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戦国島津史伝  作者: 貴塚木ノ実
立志
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第十六話 大望を抱く

 天文(てんぶん)八年(一五三九年)

 薩州家との抗争に勝利し、薩摩国における政務の実権を握った貴久は、日新斎との連名で家臣、領民に対して守るべき掟を定めた。


一、 全ての者は忠孝こそが第一である

一、 地頭や領主は日頃から戦時の太鼓の合図や作法を確認するなど準備を怠らないこと

一、 その家臣や領民たちは日頃から武芸や水練、山坂歩行など鍛錬して戦の準備を怠らないこと

一、 戦の役目がない時は家に居るのではなく、女子供も含めて早朝から農業に励むこと

一、 百姓などに独り身で生活に困っている者がいたら、見て見ないふりをせずにすぐに知らせること

一、 地頭や領主、奉行などの行いに疑わしいことがあれば我等父子に直に申し出ること

一、 我等父子に邪な心はない。もし不公平だ、おかしい、と思うことがあれば何を差し置いても諫言(かんげん)すること


 領民や家臣たちは最後に諫言を歓迎する一文を添える辺りに「これぞ名君だ」と口々に納得して、この法をよく守ってた。

 長きに渡る戦乱で荒れ果てた戦の痕は次第に癒えていくのだった。

 それは後の世に「天文八年掟書(おきてがき)」と呼ばれる。


 ただ、貴久が鹿児島清水城に入って薩摩国における実権を握ったものの、肝心の島津宗家の家督と守護職はどうなったのか、というと誰にも判断がつかない曖昧な状態だった。


 まず先代勝久と養子縁組して家督を継いだ貴久は、間違いなく正当に島津宗家と守護職を継いだ。

 しかしその翌年には薩州家に説得された勝久から相続は無効である、という扱いにされてしまった。


 では薩州実久が宗家の家督と守護職を継いだか、というとその事実は全く無かったし実久もその自覚はなかった。

 守護職に限って言うと、辛うじて実久が他の島津支族から了承を取り付けることに成功していた。

 そのため薩摩国の守護を自称してもおかしくはなかった。

 だが、新納家の反対に遭うなど全面的に認められているわけではなかった。

 さらには攻められて出水に逼塞したことで、実久が守護職を名乗ることに対して誰しも疑問を抱くのは仕方のないことだった。


 つまり崩壊しつつある室町幕府の統治機構から新たな統治体制に移行する過渡期にあって、実久にも貴久にも宗家と守護職を継ぐには大義名分が存在しないと言え、それを多くの者が認識して混乱の元にもなっていた。



 天文九年(一五四〇年)十一月

 何はともあれ、戦国乱世に(なら)って守護大名から戦国大名へ生まれ変わりつつある貴久は、泰平の祝言(しゅうげん)を上げた後、今後の方針を決めるために一門衆と主だった家臣を集めて評定を開いた。


「まずは各々方、此度の戦は大変な尽力ご苦労であった。まずは今日、みな遠慮せずよき語らいの場となると幸いである」


 最初に口上を述べたのは貴久だった。

 評定に出席したのは当主貴久を筆頭に、父日新斎、そして弟の忠将。

 島津久定、樺山幸久・善久父子、伊集院忠朗、鎌田政年、阿多加賀守、喜入忠俊、頴娃(えい)兼洪、園田実明、新納(にいろ)忠澄、山田有徳といった面々である。

 いずれも十三年に及ぶ薩州家との戦いで功があり、日新斎と貴久が信頼を寄せる者たちだった。


「この数年、戦が絶えなかったこともあって、特に伊作や田布施で田畑が荒れております。まずは無用な戦を仕掛けることを控えて田畑を耕し、力を蓄えるべきかと存じます」

「我が意を得たり」


 新納忠澄の提案に日新斎は大きく頷いて、膝を打った。

 戦が毎月のように続くというのは、農民など多くの町民を徴兵することである。

 それは田畑の衰えであり、すなわち翌年の収穫不良を意味する。

 特に薩摩国は主食である稲作地が少なかった。

 新たな田園地の開拓と農民の確保は、島津家にとって常に抱える課題となる。


 また、人間が一人前の労働力を発揮するようになるまで十年以上はかかる。

 そういう意味でも、農民が犠牲になるような無理な戦、特に連戦は避けねばならなかった。


「まずは領民を慈しみ、国力を蓄えるのだ」

「はっ」


 日新斎の言葉に一同も大きく頷いた。

 続いて進言された伊集院忠朗の言葉は誰も思っていたことだった。


「やはり三州守護を称するには、薩摩、大隅、日向に安寧をもたらしたいものですな」


 一同も口々に「そうだ」と頷く。



「まずは薩摩国の平定か」

「渋谷一党、蒲生は連合しております。さらには出水の薩州もなお健在。北には大口の菱刈殿もおりました。これを全て当家の門前に馬をつながせることができましょうや」

「渋谷一族は入来院(いりきいん)殿の息女が御太守の室に入られて昵懇(じっこん)にしているので当面は問題なかろうかと存じます。ただ、祁答院(けとういん)や東郷など他の渋谷一党がどう出るか」

「そういえば、先代が認めて郡山(こおりやま)に入来院殿が入っておりましたな。ご当主も高齢でそろそろご隠居なさるらしいので、次代に移ってどうでるか……。やはり渋谷一党はへそ曲がりが多くて心うちが読めませぬ」

