第二十四話 蒲生戦争
天文二十四年(一五五五年)
この年も蒲生氏との戦いは続いた。
一月一日には島津軍が吉田松尾城に着陣。
蒲生本拠龍ヶ城の北にある支城、北村城を攻めるためである。
貴久は吉田松尾城に義辰を置いて蒲生北村城を目指して軍を進めたが、そこに城を守る北村氏より降伏の使者が貴久の元に訪れた。
これを受けて吉田松尾城まで戻り、急遽評定を開くことにした。
この前日には鹿児島では珍しく大雪が降り積もり、各々火鉢を抱えて暖にあたって震えていた。
「表裏あるように存じます」
真っ先に声を挙げたのは歳久だった。
使者が持ってきた書状を一読して口を曲げる。
ただ反対と言ってもしかたがないので貴久が促した。
「理由を申してみよ」
「北村は蒲生の縁戚の一族であると聞いております。これまで蒲生と共に当家と幾度となく争い、腹に据えかねている所もあるはず。これに一切の反抗もなく無条件で降伏するとは信じがたく存じます」
「ふむ」
もっともらしい理由に貴久は納得したが、それでも、という思いがあった。
「岩剣のあれな」
呟くように貴久が言葉を続ける。
「身を投げた者の中には、祁答院に嫁いた北村の女もいたそうだ。どうやら、蒲生や渋谷には、島津は血も涙もない悪鬼羅刹のごとき衆という風聞があるようだ」
溜息混じりに貴久は周りの将たちを見渡した。
「異心ありとしてこれを無視するのもどうであろうか」
岩剣城陥落の際に女共が身投げした騒動は島津軍にとっても心の傷として残っていた。
仏道に励む日新斎もその話を聞いて大いに驚き、そして悲しみ「そのような行いがあったのは我らに不徳があったからだ」と厳しく貴久を含めて参陣した者を叱りつけ、反省を促した。
「ここは、わし自ら赴き、北村殿に詫びを入れたうえで降伏を受けようと思う」
貴久はそう言って、皆を見渡す。
しかし、歳久の鋭敏な感覚は危険な予感を捉えていた。
「では父上。どうかご用心の上、兄上を吉田松尾城に置き、叔父上や刑部大輔を後ろにお付け下さい。その上で、拙者も父上にお付け下さい」
歳久の泣きそうな形相に貴久もなだめるように頷いた。
そして和睦交渉のために北村城へ貴久の軍勢を進めることにした。
貴久は吉田松尾城に嫡男義辰を置き、吉田と蒲生氏本拠の龍ヶ城を繋ぐ街道に新納刑部大輔忠元を、北村城へ続く山道の入り口に弟の尚久を置いた。
「厳に気を配ってくだされ」
軍勢を割いて置く度に、歳久は声をかけて貴久についていった。
貴久と歳久は僅かな手勢を率いて用心しながら北村城を目指して雪が残る山道を進んでいく。
そして、じきに視界の開けた場所に出た。
「あの川が別府川の上流だな。あの大河もここまでくればただの小川とは、なんとも不思議なものだ、な」
貴久はそう呑気なことをうそぶきながら、ただならぬ気配を感じ取っていた。
先を行く歳久が視界の開けた場所からふと川の周りに広がる田畑を見て、看破した。
「父上!! これは罠だ!!!! お逃げくだされ!!!!」
歳久の叫びと同時に、山影から弓矢が飛んできて、身を返した歳久の右の太ももに深く突き刺さった。
「ぐわっ」
思わぬ痛みに馬から落ちるのを耐える。
「又六郎!!」
「構うな父上!! 逃げよ!!!!」
歳久の必死の訴えだった。
しかし、見ればいつの間にか、貴久と歳久の軍勢の前後を、祁答院の旗を掲げた軍勢に挟み撃ちにされていた。
「敵襲!! 敵襲ーーー!!」
貴久も抜刀して幾人も斬り捨てる乱戦の最中、馬廻衆が指笛を吹く。
そこに異変を感じ取った尚久の軍勢がすぐさま駆けつけた。
「我こそは島津御大将が舎弟、島津左衛門尉尚久である!! 騙し討ちとは祁答院らの卑怯千万な所業、この俺が断じて許さぬ! 残さず我が太刀の血糊にかえてくれよう!!」
尚久の名乗りにざわついた一瞬の隙をついて、貴久が後ろへ下がった。
「又五郎! 又六郎がまだ先におる!! 決して死なすな!!」
「承知!!」
