第二十二話 ザビエル来訪記
実久の襲撃によって貴久が鹿児島から追われ、その後に薩摩半島の制圧拠点としたのは伊作亀丸城と田布施亀ヶ城である。
しかしいずれも鹿児島に迫るにはシラス台地によって阻まれる険しい山道をいくつも超えなければならない不便さがあった。
そのため、伊集院を平定するとその中心にある一宇治城を鹿児島進出の拠点とした。
一方、島津宗家六代氏久以来、代々三州の政務本拠としていたのが鹿児島清水城である。
清水城は北から東にかけては吉野台地、多賀山祇園之洲まで続く急峻な崖が、西には坂元の谷が行く手を阻む。そして城の前には吉田郷を水源とする稲荷川を水堀に見立てた天然の要害だった。
しかし貴久が薩摩国の国主の座についてからも、清水城とは別に一宇治城を政務拠点の一つとして維持し続けていた。
支配地が増えるにつれて家臣も増えていったため、清水城が手狭になっていた側面が強い。
天文十八年(一五四九年)
貴久は肝付越前守による加治木叛乱征伐の陣頭指揮に忙しかった。
さらに領内の沙汰もしなければいけなかったため、伊集院一宇治城、鹿児島清水城、国分清水城を頻繁に行き来していた。
この頃に日ノ本の歴史に残る出来事が起きるのである。
同年八月十五日
坊津の湊に一人の南蛮人が上陸した。
坊津は加世田から約二十キロ余り南へ下った所にある港町である。
古くから倭寇の拠点として、或いは明との貿易で栄えた町で、その盛況ぶりたるや、政務拠点である鹿児島よりも賑やかだった事もある。
加世田の領内に組み込まれたこの港は貴重な銭収入をもたらす町だった。
故に日新斎も、また薩州実久も加世田と坊津の支配にこだわったのである。
坊津に上陸した男の名をフランシスコ・ザビエルと言った。
キリスト教の一教派であるカトリック教会の司祭である。
この時四十四歳。一人の日本人との出会いによって南蛮の教えを日ノ本に広げようという信念に燃えていた。
ザビエルは
「この国の王に会わせて欲しい」
と坊津の奉行に願った。
「いかなる用向きか」
奉行衆は真意を図りかねたが、ひとまずその報せは貴久の元に届いた。
「如何いたしますか」
「南蛮の者とな」
「何やら南蛮の教えを広める許しを得たいとのこと」
肝付越前守の反乱鎮圧に追われる貴久はその話を国分清水城で聞いた。
それどころではないのでは、と伊集院忠蒼辺りからは懸念の声も上がった。
しかし貴久は、先年に入手した南蛮伝来脅威の必殺兵器、鉄砲を生み出した者たちに興味が湧いた。
「会うことに吝かではない。……が、坊津までは遠すぎる。鹿児島まで寄越せ。来月には一宇治城にいる」
「承知仕りました」
同年九月
多賀山が面する場所は崖が海に向かってほぼ垂直に落ちるところで、稲荷川の河口に祇園之洲と呼ばれる浅瀬があった。
そこに南蛮の宣教師、フランシスコ・ザビエルを乗せた大船が来航して上陸したのだった。
この頃の南蛮船の来航状況として、水や食料の補給のために立ち寄るのは薩摩半島の南西の端にある坊津や、大隅半島南部にある根占港である。
見たこともない巨大な船の来航に、多くの見物人が呆気に取られて見上げた。
そんな中をザビエルらの一行は、鹿児島を打ち過ぎ、伊集院は一宇治城まで歩いて訪れたのだった。
キリスト教にとってナザレのイエスが磔にされた十字架は特別な意味を持つ。
一宇治城を訪れたザビエルは、十字の家紋を描いた御旗を見あげて大いに驚いた。
そして極東の地で運命的な出会いを果たした、と大いに感動した。
ナザレのイエスは復活して極東へ向かったという奇説もあったから、この日ノ本南国の地がその名残か、とさえ思った。
ただザビエルにとって残念だったのは、家紋の由来が全くの見当はずれだったことである。
島津家の十字紋は龍が交わる様子を意匠にしたとも、初代島津(惟宗)忠久が文治五年(一一八九年)の奥州藤原氏征伐に参戦した際に、源頼朝より箸で十字の形を作って家紋とするよう定めて拝領したのが元になったとも伝わる。
何はともあれ、貴久と面会を果たしたザビエルは領内においてキリスト教布教の許しを願った。
