第十七話 太守の座の行方
天文十年(一五四一年)秋
貴久は清水城に入って着々と三州平定の足場を固めていく中、清水城を見下ろす吉野台地に青年とそのお付の小姓が二人、太刀持ちが一人。
「ここから眺める清水城は随分と久しぶりだ」
額に浮かんだ汗を手ぬぐいで拭って、眼下の城下町を覗き込む。
その青年は歳は三十ばかり。ただ、鼻から口に伸びる深いほうれい線や二、三本目立つ白髪の頭髪が、三十にしては老けて見える印象を抱かせた。
「殿、清水城より返事がありました」
使いに出していた小姓が一人、汗だくになりながら一行が隠れていた山林に姿を表した。
「おお。して、なんと」
「『大手口よりお入りください』とのことです」
「大手口からか。相州殿はよく分かっているようだ」
青年は満足そうに頷き、どうやら自らに刃が向かないことに安心して、ようやく枯れ葉舞う吉野台地から清水城に繋がる崖道を降りていった。
「随分とご無沙汰でございましたな」
貴久が先代勝久との面会の場として用意したのは清水城本丸の館にある謁見の間である。
貴久はあえて上座に座らず、また勝久も遠慮して貴久と同列の位置に座した。
そこには貴久とその家老衆が数人、勝久の近習が一人が居た。
「いや、再び鹿児島の地を踏めるとは思いもせなんだ」
貴久は表向きは勝久の帰還を慶び、勝久も懐かしそうに振る舞った。
「余はすっかりこの通りだ。供回りもおらず北郷殿に頼る一方だ」
勝久は冗談のつもりで言った言葉に自ら一人笑い、白けた空気が漂う。
「先ごろ、余にも嫡男が産まれてな。五歳になろうかという頃だ。将来は我が跡目を継がせようかと思うておる」
「左様でございましたか。それは何よりでございます」
「お主にも三人男子が恵まれていると聞いておるが、様子はいかがか」
「ええ、父上が随分と可愛がっております」
相槌を打つばかりの貴久の姿勢にしびれを切らした勝久がついに本題に触れた。
「相州殿には薩州めを追い払うために苦労をかけたが、余もこうして鹿児島に戻ってこれた。余も心を改めて、三州を取り仕切ろうかと存じる。引き続き、相州殿も宗家に力を尽くせるように取り計ろう」
「……」
貴久は何も答えられなかった。
薩州家との戦いに費やした十三年の苦労が眼の前に座する愚者の言葉に踏みにじられ、問答無用で斬り殺したい衝動がムクリと持ち上がる。
しかしこの面会の前に打ち合わせしていた日新斎の言葉を思い出し、なんとか踏みとどまれていた。
数週間前、田布施亀ヶ城にて。
貴久が清水城に入る前に日新斎と家老衆はこの状況を想定していた。
「守護職はもはや意味なさないものと言い張れるとして、宗家の跡目については養子縁組が無かったことにされている以上、先代こそが島津宗家で、我らはただの分家であると言い張れる道理が残っている」
「……歯がゆいですな」
貴久は腕組みして顔をしかめた。
「だが、その道理では三州は治められぬ、というのは当家ばかりか分家衆も心得ているはずだ」
「つまり、養子縁組の解消こそがなかったことにする、と」
「そうだ。だが、当家が公然と突き放してはその道理が通ってしまう目が出てきてしまう」
日新斎は鋭い目つきで遠くを見つめた。
「先代に大人しく引き下がってもらう役目は、現在庇護下にある分家衆に担ってもらう」
「北郷殿ですか」
ぎょっとした表情で思わず確かめるように口にしたのは伊集院忠朗である。
「北郷殿にはこちらで手を尽くすゆえ、先代の処置は又三郎に任せる。物事の筋道がしっかりと通るまで、一時は先代を鹿児島に置いて執政に据えることもあろうが、堪えろよ」
日新斎はそこまで言って言葉を区切った。
しかし貴久はこれから己の身に振りかかるであろう苦労を想像して、なお顔をしかめたままだった。
日新斎はその様子を見て、慰めるように言葉を続ける。
