高砂という所で夜を明かした。


 四月十八日

 早朝に愛宕山を出発。嵯峨の町まで下りる。


 四月十九日

 嵯峨の町を一通り見物する。


 四月二十一日

 里村紹巴の邸宅に訪問する。紹巴の別邸だという場所を貸され、しばらく滞在するための宿となる。

 そこで織田上総介信長殿が大阪の陣から帰途にある行軍にでくわしたので、紹巴と共に見物。

 宿先の相國寺に帰る途中であるという。

 上総介殿は皮の衣装を着て、馬上で居眠りされていた。

 この軍は十七カ国から人を集めたということで何万騎いるかも分からないほどの大軍勢であった。


 四月二十八日

 上総介が美濃へ帰る行列を見物。


 五月二日

 紹巴の邸宅を訪問したが、宇治に行って留守ということだった。


 五月三日

 紹巴が名物の松茸をご馳走してくれた。


 五月四日

 紹巴秘蔵の穴住(弘法?)大師の書や小野小町の肖像を拝見した。

 さて十四時頃に紹巴と一緒にまず目疾地蔵に参拝。そのあと祇園、そこから八坂の堂を参拝する。

 聖徳太子の肖像を拝見したところ、頭を打ち割って玉眼が抜き取られていた。一体どのような人がこのようなひどいことをするのか。恐れ多いことだ。


 五月十二日

 これまで同行していた巡礼三十名ほどが先に帰ることになった。紹巴はとても立派な人で、門の外まで出てきて一人ひとりに別れを惜しんで挨拶をした。


 五月十五日

 紹巴と一緒に坂本の町を見学。

 明智殿よりお城に招かれる。

 これは斟酌して遠慮したが明智殿が坂本城の麓まで下りてこられて食事会をすることになった。

 食事会は、紹巴、明智殿、行豊、堺衆の大炊介、拙者ら五人が出席。

 四畳半ほどの広さの所で茶会が催されたが、拙者は茶の湯のことは不勉強なので遠慮して白湯を所望した。

 庭に竹を植えられた麓の一角で酒宴を開き、そこには朝倉兵庫助という人も加わった。

 そこには琵琶湖で採れた鮒、鯉、むつ、ハヤ等を竹で編んだ籠に活造りにしたものが並んだ。

 明智殿は織田殿の東国遠征の準備に忙しいようで、酒宴には参加されなかった。

 それよりお風呂に入ろうということになり船で移動したところ、明智殿が来られて一緒にお風呂を楽しんだ。

 お風呂では最初の宴にでた鮒鯉を肴にお酒を嗜んだ。


 紹巴が発句して

   四方の風 あつまりて涼し 一松


 そのあと明智殿が

   濱邊の千鳥 ましるかるの子


 と唱を続けた。

 第三句をどうぞ言われたが、遠慮して風呂を出た。

 それより和田玄蕃惟長なども一緒になって坂本城内を一通り見学。

 城の蓄えとして薪などを積み置いていた。その他は言葉にできないほどである。


 五月二十四日

 紹巴の案内で鞍馬山を一通り見学することになった。

 鞍馬山へ参ると甲や太刀を拝領した。僧正ヶ谷を見物し、牛若丸殿が兵法を学んだという所など色々神秘な場所を拝んだ。

 それより薬師坊という場所に座敷を借りて紹巴がお酒と食事を用意してくれた。

 そこで紹巴が源氏物語の若紫の巻を読んでくれた。

 その講釈の半ばで坊主が毘沙門の巻をお客に勧めてほしいと言った所、紹巴が顔色を変えて怒り

「この座に長居は無用、坊の心遣いはありえない!」

 と言って源氏物語を懐に入れてその座を荒々しく立ち上がった。坊主が紹巴の袂にすがり付いて止めるのを振り払って庭に飛び降りた。さすがにそのままというわけにはいかなかったのでその下の堂で若紫の巻の講釈の続きがあった。


