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戦国島津史伝  作者: 貴塚木ノ実
飛躍
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第三十一話 菱刈攻め

 永禄(えいろく)九年(一五六六年)十月

 島津家十六代の家督を継いだ義久は、父や兄弟とともに三州平定の戦略を練りなおした。

 日向進出の足がかりである飯野城はそのまま忠平に任せて守りに専念し、日向侵攻はしばらく控えることにした。


 そして当面の目標として大口を治める菱刈(ひしかり)氏の征伐に定めた。

 大隅国の肝付、他の庶家も健在であったが、守りを固めて島津家の領地に積極的に攻め入る様子もなかった。

 そのことからまずは肥後と日向真幸院に接するこの地域からということになった。

 また大口を支配下に置くことが、鹿児島から遠く孤立しがちな真幸院(まさきいん)に支配を強固で確実にする目的もあった。

 ただ、それ以上に菱刈氏を征伐するべき理由があったのも否めない。


「三ツ山では予想よりも敵の援軍が早かったと又六郎が言っていたが、よもや菱刈が伊東と通じて我らの進軍を先に知らせておったとはな」


 忠平は忌々しそうに吐き捨てながら、馬超(まごし)城の方角を睨みつける。

 大口菱刈征伐の軍勢を起こしたのは忠平の怪我の回復を待ってからのことである。

 忠平も飯野城より五千人の兵を率いて出立し、黒園山(くろそんやま)の東の麓にある般若寺の険しい山道を超えて、稲荷山に着陣していた。


 大口は薩摩国の北の端にあって伊佐郡の一角を占める。

 西に出水、北に肥後の肥後国球磨(くま)郡、東に日向の真幸院に隣接する、周囲を険しい山に囲まれた盆地である。

 特筆すべきことは盆地特有の気候で、夏は鹿児島以上に暑く、冬は南国とは思えないほどに凍りつく寒さとなる。

 だがこの寒暖の激しさが功を奏するのか、大口で採れる作物はいずれも旨いと大変評判で、南九州に広がる大荘園の中でも有数の米どころでもあった。

 また、米が美味いと米を使った蒸留酒が盛んに生産されるようになる。

 そしてその蒸留酒はいつしか「焼酎」という名で親しまれるようになった。

 作物の蒸留技術は唐の僧がもたらしたと言われ、帰化僧が寺社で行ったのが次第に広まっていき、日ノ本に根付いていったようである。

 また当世、蒸留には手間暇がかかって焼酎は貴重だった。

 社殿建立の報酬の代わりに振る舞われることもままあるようで、協力する大工なども貴重な焼酎が飲めるとあって楽しみにしていたようである。


 この大口を支配するのは菱刈という氏族である。

 平安時代末期に島津荘の開拓整備が進む中で大口に入った、藤原氏を祖にもつ古い家柄だった。

 鎌倉の世から室町の世における島津家の三州支配が進む中でも、渋谷一族や肥後の相良氏と結託して対抗するなど、巧みな外交を展開して生き残ってきた。


 大口には本拠となる大口城の他に、支城を多数抱えていたが、その一つが馬越(まごし)城という城である。

 この城は川内(せんだい)川流域沿いにある豊かな田園地帯の一角に突き出た丘陵地に築城された。

 縄張りとしてはさほど大きくないが、シラス台地を削りとったこの地ならではの山城である。

 また、大口城の南へ約六キロの位置にあって、菱刈氏にとってはいわば最終防衛線でもあった。



 永禄十年(一五六七年)十一月

 義久と伯囿は一万五千余の大軍勢で鹿児島を出立し、二手に別れると、それぞれ湯之尾と諏訪神社に着陣して馬越城の眼前に迫った。

 この戦での総大将は義久で、後見の伯囿も軍勢を率いていた。

 先陣には弟の忠平、新納刑部大輔忠元、肝付越前守兼盛、さらには出水より薩州家を継いだ島津義虎といった錚々たる面子を揃えた大軍勢である。

 なお歳久も吉田松尾城より後方支援を任されていた。


「城主は菱刈大膳亮とか言ったか。相良や渋谷と結んで随分と小狡く立ちまわると聞くがいかがなものか」

「なあに、拙者と殿がおればこれまで負けなしでございます。何一つ恐れることはございませぬよ」

「頼りにしているぞ」