ザビエルと貴久の通訳には、弥次郎と名乗る者が務めた。
「弥次郎とはお主か。……なるほど。報せにあった通り、日ノ本の人間だな」
「は。元は禰寝庶流の池端の人間でございました。人を殺めて逃れ、ポルトガルの船に乗ってここより遥か南に約六十日以上かかる所にあるマラツカなる地まで向かう途中、南蛮の者が説くイエスズ・キリストの教えに触れて改心した由にございます」
ふむ、と貴久はうなずき、検分するように弥次郎を見つめる。
「この度、恥じ入って鹿児島に戻ったのは、こちらにおわします南蛮宗の宣教師ザビエル様にキリストの教えを島津家のご領民にも広める許しを頂きたく存じた次第にございます」
「ふむ」
再び貴久は頷き、日ノ本の人間とは異なる顔つきの男を見つめた。
「いくつか質問がある。心隠さず答えよ」
「はっ」
貴久の鋭い目つきを見て、ザビエルは
(これがこの国の王か、なんと高潔で誇り高いのだ)
と極東の地の優れた文化性を理解した。
「弥次郎よ。お主は人を殺めて逃れたということだが、こうして鹿児島に戻ったということはここで捕られの身となって裁きを受ける覚悟もあるということだな?」
「はい。それが神デウスのお導きであれば、いかなる処分も受け容れまする」
躊躇なく答えた弥次郎に貴久は感心した。
「そちらの御仁が教えを広めたいという宗教とはいかなる教義か簡潔に答えられるか?」
「端的には『日頃より神デウスに祈っておれば罪は許され、死せる時には天の住まう地に導かれる』というものにございます。無論他にも細々と教えがございます」
「細々、とな」
「こちらは某が備忘録程度に書いた物で恐縮至極ではございますが、南蛮の者が常に持ち歩くbible……仏教で言う、経典とも言うべきものの内、世界の成り立ちを記した書を日ノ本の言葉に訳した物にございます。
神デウスによる世界の成り立ち、神の御言葉などが書き記されてございます」
「神の言葉……か」
貴久はその書を何頁か流し読みして、脇に置いた。
「南蛮宗の教えを広める云々についてはよく吟味致す故、即答はできぬ。遠路ご苦労であることは承知しているが、その間は鹿児島で休まれるがよかろう」
「とりあえず検討する」という答えを頂いたことを弥次郎より聞いて、ザビエルも安堵した。
それからも貴久は南蛮国の勢力や政治の仕組み、農業の様子、商いの様子、戦の様子といった事を事細かに聞いて、ザビエルは
(なんと好奇心の強い人なのだろう)
と感心した。
「気に食わぬなあ」
日を改めて、日新斎と貴久は南蛮の教えを領内で広めることを認めるか協議していた。
日新斎は在家菩薩を自称するほどに仏道に帰依して信心深かったから、相談相手としては最適とも言える。
しかし弥次郎が和訳した、という南蛮の教えを読んで日新斎はやや警戒したようだった。
「この世界の成り立ちを記した経典という物は、日ノ本で言うところの日本書紀のような類であろう」
「そうですな」
「日本書紀は朝廷のご皇統を神代より書き記したものであり、その話が嘘か真かはここで論じるつもりはない」
日新斎は腕組みしてかすかに体を揺すって逡巡する様子を見せる。
「ただあれには世界があって、神が成って、その神々によって神国日ノ本が作られて……と書かれておる。しかしこの教典はまず何処より神がおって天と地を創りたもうて、『光あれ』と言葉を発することで世界が出来て、それから何やら動物を作って、人は神の姿を模して土くれより作った、とある」
「はあ」
「諸々順番が違うではないか」
不機嫌そうに口をへの字にしかめる日新斎に、貴久はただ相槌を打つしかなかった。
「この教典を鵜呑みにするのであれば、我らは世界も含めて全て、この神デウスとやらの作りし物ということだ」
「そうですな」
「論理の飛躍になるやもしれぬが、この道理でいけば人の命も世界も、神デウス一人が命じるがまま、ということではないか?」
「なるほど」
「さらに南蛮の教えはただひらすらに神に祈ればよいと言う。
これはいかがなものであろう?
