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戦国島津史伝  作者: 貴塚木ノ実
平定の道筋
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第二十六話 鶴の吸い物事件

 大隅国の雄、肝付家。

 その起こりは、島津家初代島津(惟宗)忠久が三州の地を得るよりも早い。


 平安時代の頃に下向した(ともの)兼行(かねゆき)を祖に持つ古い家とされる。

 安奈(あんな)元年(九六八年)に、薩摩(じょう)に任ぜられた伴兼行が二年ほど薩摩に下向したのが肝付氏が大隅国に領地を得るに至ったきっかけである。

 (じょう)とは長官、次官に次ぐ判官と位を同じくする立場であり、後の世の感覚で言えば、社長、副社長に次ぐ部長、と言った所であろうか。

 伴兼行の曾孫である兼貞が平安末期に島津荘の荘司に赴任し、その子の伴兼俊が肝属郡に居城を築いた。

 以来、大隅国肝属郡より名を取って、肝付と名を改め大隅国国主として権勢を誇った。

 しかし平安時代の公家社会から、鎌倉時代の武家社会へ移行すると旧体制と新体制の摩擦が発生し、鎌倉幕府御家人である島津(惟宗)忠久の氏族といずれ争うようになる。

 そしてその後、南北朝など幾多の争いを経て弱体化し島津家に臣従した。


 世が戦国時代を迎えて島津家が弱体化すると、島津旗下より離れて独立し、再び勢力を拡大して肝付家最大の版図を築いたのが肝付河内守(かわちのかみ)三郎兼続である。


 天文二年(一五三三年)、肝付十五代当主兼興が亡くなると、嫡男兼続と兼興の弟、兼執の間で家督争いが生じた。

 しかし兼続はこの争いに勝利し家督を継いで、大隅国の支配を目指した。


 当時の島津宗家は十四代勝久の頃である。

 兼続は勝久を無能な者であると看破すると相手せず、まだ生意気な性格で人徳のない薩州家実久とも関係を結ばなかった。

 その時目をつけたのが、反撃の時を狙っていた相州家の日新斎である。


 日新斎もまた、肝付氏の支族である頴娃(えい)氏を味方に引き入れて、薩州方に反抗することを目論んでいたので、両家はごく自然に接近を試み、日新斎と兼続は(よしみ)を通じることになった。


 兼続が日新斎の長女、御南の方を正室に迎え、妹を貴久の正室に輿入れさせて、血縁関係を高めたのはそれからすぐのことである。

 薩摩半島を相州家が、大隅半島が肝付家が、という図式で支配地の拡大を進め、兼続は英傑の名を欲しいままにした。


 天文二十三年(一五五三年)には兼続は隠居して、日新斎にとっては外孫にあたる嫡男の肝付良兼に跡目を譲って隠居したが、実権そのものは握り続けた。



 それまでお互いの領地に干渉しないように微妙な関係を保っていた両家だった。

 しかし兼続は大隅半島の国人衆を制圧すると、次に欲したのが豊州家が治める飫肥、志布志である。

 その領土への野心が亀裂を生み始めた。


 飫肥や志布志へ攻め入ることはそれまでもあったが、それはあくまでも島津宗家から独立した分家に攻め入っているのであって、島津宗家に歯向かう意思はない、という方便が成り立った。

 しかし、天文十四年(一五四五年)の豊州家北郷氏の貴久への臣従宣言によって、これに攻め入ることは島津家へ弓を引くも同然という名分ができあがってしまった。


 両氏の決裂が決定的になったのは、永禄元年(一五五八年)に伊東氏と結託した飫肥・志布志への侵攻であった。

 この時は豊州家がなんとか撃退したものの、もはや抗する力もなくなったので、島津宗家の次男、忠平を養子に迎えて、なんとか持ちこたえようとしていた。


 宗家に臣従する豊州、北郷の地に攻め入ったことに対して激昂した貴久は、肝付兼続へ詰問状を送付し今すぐにでも大隅に攻めかかると言わんばかりに国分清水城に兵を入れさせて、南進させる用意をすませた。



