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戦国島津史伝  作者: 貴塚木ノ実
平定の道筋
24/82

第二十三話 子供たちの初陣~岩剣城の戦い

 天文二十二年(一五五三年)

 代替わりした薩州家と正式に和睦した貴久は、いよいよ薩摩国平定に向けて動き出した。

 これに立ちはだかるのは、川内川(せんだいがわ)流域に根を張る渋谷一族と別府川上流に拠点を置く蒲生氏である。


 この渋谷一族と蒲生氏。

 何故ここまで島津家に臣従することを良しとしないのか。これには彼等なりの理由がある。



 鎌倉幕府の治世だった宝治元年(一二四七年)に起きた内乱、宝治合戦に参陣した渋谷光重に武功があった。

 その功を賞した幕府より薩摩国川内川流域一円を拝領したことが、この地における係争の発端である。


 渋谷光重には何人かの子供がおり、長男には相模国(さがみのくに)の領地を相続させ、残りの子供たちには拝領したそれぞれの地を与えた。

 その子孫はその地にそれぞれ根付いて、名を地名から取って改めた。

 即ち東郷(とうごう)氏、祁答院(けどういん)氏、入来院(いりきいん)氏、鶴田(つるだ)氏、高城(たき)氏である。


 つまり渋谷一族としては、同じく鎌倉幕府より領地を与えられた島津家と同格の家と見ており、これに臣従することは屈辱以外何物でもなかった。

 さらに、南北朝時代の混乱や、島津宗家が総州家と奥州家に分かれて争った大乱などに巻き込まれた経緯もあって、島津家には大いに遺恨があり、この頃には薩摩国の覇権を争う宿敵と見なしていた。


 そして島津家に対抗するもう一つの氏族蒲生(かもう)氏だが、こちらは島津家や渋谷一族よりも薩摩に下向した時期が早い。

 平安時代の公家、藤原氏の流れを汲む藤原教清(のりきよ)の子、舜清(ちかきよ)が大隅国の荘園の一つである蒲生院を拠点とした。

 以来「清」を一族の通字としてこの地で栄えてきた。


 鎌倉の世になってからも蒲生氏は比較的協力的で、島津家が守護大名として下向してくると家老を出資させるなど国人衆として島津家に協力していた。

 しかし折から戦国乱世の時代となって、十一代忠昌以降の混乱や、実久の乱を通して衰退した島津家に見切りとつけると、貴久体制に反発する渋谷一族ら氏族と結託して、反抗の意思を露わにした。


 なにより蒲生氏の自信の裏付けにあったのは、蒲生氏が本拠城として龍ヶ山(りゅうがざん)に築いた龍ヶ城(りゅうがじょう)にあることも一因かもしれない。

 龍ヶ山は標高こそ百六十メートル少々とさほど高くはないが、龍が横たわるが如く鋭い山容を成しており、断崖絶壁の山肌が特徴的だった。

 龍ヶ城は山を削りとって空堀を造成し、尾根に沿って配置したそれぞれの曲輪(城)はいずれも守りが堅かった。

 この城を力押しで攻めきるには膨大な兵力が必要であることは容易に推測できる。

 保安(ほうあん)四年(一一二三年)に蒲生氏初代舜清が築いたとも伝わるこの龍ヶ城を拠点に、蒲生氏は島津家との対決姿勢を見せていた。


 なお、先の天文十八年(一五四九年)における肝付越前守の叛乱で援軍を出して協力した渋谷一族と蒲生氏だったが、加治木城の陥落に合わせて降伏。

 しかし五年経って力を蓄えた両氏は、貴久の先手をうつかのように軍勢を起こした。



 天文二十三年(一五五四年)八月九日

 祁答院、蒲生を主軍とした軍勢は、島津軍の守りが堅い吉田松尾城を避けて蒲生川から船津を経由して別府川(べっぷがわ)沿いに下り、加治木城と帖佐(ちょうさ)城を攻め立てた。