八百万の神々が常に我らに寄り添い、共に生きる。自らを鍛えて開眼する教えから見ると、随分と自堕落に見える。神仏の教えとはかなり趣きも異なるし、我らが目指す泰平の世には都合が合わぬことも考えられる」
「よほど父上がお作りになった『いろは唄』の方が道理は通りますな」
「そうであろう、そうであろう」
貴久のおだてに日新斎は口の端をあげて頷く。
「父上の申すことは至極尤もではございますが、拙者はただ二点ほどの理由で布教を認めてもよいのではないか、と考えております」
「申してみよ」
日新斎は一息に喋って喉が渇いたのか、茶をすすって唇を濡らした。
「一点目は、南蛮の者と通訳を務めた池端弥次郎と申す者でございます」
秋とは言えまだ暑さが残る日中、扇子を一扇ぎした貴久はさらに言葉を続ける。
「池端弥次郎の素性を奉行に調べさせたところ、確かに城下で些細な口論が元で人を斬って追われておりました。その後、どうやらその時訪れていた南蛮商人の船に乗って、南の遠方へ逃れたようです」
「ふむ」
「しかしこうして再び鹿児島に戻って参りました。そこで『人を斬った罪を償うつもりがあるか』と問うた所、なんの迷いもなく『神のお導きであれば』と答え、これを受け容れました」
「ほう」
「弥次郎と申す者、聞けばなかなかの粗忽者だったようですが、南蛮の教えに触れてああも人変わりするのであれば、南蛮の教えも人心の安寧に役立つやもしれませぬ」
「なるほどな」
日新斎は腕組みして貴久の言葉に相槌を打つしかなかった。
「もう一点は、硝石の輸入でございます」
この問題は、日新斎も大きく頷かざるを得なかった。
「現在は明や南蛮商人の輸入に頼らざるを得ませぬが、足元を見られているのか少々高価な金子を要求されまする。もしも、布教を許したことが評判となれば、南蛮の商人を安心させ硝石を持って大勢集まることになりませぬでしょうか」
「つまり、硝石が値崩れして、鉄砲の配備がより進むわけか」
「ご慧眼にございます」
「ただなあ……」
それでもやはり、日新斎は南蛮の教えに難色を示した。
「領内において仏教徒と南蛮宗の信徒同士の諍いの種にならぬか」
「無論、父上の御憂慮もよく分かりまする。そこで――」
と言って、貴久は膝を打つ。
「まずは布教を許しましょう。ただし五年あまりの時限を設けまする。そこで我らの期待する通りの結果となれば引き続き布教を許し、もし叶わぬようであれば、これを禁じる」
貴久の現実的な提案に日新斎は逡巡したが、しかし心を決めた。
「わしも齢五十八になり、後見を気取って領内で気張るよりも、三州太守たるお主に全て任せようと思っていたところだ。ここはお主に譲って任せるとしよう」
こうしてザビエルの来訪は功を奏して、島津家領内でのキリスト教の布教が始まった。
もちろんザビエルは日本語を喋れなかったため、ヤジロウがそばに立って言葉を訳しながら布教活動を進めた。
また、ザビエルを手厚くもてなした新納右衛門佐又五郎康久は南蛮の教えに感銘を受けた。
貴久は康久や夫人、家臣含めて十七名ほどがキリスト教に改宗したという報告を耳にした。
天文十九年(一五五〇年)
この年、日新斎は貴久に相談した通り、後見役としても身を引くと、加世田で隠居することを宣言した。
また、その翌年には常潤院という寺を作って出家した。
そして島津の名を捨て「愚谷軒日新斎」と名を改めると、家臣団の育成に専念するようになる。
またこの年、政務拠点として分割されていた一宇治城と清水城の二城体制の不便さを解消するために、清水城からやや南へ約二キロの場所に内城の館を築いて移った。
ただし、これはあくまで政務の拠点である館を置いた平城であって、戦時非常下における機能は一切持ちあわせていなかった。
そのため東の断崖絶壁に囲まれた多賀山に城を築いて後詰めに定めた。
