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戦国島津史伝  作者: 貴塚木ノ実
三州平定
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第三十六話 大中公

 大隅国は、北端は肥後の球磨、日向の真幸院(まさきいん)に接し、東へは横川、曽於が霊峰霧島や日向国の都之城や志布志に接する。

 大口から南へ目を向けると、蒲生が西端となり、吉田が大隅国側の領土として薩摩国と境界を接していた。


 平安中期以降になって薩摩、大隅、日向を中心に形成された日本最大の大荘園、島津荘が整備されていく段階で、大隅半島の広大な土地は注目された。

 だがその土地の広さとは裏腹に、大隅地方は指したる収益をもたらさなかった。


 それは桜島の大量の降灰に一因がある。


 かつてすぐ西側で巨大な噴火が起きた。

 大量の火砕流によって火山灰が運ばれ、大隅半島を埋め尽くした。

 いずれ広大な平坦地に雨が振り続け、それは次第に川となった。

 川によって火山灰土は削れていき、次第に台地を形成する。

 それが後の世に言うシラス台地である。


 薩摩、大隅の領土に占めるシラス台地の割合は、五割を超える。

 しかし薩摩と大隅では、大隅の方が比率、規模としても大きい。


 シラス台地の土壌の性質水はけが良すぎる砂地のようなものである。

 大地に降り注いだ雨は、すぐに吸収されてあっという間に乾いた。

 台地の下に出来上がった狭い麓には湧水が豊富にある一方で、台地の上には水源が全くない。


 水源がない以上は主食である稲作に向かず、その代替として畑作や畜産業が推奨された。

 しかし水がなくても育つ作物は乏しく、食糧事情の改善にはさしたる効果もなかった。

 大隅地方は一見すると広大な平野が広がっているようにも見えたが、その広大さとは裏腹に、広大な草地が広がる、ただの荒れ地が多く占めていた。


 戦国の世になって大隅国の国主を自負する肝付家と、薩摩国の島津家の間には決定的な戦力差が開いていった。

 その原因は、領地の広さは同等ながら、実際のところは遥かに国力に劣っていたからである。


 その肝付氏を支えるのは鹿児島湾の入り口にある根占港と、太平洋に面した志布志港だった。

 根占港には南蛮の商船が補給のために頻繁に立ち寄り、珍しい南蛮の品が時々手に入った。

 また志布志港には博多や堺から商人がよく訪れていたため、根占で仕入れた品を利ざやを設けて各地で売り払うことで、肝付氏の財政を支えていた。



 永禄十三年(一五七〇年)一月

 大口菱刈氏を追放して薩摩国を平定し、次の目標は大隅国へと目が向いたが、それ以前から大隅国の平定に向けた動きがあった。

 その物語は四年ほど前まで遡る。



 永禄九年(一五六六年)十一月

 島津家十六代の家督を継いだ義久であったが、翌年から予定していた菱刈攻めを前に、後顧(こうこ)の憂いを断たなければいけなかった。

 隙あらば島津家の治める地に攻め入ろうと虎視眈々と機会を窺う肝付家、そして伊地知、禰寝ら大隅国の国人衆の対策である。


 迂闊に大口へ北進すれば伊東氏とも連動されて挟み撃ちになる可能性もあった。

 そのため南北へ同時に攻め入ることも検討した。

 しかしさらなる大規模な徴兵をしなければ戦力が整わず、領民への負担も大きい、という判断もあって菱刈攻めに主軍を投入することにして、大隅半島の各勢力には最低限の抑えをもって対応することになった。