 加治木城には、先年の叛乱後に日新斎と貴久の信を得て領地を安堵された肝付越前守の嫡男兼盛(かねもり)が入って守りを固めていた。


 貴久は渋谷一族蒲生連合軍侵略の報せを受けて、末弟の又五郎尚久を加治木城に入れさせて、兼盛と共にこれを防ぐよう命じた。



 同年九月十二日

 加治木救援軍の出立の準備を終えた貴久は、四人の息子たちが座して待つ内城の館に入った。

 嫡男、又三郎義辰、二十二歳。

 次男、又四郎忠平、二十歳。

 三男、又六郎歳久、十八歳。

 四男、又七郎、八歳。元服前。


 いずれもこの戦が初陣である。

 ちなみに嫡男の諱は数年前に足利幕府十三代将軍義輝より偏諱(へんき)(たまわ)って名を改めていた。

 そしてその数年後には義久と名を改めることになる。


「うむ。お主ら見事な若武者ぶりだ」


 貴久はその姿を見て喜び、満足そうに頷いた。

 健気にも背筋を伸ばして座る又七郎は(わらべ)の身なりだったが、心の内は鎧武者であったろう。

 そこに日新斎(じっしんさい)も顔を出した。


「揃っているな」

「お爺……お屋形様」


 揃って頭を下げる四人の若武者を前にして日新斎は感慨深くなり、目頭に熱いものを感じたが、ぐっと堪えて正座した。

 軽く一息ついて四人の(まなこ)をそれぞれ見て、口を開く。


「『匹夫(ひっぷ)(ゆう)』という言葉を存じておるか」

「……?」


 首をひねる忠平以下弟らに対し、義辰は頷いて答える。


「匹夫の勇とは、ただ血気にはやるだけの勇気。思慮も分別もない無謀な勇気と心得ます」

「左様。唐の孟子が彼の国の王に進言した言葉だ」


日新斎は忠平らの目をじっと見つめて、言葉を繋いでいく。


「よいか、死を恐れてはならぬ。だが焦って死地に飛び込むことはするな。それはただの無駄死だ。意義ある死は後世の名誉となるが、無駄死は恥となる。恥は一人のみならず、我ら一党の恥となり、武家の恥は末代まで陰を落とす。

 お主らは島津の十字紋を背負っていることを決して忘れるな」

「はっ」


「この戦で無駄死となりうるようなら、恥を忍んで逃れることも恐れるな。生き延びてこそ、恥を(すす)ぐことができると心得よ」

「はっ」


戦場(いくさば)では勝負どころというものがある。勝負どころこそ粉骨砕身、命を賭けて槍を奮う場と心得よ。そしてその勝負どころを見極めよ」

「はっ!」


 日新斎は訓戒を述べて、たくましく成長した若武者たちに満足した。


「よし、では此度の戦について説明する」


 貴久が岩剣城、加治木城、帖佐城、吉田松尾城、思川(おもいがわ)、別府川、そして進軍不可能な山地の境を書き記された大判の地図を広げた。


「此度の戦の目的は加治木城を攻め立てる蒲生、渋谷の一党を追い払うことである。しかしやつらは大変手強く、帖佐城、岩剣城を押さえており、おいそれと近づくことが出来ぬと心得よ」

「……」


 若武者たちは身を乗り出して地図をじっと見つめる。


「幸いにも加治木城は我らも攻め落とすのに一年かかった堅城である。現在加治木に入っている肝付越前守と又五郎はその辺りをよく心得ているので、今しばらく持ちこたえると思って良い。然らば此度の攻めどころは、ここだ」


 貴久が指し示したのは岩剣城(いわつるぎじょう)だった。


「岩剣城を落とせば、加治木を攻め寄せる敵軍から見ると正面からも背後からも狙われることになる。そうなれば呑気に加治木を包囲している場合ではなくなるだろう。当方にとっても吉田松尾城にほど近いここは、いくらでも補給が利く場所であるため兵糧で困ることはない。

