第二話 婚姻
大隅半島の東に位置する志布志は、円弧状の志布志湾を抱えている。
太平洋に面してはいるが、波は年間通じて比較的穏やかであり、大隅国に開拓された大荘園にほど近いこともあって、古くから港町としてよく栄えていた。
また、堺や博多といった日本を代表する商業地へ繋がる海路が設けられていた事もあって、志布志を抑えることは多くの租税収入があるということでもあった。
そのため志布志という地は安定した領国経営のために極めて重要な地と言えた。
その志布志の本拠となるのが、志布志城である。
志布志城は志布志湾を望む山城である。
平野部に開かれた城下町全体を囲むように高くそびえる山を切り開き、本丸の他に「塁」と呼ばれる曲輪を空堀で区切っていた。
まるで城下町を鶴の翼で覆うように構成された城で、山全体が城とも言えた。
山は急勾配で、しかも火山灰の層でできていることから、その土堀を登るにはあまりに脆く、容易に攻めることができない堅城であった。
「常盤、ここにおったか」
ある春の日のこと、志布志城本丸である内城から空堀を挟んで西に備える松尾城の御殿に男が訪れた。
年は三十ばかりか、その腕には合戦で付いたと思われる矢傷の痕が目立った。
男の名は志布志城城主、新納駿河守是久。常盤の父である。
「御用がありましたらお伺いしましたのに、申し訳ございません」
読んでいた書を閉じて脇にのけると、三指をついて頭を下げた。
「かしこまらずともよい、わしが勝手に尋ねに来たまでだ」
薩摩の桂樹院で儒学を学び、以来、書を嗜むことを日課としていた娘の姿に優しい視線を送り、前に座る。
「最近はどうか」
「桂庵和尚が記しました『大学章句』を読んでおりますが、私はやはり論語が愉しいです」
「さようか。武芸も怠るなよ」
そう言ってひときわ優しい笑みを浮かべて娘を見る。
是久は衆目美麗を集めその上利発、と評判の娘をこよなく愛していた。
「齢は十一になるか」
「はい」
十一歳になった常盤はますます美しさに磨きをかけ、やや幼さは残るが志布志の姫として立派に成長していた。
「四年前だったか。そなたを連れて薩摩の大殿の元に出仕したが、それから分家、庶家、はたまた日頃敵対する日向や肥後からも『そなたを嫁に』と。我も我もと、縁談がぞろ届いておってな」
「まあ」
思わず常磐はその可愛らしい口元を、緋桜の模様をあしらった着物の袖で隠す。
「そなたを世間に披露しようと思い、連れていった次第だが、ここまでとはな」
そこまで言って再び娘と視線を合わせる。
次の言葉を待つように、常盤は首を傾げてその目をまっすぐに見た。
「まだ早い、と断っておったが、十一にもなればそろそろ、と考えるべきか」
つぶやくように漏れた父の言葉に、常盤は一瞬力の入った眉の動きを悟らないよう軽く目を伏せた。
是久は照れ隠しのように見えたその表情を満足気に見て立ち上がると、志布志の津浦を見渡せる縁側で陽の光を楽しむように腕を組んだ。
「……わしはお主をどこにも嫁にやりとうない!」
「え!?」
しばらくの沈黙の後、常盤も仰天するような言葉が父から飛び出した。
「そなたは美しい。いや、美しいばかりか、よく勉学に励み、賢い」
呆気にとられた常盤は父の背中を見るばかりで、言葉がなかった。
父の背の向こうには志布志湾に流れ込む前川の瀬に光が輝いている。
「わしはそなたに何もしてやれなかったが、かくも麗しき才女になってくれたものだ」
「は、はい。ありがとうございます」
妙な空気が奥の間を包んでいた。
「常盤よ」
「はい」
「嫁に行くか」
「……」
押し出すような声の是久の問いに、常盤は答えに窮した。父の思いを知り、また自身の幸せを思い、しばらく面を下げたが、意を決したように、しかしはっきりと告げた。
「それが武家の娘の勤めでございますれば」
是久はそうか、と呟き僅かにうなだれ、しかし精一杯の優しい笑みを浮かべて常盤に振り返った。
(お父様、まさか泣いてる?)