 大隅国の抑えを任されたのは都之城の北郷時久、そして伊集院掃部助(かもんのすけ)忠棟だった。


 日新斎の代より仕える忠朗を祖父に持ち、忠蒼の嫡男である。

 忠棟は祖父や父から熱心に教育された。

 三州平定の困難さ、これに粉骨砕身働く島津一族やその家臣の武功話、そしてそれを支える伊集院家の重要さ。

 そのため、早く元服したいと言って14歳で元服した。

 家督を継ぐ前から義久に仕えて才覚を現し、義久もその才覚に絶大な信頼を寄せた。

 そして義久が島津家十六代の家督を継ぐと同時に、二十六歳でありながら筆頭家老に任命され、隠居した忠蒼の家督を継いだのだった。


 一方この頃の大隅国の国主を自負する肝付十六代当主河内守三郎兼続は日向の伊東氏と同盟を組んで、度々飫肥地方を守る豊州家への侵略を繰り返していた。

 永禄五年(一五六二年)にはついに念願だった志布志を手に入れる。

 兼続の志布志の気に入りようは隠居館を志布志に築いたことでも伺える。

 また兼続は、出家すると日新斎に負けじと仏門に励んで高位の僧官を得た。


 だが、その兼続の命を密かに狙う者がいたのである。



 義久は家督を継いだ直後、領内検分のために国分清水城を訪れていた。


「掃部助よ、お主の祖父、父には余の祖父代より世話になっているが、お主も頼むぞ」

「勿体なきお言葉にございます。それがしも祖父、父より涙ながらにお館様や太守のご苦労を聞いております。それ故に他人事とは思えないほどでした。それがしの命、島津家の御為(おんため)に捨てることこそ本望と心得ております」

「それは嬉しい言葉だが、本当に死んでもらっては困る」


 そう言って義久は恭しく頭を下げる男と笑いあった。

 忠棟は真面目で実直な男で、義久が心の底から信用できる数少ない人間の一人だった。

 なお、忠棟は耳脇の毛を顎髭に繋がるほど伸ばしていた。


「畏れながら法体となった日新斎の如くありたいと真似てのこと」


 だと言う。


「太守様、ここまでお入りなられたのはわけがあっての事でしょう?」

「相変わらず聡いな」


 身を正して尋ねる忠棟に義久は満足そうに頷く。


「翌年より北伐することを考えておる」

「北伐……渋谷や菱刈でございますね?」

「そうだ。その時背中を襲われてはかなわん。お主には国分に在って右馬頭(うまのかみ)以久(もちひさ)と共に我らの背中を任せたい」

「それがしに……身に余る光栄でございます」

「お主であればこそ、だ。他の者には任せられぬ」


 義久は頷いて、鋭い眼光を光らせる。


「都之城の北郷(ほんごう)殿には既に連絡を付けてある。相手は日向の伊東、そして大隅の連中だ。いずれも手強いので攻め立てる必要はない。とにかく主軍に害が及ばぬように牽制してくれ」

「牽制……ですか」


 忠棟がふと考えこむような仕草で言葉を切る。


「うん? 何かあるのか」

「あ、いや、不服というわけではなく……」

「遠慮するな、はっきりと申してみよ」

「では畏れながら……太守様。隙あらば大隅の要石を外すことも可能ではないかと考えました」

「ほう?」


 義久は片眉を上げて、忠棟を見た。


「河内守様は志布志に隠居なさって熱心に仏門に励んでいるそうですが、実情は未だ実権を握っておるようです。いわば伊地知や禰寝、伊東を繋ぐ要石のようなものにございます」

「そのとおりだ」

「そしてここ、国分は……実は志布志や肝付が本拠、高山に存外近いのではないかと考えております」

「……いや、そうか? 地図を見る限り大隅は広大ぞ」


 そう言って義久は手元にあった地図を広げて、それを指し示す。

 だが忠棟はそれに臆するすることなく言葉を続ける。


「全くもってその通りにございますが、それを解決するのが川でございます」

「ほう?」

「私は鹿児島に居る頃より不思議に思っていたことがございました。それは鹿児島湾に注ぐ薩摩と大隅の川の数と大きさの違いです」

「……ふむ」


 地図には行軍に影響する大きな川、河口が記されていたが、確かに大隅側の川は少なかった。


「谷山、鹿児島、帖佐、加治木、国分。鹿児島湾に接する地には、我々もよく知る大きな河がございますが、大隅からは小さき川ばかりでございます。一体大隅の川はどこ流れ着いているかと考えたところ……」

