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戦国島津史伝  作者: 貴塚木ノ実
平定の道筋
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第二十五話 飫肥救援

 永禄元年(一五五八年)十二月二十七日

 年号が弘治から永禄に移ったこの時、貴久より一部の氏族に対してとある命が下った。


『各所領の地名を苗字として改めるように』



 その命が下る数日前のことである。


「強き武士(もののふ)を支える力の根源とは何であろうか」

「渋谷一族のことですか?」

「そうだ」


 蒲生を制圧し、一時の平穏に身を委ねる貴久と嫡男の義久の父子が、内城の館の縁側で茶を飲みながら語らっていた。

 貴久四十五歳、義久は二十六歳になっていた。

 家督はなお貴久の手元にあったが、この頃より義久にもある程度の権限を与えて名代に定めている。


「やはり古く続く家柄の誇りでしょうか」

「それもあろうな」


 義久の言葉に貴久は頷く。


「しかし新しき家でも手強い家も多い。加治木の肝付越前守がそうだ」

「そうですな」


 冬にしては暖かな日差しが差し込み、のんびりとした空気を温める。


「一所懸命、という言葉がある」


 貴久はさらに言葉を続ける。


「与えられた一つの土地を守るため、命を懸けて働く。侍に課せられたこの言葉が意味する所はこれだ」


 義久も何度も頷いて相槌を打った。


「ただ、最近は一生懸命などと言葉を変えて、一生を懸けてとにかく働けと洒落を言う者もいるがな」


 そう言って微笑んだ。


「渋谷一族は領地から名を取ってそれぞれ改めて、北薩における領地を一所懸命に守ってきた。故に手強いのであろう」


 そう言って茶碗を戻して腕組みする。


「当家を顧みれば、伊集院、新納(にいろ)、樺山、北郷(ほんごう)、川上、町田、給黎(きいれ)、佐多、石坂、と島津氏族の枝葉が広がっていったが、島津の家名に誇りを持って苗字を島津のままにする者も多い。例え上総守(かずさのかみ)などは吉利(よしとし)の地に根付いてだいぶ長いが、未だ島津を名乗っている」


 上総守とは、伊作の西に隣接する吉利に根付いた薩州家の庶流である島津久定のことである。


「そこで、だ」


 貴久は微かに笑みを浮かべて義久を見る。


「長く地に根付いた氏族は、領地より名を取って改めさせようと思う」

「なるほど、今しばらく戦は続く。氏族が領地の名を取って励むことが、当家の力になると」

「そういうことだ」


 そんなやり取りがあっての命令だった。

 島津久定はこれを受けて領地より吉利久定と名を改め、後に吉利忠澄といった島津家の躍進を支える名将が誕生することになる。


 ただ、この貴久の命令にはもう一つ隠された真意がある。

 それは宗家血族と島津分家氏族の間に絶対的な主従関係を構築することである。

 氏や本姓はそのままでもよいが、通称として用いる苗字を土地の名に変えさせる一方で、島津を名乗ってもよいのは日新斎の血族か血縁関係にある者のみ、という慣例を作ることで「島津」の名を高める意図もあった。



 そしてこの頃、蒲生を制圧し悲願の薩摩国平定まであと一歩と迫っていたが、一方の日向国飫肥(おび)ではいよいよ危機が迫っていた。


「三州守護などただの自称。島津の力が及ばない日向国を治めるに相応しいのは我が伊東家である」


 伊東家十代当主、義祐は高らかに宣言すると、日向四十七城を築いて日向国の支配を強めていた。

 特に飫肥の地は商いで栄える志布志港に繋がる重要な地でもあったので、ここの支配は伊東家にとっても悲願であった。


 飫肥を守るのは代々新納氏だったが、抗しきれずに離散。

 代わって飫肥に入ったのは豊州島津家である。


 都之城を守る北郷氏と縁戚関係を持ち、さらには島津宗家に臣従することでようやく領地を保っていたが、血気盛んな伊東義祐の勢いは強く、幾度と無く飫肥への遠征を強行していた。



