第二十話 大隅進出
三州平定に向けて地盤を固めていく中、また一つ貴久にため息をつかせる謀叛が起きた。
それは国分清水城に居を構える本田紀伊守薫親の謀反である。
その援軍には日向国真幸院の北原又八郎兼守の姿もあった。
謀反の報せは、貴久のみならず島津家に仕える家臣団をも大いに驚かせた。
本田氏は、大永六年(一五二六年)に貴久が宗家を継ぐ前から島津家に使えていた老中だったし、北原氏は天文十一年(一五四二年)にかけての加治木城守、肝付越前守兼演の討伐戦に援軍として加勢して縁があったからだ。
しかし前兆がなかったわけではない。
そもそも本田氏は、初代島津(惟宗)忠久が鎌倉に在って、三州の代官として派遣したのが始まりである。
鎌倉御家人として働いた守護島津家に代わって三州で働いた本田氏には、代々守護の代官としての強い誇りがあった。
本田薫親は薩州家との抗争に勝利した貴久と日新斎に表向きは従う姿勢は見せていたが、やはり室町幕府の守護体制下での支配から、なかなか思考を変えることができなかった。
武力を以って三州の支配を進める島津家にあって、それまで守護代として力を尽くしてきた自らの立場が失われることを恐れた。
その結果として現れた行動が、薫親の奇行であった。
先ずひとつ。
国分は霊峰霧島の南の麓にあり、大隅正八幡宮という島津家が崇め奉る神社があった。
大隅正八幡宮は社格の高い神社で、火遠理命(山幸彦)と豊玉姫を主祭神としていたため、皇祖神に繋がる神社として周囲の地域住民からも信奉を集める神社だった。
薫親は、国分清水城の普請資材を調達するために大隅正八幡宮の社殿を襲撃して解体すると、これを収奪した。
また、神宮が所蔵していた宝物さえも奪い取っていった。
これに怒ったのは日新斎である。
しかし薫親が伏して詫び、宝物を返却して異心のないことを必死に弁明すると、仏道に身を捧げた日新斎はこれを赦した。
そしてもう一つ。
本田氏の内部で内紛があった。
領内経営においても奇行が目立ち始め、薫は家臣の行いが悪い、と言いがかりを付けると咎めて斬って捨てた。
これに反発した家臣団は薫親に叛いて国分清水城の支城の一つである姫木城にこもった。
そして日新斎と貴久に連絡を取り、鹿児島の兵を姫木城に入れさせた。
これを見た薫親は姫木城に攻撃を始め、その報せを受けた貴久と日新斎は、薫親の居城、国分清水城に攻め入ることを決定したのだった。
この国分征伐の軍勢は貴久に代わって後見の日新斎が主導的に動いた。
天文十七年(一五四八年)三月
伊集院忠朗を大将に、次男、右馬頭忠将と樺山安芸守善久を副将に据え、大軍をもって薫親が籠る清水城に攻め入った。
薫親も清水城から討って出て奇襲をかけて島津軍も一時退却するなど、一進一退の攻防が続いたが、島津軍の多勢の前に次第に押し込まれていった。
同年五月
本田氏討伐軍の攻勢は更に続き、薫親が兵を引いて国分清水城に立て籠もった頃のことである。
怒りにまかせて進軍した日新斎も少し頭が冷えたのか大隅正八幡宮で祈祷ささげる日々を過ごした。
そして北郷氏らと協議の上で神慮に委ねると、薫親に国分清水城下の地を与えて許すことに決めた。
薫親はこれ幸いとばかりに頭を下げて許しを請うたので、日新斎もこれを赦した。
しかし薫親は表向きの姿勢とは裏腹に、策を巡らせている。
これが判明したのは、島津軍が国分清水城の包囲を解いて、撤退するときだった。
神力坊が本田氏の手の者と思われる遺骸を担いで、日新斎の前に現れたのだ。
「お待ちあれ御屋形様。この退軍は謀略にございます」
「どうした神力坊、何事だ」
用心深い日新斎は軍を引かせてからもしばらくの間、神力坊を薫親の城の周りに潜ませた。
そして怪しい動きがあれば捕らえるように命じていたのだった。
「こやつは本田が城より放たれた使いの者です。行く手を阻んで懐を改めようとした所、手前に襲いかかって参りましたので我が剛力にてねじ伏せました」
「流石だな」
事も無げに言い放つ神力坊の精強さに日新斎が目を細める。
「それがこれです」
そう言って手渡された書状を読んで日新斎の顔つきが見る見る赤くなった。
『読み通り、日新公は神慮とやらに頼って、本田を許した。
島津の軍勢が退くので、かねての打ち合わせに従って、その背中を北原、渋谷、肝付越前守の軍勢で攻めかかろうではないか。その様子を見て本田もすぐさま追い討ちをかけよう。
本田紀伊守薫親』
薫親の花押つきの書状を握りつぶした日新斎の声はかすかに震えていた。
「『仏の顔も三度まで』とはよく言ったものよの……」
度重なる薫親の叛意を知って、仏道に身を捧げた日新斎であってもこれを赦さなかった。
行軍が停止し、何事かと様子を伺いにきた忠将と善久を鬼の形相で日新斎は睨みつけた。
「忠将っ!!!善久っ!!!!!」
「ひゃいっ!?」「は、はいっ!」
諱を呼ばれて凍りつく二人。
「本田薫親めを神慮によって許そうとしたが、薫親はこれを侮辱した……! やつが謀って後ろより攻めかかろうとしているっ……!」
「は、はあ」
「手段は問わぬ! 我が前にその首を持ってまいれっ……!!」
「はっ」
島津軍は転身すると、再び国分清水城を包囲して攻めかかった。
薫親も島津軍退陣の背を襲いかかる計略が漏れたことを悟り、必死の守りを敷いた。
文字通り両軍必死の攻防である。
「攻めろ攻めろー!!臆するなよ!!ここで薫親を討たねば俺が父上に殺されるっ!」
「ひいい」
しかし、姫木城、国分清水城は山城の堅城で、それから数ヶ月の間よく防いだ。
天文十七年(一五四八年)十月
忠将必死の攻めに叶わず国分清水城ついに落城。
陥落した国分清水城に忠将、善久が先陣を切って薫親を探索したが見つからない。
その中で、書院に突入した善久が、柱に刻み込まれた字を見つけた。
立馴し 槙の柱もわすれなよ 帰り来てあふ 世あるやと
怒れる日新斎を嘲笑う、薫親意地の一筆だった。
しかしもちろんこれで収まらないのが善久である。
すぐさま紙と筆を用意して、返歌を書きつけた。
流れ出て 浮ふ瀬もなき水茎の あとはかなくも 瀬をくかな
そして書を矢に括りつけると、北に向かって打ち放った。
この後、本田薫親、親兼は庄内へ出奔し、北郷氏を頼ったようだ、と日新斎の元に伝わったが、結局いくら探索させてもその行方を知ることができなかった。
なお、この城攻めで武功随一だった忠将が国分清水城一円の領主となって入城した。
これによって一度は失った大隅進出の拠点を、貴久は再び手に入れた。
しかしその翌年、本田氏と謀って襲おうとしていたことが発覚した肝付越前守が軍勢を起こし、二年続けて乱が勃発する事態になる。
なお、この国分清水城本田薫親攻めには後日談がある。
元服したものの戦に参加しなかった貴久の兄弟たちは、善久にせがんで軍功話を聞かせてもらった。
和歌を好んだ忠良は、最後の和歌のやり取りを聞いて大変感心し、善久に褒美を与えた。