第十九話 戦国大名島津家
薩摩半島と大隅半島を分かつ鹿児島湾。その湾に流れ込む川は数知れずある。その中でもよく知られているのは、鹿児島の街を横切る甲突川である。
この川に沿って約十八キロほど山奥まで進んで行くと、いずれ油須木川と呼ばれる川と分岐する。
郡山城という城はこの二つの川の分岐に築かれた山城で、川を水堀とした天然の要害であった。
この城を守るのは、入来院石見守又五郎重朝。渋谷一族の一派、入来院家十二代当主である。
貴久の継室は入来院十一代、重聡の娘であり、重朝の妹なので、貴久と重朝は義兄弟の関係である。
重朝は父同様に貴久・日新斎の薩州反攻作戦に協力的で、天文八年(一五三九年)の市来城攻めの軍勢に加わって武功を上げている。
先代重聡が郡山城を手に入れたのは天文六年(一五三七年)のことだった。
だが功があって貴久や日新斎に与えられたものではなく、先代勝久から拝領されたものである。
しかしその時、先代勝久はすでに薩州実久に鹿児島を追われ実質的に守護職を失っていた。
当時の勝久は実久に追われて渋谷一族に寄食している頃である。勝久は実久に対抗する援軍を取り付けるために必死の思いだった。
それ故「助勢すれば郡山城を与える」とは言わば空手形のようなものであった。
ただ、重聡にとってはこれは紛れも無く三州守護島津家より拝領した地であったため、堂々と入城した。
この郡山城のある地は、鹿児島清水城から見るとシラス台地の谷間を抜けてかなり山奥にある所で、直轄支配地の北西の端である。
しかし川内川流域を支配下に置く渋谷一族から郡山城を見るとその意味合いが変わってくる。
郡山は拠点からを陸路南下して八重山、花尾山といった山地を抜けた先にある。
ここを押さえていることは将来的に鹿児島進出の橋頭堡にもなる、重要な戦略拠点という意味を持っていた。
貴久と日新斎は薩州実久との戦いを経て、室町幕府が保証する守護下における統治機構は、もはや何の意味も成さないもの、と見切りをつけていた。
それ故、有無を言わさぬ武力を以って国を支配し、人心に安寧をもたらすことを考えた。
薩摩国の完全支配を進める二人にとって、郡山城を支配するのが歴史的に敵対的関係にある渋谷一族に押さえられる重大性を認識していた。
それが血縁関係にある親派・入来院氏とは言えども、例外ではなかった。
しかし重聡が郡山城に入城した天文六年(一五三七年)は、実久への反攻作戦を始めていた。
当時、反薩州で結託する渋谷一族との関係悪化は何としても避けたい事情があったため、あえて咎めずに見逃そう、という結論になっていた。
しかし、実久との戦いに勝利し薩摩国の国主の座についた貴久にとって、郡山城に入来院重朝が存在していることは、いよいよ都合が悪くなっていた。
さらに入来院氏にとって不幸だったのは、天文十年(一五四一年)十一月に起きた生別府城樺山善久襲撃事件である。
この事件は分家を中心とした十三氏連名による反貴久連合だった。しかし生別府城の攻め手の主力を蒲生氏と渋谷一族が務めている。
そのことから渋谷一族の一派である入来院氏にも謀叛の疑いあり、という風聞が広まるには十分すぎる事情があった。
風聞が広まり、貴久が重朝の出仕を停止させたのは天文十二年(一五四四年)のことである。
「いや、これはどうしたというのだ! 我に謀反の意志はあらず! 義弟は我の忠孝の姿勢が見えていないのか!?」
入来院重朝はその措置に大いに驚いて貴久に弁明の機会を与えてくれるように嘆願した。
その願いがようやく届いたのは、翌年の八月になってからのことである。
天文十三年(一五四五年)八月
清水城で上座に貴久、そして下座に入来院重朝が対面した。
「ご苦労である」
貴久は視線だけ下にさげて、その訪問者を出迎えた。
重朝は内心
(自分よりも年下のくせに)
と思いもしたが、力関係は圧倒的に島津家が上であることは承知していたので頭を下げてみせた。
「この度、拙者に謀反の疑いがあるとかいう、実に下らん身に覚えのない風聞が出回っている。さらには義弟より出仕停止の命が下るとはいかなることかと思い、こうして参った次第である」
「さようか。……で?」
貴久の冷たい言葉に、重朝は奇妙に思った。
(この義弟の態度はなんなのだ? 薩州との戦いで共に槍を奮い、共に躍進しようと笑いあったあれは、なんだったのだ?)