「志布志湾か」

「左様にございます。無論平坦な川ばかりでもございませんので呑気に川下りをする訳にもいきませんが、川沿いを伝えば、存外早く志布志、高山へ行けます。逆に肝付勢は山登りをするか、海を超えなければ薩摩に入れませんので、これまでも苦労してきたのでしょう」

「祖父が使う山の者……神力坊殿と言ったか、その御仁が『高隈山を中心にした大隅の山々は、島津と肝付を別つ塀の如し』と申していたようだが、まさにそういうことか」

「はい。川伝いに密かに忍び入り、山に潜んで逃げる事を考えております。」


 忠棟の瞳が光り、思わず声が小さく、鋭くなった。


「隙あらば仕掛ける機会をお与えくださいませ。これは亡き忠将公のご無念を晴らしたい、という一念もございます」

「……よし、分かった。これについてはお主に一任する。存分に尽くせ」

「畏まりました」


 忠棟はまた頭を下げて密かに兼続暗殺の任を帯びた。

 そしてその機会はあまりにも早く訪れた。



 永禄九年(一五六六年)十月末

 国分に入った伊集院と都之城の北郷に、連合して攻め入る気配ありと聞いた兼続は先手を打って軍勢を上げた。

 これの抑えのために南進してきた北郷の軍勢と争って退けると、豊州家が籠る串間まで迫った。

 しかし忠棟の軍勢が援軍に迫っていることを知ると、挟撃される可能性を嫌って志布志まで戻った。



 同年十一月十五日

 兼続が志布志に戻って忠棟の出方を伺うこと数日。

 早朝になって急報が入った。


「お館様、高山が島津勢の襲撃を受けているとのことです!」

「ば、馬鹿な! 高山本拠に攻め入るなど……。どこを通って……? 人数は? 軍勢の規模は?」

「不明です!」

「不明とは馬鹿な報告を! さては流言だな!?」

「いや、高山より急を知らせる兵が確かに」

「えい、この目で見るまで信用できぬ。検分するぞ」


 そう言って床板を踏み抜かんばかりの勢いで荒々しく館を出て、急を知らせにきた使者と接見した。


「ああ、お館さま! 大変です。高山城に島津の十字旗が五百程……恐らくは伊集院忠棟の兵です」

「五百!? たった五百ほどの人数相手に一体何を慌てふためいておるのだ!? 良兼めは一体何をやっている!」

「いや、それが、妙に神出鬼没で、四方より弓矢、鉄砲を射たれて、城内は対応できずに混乱しております」

「……情けない!」


 兼続は(かぶり)を振ると常駐させていた千ばかりの兵に出撃の準備をさせ、激を飛ばす。


「これより高山城へ救援に向かう! 遅れるなよ!」

「おお!」


 兼続が率いる軍勢は鬨の声を上げて、志布志湾沿いの街道を通って高山城へ出立した。

 しかし、その道中の際にも続々と届く報せに、この高山城襲撃に対する島津の軍勢の異様さにすぐに気がついた。


「支城が……落とされておらん?」

「はい、たしかに支城は全て無事です。高山の本拠だけが攻められております」

「……これは……」


 兼続は事態の深刻さに気づき始めていた。