「三州に泰平をもたらすは神仏が当家に課した役目だと心得る。先代の道理を無理筋として諌めるは大望の前の些事と思え」
「はっ」
貴久はようやく頷いて、亀ヶ城を後にした。
再び、清水城。
貴久は葛藤を抑えこむように静かにこぶしを震わせて、ゆっくりと息を吸い、邪念を振り払うようにまたゆっくりと息を吐いた。
桜島が噴火したのであろうか。
灰の焼ける匂いが清水城まで届いていて、なんとなく落ち着いた。
「畏まってございます。しかし今は長旅の疲れもございましょう。ゆるり風呂にでも入ってから執政にかかりくださいませ」
殊更穏やかに、貴久は笑みを浮かべて先代と視線を交わした。
「そうしよう」
勝久は満足そうな笑みを浮かべて、その日の面会を終えた。
まだ二十七歳と若い貴久が疲れ果てて老けこんだ様子で茶をすすっている所に、伊集院忠朗ら家老衆と今後について相談していた。
「堪忍でございますぞ、殿」
「真にな」
不機嫌そうに貴久は茶碗に口をつける。
「樺山、頴娃、喜入、吉利、山田、他当家の意志が及ぶ家には先代の申し渡しは一時の迷い事とするように、とよく言って聞かせております。いずれも当家と心が通じておりますので問題は起きませぬ」
「北郷殿は?」
「大殿御自ら都之城に出向いております」
貴久は首をすくめておどけてみせる。
「早いな」
「右馬頭殿も同行しておりますので、問題は起きませぬ」
「又四郎もか。荒事にならぬとよいがな」
貴久は自由奔放な性格の弟の振る舞いを思い出して微笑み、機嫌を直すと、吉報を待つのだった。
ちなみに、貴久が守護を自称して島津宗家が代々名乗ってきた陸奥守を称するようになって、忠将も右馬頭を名乗るようになっている。
日向国都之城。
ここに本拠を置く北郷氏は島津家4代当主忠宗の頃に分かれた古い分家である。
島津四代忠宗の子資忠は、鎌倉幕府の世が終わった後に発生した南北朝の争いの時、北朝方に属して功があった。
その時の権力者より都之城一帯を与えられたことが北郷氏の起こりである。
また、飫肥に入っていた豊州島津家も同様であるが、北郷氏と豊州家は島津分家でありながら、幕府からは宗家と家格同等と見られていた。
そのため、宗家の介入を許さない、相当な独立性を持った家だった。
さらに都之城一帯は薩摩、大隅、日向にまたがる島津荘と呼ばれる大荘園が最初に興った場所とも伝わり、その地名が鎌倉以来の名家の名を冠するとあっては、都之城を領する北郷氏の存在感は分家衆でも随一とも言えた。
そのことから、北郷氏は宗家に従う分家ではなく、宗家に協力する分家という性格が強く、島津分家衆の集まりにおいても強い発言力を持っていた。
実久が分家ながら守護職の任を得たのも、北郷氏と豊州家が賛成した影響が強かった。
またそれ故に、先代勝久も北郷氏を頼っていた背景がある。
「相州の大殿自ら遠路遥々ご苦労であったな。まま、諸事云々は抜きにして、存分にくつろいでくれ」
都城の本丸で、北郷氏八代当主左衛門尉忠相と日新斎は対面していた。
北郷忠相五十五歳、島津日新斎五十歳。
いずれも初老にさしかかろうかという年頃で、頭髪には白髪が大半を占めて、頬や額に刻まれた皺の数と深さは、それまでの苦労をよく物語っていた。
「いや、ここに来るのは初めてでございましたが、都之城はよい所ですな。霊峰霧島を西に望み、地平の彼方まで田畑がよく整っておりまする」
忠相は日新斎よりも年上であったが、この年にもなると多少の年齢差は気にならなくなってくるものである。その口調は気安く、会話も弾む。
「剣峰高千穂は薩摩より見える姿と裏表が違うと、こうも見え方が変わるとは、なかなか面白い。頂上には天孫降臨の証があると聞いておりますが、真でしょうや」
「いや、それは真よ。確かに頂上には逆鉾を祀る社殿があるのだ」
「なんと、それは良いことを聞きました。いずれこの目にしたいものです」
世間話もそこそこに、北郷忠相は軽く咳払いをした。