 各々、まずは此度の戦のあらましは分かったか?」

「承知してございます」


 義辰が代表して答え、一様に力強く頷いた。


「では、お主らの着く陣を説明する」


 貴久は満足してさらに説明を続けた。


「まず、新納武蔵守には、吉田松尾城より出て吉田と岩剣城に繋がる道を全て防ぐように手配している。

 次に本陣は牟礼岡(むれがおか)から白銀坂(しろがねざか)に続く地に置く。本陣にはわしだ。しかし場合によっては又三郎に任せることもある。よいな」

「はっ」


 義辰が頷く。


「次に又三郎、又四郎、又六郎、お主らには牟礼岡よりさらに先へ行き、白銀坂の入り口に陣を置け」

「白銀坂……?」

「坂を降りると帖佐の脇元という地に出る。もし帖佐城より敵勢が仕掛けるとしたら、ここら辺りでぶつかることになるやもしれぬ」

「ここを攻めかければよいのですな」

(はや)るな」


 義辰が小さく笑いながら忠平を小突いて(いさ)めた。


「帖佐に対する備えとして右馬頭(うまのかみ)国分(こくぶ)清水(きよみず)城より援軍に駆けつける。然らば思川かここらで挟み撃ちとなるだろう」

「叔父貴がこられるのか」


 忠平は嬉しそうに国分清水城の城主に入った忠将を懐かしんだ。


「勝負所はここだ。右馬頭が討ちかかりし時を狙って坂を落ちて一気呵成(かせい)に攻めかかるがよい」

「承知いたしました!」


 義辰、忠平、そして歳久は力強くうなずき、槍を奮う場所を見定めた。

 よし、と貴久は得心した様子の三人の顔を見て、最後に8歳の四男坊を見た。


「最後に、又七郎よ、お主にはじい様と共にここの留守居を命じる」

「るすい?」


 そうだ、と言って貴久は頷く。


「我らがこの戦に勝とうとも、ここに戻ってきた時に不測の出来事があっては困る。

 我らが帰る場所を守り、戦勝を祝う準備をしておけ」


 そういうと、日新斎を見やる。


「父上、そういうわけですから、又七郎をよろしくお願い申す」

「相わかった。又七郎と共に大いに守ってみせよう。な?」


 そう言って日新斎は微笑みかける。

 又七郎もまた、自らにも役割を与えられたことに喜び、元気よく返事した。



 同年九月十三日

 島津軍は帖佐まで進軍した。

 貴久が牟礼岡に、息子たちは白銀坂へ、忠朗らの兵は帖佐平松に着陣し、岩剣城包囲網が出来上がった。


 そこに国分清水城の軍勢を率いた忠将軍が船で帖佐城まで寄せると、鉄砲で撃ちかけて攻撃を開始した。

 忠平もその様子を見て白銀坂より兵の一部を脇元まで進ませる。


 帖佐城に入っていた祁答院の軍勢は海から攻撃してくる軍勢に弓矢を射かけながら、忠平の軍勢を認めた。

 そして「あれはこちらの戦力を見誤って油断している」と判断すると、門を開けて忠平の軍勢に猛然と討って出てきた。


「者共! ここが正念場よ!! かかれ!!!」


 それを見た三兄弟は、白銀坂に残していた軍勢に号令をかけ、共に一気に駆け下りて乱戦となった。

 義辰、忠平、歳久はそれぞれ無我夢中で槍を奮い、次々と雑兵を討ち果たしていく。


「若殿! 雑兵ばかり相手にしても褒美は得られませぬぞ! 将を狙いなされ!!」


 三人の目付役として副将を任せられていた川上源三郎忠克(ただかつ)が発破をかけた。

 川上忠克は元々実久に与しており、勝久に守護職復帰を説いた人である。


 その後薩州家との争いの果てに降伏。一時は薩摩の西の海に浮かぶ甑島(こしきじま)へ配流となっていた。

 しかし若き家臣団の育成には経験豊富な名将の補佐が必要、と判断した貴久は忠克の罪を許して、家老に据えると、義辰の教育係につけていた。

 また忠克もその厚遇に深く感謝し、今では貴久の重臣として力を尽くしていた。


「よし! 又四郎! 又六郎! 敵将を狙え!」

「おう!」

「承知!」


 忠平があたりを見回し、馬に乗って何やら叫ぶ者が将なり、と認めると突進した。

 しかしそれを見た雑兵に阻まれ、また敵勢も忠平の勢いに気圧されて、ついには帖佐城へ大きく後退し退却した。


 岩剣城の戦いにおける緒戦、後の世に重富と呼ばれる地で起きたこの脇元合戦は、後の世で名を馳せる兄弟たちの初陣として知られる。



 帖佐脇元にて若武者が大いに武威を振るって敵勢を圧倒す。敵勢怯えて軍を城に退く。



 この報せは岩剣城を包囲する島津軍を駆け巡り、勢いづかせた。

 また、岩剣城攻めの陣を張った伊集院忠朗はこの報せを聞いて勝吐気(かちどき)の声を挙げた。

 岩剣城を守るのは祁答院良重。祁答院氏の十三代当主である。薩摩、大隅への領土拡大の野心を隠さない、渋谷一族の首領とも言える存在だった。

 この名将が守る岩剣城は、三方を断崖絶壁が阻む堅牢な城で、攻め落とすのは容易ではないことは誰が見ても明らかだった。


 岩剣城の前に島津軍も攻めきれず、それから九月の末まで一進一退の攻防が続いて膠着状態に陥った。

 貴久は義辰に本陣を任せて白銀坂まで進ませると、本隊を牟礼岡から吉田松尾城を経由して帖佐平松まで移動して包囲を強めたが、祁答院勢はなお頑強に抵抗した。



 その貴久の元に、日新斎が法衣を身にまとって陣中見舞いに訪れたのは、十月一日のことである。


「あいかわらず見事な山城であることよ」


 遠くそびえる岩剣の断崖を見上げて


(これはあるいは孫たちのいずれか死なねば落ちぬかもしれぬ)