すれ違い様に貴久の命を受けた尚久が単身突撃する。
尚久は弓矢を放っては一撃で射殺し、さらに五尺もあろうかという大太刀を振り回して祁答院の軍勢を追い回し、その鬼の形相に怯えて祁答院の兵たちは山へ逃げ始めた。
「どけどけー!!!」
ようやく先陣に辿り着いた尚久が叫ぶ。
「又六郎! 又六郎は無事か!! 答えよ!!」
祁答院の兵たちが去り、痛みに苦しむ両軍の兵の呻き声の他には、さらさらと流れる雪と枝がこすれ合う静寂の山道。
尚久はたまらず涙が溢れそうになりながら、必死に島津兵の遺体を一つ一つ地に返して確認していった。
「……叔父上……ここだ……」
積み重なった兵の死体の下から、今にも消え入りそうな歳久の声が聞こえた。
見れば歳久の馬廻衆が、歳久を守るように折り重なって果てている。
自らの命を捨てて若君を守り切っていた。
しかしその歳久も無残だった。
右の太ももには矢が深く刺さり、左腕、背中に切り傷を負って血まみれになり、身動きが取れないでいた。
「又六郎……! 死ぬなよ……! 絶対にっ……死ぬな……!!」
尚久は自らの兵を呼び寄せて周囲を守らせると、涙をこぼしながら気を失った歳久を担ぎあげて馬に乗せる。
そして自らその手綱を退いて退却の指示を出した。
一方、貴久はさらに後ろに下がって新納忠元と合流していた。
忠元も蒲生龍ヶ城の軍勢と既に戦っていた。
「殿……! ご無事でしたか!!」
「刑部! やはりここまで蒲生のやつらが来おったか!」
「ここは拙者にお任せあれ!」
「いや、又五郎と又六郎がまだだ! ここでわしも持ちこたえよう!!」
そう言うと貴久は馬廻衆とお供数騎を残して、忠元の軍勢に合流させて蒲生軍と対峙する。
さらに吉田松尾城より異変を感じ取った義辰も合流してきた。
「父上! ここは拙者が殿軍を勤めます! 兵をお退きくださいませ!!」
「又三郎……!」
しかしまもなくして尚久が血まみれの歳久を連れて合流した。
「又六郎……!? 息はあるのか!?」
「父上……。ご無事で……何よりです……」
気を取り戻した歳久が馬上のまま笑顔を作って応える。
「馬上よりご無礼仕り、平にご容赦いただきたく……」
うわ言のように呟く歳久に義辰も悲しそうな顔をした。
「かような時に何を言っておるのだ。 絶対に死んではならぬぞ」
「傷が少々深いようですので、養生のため今しばらくお暇いただきたく……」
「分かった、分かったから何も言うな」
貴久はそう答えると、歳久を吉田松尾城まで退かせた。
歳久重傷の混乱のさなか、ようやく軍勢が整い、貴久はいよいよ退却を開始する。
「刑部大輔忠元!」
「はっ」
貴久の声に、歳久の惨状を目の当たりにした忠元が、怒りの炎を目に宿らせて跪いた。
「殿を任せたい。よいな」
「命を賭して!」
「よし」
そう言って貴久は自らの太刀を忠元に与えて、全軍退却を命じた。
「若! 殿をそれがしが!!」
忠元は義辰の馬前に出ると、名乗りを挙げた。
「さあどうした愚劣なる者共め!! ここからは新納刑部大輔忠元が存分にお相手いたそう!!」
「えい、あれが刑部大輔だ! 侮られて臆するな!! 討ち取れ!!!」
「喝ッ! 下郎め!!」
蒲生の兵たちが一斉に襲いかかるが、怒り猛る忠元は烈帛の気合を放って押し返す。
しかし北村城の戦いは奸計により島津軍の敗北に終わり、一時軍を引かせることになった。
天文二十四年(一五五五年)一月二十三日のことだった。
同年二月
「又六郎よ、何故お主はあれを罠と見ぬいた?」
立春が過ぎて少し暖かくなった頃、蒲生攻めの軍を整える合間に貴久は歳久を見舞った。
未だ傷が完全に癒えない歳久はようやく身を起こしながら答える。
「この季節であれば麦踏みの時期にございます。しかし折からの雪の日、田畑の畦道すら何もなく、街道だけが多くの兵が踏み固めたような跡がございました。それを見て農民は外に出ないように言いつけられ、山に兵が潜んでいると感じ取った由にございます」