「して、此度相州殿自ら参られるとは、先代殿のことでござろうな」
「左様にございます」
忠相は微かに笑みを浮かべて、人の良さそうな表情を見せる男を見据えた。
「守護職については当家としては、この際とやかく言わぬつもりだ。薩州の若造は好かぬ奴であったが、宗家が揉めて存在しなくなっては困るし、儂が自ら鹿児島まで出張るわけにもいかぬ故、当面は守護職を任せるのがよいと豊州殿とも談合した」
「左様でございましたか」
「だが先代はあのように健在である故、すまぬが面倒をみてくれるか」
北郷忠相はしたたかだった。
薩摩国の大部分を手に入れた日新斎と貴久の力を認めざるを得なかったが、宗家に成り代わって権勢を振るい分家の領地に干渉されることを嫌った。
そしてまた、先代勝久を無能の愚者と見下していたため、それを利用することを思いついた。
薩州が出水に逼塞し、相州が鹿児島を押さえたと見るや、勝久に
「宗家が守護職を得るのは道理であるから、相州の後見を得て、存分に守護の任を振るえばよろしかろう」
と入れ知恵をして、鹿児島の貴久の元に送り込んだのだった。
仏門に帰して慈悲深いと評判のいい日新斎であれば、道理が通る話でもある勝久の後見を断ることができないと見込んでいた。
そして無能な勝久の無理難題を面倒を見させて、相州家の力を削ごうと考えていたのだ。
これは無理筋を通す強引さを持つ薩州には通じないが、日新斎であればこそ、と人を見た上での忠相の謀略である。
たしかに日新斎は断らない、断れなかっただろう。
十三年前のままであれば。
「……」
日新斎は答えず、ふと考えこむ素振りを見せた。
忠相は日新斎が了解するだろうと目論んで、その答えを待っている。
「話は変わりますが、伊東殿は相変わらずのようですな」
「うん? まあ豊州殿とも頭を悩ませておる」
「当家は拙者の娘が大隅に嫁ぎ、大隅からも倅の嫁に迎えております。ただ生憎と嫁は早世してしまいましたが」
「……?」
何が言いたいのか、と言いかけて、忠相は黙りこんだ。
佐土原に拠点を置く伊東氏、都之城の北郷氏、飫肥の豊州家が泥沼の騒乱状態に陥っているのは、誰もが知ることである。
さらに大隅の肝付を時には援軍に、時には敵に回して、飫肥の乱はなお鎮まる気配がなかった。
日新斎は直接言葉にしなかったが、その一言は暗に「肝付の軍勢を都之城にけしかけるぞ」と言っているのだ、と忠相は理解した。
(こやつ……)
ゾクリと背中に寒気を感じた忠相は、それを悟られないように生唾を飲み込み、北郷が待ち受けるであろう、その後の運命を想像した。
もしここで先代勝久を相州に押し付けても、日新斎は大人しく勝久に従わない。
勝久は居ない者として扱うだろう。
そして肝付と北郷が争い、豊州は伊東に攻められれば、両家共すぐに潰れはしないだろうが、身動きがとれなくなる。
もし仮に豊州が伊東に攻められて領地を失う憂き目に合えば、都之城は飫肥を治めた伊東と肝付の挟み撃ちになってしまうだろう。
そうなれば如何に精強と名高い都之城の軍もいずれは息切れして、どちらかの手に落ちてしまう。
さらに宗家の援軍を頼もうにも、日新斎が掌握していればそれも叶わなくなってしまうだろう。
何故なら、日新斎はその実力を持って守護を担っていた薩州家を追い払ったという実績があったからだ。
しかしこのまま島津家と薩摩国の国主を任せておけば肝付家は大人しい。精々志布志に執心するくらいだ。
相州家が宗家になり変わって薩摩国を治めて、大隅まで押さえることができれば、都之城と鹿児島の補給線は繋がり、日向の支配を望む伊東に反抗する力となるだろう。
室町幕府は健在だったが、それはもはや形だけのものである。今や武が全ての語る時代だということを、忠相は伊東との争いを通してよく理解していた。
(日新斎……。いや、その倅か? 三州の太守たる道筋を立てているのか?)