 と覚悟した。


「父上、わざわざ本陣まで申し訳ございません」

「なんの。苦労しておるな」

「はい、予想はしておりましたが、やはり岩剣城はきつい」

「うむ。岩剣城はここらでは蒲生の龍ヶ城と一、二を争う堅牢な山城。一筋縄ではいかぬ」


 日新斎はひとしきり貴久を労う。


「又七郎が泣いて寂しがっていると聞きました」

「うむ。故に『爺が活を入れにいく』という次第だ」

「お手柔らかに……」


 貴久は思わず顔をしかめ、日新斎も思わず笑った。

 そして地図を広げて岩剣城を囲む陣容を確認した。


「……抜けはないな」

「ええ」

「根比べかのう」


 そこまで言って、ふと岩剣城の麓にある社の印に目をつける。


「これは?」

「岩剣神社ですな。ここらの領民の信奉を集めているようです」

「ふうむ」


 それを見て日新斎は少し考え事をする素振りを見せた。


「かの堅城が落ちぬのは、この神社の御加護が篤いからではなかろうか」


 出家して法体となった日新斎らしい言葉に貴久は「まさか」とも思ったが、今はすがれる物があれば神仏でもなんでもすがりたい気持ちだった。


「では、ご神体を白銀坂まで運んで祈祷いたしましょうか」

「それはいい。どれ、その任は儂がやろう」


 そう言うと、満留(みつどめ)郷八左衛門尉忠実(たださね)中条(なかじょう)次良右衛門尉政義(まさよし)と共に密かに岩剣神社に忍び入り、ご神体を持ち出した。

 そして本陣を置く白銀坂まで運ばせ、孫たちが見守る中「この戦いに勝利すれば毎年例大祭には神舞を奉納しよう」と願い奉った。


 その日の夜、帖佐平松に隊を移動させて伊集院忠朗と合流した貴久の元に、急報が入った。


 祁答院良重の嫡男重経(しげつね)が祁答院より二千人を率いて援軍迫る。


 その報せを受けて、貴久と忠朗は顔を見合わせた。


「時は来たれり」




 同年十月二日

 夜明け前の頃、加治木平野に朝もやが懸かる中、思川を挟んで両軍が対峙していた。

 加治木城包囲網から一部軍勢を割いて駆けつけた蒲生軍と合流した祁答院重経の軍勢は三千余。

 一方の貴久・忠朗の軍勢は二千もない。じっと息を潜めて睨み合う。


 思川を渡って、祁答院の軍勢が迫ったのはそれからすぐのことである。

 しかし、島津の軍勢がこれに応じるような素振りを見せず、重経が奇妙に思った時だった。


「撃てー!」


 轟音が帖佐に鳴り響き、馬が、人がバタバタと倒れていった。


「こ、これは!?」

「撃てー!」


 間髪つかせず、轟音が鳴り響き、重経の馬廻衆が倒れた。

 見れば血まみれになり、顔には穴が空いて息がなかった。即死だった。


「構えー!」

「狙えー!」

「撃てー!」


 三段の調子で忠朗の号令のたび、鉄砲が撃たれ、その度に祁答院と蒲生の人数が減っていく。

 三千以上いたはずの人数は、すでに半分もおらず、完全に恐慌状態に陥っていた。

 その多くは未知の兵器に心根を震わせ、逃げ出している。



 九十丁の鉄砲と九十人の鉄砲撃ちを用意した貴久は、弾込めから発射まで三十秒で収まるように練度を高めた。

 そして鉄砲隊を三十人づつ、三つに分けると一番隊、二番隊、三番隊と名づけた。


 一番隊が鉄砲を撃つと、その場で次の弾込め作業に入る。