「いや、であるから……」
重朝は困惑しつつ、言葉を続ける。
「我は薩州との抗争では共に戦い、武功もあげた。そして鹿児島に入った後も、我ら肩を組んで三州平定に協力しようと語らったではないか」
「……」
「あれか? 生別府に我の血族が攻め入ったことを咎めているのか?」
貴久は応えず、その弁明に耳を傾ける素振りをしながら、なお口を開かない。
「あの戦では確かに我が血族の一派が加勢したようだが、我は何も知らされておらなんだ。我に異心はないぞ」
「……」
「一体全体、我の何を疑っているというのだ? 我の心に変わりはない! これからも郡山に在って、お主と共に三州に平穏をもたらそうではないか」
貴久はそこまで聞いて腕組みした。
遠くを見つめるような振りをしたが、その心うちは既に決まっていた。
「弁明は以上でよろしいか」
「は!?」
重朝は苛立ちを隠そうとせず、眉間にしわを寄せて貴久を睨みつける。
「決定に変更無し。さらに郡山城は召し上げとする」
「……な!?」
重朝は驚いて腰を浮かせて、半歩前に出た。
その様子を横で見ていた貴久の家老衆から鋭い言葉が刺さる。
「殿の沙汰ですぞ! お控えなされ!」
伊集院忠朗の嫡男、筆頭家老の忠蒼であった。
貴久が正式に薩摩国国主の座に就くにあたって忠朗は隠居し、家督を譲られている。
「控える!? ……沙汰!?」
重朝はそれまで貴久とは一度も経験したことのないやり取りに戸惑い、怒りを露わにする。
「我に心変わりはないと申しておろう! さては心変わりしたのはお主である!」
「太守公の御前である!! 控えられよ!!」
さらに強い口調で諌められ、このままで刃傷沙汰になりかねないと感じた重朝は半歩後ろに下がり、腰を落とした。
「郡山城召し上げとは、では拙者はどちらに移れと?」
「元の入来院の地に、そなたの領地も残っておろう」
「……お主、何を言っているか分かっておろうな」
「幸いにも頭も身体も壮健である」
怒りに拳を震わせながら、重朝は頭を下げて、何も言わずに清水城を後にした。
「掃部助」
「は」
貴久はそれを見届けてから、伊集院掃部助忠蒼に命じた。
「戦の支度をいたせ」
「承知仕りました」
入来院重朝の態度や主張は、以前までならごく当たり前のことである。
しかし今の貴久の心を納得させるものではなかった。
何故なら、貴久が求めていたのは、領地もその命も、何もかも全て差し出した絶対的な服従であり、守護大名時代の一定の独立性を保った協力関係ではなかったからだ。
日新斎に領地も命も差し出して、無実の罪で切腹させられたものの、結果的に信頼を勝ち取った山田有親の氏族がその代表的な例だった。
貴久が求めていたことを見抜くことが出来なかった重朝は、時代の流れを読みきれていなかった。
貴久は弁明を聞き入れず、郡山城の召し上げを命じたが、当然ながら重朝はこれに反発した。
郡山城に籠城すると合戦に至った。
だが圧倒的な貴久の軍勢の前に、あっけなく落城し重朝は北へ逃れた。
これは天文十四年(一五四五年)八月八日のことであった。
入来院氏の郡山仕置によって、貴久と血縁関係で結ばれていた渋谷一族とは完全に袂を分かつことになった。
渋谷一族との対決は三州平定における大きな障壁となり、薩摩国、大隅国の各地で渋谷一族、そしてこれと同盟を結ぶ蒲生氏との抗争が激化していくことになるが、これは後の話である。
ややもすると非情で強引な印象にも受け取れる、入来院氏仕置一連の貴久の言動。
だがこの行動の裏には時を遡ること五ヶ月前になる天文十四年(一五四五年)の三月、飫肥の豊州家、都之城の北郷氏による臣従の礼があった。
豊州家が支配する飫肥は日向伊東氏から絶えることなく攻められており、さらには志布志を欲する肝付氏からも攻められることがあった。