 これに焦ったのは肝付兼続である。


 なんとしても志布志の地を欲していた兼続は、いかなる形でもよいのでひとまず島津家と和睦関係に持ち込み、油断させた上で志布志を掠め取ろうと画策していた。

 そこで兼続は自分の妻で日新斎の娘でもある御南の方を通じて、和睦を打診する。



「太守よ、和睦の打診が来ておるが」


 貴久の前に座った日新斎は懐から御南の方の書状を差し出した。


「左様でございますか」

「……なんじゃ。気に食わんという様子だが」

「そのようなこと、決して」


 貴久は既に兼続の企みを見抜いていた。

 いや、見抜いていたというよりは、兼続を全く信用していなかった。


(この和睦は見せかけだ。和睦して軍を引かせた隙に志布志を狙う気だ。)


 だが日新斎はそれに気づいていない様子である。

 というよりは御南の方の安否を気遣っているのだろうか。


 娘を思う親としての日新斎が悪巧みから目を背けさせているように思えた。

 もちろん貴久も姉のことは気になったが、島津家を預かる身としてその辺りの感情は敢えて斬り捨てる覚悟はできている。

 それを説明しようとも思ったが、日新斎が頑なになることを憂慮した。


 結局、無碍に扱うこともできず

「ならば和睦の前に友好の誼を通じる席を設けるのはいかがでしょうか」

 と答えた。


 そうこうしているうちに、永禄三年(一五六〇年)

 年の瀬が迫る中で、和睦交渉の場を持つ前に、友好を高めるために食事を共にする宴の場が設けられた。


 場所は、島津家が支配地に置く桜島にある神社の神主が住まう邸宅であった。


 初日は、島津家より伊集院忠朗が饗応役となって薩摩半島で採れる山の幸、海の幸を振る舞った。

 また兼続も毒見役を設けずにそのまま食べて見せて、島津家を疑っていない、という姿勢を見せつけた。

 その姿に島津家からも「さすが名将河内守」と驚嘆し、宴は和やかに終わった。


 二日目。

 初日の(もてな)しに対する返礼として今度は肝付家が饗応役となって振る舞う運びになった。

 肝付家お抱えの料理人が京料理を振る舞える、というので兼続直々の命で料理を用意させたのだった。

 これが、事件の引き金となる。


白魚(しらうお)の吸い物でございます」


 といって出てきた吸い物を一口すすって、島津家の面々は一同黙りこんだ。


(薄い……)