 永禄二年(一五五九年)六月

 貴久の命で国分清水城より忠将が飫肥の加勢のために出陣。

 副将には奈良原、春成、梶原が付けられた。


 同年六月十六日

 忠将と豊州家島津忠親の連合軍が伊東と飫肥長慶寺で合戦に至り、これは島津軍の勝利に終わった。

 しかし忠将はここで大いに苦戦し、春成久正を討死させてしまった。


 その時に伊東から贈られた狂歌を片手に忠将は屈辱に耐え、部下の死に報いろうと決意を新たにした。

 しかしその年も幾度となく伊東勢は飫肥への遠征を繰り返し、そのたびに辛うじて撃退することが続いた。



 永禄三年(一五六〇年)三月

 この年の三月にも飫肥では戦乱が続いた。

 大隅国の肝付兼続と伊東氏と組んで豊州家が守る串間福島に攻めかかったのだ。


 この城攻めは辛うじて防いだが、豊州家島津忠親とこれを支える北郷氏は、もはや限界だった。

 豊州家と北郷氏が相談して貴久の元に打診があったのはそれからすぐのことである。


「なんと、又四郎を所望するか」


 貴久は驚いて忠親と北郷時久の連名の書状を何度も読み返した。


「北郷殿は昨年末に傑物を亡くしておりますので、もはや是非にもない事情がございましょう」


 筆頭家老の伊集院忠蒼は、忠将と共に大隅国の領地を守る父忠朗より、日向や大隅を巡る事情を聞かされていたため、よく精通していた。



 ――豊州家に宗家より勇猛果敢と評判の忠平公を養子を迎えて強固な守りとしたい。



 書状にて請われたその願いを前に、貴久は大いに悩んだ。

 豊州家と北郷氏を見捨てる気はない。もちろん、むざむざと飫肥を捨てる気もない。

 しかし飫肥に軍勢を割くことは、薩摩国の平定が遅れるということである。

 事実として大口には菱刈氏、祁答院、東郷といった国人が虎視眈々と進出の機会を狙っていた。


「どう思うか」


 貴久に相談を持ちかけられた義久は即答した。


「あの義に溢れるお人好しがこのように請われば、喜んで飫肥に入るのは目に見えておりまする」

「だろうな」


 貴久は苦笑して顔を伏せた。


「飫肥を捨てるわけにもいかず、さらに肝付宗家に手出しされては危ういかと。今ここで又四郎が飫肥に入れば幾分か耐えられましょう。その隙に薩摩、大隅をまとめれば、あるいは盛り返せるかと。……しかし我らの働き次第でしょうな」

「うーむ」


 貴久の脳裏には三州の地図と各勢力が浮かび、宿願である三州平定に向けた戦略案が練り直される。


(あと二、三手ほど足りぬな)


 貴久は冷徹な眼差しで島津家とそれと対峙する各氏族の戦力差を分析していた。


(三州の平定は、息子たちに託すことになるか……)