その後もザビエルは鹿児島でキリスト教の教えを広めることに熱心だった。
しかし二年もしないうちに貴久より布教の禁止と鹿児島を離れるように命じられる。
ザビエルはその命の意図を理解できずに頻りに肩をすくめたが、貴久の命令は変わらず、大いに嘆きながら鹿児島を去っていった。
貴久がキリスト教の布教を禁じた理由はいくつかある。
一つは思っていたほど硝石の輸入が進まず、値下がりしなかったこと。
もう一つは既存の宗教派閥からの強い反発だった。特に強い反発を受けたのが仏教系の宗派である。
僧徒を奪われて寺社が困窮する恐れがある。そうなれば領内が乱れて本末転倒になる、と強く訴えられた。
また日新斎のみならず、領内家臣にも熱心な仏教徒が多くいた。
そこに南蛮の得体のしれない異分子が入り込む、という恐怖の幻想に囚われた。
貴久もさすがに領内に数多ある寺社衆総員の訴えとあっては無視することもできない。
領内の乱れなどの影響を危惧して、布教を禁じた次第である。
ただし、改宗した新納康久を始め、キリスト教の信仰自体を禁止しなかったのは、人民の安寧を願った貴久なりの配慮と言えるだろう。
こうして薩摩国はイエスズ・キリストの教えが初めて伝わった地として、後の世にも広く知れわたる事になる。
だが、貴久の先を見据えた実利的な判断により決して教えが広まることはなかった。
なお、この南蛮の教えにかかる騒動は多く記録されたが、後にその全てが破却された。
肥前国島原の地で南蛮宗徒による乱が起きた事が原因である。
時の権力者に非ぬ疑いを持たれることを恐れたが故の苦渋の決断であったとも伝わるが、貴重な記録が失われたことは真に残念至極である。
それから幾年か平穏の時が過ぎた。
その間は領内経営と三州平定のための軍勢強化に務める日々だった。
天文二十二年(一五五三年)七月二十二日
出水に逼塞していた実久が死去。享年四十二。
聞く所によれば、閏一月になって前年貴久が補任された修理大夫の不当性を抗議するべく上洛したという。
そして足利幕府十三代将軍足利義輝に謁見したが、その帰途で発病して昏倒。
病の状態と相談しながらようやく七月に帰り着いたものの、その二週間後に家臣や嫡男に見守られながら、静かに息を引き取ったという。
その報せを聞いた日新斎と貴久は、涙を流して出水に向けて静かに合掌した。
結局実久は最後まで貴久らの使者と会わなかった。
頑なに反発しつづけた実久の気骨あふれる往年の姿を思い出してのことだった。
その頃の出水薩州家は家臣秘蔵の犬を盗まれたことを発端に渋谷一族の東郷氏と泥沼の抗争を繰り広げていた。
実久亡きあと、家督を継いだ島津薩摩守三郎太郎義虎は、この時十七歳。
情勢を読むに長けた賢い人だった。
父から事あるたびに日新斎と貴久の悪口を聞いて育ったにも関わらず、それを鬱陶しく思ったのか、反面教師としたようだ。
友好を呼びかけた日新斎と貴久を快く受け入れ、内城の館に赴き、平伏した。
そして長年の敵対関係を詫びて、父の許しを請うた。また領地替え等いかなる命令にも服従する起請文を差し出し、臣従の姿勢を見せた。
また貴久も義虎の姿勢に深く感謝し、亡き実久公の武勲を褒め称えた。
そして敵対関係となったのはあくまで時代の不幸である、と水に流し、出水の領地は引き続き薩州家に任せることを起請文を書き起こして約束した。
この年、薩州家と歴史的な和睦を果たした貴久は、薩摩国平定を進めることを、――すなわち、渋谷一族と蒲生氏の連合に挑むことを決意したのである。
劇中、キリスト教を非難するような風にも書きましたが、当時は未知のものへの恐怖から、或いは既存宗教派閥からはそう思われるだろう、と想像した次第で、ただの物語です。
日本国憲法二十条に定められている通り、信教の自由は最大限保証されるべきと考えます。