忠相は涼しい顔をして出方を伺っている日新斎を見た。
(一枚上手だったか)
忠相は畳に目を落とし、日新斎が以前知っていた、ただのお人好しではないことを思い知った。
「……そういえば、先代殿の母君は豊後の出であったな」
「そのように聞いております」
「頼る縁はあるわけだ」
「そうですな」
忠相は薄く目を閉じたまま呟くように静かに口を開く。
「……愚かな当主に仕えるは家臣の不幸。臣民の悲哀。大望ある賢者に託すのが戦国の世の理、ということか……」
「当家が? 畏れ多い、滅相もございませぬ」
日新斎は殊更大げさに遠慮気味にそうは言ったが、忠相は既に全てを理解していた。
「先代には当方より遠慮するように言っておく」
日新斎は望んだ答えをついに引き出して、深々と頭を下げた。
「一つ助言をいたそう。拙者が思うに、後の世に伝える歴史と道理は勝者が作り上げていくものであると存じる」
「ご助言ありがたく頂戴いたします」
再び頭をさげた日新斎は、別の間に控えていた忠将、そして供回り衆を引き連れて都之城を下城していった。
その一行が城から去るのを門まで見送った後、忠相の家老が耳打ちする。
「いかが致しましょう。仕掛けますか」
忠相は穏やかな笑みを浮かべながら、ゆっくりと首を振った。
「いや、よい。三州は遅かれ早かれ相州殿とその一族の治世になる。あとは周りがそれをどうやって受け容れるか、だ」
そう言って霊峰霧島の山容に目を向け、その向こうに傾きかけていた陽の光を認めた。
日新斎と忠将もまた、後ろを気にしながら鹿児島へ戻る道を急いでいた。
日新斎自ら都之城に乗り込むとあって、万が一を考えて忠将に二百人余りの軍勢を与えて、都之城の西にほど近い財部の林にある廃城跡に潜ませている。
「仕掛けてきませぬなあ」
忠将が呑気に共に馬上の人となった日新斎と轡を並べた。
「滅多なことを言うな。聞き耳を立てている者がいるかもしれんぞ」
日新斎も警戒して声を潜めるが、一里離れた所でようやく肩が軽くなった。
「北郷殿は評判通りの御仁でしたか?」
忠将は「万が一」に備えてすぐさま刀を抜けるように心構えていただけに、忠相の評判が気になっていた。
「うむ。忠相殿はまごうことなき傑物であったぞ。故にこれで当家も安泰だ」
言葉を交わすことができなかったが、忠将は帰り際に会釈を交わした忠相の表情を見て、幾多の戦いを切り抜けてきた一廉の人物だろうと感じていた。
「兄上もこれで慰められましょうな」
「しかし、まだやるべき事は多いぞ」
「そういえば鎌安丸が『元服はまだか』とまたゴネておりました」
忠将はからかうようにニヤついて、日新斎に視線を送る。
「あやつは一体誰に似たんだ?」
日新斎は困ったような顔で首をかしげる。
「父上では?」
「そうかのう……。儂はあれほど大人の手を煩わせなかったぞ」
そうボヤく父の姿に、忠将は思わず笑わずにはいられなかった。
それからしばらくして、先代勝久は、忠相に都之城まで呼ばれていた。
勝久は「何事か、それどころではない」と拒んだが「是非にでも」と請われては、恩のある忠相には逆らえない。
都之城の館の一角に先代勝久を招いて人払いをさせると、忠相は勝久と二人きりになった。
「先代殿、命惜しくばこのまま去られよ」
忠相は低く静かな口調で勝久を驚かせた。
「なに……! 相州めが俺の命を狙っているのか!?」
「いや、命を狙っているのは、拙者にございます」
そう言って目にも留まらぬ素早さで腰を浮かして脇差を抜き、その眼前につきつける。
「や、これはどういうことだ」
勝久も腰の刀に手をかけたが、到底届くはずもなかった。
「先代殿は悔返などと申しておりましたが、どうやら拙者は貴方に謀られていたようです」
そう言って芝居がかった表情で首を振る。
「悔返などございませなんだ。既に宗家は貴久公が立派にお継ぎになられておいでだった」
「正気か」
勝久は目を見開き、眉をひそめて忠相を睨みつけた。
「これ以上の問答は不要にございましょう」
忠相の脇差は真っ直ぐに勝久の眼前に迫り、また忠相の本気の覚悟に勝久は怯えていた。
「先代殿がここで死んでも三州は鹿児島におわす宗家と後見の相州殿がやってます。これ以上先代殿があれこれ言うても三州は混乱を招くだけ。……隠居した身ならば、大人しく豊後辺りで心安らかに余生をお過ごしくだされ」
「豊後……」
「既に話は付けております」
勝久は何も言えなかった。
しかしその運命に抗する力がないことを思い知って、力なくうなだれた。
