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戦国島津史伝  作者: 貴塚木ノ実
想いを超えて
29/82

第二十八話 横川城の戦い

 忠将、尚久、と立て続けに名将を亡くした島津一門衆の気の落ち込みようは誰が見ても明らかだった。

 貴重な戦力を失ったという意味でも、それまでの躍進が嘘のように鳴りを潜めた。

 しかし戦国の荒波は立ち止まることを許さず、貴久もまた容赦なく新たな戦いに駆り出される。



 永禄(えいろく)四年(一五六一年)七月

 (めぐり)城での忠将の死が伝わった頃、伊東家から飫肥の島津豊後守(ぶんごのかみ)忠親(ただちか)の元に、和睦の使者が訪れていた。


「幕府の使者は無碍に返したくせに、今頃和睦ですと?」


 忠親に命じられて飫肥城に出向いていた忠平は顔をしかめて口をとがらせる。

 慕っていた叔父の死を一時忘れさせるには、十分なことであった。


「うむ。であればこれ以上、武庫(むこ)が飫肥にいる必要はあるまい」

「しかし、請われて飫肥に骨を埋める覚悟で参っている次第です。かの伊東の和睦、拙者にはどうも信が置けませぬ。裏切られて義父上に恥をかかすような真似はできませぬ」

「武庫……」


 忠平の熱い言葉に涙もろい忠親は目頭を赤くしながら、さらに説得する。


「お主の思い、しかと受け止めた。だからこそ武勇に優れて無理をするお主をここに置いておきたくないのだ」

「ですが、義父上……」

「聞いてくれ、武庫。太守公は弟君を亡くし、すっかり気落ちしていると聞く。それを救けるのは家中随一の武勇を誇るお主の働き以外にありえぬ」


 忠平も忠親の熱意に涙をもらい目頭を熱くする。


「分家がいくら折れようとも、いずれ誰かが後を継げばよい。だが、宗家が折れることは断じてならぬ。それ故、一度宗家に戻ってくれ」

「……考えさせてくだされ」


 それからしばらくの間も、忠平も頑なに動こうとしなかった。

 しかし忠親に頼まれた貴久が忠平に宗家帰還を命じる。


「真に無念……」


 そして忠平はようやく命令に従い、宗家に帰還した。

 豊州家への養子縁組も解消されてのことだった。


 この頃、既に忠平の武勇は三州に置いて評判になっていた。

 事実、忠平が飫肥にいる間は伊東も肝付も手出ししないばかりか、長年飫肥を狙っていた伊東家から和睦を請う使者が来る次第である。

 しかし、忠将と尚久の死は島津家の戦略にも影響を及ぼしていた。



 永禄五年(一五六二年)二月十日

 それから翌年、再び飫肥で乱が起きる。


 忠平が養子縁組を解消されて宗家に戻ったという報せを受けて、伊東義祐は肝付良兼と連合を組んで飫肥、志布志に同時に侵攻してきたのだった。



 同年二月十八日

 北郷氏の援軍もあったが抗する力はなく、ついに飫肥陥落。

 貴久も援軍を差し向けようとしたが、菱刈、渋谷一族に軍勢を起こす気配あり、という報せがあって身動きが取れなかった。


 これを機に飫肥と南郷を伊東氏。志布志を肝付氏が占領する事態になった。

 豊州家忠親は串間福島城に立てこもって、辛うじて日向南端における島津家の影響力を残すに留まることになる。



 一方その頃。

 大隅国の北で、とある氏族の内乱があった。


 鹿児島湾の最奥部に天降川(あもりがわ)という川がある。川の名は、天孫降臨の地である霧島を水源に持つことに由来する。この川沿い上流へ登った先にある、霊峰霧島の西へ十キロあたりに横川という地があった。