「ううむ、なるほどな」
貴久は大いに感心し、歳久の優れた洞察力を褒め称えた。
三月になり、貴久が蒲生攻めの準備を進める中、帖佐では忠将、樺山善久、そして加治木城の肝付越前守兼演らが帖佐城攻めの相談をしていた。
帖佐城を守るのは祁答院良重である。
「いや、攻め入る好機に悪日も何もなかろうと存じる」
「そうだ。悪日と言って好機を逃すは大功を逃すも同じであります」
口を尖らせているのは樺山善久、そして忠将である。
「いや悪日を軽んじてはならぬ。いかなる策を張り巡らせようとも慮外の出来事で破られるものよ」
忠将と樺山善久は帖佐城の祁答院良重がまだ態勢を整えきれていない、という情報をつかんだ。
そこで攻め入る日を月が陰る二十日にしよう、と相談したが籤と占いによればそれは悪日である、と突っぱねたのが肝付兼寛だった。
「それに日新公も太守殿も重要事では必ず籤を引くというではないか。お主らは太守のやり方に疑問を呈するとでも言うのか?」
「むぐぐ」
君主である貴久と日新斎を出されては口を噤むしかない。
結局攻め入る日は吉日である二十七日となった。
同年三月二十七日
ついに帖佐の山田、岩坂、岩野原、牛渡で祁答院軍と島津軍が激突した。祁答院には蒲生も援軍として駆けつけていた。
岩剣城の忠平と坊津衆を率いた尚久が別府川に着陣。忠将は岩野原に着陣して、帖佐の軍勢と対峙していた。
「者共! ここで負ければ全てが終わると心得よ!!」
忠平の激に兵たちの士気は高まる。
「又六郎の受けた苦しみ、存分に食らわしてやろう……!」
尚久の鬼の形相に、緊張の糸が張り詰める。
「かかれー!!」
忠将の軍勢が帖佐城の高樋口に突撃を開始して、帖佐城攻めが始まった。
「火矢を放て!!」
岩戸口、惣禅寺前に進軍した尚久の号令で、帖佐の町に潜んだ祁答院の兵たちの頭上に火矢が雨のように降り注ぐ。
「敵勢はひるんでおるぞ! まま射掛けよ! ただし寺社仏閣は避けろよ!!」
この戦にも祁答院の軍勢はよくこらえ、時には奇襲をかけて一進一退の攻防が五日続く激戦となった。
同年四月二日
猛攻に耐え切れず、祁答院良重は夜のうちに帖佐城を退去し、帖佐城はついに陥落した。
勝どきは功のあった禰寝重長の父子が上げて、この勝利を祝った。
しかし、祁答院良重の執念は凄まじかった。
同年七月二十五日
良重が蒲生の援軍をつけて別府川沿いに進軍して帖佐に迫っていた。
報せを受けてすぐさま軍勢を整えた岩剣城の忠平、加治木の肝付越前守が迎え撃つ。
「さてもさても、あのご老体の恐ろしい執念よ」
「ああ、何がああまで突き動かすのであろうか」
「鎌倉以来の名家は島津家のみにあらず、との気概が支えているのであろう」
しかしこの戦は必殺の鉄砲攻撃が炸裂して大勝。祁答院良重はあえなく退却を余儀なくされた。
年が明け、元号が移った弘治の世。
弘治二年(一五五六年)
この年も島津軍による蒲生攻めは続いた。
蒲生本拠城龍ヶ城の北にある、米丸という地に中原という一族が守る、松阪城という小さな山城があった。
貴久は堅城の龍ヶ城本拠を攻め急ぐより、徹底的に外城、支城を落として包囲する作戦にでた。
同年3月
貴久の本隊を含んだ大軍勢が松阪城を包囲した。
その副将には傷も癒えた歳久もいた。
「無理はするなよ又六郎」
「心配無用にございますよ、兄上。いざとなれば自ら城に攻めかけてご覧にいれまする」
「それが無理というのだ」
冗談も飛び出すほどに快癒した歳久と義辰の兄弟が轡を並べて山城を見上げた。
貴久には四人の兄弟がいて、その兄弟のうち嫡男義辰と三男歳久が特に仲が良かった。
義辰はよく無茶をする忠平や四男の又七郎も当然ながら可愛がっていたが、自分同様口数が少なく、そのくせ妙に賢い歳久と話をするのがとても楽しく、その先見性や洞察力の高さにいつも感心させられていた。
また、北村城で重傷を負った歳久に、何度も見舞いの手紙を残している。
