第三十五話 薩摩平定
永禄十二年(一五六九年)四月末
馬越城で義久の末弟家久と新納刑部大輔忠元、肝付弾正忠兼盛が膝を付き合わせて相談していた。
「中書様、いかがでありましょうか」
「うん、場所としては宜しかろうと存じます。あとは人数ですね」
島津家久二十三歳、新納忠元四十四歳、肝付兼盛三十七歳。
家久と忠元は親子と言ってもいいくらいの年齢差だったが、絶対に覆せない主従関係がある。
忠元、兼盛はそのことをよくわきまえていた。
ちなみに家久は義久より中務大輔という官名を頂戴して、島津中務大輔家久と名乗るようになっていた。
中務大輔は唐名で中書と呼ばれていたので、家久は中書と呼ばれる様になっていた。
ただ、家久はまだまだ励まねば、と自戒していた。
文武両道を体現した生ける伝説と化しつつあった名将から敬られて面痒く、恐縮しきりであった。
大口城の攻めるには決め手に欠けていた義久の結論は、やはり
「まともに攻めるには相手方の兵が多すぎる。いずこかで決戦して一網打尽にし、心さえもへし折るべし」
というものだった。
その決戦の兵を率いる大将に末弟の家久を命じて、家久は馬越城に入って談合していた。
大口菱刈氏の勢力は縮小の一途を辿っており、馬越城陥落時に兵を退去させたこともあって、大口城以外にはほとんど拠点となる城は残っていなかった。
しかし大口城は南北の丘陵地に築かれた山城で島津軍も安々とこれを攻めることもできなかったので、なお抵抗を続けていた。
大口盆地の西に鳥神岡という山がある。
標高は四〇三メートルほどの小さな山であるが、美しい三角形の山容が大変評判で、美山という別称もあった。
なお後の世には伊佐富士の愛称で親しまれることになる。
その鳥神岡を囲むように平出水川という川内川の支流があり、川沿いを北へ三キロ進むと平泉城という大口城の支城があった。
ここを攻め落とした当初は他の将が入って守りについていて、その後に家久が入った。
しかし家久による大口勢一網打尽作戦のために交代で忠元がここに入って城番となった。
そして作戦決行の日を迎える。
同年五月六日
その日は朝から小雨が降っていた。
地に落ちた雨が水煙となって舞い上がり、視界が悪い。
しかし島津の軍勢がいつ攻め入るかも分からない状況に、菱刈、相良の両軍が入る大口城の兵は日々神経を尖らせて監視しており、その軍勢を見逃さなかった。
「殿、どうやら島津の軍勢が馬越より市山を通って兵糧を運んでいるようです。恐らく行き先は平泉城かと」
報告を受けた菱刈隆秋は、何故この時期に兵糧を平泉城に運ぶ必要があるのか、と考えた。
秋に収穫された米は一年かけて消費される。
従って、城に勤める兵の数に合わせて倉に入れる兵糧の数は調整される。
この時期に兵糧を大口城の北西にある平泉城に運びこむということは、平泉城の兵を増やして何らかの軍事行動を起こすということだ。
(大口と球磨に至る街道を封鎖して相良殿からの援軍を断つつもりか? そうはさせぬ)
隆秋は立ち上がると、二千あまりの兵で平泉城へ兵糧を運ぶ軍勢を追討するように命じた。
その頃、兵糧を運んでいるのは家久だった。
「殿、大丈夫でしょうか。ここは大口城の目と鼻の先でございます」
「案じるな。この雨の視界の悪さで分かりはせぬ。だからこそ、この霧が立ち込めやすい雨の日を狙って最短距離で平泉に兵糧を運べと命じられているのだ。さあ気張れ、気張れ」
「へ、へい……」
それでも霧の向こうにかすかに見える大口城の城郭を不安げに見るのだった。
(さて……)
また家久も、別の意味で遠く大口城を見つめた。
その時。
「殿! 敵襲にございます!!」
輸送隊の後方から悲鳴があがった。
「ひゃ、ひゃあ! やっぱり見つかったあ!」
兵たちが慌てふためいて、兵糧を運ぶ馬の尻を叩いて急かす。
「おい、そんなに急かすなよ、ここは俺がお主らを守るから、川沿いに城へ行け!」
家久の兵たちは弓矢を番え、後方に迫る大口の兵たちに攻撃を開始した。
折から雨もあがったので、さらに鉄砲も撃ちかける。
しかし、これを追討する菱刈・相良の連合軍の士気は高かった。
「鉄砲など恐れるべからず! 滅多に当たらぬぞ! さあかかれっ」
菱刈相良連合軍の勢いや凄まじく、一人、また一人と兵が討ち取られていく。
「殿、急ぎ城までお引きください。刑部殿の救援があれば持ちこたえましょう」
「輸送隊は見捨てるわけにはいかぬ! ここで俺も食い止めるぞ!!」
怒気のはらんだ家久の声に敵方の兵も気づいた。
「や、あそこに島津の大将がいるぞ! 者共かかれ!」
ますます勢いづいて、菱刈勢が攻めかかった。
もはや壊走寸前の状態だった。
「えい、兵糧は川に打ち捨てよ! 城まで急げ!」
「いやしかしそうは言っても……」
「とにかく急げよ!」
恐慌状態に陥るのをすんでのところで堪えながら、家久の軍は我先にと平泉城に足を速める。
しかし焦る兵たちを横目に、家久は勝利を確信して笑みを浮かべた。
(釣れた!)
