表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦国島津史伝  作者: 貴塚木ノ実
飛躍
33/82

第三十二話 日新斎の看経所

 永禄十一年(一五六八年)

 大永六年(一五二六年)に貴久が宗家を継いでから四十年以上の年月が経っている。

 日新斎と貴久の大望は義久ら四兄弟に受け継がれ、薩摩、大隅、そして日向の三州平定の戦が続いていた。

 その戦の中で、時には負け、そして勝ち、多くの死があり、新たな生を継いで、多くの伝説や逸話が生まれていった。

 もちろんその全てが残るわけではなく、新たな時代の激流に飲み込まれて忘れ去られていき、そのうち人知れず消えていく逸話も多くある。

 また、いつしかこれまでの島津家の戦いにおいて、功に優れた方はどなたであろうか、という話が口にのぼるようになった。


 なお、こういった優れた功を上げた者で序列を付けるような話はよくある事である。


 例えば織田信長の四天王や五大将。

 甲斐の虎、武田家二十四将。

 越後の龍、上杉四天王、あるいは二十五将。

 等など、枚挙にいとまがない。

 余談ではあるが、四天王という呼称は仏教に由来しており、帝釈天に仕える四柱の守護神、持国天、増長天、広目天、毘沙門天を指す。


 もちろん、島津家にも四天王がいた。

 ただし、貴久の優秀な四人の息子たちを引き立てるためにやや遠慮して、島津四勇将とも言われたが「日新斎が看経所に書いた四人」の方が通りはいい。


 日新斎は加世田に隠居して、貴久から義久へ代替わりしたのを見届けた頃、今後の島津家を支え、発展させていくために欠かせない四人の将を選んでいる。



 新納刑部大輔次郎四郎忠元

 大永六年(一五二六年)に志布志で生を受けた新納氏庶流の人である。

 曽祖父は新納友義。日新斎の母、常磐の兄である。新納氏は志布志にあって豊州家や北郷氏と争い、さらには肝付氏に攻められてついに陥落。忠元が十三歳になる天文七年(一五三八年)に一族離散の憂き目にあった。

 新納宗家筋は佐土原に亡命して伊東家の保護下に入り、後年になってから島津家に仕官する。

 だが忠元ら友義の庶流は、日新斎の教育係だった新納忠澄の縁を頼って日新斎の元での士官を願った。

 当時、日新斎は薩州実久方との抗争を繰り広げて加世田攻めの機会を伺っていた。

 優れた家臣を欲していた事から是非もなくこれを快く受け容れた。

 その際に見出され、元服と同時に仕官させたのが、忠元である。


 忠元の若き頃を語る上で欠かせない逸話がある。


 ある時、教育熱心な日新斎は家中の若者たちを集めて講学をした。そこには士官したての忠元もいた。

 その後になって数珠の珠の数がいくつあるか聞いたことがある。


 しかし誰も首をかしげるか、熱心に数珠を数えるだけだった。

 散会した後、日新斎は忠元を呼んで問うた。


「お主であれば数珠の数を知っていると思っていたのだが」


 日新斎は、忠元なら知っていると思っていただけに不満気だった。

 とても勉強熱心で仏の教えにも通じている、という話を聞いていたからだ。

 しかし忠元は殿を前にして緊張する様子もなくサラリと答える。


「数珠の数は百八でございます」

「やはり知っておったか。何故答えなかった?」

「……年長の方もおられましたので、私のような新参者の若輩がしゃしゃり出て恥をかかしたら島津家中が不和になるやもしれぬと懸念した次第です」

「なんとも関心なことだ」


 日新斎は唸った。

 目上を立て、忠孝の姿勢を示すその思慮深さに、短刀を褒美として与えようとした。

 しかしそれすらも


「畏れ多いことでございますが、そのご褒美は槍働きで功があった時に受け取りたく存じます」


 と言って丁重に断った。

 日新斎はますます気に入って重用するようになり、忠元もその期待に応えて島津家の直臣として大いに働き、功をあげるようになる。



 肝付弾正忠三郎五郎兼盛

 義久と同年生まれ、天文二年(一五三三年)に加治木で生を受けた肝付氏庶流の人である。

 兼盛の肝付庶流は早々に肝付宗家とは縁を切り、島津家に代々仕えてきた支族であった。

 父は兼演で、貴久が宗家を継いだ時にこれに従ったものの、翌年に勃発した実久の乱では実久方に付いてこれに反抗。天文十八年(一五四九年)には加治木で叛乱を起こしたが、島津家の猛攻のさなかに父を説得して降伏した。