 誰しもが感じる味の薄さは、昨日の島津家の濃い味付けに比べるまでもなかった。

 ただ薄いばかりではなく、泥臭い匂いがしたのが印象を悪くした。


「これが京料理名物の白魚の吸い物にございますか……」


 貴久は微妙な空気を取り繕うように、笑みを浮かべながら兼続と視線を交わす。


「ええ、これは志布志で採れたもので、実に旨い。この後出てくる京から取り寄せた賀茂茄子を漬けた香物なども大変旨いですぞ」


 どうだ、田舎者にこの味の良さはわかるまい、と言わんばかりに兼続は得意気になって微笑みを返す。

 それに釣られて、ハハハ、と乾いた笑いが巻き起こり、次の膳を運ばせようと手配した時だった。


「せめて鶴の吸い物でも出せばよいものを」

「!?」


 ボソリと響いた老人の声に、場が一瞬にして静まり返り、肝付家の面々が凍りつく。


「……ええと」


 肝付家の重臣、薬丸出雲守(いずものかみ)兼将が笑顔を引きつらせながらやっと思いで言葉を発した。

 その目は白髪の老人を見据えて、その眉毛は怒りを堪えてピクリピクリと震えている。


「拙者、このような愉快な場で何やら不届きな言葉が聞こえたようでした」

「うん? 聞こえんかったか、出雲守」

「……いやぁ、ご冗談がきついですなあ、忠朗殿」


 そう言って、笑顔が消えて怒りを抑えて顔を真っ赤にした兼将が伊集院忠朗をますます睨みつける。

 穏やかなように見えて、その場に発せられる言葉の一つ一つが棘となって空気を切り裂き、痛いような雰囲気になってきた。


「拙者はあのような不味い吸い物なら、せめて鶴の肉がよかったと言うておる」


 そう言って頭を上げた忠朗の視線の先には、向かい合わせの鶴を意匠にした肝付家の家紋があった。


「何を!?」


 もはや我慢ならぬ、と兼将が掴みかからん勢いで腰をあげる。

 それを見た島津家の家臣団も脊髄反射のように刀に手をかけて、双方睨み合いになった。



「控えよ! 掃部助(かもん)!」


 貴久の静かだが、有無を言わさぬ声でその空気がピシャリと収まった。

 その声に反応するように、一同は再び腰を落とす。


「肝付家の方々には当家の者が大変失礼を申した。どうやら当家のご老公は悪酔いしているようなので、今日のところはここでお開きとさせていただきたい」


 そう言って貴久は兼続に軽く頭を下げる。

 兼続は穏やかな笑みを浮かべたまま、顔を振る。


「なんのなんの、当方にも若輩の無礼があり、申し訳ない」


 そう言って兼続も頭を下げてみせた。

 しかし、その次に発した兼将の言葉が最悪だった。


「どうやら薩摩の田舎侍には京の料理は早かったようですな。次は当家より狐の味噌焼きでも用意しよう」

「!?」


 ハッと顔を上げた貴久の顔が瞬時に曇る。

 反応したのは、忠朗だった。


「このっ、無礼者!!!」


 そう叫んで立ち上がると、脇差しを抜いて、背後の肝付の家紋の旗を真横に斬り裂いた。

 ……鶴の首辺りで。


「やったな! このクソジジイめ!!」


 兼将が脇差を抜いて忠朗に斬りかかろうとしたが、横にいた安楽某に腰を掴まれて踏みとどまる。

 他の者たちも反応は様々で、脇差を抜こうと濃口を切る者、それを抑えようとする者、和睦を図る食事の場は騒然となった。


「えい、離せ! せめて武士の情けだ! あのクソジジイに一太刀浴びせてやる!!」

「はっ! こざかしい若造めが! その白魚のようなナマクラでこの老いぼれの首をとれるもんなら取ってみせい! 存分に相手してやるぞ!」

「なんだと!? ええい、離さぬか! あの白髪頭を赤く染めねば気が済まぬ!」


 お互いの罵声が飛び交う。


「双方控えよ! 神仏を前に刃傷沙汰は天罰がくだるぞ!!」


 貴久の鋭い声で再び場が鎮まると、ようやく双方の家臣団は刀を収めた。


「兼続殿、あいにくと日が悪いようだ。和睦の場は別に設けるとしよう」

「そうですな、貴久殿。そうしよう」


 兼続からも笑顔が消えていた。

 こうして睨み合いながら、両家は若宮神社を後にした。



 島津家初代、島津(惟宗)忠久の誕生には逸話があった。


 丹後局は源頼朝の寵愛を受けて後の忠久を身ごもる。

 しかしこれが発覚すると北条政子により捕らえられ、殺害されそうになった。

 これを哀れんだ家臣によって救い出されると、鎌倉を離れて摂津の住吉まで逃れた。

 すっかり薄暗くなり、小雨が降り始めて、遠くに雷が鳴り響く。

 灯りもなくなって真っ暗になると、どちらへ進めばいいのかわからなくなってしまった。

 その時、不思議と狐火が林の中の社殿まで導くように 次々と二人の足元を照らした。


 そこで丹後局は産気づいてしまう。

 家臣は懸命に社で安産を祈願し、丹後局も人の身丈ほどもあろうかという大岩にすがり付いて、時雨の中で忠久を産んだのだった。

 その社こそ、後の世に伝わる住吉大社である。

 以来、島津家代々は狐を守り神として稲荷神社を大切に保護してきた。


 かたや家紋を、かたや守り神を侮辱し、島津家と肝付家の和睦の場は物別れに終わった。

 事件があった夜、鹿児島に戻る洋上で貴久は朗らかな笑顔を見せて夜風にあたる忠臣に苦笑した。


「いやあ、言いがかりにしては『鶴の吸い物』はちと強引ではなかったか?」

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