こうして十四代勝久は過去の人となり、再度追放されて鹿児島を去った。
ここに貴久の薩摩国支配は完全に確立したが、分家衆がそれを受け容れるのは、もう少し先の事になる。
また貴久は忠相の助言に従い、自らの正当性を高めるための施策に精を出すようになった。
初代島津(惟宗)忠久が征夷大将軍源頼朝より拝領したと伝わる八幡大菩薩旗と、島津宗家が代々書き加えてきた島津家正統家系図が手元にあったことが、貴久にとっては幸運だった。
家系図の末端にあった「勝久」の下に「陸奥守貴久」の名を書き加え、(相州家より養子)と注意書きをした。
以来、貴久は堂々と島津十五代を名乗るようになる。
余談ではあるが、貴久はさらに正当性を強調するために天文十五年(一五四六年)に、初代惟宗忠久公ご生誕の逸話に因んだ時雨の軍旗と、源氏方を示す白旗を作成して、「藤原朝臣貴久」の名を刻んだ。
これを島津家の家宝と定めると、これらの「御重物」を所持することが島津宗家である根拠として後の世に伝えるように命じた。
しかし、戦国の世は貴久にまた一つ試練を与える。
貴久が薩州家との決着をつけて薩摩国における実権を手に入れた天文八年(一五三九年)。
明けて翌年から本格的に貴久は清水城に於いて政を執り行うことになったが、相州家の急激な台頭が分家支族の警戒を招いて、非協力的になったことになったのは皮肉なことだった。
勝久の抑えこみは北郷氏を頼って成功したが、その他の分家衆の拒否反応は貴久の予想以上だった。
天文十年(一五四一年)十一月
十一代忠昌公の頃より守護大名島津家の家老や老中を務める豊州家島津家や守護代本田薫親、肝付兼演など、氏族十三氏が連名で貴久と日新斎の行いを非難すると、豊後に去った勝久に代わって六歳になる勝久の子、益房丸を擁して軍勢を起こした。
その軍勢の中心となったのが鹿児島清水城より北へ二十キロ、蒲生竜ヶ城に拠点を置く蒲生氏と、北薩の雄、渋谷一族だった。
この時の状況として、大隅国と薩摩国の境界に接する吉田松尾城までが島津家の直轄地の北限で、それより北の蒲生、渋谷一族、東の帖佐、加治木より先は反貴久派の領地で占められていた。
唯一の例外は、貴久が宗家を相続した際に日新斎に臣従した樺山氏である。
樺山氏の居城は鹿児島湾の奥、加治木城より四キロほど東にある生別府城。
反貴久連合の軍勢は生別府城を包囲しようと進軍した。
樺山善久はすぐさま城の守りを固めると、清水城へ救援要請の使者を送った。
城下に広がる蒲生氏の旗と渋谷一族の旗を眼下に見下ろしながら、善久は考え事にふける。
(蒲生殿は先代の頃より攻められて遺恨があると言うから仕方がないとして、渋谷一族が弓を引いてくるとは……。やはりへそ曲がり共の腹のうちはよくわからん)
「殿、鹿児島より使者がまいり、軍勢を率いて駆けつけるとのことです」
「おを! それは心強い!」
援軍来たるの報せを持った使者を迎えて善久は喜ぶ。
「生別府はご太守大望の橋頭堡だ! 何としても守り切るぞ!」
「おお!」
若き領主の激に、城兵の士気は高かった。
それから幾度となく攻められたが、援軍善久の軍勢は度々これを跳ね返してよく持ちこたえた。
天文十一年(一五四二年)三月
日新斎は自ら軍勢を率いて加治木城を守る肝付越前守兼演を攻めた。
落城させることはできなかったが、真幸院の北原氏の援軍もあって生別府への攻め手はようやく衰え、生別府の包囲はようやく解除された。
しかし、貴久と日新斎への反発が収まったわけでもなく、なお対決姿勢を見せていたことから、日新斎は十三氏連合の取り崩しを図る。
日新斎は生別府城の樺山善久を訪れると、それまで城を守った苦労に感謝した。同時に深く詫びて、鹿児島の南にある谷山に移るように命じた。
そして反貴久連合に名を連ね、国分清水城に居を構える本田紀伊守薫親に生別府城に入ることを条件として和睦をはかった。
薫親はこれを受け入れて生別府城に入ると、反貴久連合はあっけなく崩壊した。
これによって貴久は大隅国へ進出する橋頭堡を失った形になったが、反貴久派の対応、薩摩国平定、という当面の明確な目標が出来たため、多方面から同時に攻められる事態を避けることができた。
後に伝わる生別府城樺山善久襲撃事件は戦国乱世において実力で国主の座についた貴久ら新体制派と、これを良しとしない旧体制派による過渡期における出来事であった。
それから幾日か過ぎた頃。
天文十二年(一五四三年)八月
この年、戦国乱世の日ノ本の合戦の常識を覆す、歴史的な大事件が起きる。




