第一話 志布志の姫
日ノ本は天照大御神を祖に持つ天皇を頂点に、これに仕える貴族、公家が支配する世の中だった。
人民、土地、その全ては朝廷と公家の所有物であるとされた。
これに異を唱えたのは武士という存在である。
武士は甲冑で身の守りを固め、刀、槍、弓矢を携えた。その武力を以って公家から土地と人民の支配権を奪い取った。
武士はいずれ血族単位でまとまるようになり、武家と呼ばれるようになる。
日ノ本に初めて武家による中央政権を打ち立てたのは平清盛。
仁安二年(一一六七年)の頃である。
その頃から武力抗争が日ノ本中で頻発するようになり、いずれ源頼朝によって相模国は鎌倉の地に政治の拠点が移る事になる。
鎌倉の世になってからしばらくして、日ノ本の西南の果て、薩摩、大隅、日向の三カ国はひとまとめに三州と呼ばれるようになった。
その理由はこの三州の守護大名として、代々一つの武家が支配に及んできたからである。
その武家の名を「島津」と言った。
幾多の混乱と中央政権が変遷した果てに、一つの大乱が巻き起こる。
応仁元年(一四六七年)に勃発した京での争いは全国に波及し、文明九年(一四七七年)の約十年にかけて大いに荒れた。
この物語は、その大乱がひとまず終結を見た頃から始まる。
文明十年(一四七八年)
薩摩半島の山裾の寺に、長門国から一人の学僧が招かれた。
名を桂庵玄樹といい、招いたのは薩摩国、大隅国、日向国の三州の守護大名である島津家第十一代当主、島津忠昌である。
九歳の時に出家した桂庵玄樹は京や豊後で学問を修め、長門国永福寺の住職を務めていた。
だが、四十歳になる応仁元年の頃に長門国の守護大名、大内氏の勘合貿易船に乗って、隣国・明に渡海して儒学を修めた。
約六年後の文明五年(一四七三年)に帰国したが、その頃は乱の最中だった。
修めた学を広めることも叶わず、乱を避けて石見国から長門、豊後、筑後、肥後に歴遊していた。
島津家十一代忠昌は、幼くして出家し源鑑と称していた。
島津家十代当主で父の立久が文明六年(一四七四年)死去し、源鑑は十一歳で還俗し、当主の座を継いだ。
だが世は土地の支配者と支配権を巡って権謀術数が渦巻く不穏な頃である。
忠昌を若輩と見た島津分家衆ら氏族は大いに荒れ、三州各地で島津宗家に対する謀反が相次いだ。
島津宗家はその鎮圧に追われながら、さらに日向の伊東氏、肥後の相良氏からも侵略される事が続いた。
それでも島津分家の一つである新納氏や樺山氏を始め忠義を示す優れた家臣団に支えられ、辛うじて家名と領地を守りぬいていたような状況である。
鎮圧しても鎮圧しても飽きることなく続く島津支族や地頭たちの反乱は忠昌の悩みの種だった。
事実、この頃の島津宗家の直轄領地は薩摩地方の一部と大隅の加治木まで減っていた。
その支配領域は島津家の歴史の中でも、最も衰退している時期だった。
十一代忠昌は十五歳の頃に桂庵玄樹を招いた。
忠昌が招いたその真意は今となっては知る由もない。
忠昌は軍事よりも文学を好み、隣国との交易を推奨し、絵画など文化の発展を重んじたという。
ただの物好きが高じただけに過ぎないかもしれないし、或いは内乱の続く領内を憂い、癒やしを求めたのかもしれない。
また或いは、乱の原因を領内家臣団の教育不足と考えたのかもしれない。
何はともあれ、後に薩南学派と呼ばれる桂庵玄樹による儒学の教えは、後の戦国大名島津家の躍進を支える重大な転機の一つとなる。
『士分にあるものは老若男女問わずこれに必ず習うこと』
島津家十一代当主島津忠昌の命に従い、島津宗家の本拠城である清水城に出仕した家臣団は、城にほど近い島陰寺に集まった。
のちに桂樹院と呼ばれる寺は薩摩国田ノ浦にある寺院で、目の前には鹿児島湾を挟んで桜島を間近に控えた、見晴らしの良い場所に在った。
そこは桂庵玄樹の儒学の講座のために用意されたものだったが、忠昌の期待に反して集まったのは二十数名と決して多くはなかった。
またその集まった人々も当主の命により半ば嫌々ながら参加したのであって、自ら学びに訪れた者は少なく、講座を重ねるごとにやれ用事がある、武芸の習いがある、と言い訳して、途中から講座に出ない者も出てくる始末だった。
その中にあって桂庵玄樹に目に留まる者もいた。
そろそろ元服を迎えようかという、十一歳くらいの口数の少ない若者で、涼やかな目元が印象に残った。