豊州家島津忠隅に至っては、天文十四年(一五四五年)の二月二十九日に、もはや守る兵なしと諦めて飫肥城の支城、鬼ヶ城から退去し、伊東氏は苦労することなくこれを占拠する事態に陥っていた。
相次ぐ伊東氏との争いで完全に疲弊しきった豊州家島津忠広は、自身が病気がちで嫡男に恵まれず、豊州家断絶の危機感を抱いた。
そして都之城の北郷忠相と談合すると、両氏揃って貴久への臣従を決めた。
天文十四年(一五四五年)三月十三日。
当時政務の拠点だった伊集院一宇治城に北郷忠相と島津豊後守忠広は揃って訪れた。
そして家老衆に服従することを相談すると、これを受け入れられた。
同年三月十八日。
忠広と忠相は貴久の前に平伏し、貴久が三州太守の任にあることを認めた。
また、貴久の島津家三州支配のためにいかなる協力も惜しまないことや、領地換えなどいかなる命令にも背かないことを起請文に書き起こして差し出し、絶対服従を誓った。
あくまで宗家の指揮下とは一線を引いた独立分家、という姿勢をとっていた北郷氏と豊州家の服従は、守護大名時代では絶対にあり得ないことである。
また、ちょうどこの頃には京の公卿、町資将が薩摩へ下向しており、貴久と面会して衣服を賜り、薩摩国平穏を祝っていた。
これは朝廷が貴久を薩摩国国主であると追認した、ということになり、この事実が三州の各領主の知ることになっていたことが北郷氏と豊州家の貴久への服従という大きな転機をもたらしていた。
日新斎と貴久にとっては、これによって戦国乱世における治世に自信を深める結果となり、戦国大名島津家が確立された瞬間でもあった。
その翌年には戦国大名島津家の躍進を支える若者二人が元服の時を迎える。
元服とは、大人の仲間入りを果たしたことを周囲の大人が認める儀式である。
その日を境に、それまで着ていた子供の衣服や、髪の結い方を、大人が着るそれに改めた。
さらに太刀と脇差し、弓矢、鎧甲冑一式、馬の鞍を与えられる。
そして周りの大人達は衣服の着方、太刀と脇差しの差し方、大人としての振る舞いを教えこむ。
さらに武家によっては切腹の作法を教えることもあるらしい。
また代表した大人「烏帽子親」が頭に冠を載せる「加冠」の儀式を済ませ、酒の嗜み始めでもある「式三献」の儀式を済ませて、元服の儀式は終わり、晴れて大人の仲間入りとなる。
なお、催事を指す言葉である冠婚葬祭の「冠」とは、成人であることを意味し、この元服の際に被せられる冠に由来している。
閑話休題。
天文十五年(一五四六年)
島津貴久の嫡男、元服して又三郎忠良。
島津貴久の次男、元服して又四郎忠平。
兄弟は後に義久、義弘と名を改め、島津家十六代、十七代となる二人である。
「終わったようだ、出てきたぞ」
忠将と尚久、日新斎の二人の兄弟が、元服式を済ませた二人を出迎えるために館の外で待っていた。
「叔父貴!」
忠平が嬉しそうに忠将と尚久の元に足を早める。
「おいおい、そう気を逸るのはまるで子供のような所作だぞ。又三郎を見てみろ」
「む」
そう言って忠平は振り返ると、忠良は落ち着いた様子で笑みを浮かべていた。
この時、忠将二十七歳、尚久十六歳
そして貴久の二人の子供は忠良十四歳、忠平十二歳である。
いずれも日新斎が熱心に教育したが、特に愛情を注がれたのは貴久の嫡男であった。
日新斎は自らの初名を孫の諱に与えていることからもその溺愛ぶりが伺えた。
特に尚久、忠良、忠平の三人は年がそれぞれ近いこともあって、共によく遊んで兄弟のように仲が良かった。
しかしこの三人、それぞれ性格が異なっている。
忠良は幼い頃から貴久の次代当主として特別扱いされてきた。
日新斎は忠良を自らの分身とせんばかりの勢いで熱心に教育し、また溺愛したが、決して甘やかさなかった。
我儘を許されず、口答えを許されず、日頃の振る舞いから厳しく躾けられ、大人の前では口数の少ない大人しい性格をしていた。