常盤は戸惑うように父の言葉を待った。
「考えておく」
それだけ言って、是久は常盤の館を後にした。
そんなやり取りがあって、いよいよ常盤の婚姻話は動き出したのだった。
政略結婚といえば一族のつながりを強化する氏族間の婚姻や、宗家とのつながりの強化を目論む婚姻、同盟を目的とした氏族外との婚姻など、まさに戦略的な婚姻が多かった。
常盤には周辺の氏族から縁談が持ち込まれ「引く手あまた」の言葉どおりだった。
是久は新納氏の庶家だったが、この婚姻の如何によっては家運が決まりかねないことを、是久はよくわかっていた。
それからしばらくの間、ひっきりなしに志布志の館に諸氏の使いが足しげく通う姿が見られたと言う。
それからしばらくの後の夏の日、常盤は是久が滞在する本丸の館に呼び出された。
婚姻の話がまとまったのである。
「ここから東に串間があるのは知っておろう。これを治める太守の分家、伊作家のご嫡男が居られる。そちらに嫁ぐことと相成った」
(串間……!)
常盤の脳裏に四年前の虎寿丸の涼やかな笑顔が思い浮かんだ。
しかしその時は「串間の城の者」としか聞いておらず、また姓も聞けなかった。
串間の地に嫁げば、また虎寿丸に再会する機会があるかもしれない。
それまでどこか鬱屈した気持ちを抱えていた常盤の胸の内に、わずかなざわめきが沸き立つのだった。
それから秋が過ぎ、冬を迎え、つつがなく新年正月を迎えた。
やがて迎えた結納の日、常盤は初めて夫となる者を見た。
そして我が目を疑った。
島津又四郎善久と名乗った若者こそ、四年前に虎寿丸と名乗ったその人だった。
感動の余りに目を潤ませ、頬が桜色に染まるのを隠そうともせず、視線を交わすと、善久があの時のように優しく微笑んだ。
周りに人が居なければその胸に飛び込みたい気持ちをぐっとこらえ、常盤の肩は小さく震えた。
それから三ヶ月後の秋の日、串間の寺社で祝言を上げ、伊作島津家の嫡男、島津善久と常盤は夫婦となった。
祝言をあげた後、初めて二人きりで過ごす夜のことである。
善久と常盤は月の光に照らされていた。
善久はいつものように涼やかな表情で、常磐は色白の肌に艶のある黒髪がかかり、月明かりの下で微かに輝いていた。
ふと、月が雲に隠れて夫婦の住まう館は蝋燭の灯だけになった。
善久十六歳、常磐十二歳。
若き夫婦は簡素な床に対座していた。
若いが、しかしたくましい若者と、月さえも遠慮して雲に陰る美しき姫は、おずおずと視線を絡ませて、また恥ずかしそうに視線を外す。
どちらかという訳でもなく、思わず笑みがこぼれた。
「串間を治める当家と志布志を治めるそなたの家を、我らでまとめあげ、度々攻め入る日向に対抗しよう、ということらしい」
「はい」
「人はそれを政の婚姻だと揶揄するのだろうな」
「……」
「それがしはそうは思わぬ」
善久はそう言って、常盤の手をとった。
「例えきっかけは政であっても、そなたのことは大事にしよう」
「あの時のように、ですか?」
常盤はいたずらっぽく微笑み、指をからませて、善久は何も言わずに、その手を握り返した。
「秋の夜は気持ち良いですが……。少し、冷えてきましたね」
そう言って身体を少し寄せる。
「ならば近う寄れ」
武芸で鍛えたたくましい腕が常盤を抱き寄せ、虫の大合唱が衣擦れの音をかき消すのだった。
だが幸せな家庭を築こうとしていた二人の間を割かんとする大事件が、さほど時をおかずに起きることになる。