 五月二十七日

 いよいよ伊勢に参詣するために出発という事になり、五条橋まで紹巴が送ってくれ、酒と弁当を持たせられた。夜になれば食事を取るのも難しいかもしれないという比類なき心遣いである。

 それぞれ紹巴にお別れの挨拶を済ませて出発。


 六月一日

 早朝に出発。

 宮川を渡し賃を払って渡ったところで禰宜(※下級神主)共がたくさん来て、何かと世話をしてお金を取ろうとした。

 その折、安芸の国から来たという妻子の引いて参詣案内をしようとした所で手旗帯などが解けて川に落ちてしまった。

 禰宜共がこれを奪い取ろうとして手に抱えたものを忘れて川の中に走って入った。

 それは女子は言うに及ばず、諸人の見る目もはばからず、みっともない振る舞いであった。

 それより内宮、外宮に参詣。その神宮内の霊仏霊社の神々しさは筆舌に尽くしがたい。

 殊更六、七歳ばかりの童女が文珠堂で鐘を打ち、扉をあけて曲をなすこと、まるで文殊の再誕かと目を剥いて驚いた。その後天の岩戸に参拝して宿へ帰った。


 六月五日

 東大寺に入って新禪院を一通り見学。その後大仏を参拝。

 八幡へ参拝した所、ミカンの木があった。実をつけて色づいており、花も葉も枝になっているのに不思議なことだな、と思った。その実も大変興味深く、正直ちょっと欲しいなあ、と心ひかれたが、我慢して通り過ぎた。