 得体のしれない何かが、自分の身に迫っている。

 兼続がそう思い、嫌な予感が寒気となって背中に感じた時には、しかし既に遅かった。


「て……てきしゅ……」


 敵襲を告げる兵が弓矢に貫かれて倒れた。


「こ、これは!?」


 いつの間にか兼続を五百余りの島津軍が囲んでいた。


「これだけの人数が今までどこに隠れていた!? ぐわっ」


 兼続の左腕に何処からか放たれた弓矢が突き刺さり、倒れこむ。

 そして次々と周りの兵たちも討ち取られていく。


「もはや……ここまでか……」


 兼続は敗北を悟るとその場に座して、刀を首に当てて一気に引き、絶命した。

 志布志衆も大将が死んだと知るや、そのまま離散した。



「河内守様はこの方で相違ございません」

「よし、ご苦労であった」


 肝付軍の壊滅を確認した島津軍は、その死体から兼続を探しだした。

 忠棟はそれを検分すると、大きく頷いて大役を果たしたことに安堵した。

 そして日新斎や伯囿がそうであったように、その場であらかた兵を丁重に葬って手を合わせた。


「時代の流れとは言え……申し訳ござらなんだ。お安らかに」


 そして全軍に退却命令を出す。


「殿、高山城は?」


 忠棟臣下の将が怪訝そうに尋ねる。


「勝ちすぎはよくない。勝ち戦は五分を以って上。七分を以って中。十を以って下である。此度は目的を達して七分以上。事が思惑通りに進みすぎた。これ以上の功は望んではならぬ。退くぞ!」

「はっ」


 そう言って伊集院忠棟の兵たちは風のように国分へ去っていった。



 永禄九年(一五六六年)十一月十五日

 肝属河内守兼続。入道して省釣。

 肝付家最大の版図を広げたもう一人の西南の英傑は、大隅国の平定をみないままあっけなく死んだ。

 享年五十六。


 余所から見るとその死には謎が多く、波紋を呼んだ。

 兼続の最期の場所は、肝属川の北にある東串良、池之原の地と伝わる。


 この時既に長男の良兼が肝付家十七代を継いでいたが、兼続を失った影響はやはり大きかった。肝付家の大隅国平定の野望は潰えたも同然で、薩摩国への進出はめっきり鳴りを潜めていくのだった。


 また、兼続の妻であり、良兼の母は日新斎の娘、御南である。

 肝付家中に於いても御南の方、と呼ばれて大事にされていた。

 そのため、御南の方も島津家との間を取り持つべく、よく尽くしたが、良兼は正室に日向の伊東義祐の娘を娶って、血縁関係を強化し島津家とはますます疎遠になっていく一方だった。


 そこに、薩摩国を平定して意気上がる島津の軍勢が迫ろうとしているのだった。



 元亀二年(一五七一年)三月

 菱刈氏を大口から追放し薩摩国を完全に手中に収めた義久は、次弟の歳久を大隅国平定の総大将に任じた。

 副将は末弟の家久。さらには従兄弟となる以久の他に新納武蔵守忠元、肝付弾正忠兼盛、吉利下総守忠澄、樺山兵部少輔忠助、喜入摂津守季久といった重臣もこれに従軍している。