 以来、島津家に忠節を尽くし、天文二十三年(一五五四年)の岩剣城の戦い、翌二十四年(一五五五年)の蒲生征伐、永禄九年(一五六六年)の三ツ山城攻めでも軍功をあげている。

 己の命を顧みないかのように攻めかかる戦いぶりは敵方の恐怖を招き、その一方で兵の動かし方や、攻め時、退き時を心得た戦上手ぶりが評判であった。



 鎌田尾張守刑部左衛門政年

 永正十一年(一五一四年)に帖佐で生を受けた鎌田氏の庶流である。

 鎌田氏は平安時代中期の伝説の名将、藤原秀郷に祖を持つと言われる古い家柄で、初代島津(惟宗)忠久の頃から付き従って薩摩国に下向した一族と伝わる。

 鎌田氏は代々島津家の家老職を歴任し、政年もまた早くから日新斎に付き従ってこれを補佐してきた。

 武功としては弘治三年(一五五七年)での蒲生本城攻めの他、先十年(一五六七年)の菱刈氏馬越城攻めでの奮闘ぶりで名を馳せて、その話を聞いた日新斎より「島津家は永久にその功を忘れない」と激賞された。



 川上左近将監源三郎久朗

 天文六年(一五三七年)に串木野で生を受けた川上氏庶流の人である。

 川上氏は元々島津家五代貞久の頃に分かれた古い分家であったが、系図の枝葉を広げていき、島津家の重臣を輩出してきた。

 忠克は次女が実久に嫁いでいたことからこれに与して日新斎、貴久と争い、勝久に守護職の復帰を説くなど重要な役割を果たしてきた。しかし実久が敗れると忠克も降伏し、甑島に配流されていたが、三年後に許されると家老職に抜擢されて、以後忠孝を尽くしてきた。また忠克には嫡男の忠頼がいたが、若死にしたため、久朗を跡目に定めた。

 久朗は島津四勇将の中では最も若く、歳久と同い年であったが、幼い頃からのその才覚に日新斎が惚れ込みしきりに褒めそやした。

 元服してからは戦において勇猛に攻めかかり、政も的確にこなす姿に智勇兼備の大器と周囲からも大変な評判であった。

 特に義久は久朗を自らの直臣として仕えさせると、とても贔屓にした。

 久朗が天文二十二年(一五五三年)のわずか十七歳の時に家老職に抜擢して谷山の地頭に任じた。

 さらに翌年に守護代に推薦したが、さすがに周囲から反対されたほどである。

 そのあまりの可愛がりぶりに、久朗は義久の男色趣味の御相手ではないか?義久に嫡男に恵まれないのは久朗と「お盛ん」すぎるからでは?とも噂されたほどである。

 ちなみに、この噂について伯囿(はくゆう)直々にこっそり真相を聞いたところ、義久は一笑して


「まあ、そのように受け取られても仕方ありませんが」


 とだけ答えたため、ますます噂が噂を呼んでいった。

 なお、戦においても弘治元年(一五五五年)の蒲生氏との戦い以後、常に義久の陣に在って槍を奮って功を上げてきた。



「新納武蔵守、肝付弾正忠、鎌田尾張守、川上左近将監。今後の島津家を支えていくために、あえて必要な四人を選ぶとすれば、この者達であろうな」


 そう言って日新斎は看経所の四つの柱にそれぞれ名を書きつげると黙々とお経を読んで祈りを捧げるのだった。

 ちなみに、仏教においてお経を声に出して読むことを読経(どきょう)と言い、声に出さずにお経を()る、つまり黙読することを看経(かんきん)と言う。

 看経所(かんきんしょ)は文字通り看経するために、日新斎が建てさせたものである。



 永禄十年(一五六七年)十一月二十五日

 十一月の馬越城攻めで勢いに乗る島津軍に対し、菱刈隆秋は支城の兵を退去させて大口城に集結させた。

 さらには肥後球磨の相良氏に援軍を請い、翌日には反撃に転じて島津義虎が守る山野や平泉城を攻めるがよく防いだ。

 さらには翌十二月には大口城からたった三キロしか離れていない市山城へ頻繁に攻めかかったが、忠元が城主として入るとこれを撃退し、菱刈氏の情勢は一旦止まった。



 永禄十一年(一五六八年)一月

 馬越城には義久と忠平さらに父、伯囿と共に、大口城攻めについて日々評定を行っていた。

 もちろん、そこには看経所の四人もいる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