 この地を治めるのは北原という氏族である。


 北原氏は、元を辿っていくと肝付氏の庶流であったが、島津家と伊東家に挟まれて度々干渉された。

 結果、早いうちから肝付宗家から離れていき、戦国乱世の頃になると日向国真幸院(まさきいん)を本拠に勢力範囲の拡大を狙っていた。


 北原氏が勢力を拡大したきっかけとなったのは、文明十六年(一四八四年)に起きた伊作久逸(ひさよし)の飫肥の乱だったのは、島津家にとっても何かの運命であろう。

 その際は久逸の側について援軍を差し向けたが、鎮圧されてしまい、結果的には領地拡大とはならなかった。

 しかしこれ以後、伊東氏との誼を通じて、霧島連峰周囲の北郷氏の領地を侵食していく。


 最大の版図を築いたのは永禄元年(一五五八年)頃の北原兼守の代である。

 その勢力範囲は広く、霧島連峰の北に広がる平野、真幸院。

 東には都之城に隣接する志和地、財部。

 そして南には横川や日当山までを領していた。


 北原氏の戦時における兵の総動員数は一万とも一万五千とも言われていた。

 それ故、島津、肝付、伊東、さらには肥後の相良氏からも一目おかれ、この地方における一大勢力と見なされていた。


 北原氏の家運が傾き始めたのは、島津家と蒲生氏、渋谷一族ら連合軍との抗争が激化し始める岩剣城の戦いからである。

 天文二十三年(一五五四年)のこの戦には北原氏も対島津連合軍として兵を送っていた。

 しかし島津軍の新兵器、鉄砲の前に敗走を喫する。


 それからまもなく、永禄元年(一五五八年)に当主兼守が三ツ山城で病没。

 兼守は嫡男に恵まれなかったことと、兼守の正室に伊東義祐の次女が嫁いでいたことから、伊東家の干渉を招いてしまう。

 伊東方に与する派閥と、介入を嫌う派閥が争うことになってしまった。

 その結果、北原氏の領地の多くは伊東家の支配下に置かれる事態になる。


 その後の北原氏の多くは相良氏を頼るなど離散状態だった。

 しかし北原氏の旧臣たちが島津家を頼って再興を願い、貴久も是非もなく介入を決定する。

 北原氏の旧領地を押さえることは、三州平定の足がかりになる千載一遇の好機と捉えていた。



 永禄五年(一五六二年)六月

 こうして北原氏は、伊東派と島津派に分かれて、大隅国の横川城で争うことになる。


 貴久はまず、肥後の相良遠江守四郎太郎頼房に協力を願い、頼房もこれを快諾した。

 相良氏の下に北原氏の旧臣たちが家督の相続を願っていた北原兼親が保護されていたからだった。

 さらに都之城の北郷時久に命を下して北原氏への旧領回復のための軍勢を起こした。



 島津家は兵六千の軍勢を起こして貴久が総大将。

 本陣の人数は千余りで、後詰めとして溝辺まで進んで着陣した。

 さらに次男忠平を大将、三男歳久を副将に、新納刑部大輔忠元、伊集院肥前守源助久春を付けて、島津軍五千の兵による横川城攻めが始まった。


 横川城を守るのは北原伊勢介、新介という父子だった。


「戦は久しぶりだ」

「こうして横川の城を目の前にすると、鹿児島よりだいぶ遠いところまで来てしまったように感じますな」


 忠平は歳久と共に(くつわ)を並べて横川城を目前にしていた。

 横川は島津家が支配下におく加治木より北へ二十キロという場所である。

 単騎であれば移動に一日もかからない距離ではあるが、大軍勢ともなれば二日はかかる場所にあった。


「だが横川という城は実に攻めにくそうだ」


 いかに武勇に優れる忠平と言っても、城攻めが容易ではないことは確かだった。


「川と城の位置から言ってもここは城の裏手……搦手になるようです。もう少し進軍してから陣を張りましょう」


 忠平と歳久が兵たちの最後の休憩地点として滞在したのは横川城の南にある、二石田と呼ばれる地の近くであった。


「陣の配置はお主に任せる」