 二番隊は一番隊の前に出ると、「二番隊、構え、狙え、撃て」の合図で射撃し、その場で次の弾込め作業に入る。

 三番隊が二番隊の前に出る……と流れるような連携一斉射撃攻撃を完成させていた。


 天文十八年(一五四九年)五月に起きた、肝付兼演、兼盛の叛乱における黒川崎の戦いでの試験運用を経て、日ノ本初の組織的な実践的な鉄砲運用だった。

 時間にして一分、六回の一斉射撃で壊滅状態に陥った軍勢を見て、忠朗が軍配を奮う。


「頃合いやよし! 全軍、かかれー!!」


 島津の軍勢が恐慌状態に陥った祁答院・蒲生連合軍に突撃し、三千以上の軍勢は跡形もなく消滅した。




 翌日の朝、急に岩剣城の抵抗が弱くなったのを見て、白銀坂の軍勢も岩剣の城攻めに加勢した。


「兄上何か妙だ。先ほどから弓矢の勢いがまるでない」

「うむ、弓矢でも尽きたかと思うていたが、櫓に人も付けておらぬ」


 義辰、忠平、歳久、そしてお供の軍勢と共に用心しながら次々と各曲輪を制圧していく。

 そして西の丸から本丸へ抜ける場所にでた。

 見上げれば空堀を挟んで遥か頭上に本丸が断崖絶壁の上にそびえ立っている。


「いや、これはよくもこのような所に城を築いたものだ」


 忠平は半ば呆れ果てたように額の汗を拭う。


 ――その時だった。

 本丸から女の声が聞こえて、島津兵の頭上に何かが落ちてきた。


「若殿! 危のうございます! 盾の下にお入り下さいませ!!」


 竹でこしらえた矢を防ぐための柵の下に三人を押し込み、軍勢はひとかたまりになってこれを防いだ。

 バラバラと音を立てて落ちてきたそれを見た歳久が驚きの声をあげる。


「これは……化粧箱ではないか!」

「なんと、女たちが残っていたのか」


 そう言って本丸を見上げた島津の兵たちは、さらに驚愕した。


「あれは……まさか……おい! やめろっ!!」


 忠平が大声で叫んだ。

 見れば、女たちが手を合わせて本丸から崖に向かって身投げし始めていた。

 やめろ、やめろ、と大声で島津軍が口々に叫んだが、女たちは躊躇しなかった。

 見れば幼い子さえもいる。

 母親と思しき女が幼子を崖下に放り落とし、その後に続いた。


「我らは命を奪うつもりはない!! 祁答院まで無事送り届けるゆえ、馬鹿なことはやめよ!!!」


 その忠平の言葉も虚しく、最後に一人残った女が何やら忠平に向かって叫び、手を合わせると崖の下へ消えていった。


「ああ……なんと……なんということだ……」


 忠平はがっくりと頭を垂れて、力が抜けたように座り込んだ。

 義辰は最後まで言葉を発さず、本丸、そして崖下に消えていった女達の姿をいつまでも見つめていた。


「又四郎よ、これが戦なのだ」


 義辰のその言葉が、あまりに無情にも聞こえた忠平は、カッと頭に血が上って義辰の胸ぐらに掴みかからん勢いで睨みつける。


「……これが……戦ですと? 死ぬ必要もない者が……」


 そこまで言ってボロボロと涙が溢れ、言葉が続かなかった。

 見れば義辰の目も少し赤らんでいたが、顔を真赤にして歯を食いしばり、忠平を睨み返す。


「又四郎よ、俺は父上に言われた。

『戦で起きることは総大将たる者が全ての責を負う。お主もいずれ軍の総大将となる。この戦でいかなることが起きようとも、決して目をそらすな。それが総大将たる者が身につけなければならぬ覚悟だ』