 忠平と忠元は戦を前に気が高ぶるのを抑えこみながら馬越城の包囲にとりかかった。



 永禄十年(一五六七年)十一月二十三日

 馬越城のすぐ東側にある徳辺という所に伯囿の兵を後詰めとして置き、忠平が先陣大将として馬越城の大手口に着陣した。

 さらには南側に兼盛。兼盛を守るように義虎といった陣容で馬越城の包囲を完了した。



 夜が明けて(やかま)しかった鶏の声が静まった頃。

 冬晴れの夜明けの空に号令が響く。


「かかれ!」


 義久が軍配を振ると攻撃開始の法螺が吹かれ、一斉に総攻撃が始まった。


「さあ攻めろよ、寄せろよ!これは兄上の治世の(いくさ)始めであるぞ!」


 忠平の意気は殊更高かった。

 怪我もすっかり治って大手口を攻めかかる兵たちに激を飛ばす。

 馬越城の城兵も必死の守りを敷いていた。

 近づく島津軍に弓矢を放ち、塀に取り付く者には石を投げつけて手を砕く。

 中には頭を砕かれて悲鳴をあげることもなく斃れる者もいた。


 一方の攻城側も竹柵の盾で城からの攻撃を防ぎつつ、下から弓矢を放って対抗する。

 城方の攻撃が一瞬緩まったと見切った忠平が合図を出した。

 その合図で門を破壊する隊が一気に突撃する。

 胴周り五十センチメートルはあろうかという大木を十人ほどで抱え込み、門に叩き込んだ。


「えい、とう! えい、とう!」


 掛け声の度に、丸太が突かれ、大手口の一ノ門が激しく軋んで悲鳴を立てる。

 それを合図に再び馬越城の守勢方からの弓矢が激しさを増した。


「矢楯隊! 門攻め隊をしっかり守れ! 矢が届いておるぞ!!」


 その隙にも忠平は門攻め隊の人数が少なくなってきたと見るや、他から人数を割いて、攻め手を交代するように指示を出す。



 攻城戦においては防衛側の攻撃方法はかなり単純である。


 まず板塀のそばには石を多く積み上げ、真下に迫る攻城兵に投石する。

 さらに曲輪には櫓を作り、その頂上より弓矢で打って兵を射殺する。

 隙を見て門を開けて城兵を出して攻め手を襲撃する。


 基本的にはこれだけである。

 逆に攻め手側の労力は防衛側よりも掛かる。


 竹を並べて柵状にした盾を用意し、これを頭上にかかげて攻撃を防ぐ。

 門攻め隊は大丸太で門を突いて破壊する。

 その後方には弓矢隊が城から顔を覗かせる城兵に射掛ける。。

 さらには城門から打ち出てくる兵を迎え撃つ隊も必要である。


 しかし、この攻城戦における風景を一変させたのが鉄砲だった。


 弓矢よりも遥かに強力な威力は木の板など容易に貫き、その後ろにいる兵を撃ちぬく。

 弓矢では届かない位置にある櫓でも鉄砲なら届く。

 時代に先駆けて鉄砲を入手し、実践的な運用を研究してきた島津家躍進の原動力でもあった。


 だが戦闘を重ねる度に、直線的にしか飛ばない、威力が高いと言っても何重もの板を貫くほどではない、などの特性が次第に判明する。

 対策をとられるようになると新兵器導入による戦力優位性は埋められていくことになった。



 菱刈隆秋先年の岩剣城の戦いで鉄砲の威力を身をもって知っていた。

 それ故、馬越城はある程度の鉄砲対策を施した城だった。

 その一つは板塀の二重化で、もう一つは一部を二メートル近くまで高くして、鉄砲の照準を定めづらくしていた。


 忠平は攻めあぐねる大手口一ノ門をじっと見つめる。


「やはりあの(やぐら)が邪魔よな」


 ぽつりと呟いた視線の先には、人の三倍はあろうかという高さの櫓があった。

 しかしこれも鉄砲対策が施されており、射手台に二重化された壁を張り巡らせていた。


 その頂、射手台からしきりに放たれる弓矢に、門攻め隊も手を焼いていた。

 また場所も門攻め隊の背中にあって無防備に弓矢の攻撃に晒されていた。

 もちろん、早々に櫓に鉄砲で撃ちかけたが、鉄砲がわずかに届かない距離でもあった。


「鉄砲隊三十人を呼べ」


 忠平の指示で鉄砲隊を呼び出し、三人一組十隊に分ける。


「今よりあの櫓に向かって土壁を攻め上がるゆえ、射ち手が頭を出す間だけ弾を撃ちかけよ」

「……はっ」


 いくらシラス台地を垂直に削りとっているからと言って、すっぱりと垂直に切り取っているわけでもない。