 無念そうな顔を一瞬見せて、貴久は決断した。


「又四郎を豊州家の養子に入れることにする」

「……相分かり申した。しからば我ら兄弟が見送りも兼ねて平松に報せましょう」


 義久は頷くと、自ら手勢を率いて、元服して名を改めた又七郎家久と歳久の三人で、岩剣城の平松館で守りについていた忠平のところを訪れた。


「おぉ、久しぶりだな。兄上、又六郎に又七郎まで」

「変わりないか、又四郎」

「この通りよ。どこぞで戦でもないかと槍を磨いておったところだ」

「お久しゅうございますな、兄上」


 家久が嬉しそうにニコリと微笑み、頭を下げる。

 義久と歳久が仲がいいように、忠平と家久はとても仲が良かった。


 義久二十八歳、忠平二十六歳、歳久二十四歳、そして家久十四歳。

 ここに島津四兄弟が勢揃いした。


「元服以来だな、又七郎」


 忠平も嬉しそうに応えた。


「さて又四郎よ、ここで我ら兄弟が揃ったのは是非もない。今生の別れとなるやもしれぬので、酒を一献飲み交わそうかと思ってな」

「……豊州の養子縁組の件ですな」


 そういって義久ら四兄弟は仲良く酒を嗜みながら、思い出話に花を咲かせた。


「吉野村でのこと、覚えておるか、又七郎よ」


 無口な歳久は珍しくニヤニヤ微笑み、酒をわずかに含んだだけで顔を真赤に染めた十四歳の家久に絡む。


「覚えておりますよぉ。覚えておりますとも!」

「よしよし。しっかりと励んでいるようだな」

「吉野村……? ああ、又六郎の得意な嫌味か!」

「嫌味とはなんだ、兄上! その上得意とは……!」


 歳久が忠平を笑いながら小突く。


「いやあ、あれは俺もどうかと思ったぞ。馬乗りに励もうかと吉野村の牧場に四人揃って行った時だったか」


 そう言って忠平は思い出すように腕組みする



 四年前、四兄弟は馬乗りの練習のために吉野村にある島津家直轄の牧場を訪れていた。

 吉野台地は薩摩の地によくみかけるシラス台地で、その天蓋は平坦である。

 しかし水はけが良すぎる土壌は作物の育成に不向きで、荒れ果てた草原となっていた。

 だがこれに着目した貴久は、広大な吉野台地を騎馬育成の牧場として投資していた。


「母子の馬を眺めると面白いものですなあ」


 馬乗りに疲れた兄弟たちは、馬(らち)に持たれかけて休憩していた。

 そこに口を開いたのが歳久である。


「母子の毛並みはよく似ておりますが、父馬は同じであっても母子が変われば毛並みも、走りやたくましさの優劣さえも変わる。恐らく人も同じでございましょう」

「……?」


 四人揃って柵にもたれかかりながら、馬の母子を眺めて口をついた歳久の言わんとすることが理解できずに、元服前の又七郎は首をかしげた。

 しかしそれを理解した義久は、それを制した。


「そうは言っても又六郎よ。

 決して驕らず鍛えれば、母子の違いなぞ気にならないほど、並び立つものになるものであろう」


 そう言って、義久の視線はしっかりと又七郎を見据えていた。

 そこで又七郎は、自分が腹違いの側室の子で、いずれも継室の子である三兄弟との違いを歳久が指摘していることを理解した。

 また、義久がそのようなことを気にせずに勉学に励み、己を鍛えよと叱咤激励している事も理解した。

 それを冷え冷えとした思いで見ていたのが次男、忠平だった。



 再び、岩剣の平松館。


「俺は正直あの時はお前のことが気に食わんかったのだ。(わらべ)だというのに幼名から我らと同じく又七郎がいい、と我儘(わがまま)を言うておって」

「うう、やめてくれ、兄上」


 家久は半べそをかきながら忠平に救いを求める。


「まあ聞け。それから大いに励んだお主は十四ながら我らが兄弟を名乗るに相応しい、実に見事な武将となったのだ、俺はお前のことを認めているのだぞ」

「左様でございましたか!俺は又六兄様に一生ついていきますぞ!」

「調子づきおって」


 パッと顔色が変わって笑顔が弾けた家久の調子の良さに、四つの笑いが渦巻いて、夜が更けていく。


「少々真面目な話をしたい」


 僅かばかりの酒が尽きて、そろそろ散会か、という頃合いに歳久が口を開いた。


「どうした」


 真剣な表情に、他の三人も衣服を正して座り直す。


「戦国乱世と呼ばれるようになって、古今において親子、兄弟が争いは当たり前になった。聞けば家臣が主家に弓を引いて家を乗っ取ることも当たり前だと言う」

「……」

「だが、我ら島津家は、父と祖父が泰平のために働くようになって以来、身内争いはまるでない」

「当たり前と言えば当たり前だ。我らは生まれし頃より常に苦労の煮汁を飲み交わした仲だ」


 忠平は大きく頷く。


「聞いてくれ、兄上」


 さらに歳久は言葉を続ける。


「これからも順調にいけば島津の十字紋は三州に広がっていくだろう。そうなれば、兄上がこたび飫肥に向かわれるように、会えなくなってしまう、あるいは今生の別れとなってしまうやもしれぬ」