「承知。兄上、くれぐれも……」

「分かっておる、分かっておるわ。一人で突っ走ったりはせんよ」


 忠平は豪快に笑い飛ばしながら煩い蝿を振り払うような仕草をしながら歳久と別れ、休憩中の兵たちの様子を見に行った。



 忠平が大将を務めるのがこの戦では初めてである。

 勇猛果敢にして武勇英略において家中随一、と三州ばかりか九州、のちに全国に伝わるようになる忠平だったが、この当時は父や兄弟を呆れ返させる悪癖があった。


 その悪癖とは、敵兵と見れば体がうずき、劣勢と見るや己の立場を忘れて突撃し、自ら槍を奮うことである。


 軍の総大将が最前線まで出向いて戦い、槍を合わせることは滅多にないし、そもそも只事ではない。

 さらに討死してしまえば供廻衆、馬廻衆は一体なにをやっていたのか、と連帯責任となる。

 だから忠平の突撃についていくのに必死だったし、殿様に槍を近づけてはならぬ、と猛然と槍働きに励んだ。


 別の意味ではこれが忠平の強さの秘密であったかもしれない。



 また横川城攻めにあたって、貴久は忠平と歳久によくよく言い聞かせた。


「又六郎は鷹の目のごとく、全てに目を光らせて兵を配すること。又四郎は又六郎とよく相談して兵を動かすこと」


 と、歳久には副将という名目ながら参謀、目付役としても軍を任せたのだった。



(これではどっちが大将なのか、わからんではないか)


 歳久は父の言葉を思い出し、苦笑しながら横川城攻めの陣の配置を考える。

 軍議には新納忠元、伊集院久春も参加し、横川城の包囲について意見を交わした。


 しかし横川の地は島津家の影響力が弱く、どこに伏せ兵がいるかも分かっていなかった。

 それ故、本陣を定めることから難航した。


「伏せ兵がいることを前提にすれば先陣は大手口、本陣は搦手に置くのがよろしいかと」


 忠元が真っ当な意見を出す。


「ですがそれだと離れすぎていませんか、陣が危うくなった時の支えに届かない」


 これもまた久春が真っ当な反論した。


「陣容を決めるには情報が足りないですな。伏せ兵がいるかいないかだけでも分かれば……」


 歳久が腕組みして、扇子で風を涼めながら地図を睨む。


「山くぐりの者から報せが届いておりませぬか?」


 忠元が歳久に視線を送る。


「既に放っております。ただ山が深くて難航しているようで」

「うーむ」


 久春の唸り声に、歳久は微笑んだ。


「ではしばしこの軍議も休憩にしましょう。今から根を詰めても仕方ない」


 そう言ってこの軍議はひとまず散会となった。

 もちろん全員鎧装束である。

 梅雨時の曇空が蒸し暑く、じわじわと体力を削っていた。

 しかし奇襲を警戒して絶対に鎧を脱がないこと、という下知が全ての将兵に行き届いている。


 その軍議が終わるのを待っていたかのように、林の中からカラスの声がやかましく聞こえる。


 一瞬ざわついた林から一羽の山鳩が逃げ出した。

 それをふと見た歳久が


「ちと小用」


 と言って人の目を避けた離れた所で、背中を向けた。

 その所作に軍議に参加していた他の将、馬廻衆など誰も気にせず、その背中をちらりと見守る。


 その歳久の足元の草むらに薄汚れた木こり姿の者が伏せていたのを、誰ひとりとして気づかなかった。



 日新斎が井尻神力坊を使って様々な情報を入手するようになってから、薩摩にも世間を忍び隠密行為を得意とする者――山くぐりを生業とする者も現れた。

 家中では『山くぐり衆』という存在がいる事はよく知られていたが、その役務の都合上、公言することは憚れていた。

 また、山くぐり衆の正体は男なのか、女なのか、年齢、他、普段何処に住んでいるのか、また戦時はどこに潜んでいるのか、あるいは合言葉や呼び出す合図など、その作法を心得ている者、いわば自由に扱えるのは陣大将級の武将に限定されていた。