「へそ曲がりと言えば、薩州は相変わらず当方の使いの者に会おうともせぬ」

「噂によれば当家の不当性を幕府に訴えんと準備をしているとか」

「幕府の守護職叙任を分家衆に認めさせておりますので、名分は薩州にあるのが当家にとって心苦しいところです」

「しかし実情はどうだ。守護職など形骸にすぎぬ」

「ですが名分は名分でございますれば、仕置を誤れば先年の国中騒乱の再来を招くことになるかと存じまする」

「この数年で当家が急激に台頭したことに分家衆が警戒感を強めているという話もございます」

「庶家共々(ねんご)ろになるように仕向けることが肝心ですな」

「しかし薩州家は当主が次代に移るまで関係は変わらぬでしょう」


 薩摩国の平定までなお残る課題に小さな溜息が出た。


「その次は大隅……肝付殿の一派ですか」

「肝付宗家御当主に大殿のご息女が嫁がれておりますので心良く接しております。ですが当家の旗下に入れ、となるとどうでしょう。肝付殿は大隅守護を望まれた過去もございますので、油断はできませぬ」

「加治木の庶流肝付(きもつき)越前守は、宗家と相変わらず仲違いをしております。加治木に入れた後に実久方に与すると言っており、薩州殿を出水まで追い払ってからも当家にあまりいい印象を抱いていないと聞いております」

「やはりこのこの数年の戦で当家に不信感を抱いておる、と」

「なんたる皮肉か」

「それが戦国の慣わしで思えばこそ、致し方ございませぬ」

「だが和睦の道はあろう。越前守の嫡男は大変武勇に優れていると評判だから、是非にでも当家の力になってほしいものだ」


 日新斎は肝付越前守兼演が島津宗家がどれだけ傾こうとも、決して異心を抱かず仕えてきてくれた忠臣であることを知っていた。

 その忠節心を得ることが三州泰平のかなめになると考えていた。


「大隅には肝付の他に伊地知、薬丸、禰寝などがおりますが、肝付とはよい関係にあるようで、安々と当家に与するとは思えませぬ」


 大隅国には島津家に味方する勢力が少なく平定するにはきっかけと足がかりが必要だった。


「最後に日向か」

「日向には伊東、真幸院(まさきいん)には北原、北端の(あがた)には土持といった氏族が勢力争いを繰り広げております」

「当家と協力関係にある飫肥(おび)では豊州殿と都之城(みやこのじょう)北郷(ほんごう)殿が合力して伊東殿や肝付殿と争っておりますが、あの辺りは混沌としております」

「豊州殿も北郷殿も、島津分家衆において力のある御家。特に北郷殿のご当主は都之城の傑物と大変評判ですから、これを当家に味方させることは今後に影響いたしましょう」

「うむ。首尾よく飫肥に平穏をもたらすことで、三州太守たる面目が立つかと存じまする」

「しかし特に伊東は実に手強いですぞ。日向を治めるには天運も必要に存じます」

「ならば夜詰めで神仏に拝むとするか」


 日新斎の冗談に場が和んだ。

 口々に言い合った最後に、それまで沈黙を守っていた貴久が口を開いた。


「やはり大義名分が必要であるかと存じる」

「……」

「先ずは、当家が島津宗家であり、三州平定の任を負っていることを支族衆や守護代に認めさせよう。さすれば支族庶家共々、三州太守たる当家に従うべき道理と名分が成り立つ」


 筆頭家老の伊集院忠朗が貴久をちらりと見て、穏やかな笑みを浮かべる。


「であればまずは豊州家と北郷殿に誼を通じておくべきかと」

「それと守護代の本田殿ですな」


 他の者たちも頷いた。


「そのためには今一度幕府に通じて守護を認める使者を寄越させることも考えよう」

「幕府の威光はもはや望めませぬが……、名分は得られますな」


 一同の心が定まった所で、ふと誰かが思い出した。


「そういえば先代殿は?」

「それが……今は北郷氏で寄食を受けているとか」

「なんとも情けない……」


 誰ともなく深くため息をつく。


「しかし先代には宗家筋であり、守護職もあると言い張れる名分がある。扱いには気をつけねば」

「うむ」


 話題も尽きてそろそろ頃合いか、という雰囲気になりだした時、忠将が血気盛んな若者らしく口を尖らせた。


「しかし戦を控えて腕が鈍っても困るなあ」

「うむ、それなら弓馬の腕が鈍らぬように、かつて盛んだった犬追物(いぬおうもの)をやろうか、という話を又三郎としておる」


 日新斎がその話を待ち構えていたかのように扇子で忠将を指した。


「おぉ、犬追物ですか」

「戦国の世になって犬追物の仕切りもできぬ無作法な家もだいぶ増えたという声も聞こえておりますからな」

「鎌倉より続く当家だからこそ作法も残っておる」

「それは楽しみだ。どぉれ腕を磨いておこう」


 そう言って忠将は腕まくりをして、笑いを誘った。


「さて、そろそろ散会としようか。今日は皆ご苦労であったな」


 日新斎の締めの言葉で今後の島津家の方針を決める評定は終わった。


 評定の場で口にあがって一同を呆れさせた先代勝久だが、実久に敗れて逃れた後は、援軍として頼っていた祁答院に、次いで日向国真幸院を治める北原氏、そして都之城の北郷氏を頼って保護されていた。

 そして貴久が清水城に入って政務を執り行おうかという頃になって、勝久が接触を図ってきたのである。

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