その時、鳥神岡の東の山中に法螺が鳴り響いた。
何事かと思って連合軍も足を止める。
そして空気を切り裂く弓矢の音、さらには鉄砲の轟音が山中に響き渡った。
「て、敵襲!? どこから!?」
「横……!? 左右から!!」
「ぐわっ! 後ろ……っ!!!」
「いや、前……!? がはっ……」
見れば既に軍勢を整えた家久の兵が、さきほどの退却軍とは思えないほど、猛烈に弓矢を撃ちかけていた。
「さあ者共! 存分に撃ちかけよ!!」
忠元の大声が響き渡る。
山に潜んでいた島津軍の兵が左右から。
そして前後から菱刈、相良の軍勢に攻めかかった。
既に勝敗は決していたが、それでも攻撃の手を緩めない。
逃げ場を失った兵たちは平出水川に飛び込んで逃げようとして、溺れ死ぬものが続出した。
後に鳥神尾の戦いと呼ばれるこの地での争いで、菱刈、相良の名のある者百三十六名余りが討ち取られて壊滅した。
前日のうちに山中や葦原に兵を伏せておき、退却軍がその地へ誘導して、挟み撃ちにするこの作戦は、島津軍のお家芸となっていく。
それは江戸期になって知れ渡ることになり、「釣り野伏せ」と名付けられた。
多くの兵と将を失った菱刈隆秋だったが、それでもすぐに降伏しなかったのは、薩摩の人間らしい気骨溢れる人間性に因るのだろうか。
隆秋は渋谷一族に連絡を取ると、入来院、東郷の軍勢が曽木長野城まで攻めかかり、一進一退の攻防を繰り返した。
しかしその軍勢も島津軍の前に潰えて、各城へと戻っていった。
永禄十二年(一五六九年)八月十八日
鳥神尾の戦いから三ヶ月後、島津軍はついに大口城を包囲した。
それでも頑強に反抗したが、曲輪を一つ一つ落とされていき、大口城の戦いは二十日にも及んで、さすがの隆秋もようやく降参する。
同年九月十日
菱刈隆秋は大口城を退去し、相良氏を頼って球磨へ逃れた。
そして年が開けて――。
永禄十三年(一五七〇年)一月五日
もはや抗する力は残らず、として渋谷一族の各当主が揃って義久と面会し、平伏してこれまでの行いを謝罪した。
全ての領地を差し出して、あらゆる処分を受け容れる、という起請文を差し出した。
これによって、薩摩国は島津義久の元で完全に平定されて泰平の世がもたらされた。
「此度はご苦労であったな」
大口城で泰平を祝うささやかな宴が催されていた。
家久は義久より盃を受けて、一気に飲み干す。
「次は大隅でございますな」
「うむ。お主には副将を命じる。横川に戻って軍勢を整えよ」
「はっ。大将は吉田の兄上で?」
「ああ。又六郎も大口との戦では後方支援ばかりで金がかからずに助かる、とぼやいておったからな」
しかし義久の表情は明るい。
「お主は副将として、又六郎を支えてくれ」
「畏まりました」
家久もまた力強く頷いた。
大口における菱刈征伐の軍は解散され、義久は大口の地頭職に新納忠元を命じた。
相良氏への抑え、そして日向への遠征を見据えていてのことだった。
また、忠元には官名を刑部大輔から武蔵守を名乗るように命じた。
これ以降、忠元は武功随一と評判だった勇猛果敢な戦いぶりに「鬼武蔵」とも、或いは家中の武功者を数える筆頭であることから「太指武蔵」と畏敬の念を込めてあだ名されるようになる。
また忠元も、民を慈しんで仁政を敷き、大口の名地頭としてその評判をますます高めるようになっていった。
またもう一つ、義久は歳久に大隅征伐の大将に任じるにあたって左衛門督という官名を名乗るように命じた。
左衛門督とは、律令制における宮司、衛門府の最高官位であり、いわゆる宮殿に繋がる門の警備を担当する役職名である。
言わば門番の長、という意味合いだったが、武士の間には左衛門督は知勇に優れた武将だけが名乗れるものという認識があった。
そのため武家の間では大変人気があり、余程の者でないと名乗ることを躊躇う官名でもあった。
また、唐では左衛門督を金吾大将軍と称していた。
そのためこれ以降、歳久は「金吾様」とあだ名されて親しまれるようになっていく。