 多門山の城を見て、中まで入らせてもらって見学。城内には楊貴妃の間というのがあって、その間から遠近の名所を余すことなく見ることが出来た。

 その二階で山方対馬守というこの城の城番が盆に山桃を持ってこられて、お酒をご馳走になった。

 巡礼姿なのにさらに桃まで貰って持て囃されるのは少々照れくさいものだ。

 さらには馬をどうぞと勧められたが、巡礼の身なので、ということで遠慮しておいた。


 六月六日

 早朝に出発。宇治に到着。名所などを色々見物した。

 槇島より北西には伏見、それより南西には小倉の入江、跡には小幡、それより北に藤乃森、深草、それより東には染の桜、さらに行って稲荷神社に参拝。

 少々休憩して井の本に立ち寄った。

 水を飲みたくなってお願いしたが、その家の主は柄杓を奪い取って水を飲ませてもらえなかった。真に餓鬼の心のようである。


 六月八日

 薩摩に帰るために出発。

 紹巴、昌叱とご一緒して東寺に参拝。大師のご利益があるように、旅の安全を祈願する。

 それから紹巴、昌叱とお別れして、古田左介(古田織部)という人が迎えにきて、下鳥羽まで送ってもらった。

 その道すがらでは恋塚、鳥羽院の跡地、やがて秋の山などがあった。

 下鳥羽から舟で淀川に出て、また木津川に舟を着けて石清水八幡宮に参拝。

 ここまで古田左介の小者が付いてきた。


 六月十日

 住吉大社に参詣。


 六月十一日

 この日は有岡の市場の小物屋与左衛門という人の所で一泊。

 まだ日が高かったので荒木村重殿の石蔵の普請を見物することに。人夫は自分の身の丈を超える石を運んでおり、とても驚いた。


 六月十三日

 朝出発。高平関という所に関所が二つあった。

 折しもこの辺りには山賊が出るということで、我が身の上にも起きたらどうしようかと思ったが何事もなく通る事ができた。


 六月十七日

 若桜の町を通ると城があった。二、三日前に山中鹿之助が謀略を以って乗っ取った城だということで、若桜の城を知行して籠城しているところに出くわした。


 六月二十三日

 杵築の大社(出雲大社)に参詣。


 六月二十五日

 出発して歩いている所に、肝付新介の一行に行き逢う。加治木衆三十人ほどが同行していた。

 さて西田の町を通りすぎて湯野津に到着。

 温泉津温泉に入った後は、喜入殿の舟に秋目船の衆、東郷の舟衆、しらハ衆らが乗って各々お酒を持って来ていた。

 出雲の人たちが男女童らが集まって能とも神楽とも分からない、出雲の歌だといって舞い歌うところを見物し、それより小濱の旅籠屋に到着。

 また温泉津に帰ろうとした所で、船頭らが口々に我らの舟にお乗りください、と誘ってきた。


 七月十日

 十六時頃に出航


 七月十一日

 一日船の中。昼頃より風が強くなって、夜中には大風になって船頭共々難儀する。

 帆を降ろして波まかせに進む。


 七月十二日

 十二時頃に平戸に到着。京泊の神六という者が錫の徳利を持ってきた。

 また善左衛門も酒樽を持ってきた。


 七月十三日

 唐船に乗って見物した。

 南蛮より豊後殿(大友宗麟)に進上するという虎の子供が四頭ほどいて、それを珍しく見学して帰った。


 七月十四日

 平戸の町や寺、家々などを見学していたところ、普門寺という寺で肥州(松浦隆信)と出会う。

 しきりに酒宴などに誘われたが固く遠慮する。しかしなおも来て、さらには肥州の弟まで来られて誘われた。

 ということで土肥の宿で酒宴。肥州より太刀を預かる。


 七月十八日

 十二時頃に出航したところ、肥州が舟で送ってくれた。

 拙者も肥州の舟に乗り移って、酒宴を少々開いてお別れの挨拶をした。

 元の船に乗り戻った所、船に酒樽、食籠に肴がたくさん贈られた。

 瀬戸の渡、という所まで肥州が送ってくれた。

 それより九十九島を左手に見ながら通り過ぎ、右手には五島列島、福田を見て、長崎は夜中に通りすぎた。



 七月十九日

 樺島にて夜を明かし、左手に志岐、天草を見て通過。

 大炊左衛門がお粥を調達してくれた。右手に甑島、また左手には阿久根が見えた。

 京泊には十八時頃に到着。そこから小舟で高江に渡り、 山田信介有信の所に一泊。



 七月二十日

 夜中に出発して隈城で夜を明かした。

 清藤土佐介の所に立ち寄った所、城の者が各々お酒を振る舞ってくれた。

 千秋万歳で祝ってそれから串木野に到着。

 その途中では帰りを祝ってくれる人がたくさんの料理でもてなしてくれて、そこには錫の徳利がたくさんあった。

 道すがら辺りの僧や民、男女問わず、東郷や中郷の人々まで来て祝ってくれた。


 これにて日記を終える。

本編「現代語訳:家久君上京日記」につきましては以下を参考にさせて頂きました。

この場を借りて御礼申し上げます。


「佐土原城 遠侍間」様

「新・筑後川の航海日誌」様

「徒然草独歩の写日記」様

<論説>京都の島津家久 : 『中書家久公御上京日記』 著:白井忠功先生


「家久君上京日記」原著写本は以下に収録されております。

・鹿児島県史料 旧記雑録 後編一

・鹿児島県史料拾遺 Ⅳ

・九州史料叢書 近代初頭九州紀行記集

・神道大系 参詣記


また、本稿を書き起こす際に参考にいたしました原文につきましては以下をベースに、「鹿児島県史料 旧記雑録 後編一」の文書番号八百二十四号に収録されている原著を元にいたしました。


東京大学資料編纂所研究紀要第16号(2006年3月)

東京大学史料編纂所所蔵 『中務大輔家久公御上京日記』


東京大学並びに村井先生を始め、これまで史料研究に従事されてこられました研究者他、数多の先達に心より敬意と謝意を表します。

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知ってはいたけど流石に酒飲みすぎやろ
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