 神妙な顔つきで他の三人は歳久の言葉に耳を傾けた。


「だが、だからといってそれで疎遠になってはならぬと心得る。我らは血をもって繋がり、常に心を通わして、戦国乱世を生きねばならぬ。すなわち、島津宗家の父上、いずれ兄上に忠孝することこそ、肝要の心構えと存じる」


 そこまで言って、義久は赤くなった目頭を押さえて頷いた。


「よくぞ、よくぞ言ってくれた又六郎」

「そのとおりだ」

「全くです」


 他の三人はいずれも大きく頷き、お互いがお互いの朗らかな表情を見やった。

 歳久が四年前の吉野村で家久に対して言い放った強烈な嫌味の真意はこれだった。


 側室の四男を可愛がるあまりに我儘を許し、兄弟が仲違いするようになれば三州平定どころではない。

 島津家の身内争いが起き、いずれ家が絶えるかもしれないことを歳久は警戒していた。

 しかし幼かった又七郎は心を入れ替えてよく励み、武将として(くつわ)を並べるほどにたくましく成長した。


「ならば俺も言わせてもらおう」


 義久が続く。


「俺は、自分がお主らと違うのだ、ということを幼い頃よりいつの間にか思い知っていた。次の宗家当主か、そうでないか、という立場の違いだ」

「……」

「俺はお主らが羨ましい。又四郎や又七郎のように敵の鼻先で存分に槍を奮いたい。又六郎のように知略を尽くして翻弄したい。だが……俺には次の当主だ、というだけで何もない」

「そんなことはないぞ兄上!」


 忠平が首を何度も振って、言葉を強める。


「兄上には俺に見えていないものが見えておる。はるか天上に飛ぶ鷹の目のごとく、全てを見渡しておる。だから俺は何一つ心配せずに敵前に進めるのだ。かかれ、と言われればかかるし、退け、と言われれば退きもする。命尽きるまで敵に槍を奮えと命じられれば、喜んで死んでみせる。兄上がああしろ、こうしろということを赤子のように信じることができる。それは、兄上にしか出来ぬことだ。先ほど又六郎が言った通りだ。我が槍は兄上が居てこそ存分に振るえるのだ」


 その忠平の言葉に、歳久も家久も強く頷く。


「今は島津家の当主は父上だが、いずれ兄上が継ぐであろう。兄上以外に島津家の頭領は務まらぬ」


 忠平の飫肥への養子縁組が決まった日に、心のうちを隠さず明かした。絆を確信した島津四兄弟は、その後、別々の地に離れても決して仲違いせず、のちの躍進へと繋がる原動力となる。



 また一方で、貴久は忠平を豊州家の養子として送り出すだけなく、他にもいくつか策を練った。

 まず忠平には兵庫頭(ひょうごのかみ)の官職名を名乗らせた。

 これがきっかけで忠平は兵庫頭の官職名か、唐での呼び名「武庫(むこ)様」と呼ばれて親しまれるようになる。


 貴久はまた、最近往年の権威が復活しつつあると評判だった足利幕府十三代義輝に、伊東家に対して飫肥への侵略を止めるよう頼み込んだ。

 幕府の権勢復活を企む義輝もこれを聞き入れると、伊東家に対して和睦するように伊勢貞運(さだみち)を下向させた。



 永禄三年(一五六〇年)三月十九日

 慌ただしく兵庫頭忠平が飫肥へ入った。


 将軍の足利義輝使者、伊勢貞運(さだみち)が大隅国の末吉へ下向したのはその年の十月のことである。

 新納忠元、樺山善久、肝付兼盛がこれを饗応し、伊勢貞運は伊東家の本拠、佐土原城で面会して説得したが、伊東義祐は曖昧な答えに終始し、結局和睦勧告を聞き入れることはなかった。



 永禄三年(一五六〇年)の末

 不穏な情勢渦巻く大隅国と日向国の境を余所に、薩摩国の国主島津家と大隅国の制圧を狙う肝付家でも、その間を決定的に引き裂く事件が起きる。

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