論語の講で「これの意味することは分かりますかな」と問うと、多少言葉を選びながらも真理をつく答えを導くことができた。
また、強い信念の持ち主なのか、また思う所があったのか、朱子学の講座では「なにゆえ先人はかような境地に至ったのだ」と問い、歴史的な経緯も含めて説明しても、納得するまで桂庵玄樹と大いに議論した。
また、もう一人桂庵の目に止まる少女がいた。
年は七歳くらいの幼い少女ではあったが切れ長の目でまっすぐに揃った眉が利発的に見える一方で、笑うと生じるエクボが可愛らしかった。
また、質素なかすりの着物ではあったが、品のある立ち振舞で、よく躾けられていることが伺えた。
座学に出席した大人たちの間でも、将来は美しい姫になるであろう、と大いに評判になった。
幼い姫は朱子学の講では時折あくびを噛み殺すような仕草も垣間見えたが、論語の講になると途端に目をキラキラと輝かせて話に聞き入った。
そして講座が終わって解散となっても桂庵玄樹の元に駆け寄り、より詳しく解説を求めることもあるほど勉強熱心であった。
ある時、この可愛らしい姫を巡って些細な諍いがあった。
「女だてらに学に励んでどうするというのだ。可愛らしい顔をしているのだから、おしろいを塗る練習でもしたらどうか。明の香油でも集めたらどうだ」
幼く美しい姫が悪ガキたちのからかいの的になっていた。
当世、女性の地位は目を覆うばかりに低いもので、氏族の結びつきを高めるための政略結婚の道具の一つとみなされる事がほとんどだった。
その上で後の史料にその名前が残ることは、例え正室であっても稀である。
からかいのネタも「女なのに勉学に励んでも無駄であろうに」というものがほとんどで、幼い姫は涙をこらえるように目を伏せて、唇を噛みしめるように何も言わずに耐えていた。
姫もまた、学に励んだ所で出世の役に立つわけでもなく、自らの意志とは関係なく嫁ぎ先を決められ、輿入れするのであろうことはわかっていたのだ。
しかしその日は少し事情が違った。
いつもは我関せずと言わんばかりに振舞っていた若者が、姫と悪ガキたちの間に割って入り、立ちふさがった。
「その辺にしたらどうだ」
そういって涼やかな目元に苛立ちを隠さずに少年たちを睨みつけた。
悪ガキたちは「何を邪魔するか」と言いかけたが、若者は続けて言い放つ。
「女子が学に励むことは悪いことでもなかろう。世の大乱より十年余。京の大名どもが軍勢を率いて争うことはなくなったと聞くが、この薩摩の治世においても異心を抱く不届き者が後を絶たぬ。乱れた世を生きるためには、女といえども和尚の教えを学べば、その知恵が必要になる時もあろう」
悪ガキたちはなお突っかかろうとした。
だがその若者の正体を悟るや、押し黙り、恨めしそうな顔を残して立ち去った。
「あの……、ありがとうございます」
少女は小さな声でそう頭を垂れてから、若者を見上げた。
若者は可愛らしい少女に目線をやり、口元を緩める。
「気にするな。これからも励むがよい」
そう言って立ち去ろうと踵を返したが、すぐに呼び止められた。
「私は常盤と申します。志布志城主、新納駿河守是久の娘です。」
若者はふと考えるような仕草を見せた後、少女の目をまっすぐに見て言った。
「俺は来年には元服して名を改めるが、虎寿丸という。串間の城の者だ」
そう言って立ち去った。
(串間の? ご家老様の方かしら? それとも……)
常盤の父、志布志城主である是久からは
「忠義の心は普段の心の在りようから顕れるものだ」
と躾けられていた。
そのため
(畏れ多いことをしてしまったかもしれない)
と少女ながら後悔したが、それとは裏腹に温かい気持ちが小さな胸にこみ上げた。
虎寿丸の背中が傾きかけた太陽に照らされた多賀山の向こうに遠ざかっていく。
それを見送りながら、常磐は胸に手を添えて高鳴る気持ちを大事そうに仕舞いこんだ。
その日から、座学において虎寿丸と常盤の席は隣同士になった。
相変わらず虎寿丸の表情は涼やかで、常盤は勉強熱心だった。
だが桂庵玄樹は見逃さなかった。
常盤が虎寿丸の横顔を時折見上げるとき、頬がやや染まっているのを。
串間と志布志は山を一つ越えて八里の距離にあり、言わば隣同士ということもあり話のウマがあったようである。
二人は故郷について言葉を交わすほどに親しくなった。
だが、鹿児島清水城の出仕が終わると、それぞれの故郷に戻り、以来、二人が会う機会はなかった。