次男の忠平は自由奔放でやんちゃな性格だった。
しかし共に育った尚久、忠良から数えると三番目という立場である。
さらに二歳下に弟も居たため、人の気持を察することができる優しい性格を持ちあわせていた。
また、性格が似ている叔父の忠将に特によく懐いた。
一方、貴久の末弟である尚久は日新斎の三男坊であったが、自分よりも二つ下の忠良に愛情が注がれる様子を見て子供心に嫉妬した。
また戦続きで寂しい想いをすることが多かった。
そして日新斎からも、年下の甥は次代の当主であり、これに仕えて粉骨砕身すべし、と徹底的に教えこまれていた。
そのため大変な甘えん坊で七歳の頃から
「一人は嫌だ、兄や父と一緒がいい、戦場に連れて行け」
と泣いてゴネる所があったのは、先の物語の通りである。
ただ、貴久の兄弟からすると歳の近い兄貴分という立ち位置であったため、大変面倒見のいいところがあった。
またもう一人、貴久には三男坊がいた。
十歳になろうかという少年が、語らう忠将と忠平を見て寂しそうに見つめていた。
貴久の三男、後に元服して又六郎歳久と名乗り、これも島津家の躍進を影から支える稀代の智将である。
「お前も二年後かそこらには大人の仲間入りだ。そんな顔をするものではない」
尚久は三男坊の肩を抱いて慰め、三男坊も優しい兄貴分の気遣いに嬉しく思い、力強く頷いてにこりと笑って頷く。
「俺は叔父貴の副将になって武功をあげるのだ!」
元服式の緊張から解き放たれた忠平が木切れを拾い上げ、槍に見立てて得意気に振り回す。
その姿に忠将も嬉しくなった。
「よし、では又四郎よ、あそこに成る梅の木を大いに攻め立て実をむしり取れ!」
「おお!」
そう言って忠平は実が膨らみつつあった梅の木にめがけて駆け寄る。
その様子を見て忠良は破顔させると、尚久と弟の方を振り向いた。
「叔父上! あそこにお祖父様が植えた梅の実を攻め取ろうとしておる不届き者がおる! これは誅せねば!」
「よしきた!」
尚久はその号令に快く返事すると、三男坊の手を引いて忠平を羽交い締めにする。
「うわ、叔父上何をする! 叔父貴、大変だ! 敵の伏兵だ!」
「又四郎こらえろ! 今応援に行くぞ!」
そう言っても忠将は囃し立てるだけで何もしない。
その様子をみてケラケラと笑う弟に向かって忠良が命じる。
「敵方の大将はそこのチョロ髭だ! 今だ! 鉄砲を撃ちかけよ!」
しかし鉄砲に代わるものが見当たらなかったので、落ちていた梅の実を拾いあげると
「ばーん! ばーん!」
と声に出して忠将に投げつけ、忠将も
「やられたー!」
と大げさに倒れる素振りをする。
若者たちの合戦ごっこの様子を見た大人たちからも、ひときわ大きな笑い声が起きた。
その様子を目を細めて遠巻きに眺める日新斎と貴久がいた。
それぞれ五十五歳、三十三歳となっていた。
「ようやく、と言うべきか、まだまだと言うべきか」
貴久は腕を組んで眺める。
「まだまだ、じゃな」
日新斎は言葉とは裏腹に不安は感じていなかった。
(我が一族はかくも健やかに枝葉を広げている)
自らの歩んだ道が決して間違っていなかったことを確信していた。子どもたち、孫たち、そしてそれを見守る大人たちの笑顔がなによりも証拠だった。
これから待ち受ける苦難も、この一族と家臣団が同心すれば必ずや乗り越えられる。
日新斎の胸の内は歓びにあふれていた。
「お主、妾の腹が膨らんでいるそうじゃないか」
「天より授かってございます」
からかう父の言葉に、貴久は照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
この翌年に産まれる貴久四番目の子供は、元服して又七郎家久と名乗る。
後に天下に名を馳せる島津四兄弟が轡を並べる時は、もう少し先のことである。