 歳久が戦時における作法を教わったのは、この横川の戦の副将に命じられてからである。



 山くぐり衆から「伏せ兵なし」という情報を入手し、小用を足して戻ってきた歳久が、すっきりとした表情で声を張り上げた。


「兄上! 陣容について相談がございます!」


 歳久は、大将の承諾を得るために兵と笑顔で話している忠平を呼んだ。


 そして、横川城を挟んだ天降川を背後にして新納武蔵守忠元。

 大手口に繋がる所に歳久、城の南方、野首あたりに本陣の忠平。

 城の搦手川北辺りに伊集院肥前守久春、という陣容で横川城を包囲した。



 同年六月三日

 夜が明ける前に横川城より城兵が討ってでてきて、本格的な戦闘が始まった。


 先陣を務めたのは忠元と歳久である。

 歳久には一歩も近づけさせぬ、と言わんばかりに忠元は槍を奮って、散々に打ち負かすと横川城の城兵は早々に城へ戻ってしまった。

 これを好機と見て忠平は軍配を振るい、城へ繋がる各口に攻めかかる。


 戦の回数を重ねて精強さに磨きがかかってきた島津軍の勢いは強く、降り注ぐ弓矢や投石にも怯むこともなく攻め上がる。

 手際よく各曲輪を制圧していき、残すは栗下と呼ばれるところから本丸へ続く狭い道に集結した。


 ここまでは歳久の想定どおりだった。

 しかし最後の詰めにきて、誤算が生じる。


「なぜ兄上がここにおるのだ!」


 矢を防ぐ竹柵を抱えた兄を見て、歳久は半ば笑いながら出迎えた。

 歳久は兄に、野首に置いた本陣より動かぬように再三お願いしていたはずだった。


「苦戦しておろう、と思ってな」

「順調だと言うに……」


 しかし歳久は忠平の顔を見てすぐに悪癖が出たのが分かった。

 順調とは言いつつも既に夕刻。


 もっと上手くやれば……というよりは強引に力攻めを仕掛ければ、もう少し早く落とせる程度の兵の数を預かっている。

 たが兵に負担をかけたくない、ここで無駄に死者を出したくなかった歳久は、慎重に攻め上がるように指示をだしていた。

 歳久の視線の先は横川城の本丸ではなく、既に遥か北、真幸院に向いている。



 歳久は大将である忠平を追い返すわけにも行かず、全軍に下知を下した。


「兵庫頭に功を奪われるなよ! 全軍攻め上がれ!!」

「おお!!」


 本丸を囲んだ島津軍が鬨の声を上げて一斉に攻めかかり、陽が落ちる頃に横川城は遂に落城した。




「何も言うな。又六郎。俺は大いに反省しておる」

「反省してくだされ」


 その日の夜、横川城の本丸で兵たちの金瘡の手当を済ませた忠平と歳久、そして忠元、久春がささやかな祝宴を挙げていた。

 結局、忠平は攻め上がる軍勢に加わると、板塀を乗り越えて本丸の館に飛び込もうとした。

 しかしそこを狙い済ましていたかのように斬りかかられ、竹下又左衛門という者が、身を挺して受け止めて皮の差一枚で命を救われた。


「いや、しかしさすがは若殿である」


 忠元は忠平をかばうように、しきりに褒めちぎる。


「若殿がおれば前線の兵たちの気張りようがまるで違う。拙者であればこうは参りませぬ」


 忠元は、忠平の武勇と民草にまで気安く声をかける人柄に心底惚れ込み、島津家に尽くすことが人生と同義にもなっていた。

 しかし歳久にとっては忠平を止められなかった自分の責任もあるので、それが大いに不満であった。


「刑部殿は兄上に甘いと存じる」


 頬を膨らませながら酒を呷り飲むと、一同は大いに笑った。




 新納刑部大輔忠元は大永六年(一五二六年)生まれ。忠平とは九歳離れた年上であったが、主従をよくわきまえて忠節を尽くした。