 歳久は帖佐、加治木を通って国分で忠棟と謁見した。


「掃部助殿、随分と久しぶりだ」

「拙者も金吾様にお会い出来ず、寂しい想いをしておりました」

「よく言う!」


 真面目で実直で、さらに妙に人懐こい所もある忠棟を歳久も気に入っていた。


「して、此度の下大隅への我が軍勢だが、この数年の間あやつらを見張っておったお主はどう見る?」

「肝付はもはや動く気力もないようです。金吾様の背後は拙者の軍勢が守りますので存分に前へお進みください。ですが……」

「うん?」

「日向街道を進んだ先にある牛根、早崎は平地がなく、そのまま海へ落ちる断崖です。福山の地然り山も険しいのでここを攻め進むのは大変に困難かと」

「なるほどな」

「いっそのこと桜島を経由して垂水には船で直接迫る方が確実やも、と思案した次第にございます」

「相分かった。次の遠征の際は検討しよう」

「いってらっしゃいませ」


 そう言って忠棟は深々と頭を下げて歳久の軍勢を見送り、自らは肝付、伊地知の奇襲に備えた後詰めとして出陣した。



 同年三月十六日

 牛根の手前で待ち構えていたのは、伊地知氏九代当主重興だった。

 しかし島津軍の大軍勢の前に敢えなく敗走。這々の体で入船城へ籠城した。


 だが垂水の山に築城された堅牢さを前に、歳久は攻略を早々に諦め、退却する。


「ありゃあ、真正面から攻めるのは無理だ! 兵がいくらあっても足りん!」


 歳久は総髪の頭をかいて、遠く臨む垂水の山地を睨みつける。

 家久が遠慮がちに背中に声をかける。


「兄上、どうしましょう?」

「ちと考えさせてくれ。これは相当頭をひねらんと……」

「しょ……承知いたしました」


 難しそうな顔をしながらも目を爛々と輝かせる歳久の姿に、家久は少し怯えた。



 同年五月二十四日

 島津軍の動きに対して、大隅国は鹿屋より南の一帯を支配下に置く禰寝氏十六代当主重長しげたけが奇襲をかけた。

 根占港を出立して、向かいの指宿の摺ヶ浜に上陸するべく軍勢を差し向けた。

 しかし義久はこの動きを読んでいた。

 鹿児島、谷山の兵が待ち構えており、強かに鉄砲を撃ちかけて撃退せしめたのだった。


 こうして薩摩と大隅を挟んで一進一退の攻防が続く。

 だが大隅国攻めの最中に急報が入った。




 同年六月二十三日

 島津四兄弟の父、島津貴久、入道して島津伯囿死去。

 享年五十八。


 戒名

 南林寺殿大中良等庵主


 島津家を守護大名から戦国大名へ生まれ変わらせ、強固な家臣団を作り上げて礎を築いた。

 三州平定の道標を示した中興の英傑の、あまりに突然の死だった。


 義久は伯囿の最後について報告を受けた。

 隠居先の加世田の看経所でお経を読んでいる時、不意に倒れてそのまま帰らぬ人となった、と言う。


「なんと……無情なことよ……。臨終の場に居合わせぬ親不孝な息子をお赦しくだされ……」


 墓場で参列した義久たちは、その墓前で深く頭を垂れ、戦国の世の非情さを改めて思い知るのだった。


 義久を始め兄弟たちは祖父が七十七の長寿であったため、父もそれくらい生きるのだろうとなんとなく思っていた。

 それ故か父の突然の死には周囲が思っていた以上に塞ぎこんだ。

 また、大隅平定を逸ることは凶兆である、という神慮もあって大隅平定軍の勢いはやや鈍った。



 肝付良兼はその隙に軍勢を整えた。

 守護大名に過ぎなかった島津家を戦国大名へと育て上げた貴久を失った島津軍にもはや力なし、と判断する。

 それから積極的に薩摩国への遠征を開始するになる。



 同年十一月二十日

 伊東、禰寝、伊地知の各兵をまとめ上げると、小舟三百隻の船団を組んで根占港を出立し、桜島の野尻を強行上陸。

 桜島を制圧して鹿児島本拠に迫る戦略に出た。


 しかし横山城に詰めていた家久が二千人の兵で迎え撃ち、連合軍は敢えなく退却した。



 その翌年。

 元亀三年(一五七二年)二月

 肝付良兼は高隈山の北を回って見張っていた。

 牛根の麓まで偵察にきていた島津の兵に奇襲をかけたが、まるでこれを見透かしていたかのように待ち受けられ、さらには忠棟に攻められて退却した。

 良兼は仕掛けても撃退されてしまうこの状況を打破するために、日向国伊東義祐に一報を入れた。


「島津の軍勢は大隅国平定のために多く兵を割いており、島津領に攻め入る好機と見える」


 良兼としては、伊東義祐に北から島津家の支配地に攻め入らせることで大隅から手を引かせるという思惑があった。

 また義祐もようやく薩摩国の進出を図るようになった良兼を見て、これを好機と判断して真幸院の進軍を決定した。


 しかし、真幸院飯野城を守るのは島津家の戦神、島津兵庫頭忠平である。

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