 土壌の脆さ故に、垂直に削り取ると雨が降っただけで端の崩れてしまう可能性があるからである。

 端のギリギリまで張りだしてこしらえている櫓の曲輪には、わずかな傾斜があった。

 そこを攻め上がろうという作戦だった。


 辻大蔵左衛門、有馬弥左衛門、久留(ひさどめ)軍兵衛といった者達を呼び寄せて、櫓の攻撃を命じる。


 忠平の号令一つで一斉に攻め寄せる島津軍だったが、それに気がついた城塀からも弓矢、投石攻撃で激しく抵抗する。

 攻撃に晒されて兵たちが悲鳴をあげて壁から転がり落ちるのが見て、忠平はもう我慢できなかった。


「ええい、見ておれぬ! 攻城とはこうするのだ!」


 そう言うと陣に置いていた竹柵を手に取り、櫓に向かって突進した。

 慌てたのは忠平の馬廻衆である。


「しまった! また殿が!!」


 慌てて忠平を止めにかかろうと追いかける。

 だが忠平は重装備にも関わらず素晴らしい足の早さで坂を駆け上がっていき、既に追いつける距離ではなかった。

 もはやこうなると誰にも止められない。


「や、殿か!?」


 門攻めの指示を出していた伊集院久春、新納忠元は、真横を駆け抜けて曲輪に攻め上がる大将を呆然と見送った。

 その後ろを精強と名高い馬廻衆が我先にと付いて行く。

 その様子を見て、また悪癖がでたのだ、と悟った。


「弓矢など気にするな! 全力でうちかかれ!!」


 新納忠元の叱咤が飛んで、丸太が大きく突かれ、ついに大手口の一ノ門が崩れ落ちた。

 そこに新納忠元を先頭に島津軍が乱入する。

 大手口の周りで乱戦状態になった所を馬越城主、井手籠(いでかご)駿河守は忠平の姿を認めた。


「あれは島津の御大将、忠平公ではないか!?」


 これに驚いた井出籠は密かに別の口から兵を出す。

 馬越之城兵が忠平を包囲して打ち掛かろうとした、


「殿! 危のうございます!!」


 その忠平の背中に斬りかかろうとしていた兵を横合いから斬り伏せる者がいた。

 忠平との間に割り込むと、槍を突いてさらに押し返す。

 島津家に長年に渡って仕えていた重臣、鎌田尾張守政年であった。


「お、おお!? 尾張守か! 助かった・・・!」

「殿! 門が空いてございます!」

「よし! 門が空いたぞ! かかれ、かかれ!」


 忠平はそれを見て転身すると、大手口に向かって采を振る。

 城内は敵味方入り乱れる大乱戦となった。


「大将、井出籠の首はこの尾張守が獲ったぞ!!」

「おぉ!!」


 この戦で獅子奮迅の働きを果たしたのは鎌田政年だった。

 そればかりか、忠平の危難を救う働きには日新斎も激賞した。


「島津家は永久に鎌田尾張守の功を忘れない」


 とはその時の言葉である。




 永禄十年(一五六七年) 十一月二十三日の夕刻

 馬超城に籠城して頑強に抵抗した城主・井手籠駿河守であったが、島津軍の大攻勢の前にあえなく一日で陥落した。

 馬越城の勝利を祝う席の事である。


「殿が働き過ぎたせいで、それがしは恩賞をもらいそこねた次第でございます」


 ただ、またも大将の暴走で立腹した家臣たちから抗議を受けていた。


「うむ、いや、すまぬな」


 忠平はバツの悪そうな顔をしながら死者を弔うささやか宴で獨酒(どぶろく)を嗜んでいた。


「蒲生でも、横川でも、三ツ山でも、我を忘れて突きかかるから、怪我を負ったのをお忘れですか」

「いや忘れてはおらん」

「であれば何故……」


 家臣もさらに悔しそうに口を尖らせる。


「まあまあ、殿が仰せになることには、攻めあぐねている所をたまらず飛び出したという。我らが殿の手を煩わせないよう、より一層励めばよいことじゃ」

「そう、それを言いたいのだ」


 忠元の助け舟に忠平もわざとらしいくらいに大きく頷いた。


「……」


 それでも抗議の冷めた目はしばらく続いたのだった。



 大口菱刈征伐の緒戦は、島津家の勝利で終わった。

 菱刈隆秋は馬越城がわずか一日で落城した、という報せに驚いた。

 その他全ての支城の兵を退去させて、大口城に集めて反撃の機会を伺うのであった。

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