同年三月二十五日
伊集院久宣の兵が、蒲生横尾口で城戸口に切り入ったが、頑強な抵抗に合って退却。
兵糧に不安が生じたため、貴久は包囲を解いて退却した。
その後も蒲生、渋谷一族の侵攻を受けては撃退する日々が続き、小さな争いは数えきれないほどだった。
同年十月
再度松阪城に攻め入るため米丸まで軍を進めた貴久だったが、
しかしこれに備えていた 蒲生氏当主の範清の本軍、さらに渋谷一族の主力軍が援軍に到来。
大激戦となったが、ここでも島津軍鉄砲部隊が壊滅させ、ついに松阪城を包囲した。
「残りの兵は少ない!弓矢を恐れるなよ!神仏の御加護があればそう当たらぬものよ!!」
貴久の檄に島津軍が攻め寄せる。
「おお! ……おお!?」
兵たちが士気高く山城を攻め上がったが、その時、頭上から矢ではない何かが落ちてきて、兵たちの何人かが下敷きになった。
「これは……機織りか?」
義辰はそれを手にとって確かめた。
「化粧箱といい、機織りといい、ここらの女たちのなんとも豪気な……」
義辰の脳裏に嫌な思い出が浮かぶ。
しかし、その勢いを止めること叶わず、ついに松阪城も落城せしめたのだった。
年が明け
弘治三年(一五五七年)四月十五日
再び蒲生に軍勢を差し向けた貴久は、因縁の北村城を攻め、昨年来より援軍に来るようになった菱刈氏を撃退。
この様子を見てついに北村城も降伏し、落城した。
ここにようやく蒲生氏が支配するのは本拠城、蒲生龍ヶ城を残すのみとなり、島津軍五千あまりの兵が蒲生盆地を覆い尽くした。
また、岩剣城平松館より忠平も駆けつけて、その翌日から蒲生龍ヶ城への総攻撃が始まった。
龍ヶ城は剣峰の先端に本丸、二の丸、三の丸、と並ぶように続いており、事実上の一本道である。
まさに人数任せの力任せ、忠平自ら先陣をきって攻めかかり、ついに二の丸まで陥落せしめて、残りは本丸のみを残すところまで制圧した。
忠平も三尺の太刀を振り回して一騎打ちを望んだ。
そしてこれを組み伏せて討ち取り、鎧に五本の矢が刺さる傷を負う、大激戦だった。
同年四月十九日
龍ヶ城を守る蒲生氏当主、範清はこれ以上は抵抗する力なし、と判断して降伏の使者を立てた。
「また罠にございます!! 断じて許さず、攻め落とすべきかと存じまする!!」
尚久を始め、多くの者が頑なに反発して降伏を認めず、力攻めすることを主張した。
この時の島津軍における、蒲生憎しの勢いは大変なものだった。
「どう思う? 又六郎」
「そうですなあ……」
貴久に助言を求められた歳久は、はるか頭上の断崖絶壁にある龍ヶ城の本丸を見つめる。
松明の火が尾根伝いに灯されて、一見すると美しい風景でもあった。
「龍ヶ城は薩摩でも一、二を争う堅城。水も湧き出てわずかな兵でもある程度持ちこたえるはず。しかしこれまでの城攻めを見るに、もはや抗する力なしというのは真であるように見えました」
「いや、又六郎よ、お主……」
口を尖らせて忠平が歳久に抗議する。
「兄上、お気持ちは分かります。実を言えば、それがしも内心はらわたが煮えくり返っておりまする。
ですがここで力攻めすれば大堅城を前に被害も大きくなるでしょうし、何より仏門に励むお館様がなんと感じましょうや。幾度騙されようとも、これを許すのがお爺様が日頃説く、仁徳ではないかと得心いたしました」
そういって最後に付け加えて首をすくめる。
「何より、また化粧箱を落とされてはかなわぬ」
同年四月二十日
降伏受け容れの是非について議論紛糾しているさなか、闇夜に乗じて蒲生範清は本丸に火を放って退去。
その光景を見た島津軍は、蒲生氏の気概にまた呆れ果てた。
ここに蒲生本城は落城。
戦の数は大小合わせて都合五十九度、二年に及んだ蒲生氏との争いが終結した。
その後蒲生氏は祁答院を頼って逃れたと言う。
薩摩国平定に向けて、残りは渋谷一族を残すのみとなったが、その頃飫肥と大隅で不穏な情勢が高まっていた。