 忠平もまた、忠元には年齢差を超えて慕い、信を置いていた。

 この家中でも抜きん出た武勇を誇る兵庫頭と刑部大輔が組んだ戦ではなお負け知らずである。


 また、この頃には歳久も吉田の地を拝領している。

 吉田は鹿児島の北にあって三州平定における戦術の要所とも言うべき場所だった。

 歳久は吉田松尾城を拠点に忠平の北進を補佐する一方で、北の渋谷一族、東の大隅勢の動静を見張る役目を負って睨みを利かしていた。



 島津家による横川城攻めとほぼ同時に展開された北原氏旧領回復作戦は順調に進み、相良氏の軍勢が肥後より日向真幸院に進出し飯野城を制圧。

 北郷時久の軍勢は都之城より北西へ進軍して谷川城、岩牟礼(いわむれ)城といった城を次々に攻め入り、貴久の軍勢も借りてこれを制圧。


 ここに島津氏、北郷氏、相良氏による北原氏の旧地回復作戦は完了した。


 日を改めて、小林村にある白鳥神社という小さな社に北原兼親、島津貴久、北郷時久、相良頼房(よりふさ)が揃った。

 そして兼親を前に、貴久、時久、頼房の三氏当主は、北原兼親こそ北原当主十四代の正当後継であることを確認し、互いに助勢しあう事を誓った起請文を出して同盟関係を結んだ。


 これは、それまで大口の菱刈氏と組んで薩摩国へ度々侵略していた相良氏との歴史的な和睦成立であり、また同盟関係の締結だった。



 その後も伊東氏の軍勢が真幸院の大河平に侵攻してきたが、忠平が中心となってこれを迎え撃って退かせた。

 貴久はその功を称して加久藤における鍋、灰塚、榎田といった土地を忠平に与えて守らせた。


 また忠平も、大河平にある山間に今城という城を築いて三百人の島津の兵を置いて伊東氏への備えとし、真幸院における島津家の支配をより強固なものとした。


 しかし吉松城の城主、北原左兵衛尉という北原兼親の叔父にあたる者が島津家の干渉を嫌った。

 そこで相良氏と伊東氏を同盟させて真幸院から島津の兵を排除しようと画策する。

 だがこれが北原氏内部の島津派の家臣から密告を受けて発覚。

 北原左兵衛尉は叛逆の徒とされたが、討ち手が及ぶ前に出奔して、相良氏を頼って逃亡した。


 それが島津家にも伝わると相良氏との同盟関係の雲行きも怪しくなる。



 永禄六年(一五六三年)

 相良頼房の軍勢が突如として真幸院飯野城の近くにある大明神城(だいみょうじんじょう)を襲撃し、落城させた。

 この時の攻略部隊に伊東氏の手勢が含まれていたことから、島津氏と相良氏の関係は急速に悪化した。


 また、突然の裏切りに対して貴久は大明神城からの退去と説明を求める使者を送ったが、相良氏側はこれに満足に答えることができなかった。

 そのことから貴久は激昂して相良氏との決別することを選ぶ。


 島津兵庫頭忠平、肝付越前守兼盛を中心にした軍勢で真幸院に侵攻させた。



 永禄七年(一五六四年)

 真幸院西部一帯を手中に収めると、忠平が真幸院の政務本拠である飯野城に入城して一連の騒動は一応の決着を見た。

 以後北原氏は完全に島津家の傘下に入って後の世まで名を残すことになる。

 また、忠平が飯野城に在って相良氏、伊東氏に睨みを利かしていたが、その武名から攻め入ることを躊躇う結果となり真幸院にはしばしの平穏が訪れた。


 だが島津家が真幸院の地を制圧したことで、島津家と伊東家の抗争は激しくなっていく。

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