 ……とな」


 そう言って嗚咽する忠平の肩を抱いた。


「俺はこの戦を生涯決して忘れぬ……。俺は戦のない泰平の世をもたらすため、決して目をそらしはしない」



 同年十月三日

 この日ついに岩剣城が落城した。


 残っていた兵を生け捕りにして聞いた所によると、祁答院良重は重経の援軍が敗走するのを目の当たりにして、援軍もはや望めずと判断して、闇夜に紛れて岩剣城を退去したということだった。

 また、加治木城を包囲していた軍勢も、岩剣城の陥落を聞いてこれ以上包囲していても利はない、として包囲網を解除すると、蒲生まで退却した。

 こうして、ほろ苦い初陣を果たした三人の兄弟は、その日の夜に内城に戻り、ささやかな勝利の宴を開いた。


「……」


 岩剣城の最後の光景をどうしても忘れることができず、食も進まない中、忠将と尚久が駆けつけてきた。


「無事初陣を果たしたというのに、随分と湿気(しけ)た面をしておるな」

「叔父貴、叔父上……実は……」


 忠平が言葉少なに岩剣城の最後の光景を説明し、最後にポツリと呟いた。


「これが三州に泰平の世をもたらすための戦なのだろうか……」

「ふむ」


 忠将は顎髭を撫で回しながらそれぞれの顔を見る。


「戦になれば生き残るために誰かを殺さねばならぬ。それが戦国乱世の(ことわり)というものだ。その中にあって武士としての誇りを決して忘れず、殺す相手の誇りを汚さぬこと。それさえ守れば、多少なりとも救われるのではないかと俺は思う。

 そのおなごたちも、武士の女として自らの誇りを守るために最期を選んだのであれば、それを汚さぬように弔うことが何よりも大事ではなかろうか」

「誇り……ですか」

「そうだ。誇りだ。……まぁ、そこは自らがたどり着かねばならぬ答えだ。よくよく考え、悩んで答えを出せばよかろう」


 一本抜けた顎髭をちらりと見やり、囲炉裏の灰に埋めた。


「だが、出した答えは大事にしろよ。戦において迷いは死へと繋がる」

「的確な助言、真に感謝いたしまする」


 三人の若者にもようやく笑顔が戻り始めた。


「よし。年長らしい説教を垂れたところで俺は帰るとする」


 忠将と尚久は気さくな笑顔を見せて腰を浮かした。


「お二人ともですか。いやに早い……。あ、まさか」

「いやぁ、なあ? 又五郎よ」

「うむうむ」


 尚久も微笑んで頷き合う。


「子供は可愛いぞ。そのうち兄上や又三郎に仕えさせる日が楽しみだ」

「お主らも早う嫁をもらえるといいな」


 そう言って忠将と尚久は仲良く肩を並べて内城を後にした。

 去った後に、歳久が笑って茶化す。


「知っておるか、兄上。ああいうのを最近、親馬鹿と言うそうだ」

「馬鹿とは……」


 そういって兄弟は笑いを堪えるのだった。


 忠将には天文十九年(一五五〇年)六月産まれの嫡男が、また尚久にも天文二十年(一五五一年)七月産まれの嫡男がいた。

 わずか一年違いの子を忠将と尚久は大層可愛がった。

 そして兄の貴久や、いずれ家督を継ぐ義辰にどれだけ貢献できるか勝負しよう、と盛り上がっていた。

 その言葉の通り、二人の叔父の子は、三州平定を進める島津家の大きな力となるのだが、それはまた後の話である。


 ともあれ、日ノ本で初めて鉄砲が実践的に運用された合戦となった岩剣城の戦いは貴久ら島津軍の勝利に終わった。

 岩剣城を制圧した貴久は、その城主に忠平を抜擢して入れさせた。

 岩剣城にほど近い帖佐城には先の戦いで逃れた祁答院良重が入って居たからである。

 忠平の役目はその備えであった。

 ただし、岩剣城は急峻すぎてあまりに不便なため、その麓に平松館を築いて、そこを忠平は住処とした。


 しかし、渋谷一族と蒲生氏との争いはまだ始まったばかりである。

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