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戦国島津史伝  作者: 貴塚木ノ実
島津乱れる
16/82

第十五話 電光石火

 天文四年(一五三五年)十月

 実久に攻められて勝久出奔。


 この報せを聞いて日新斎(じっしんさい)は恐れ(おのの)いた。

 ただ、恐れたのは実久が攻めたことでも、勝久が出奔したことでもない。


 清水(しみず)城下が実久に放火され七日七晩火事が起きて、住民のほどんどが住む所もなく困っている、という話に日新斎は嘆いた。

 日新斎も齢四十を超えた頃、(いさか)いが続いて領民に負担をかけるくらいなら十四代勝久であろうと薩州実久であろうと、世が平穏で相州家と伊作が守られればそれでいいとさえ思っていた。

 しかしその実久の所業は仏道に帰依して民を慈しむ日新斎にとっては許しがたい行いであった。


「秋が訪れ夜は寒くなっている。飢えれば盗人もでるし、殺しに手をかけるもの出よう。お互いを労ることもなく、慈しむこもとなく、ただその時の生にのみ執着する無法の輩が蔓延(はびこ)る……。それはまるで現世の地獄絵図だ。いかな戦国乱世とは言え領民にまでこれを強いる道理はない。我が仁政を以ってこの世に泰平をもたらさん」


 日新斎の言葉に、多くの家臣は頷いた。


「今こそ三州に日新公の仁政を!」


 という言葉を合言葉に、鬨の声を上げる。

 また、島津宗家に弓を引いた薩州家への反抗という大義を得た日新斎は、ついに軍勢を起こした。


 日新斎の反撃作戦は入念な事前準備の元に実行されていた。

 日新斎と貴久が治める地は伊作、田布施という場所は薩州方に包囲されていた。

 南に加世田、川辺、東は谷山。

 そして北に市来、伊集院といった具合である。

 しかし享禄(きょうろく)四年(一五三一年)に開聞岳(かいもんだけ)の麓を領する頴娃(えい)氏と結ぶと、加世田と川辺の押さえを依頼した。


 また、嫡男貴久に渋谷一族から入来院重聡の娘を継室に迎えて関係を結ぶと、北の市来と伊集院、そしてさらに北にある薩州本拠、出水の押さえを任せた。

 ここに日新斎包囲網は崩壊し、何処(いずこ)に攻め入ろうとも伊作亀丸城、田布施の亀ヶ城を狙われることがなくなった。



 天文五年(一五三六年)三月

 日新斎は最初の作戦として、薩州の軍勢が本拠の出水と鹿児島の行き来することを完全に断つことを考えた。

 その目的を達成するために、最初の制圧目標を鹿児島と出水を繋ぐ荘園、伊集院に定めた。

 ここは大永六年(一五二六年)の貴久相続の際に日新斎に宛てがわれた地であったが、翌年の実久の叛乱の折に落城して薩州方の町田久用(ひさもち)が城主に入っていた。


 まず伊集院の本拠である一宇治(いちうじ)城を大軍を率いて攻め寄せた日新斎に、町田久用は早々に降参して城を明け渡した。



 同年九月

 この頃より相州家の家老を任じた伊集院忠朗を、伊集院制圧の大将に命じて伊集院の各支城の攻略に移った。


 十一月には土橋、桑波田の両氏が相州家の鮫島某に通じて降参を申し入れて、長崎塁に火を放った。


 さらに降伏は続く。


 有屋田ありやた某、否笠(いなかさ)某は降参すると、兵をまるごと日新斎軍の旗下に入れて軍勢に加わった。

 十二月七日には石谷(いしがい)伊賀守(いがのかみ)梅久が降参を申し入れ、鹿児島から帰る時に実久方から襲撃を受けて討死したが、その子である忠栄(ただひで)が日新斎に降りた。



 明けて

 天文六年(一五三七年)一月七日

 大将伊集院忠朗、のちに吉利(よしとし)氏に名を変える島津久定、そして日新斎の次男、島津又四郎忠将の軍勢は、貴久の正室の父、入来院重聡の援軍を得て、最後まで籠城していた肥後森治を竹ノ山塁に攻めて落城させた。


 同年二月

 犬迫塁を攻め落として、ここに伊集院の地は相州家に完全に制圧されると、鹿児島と出水の人の行き来が極めて困難になり、薩州家の勢いは急速に衰えていく。


 日新斎の軍勢はなお止まらない。



 同年二月

 伊集院を完全に制圧した日新斎の軍勢は鹿児島へ進出。

 数度争うが、実久は利なしと判断して鹿児島より南の谷山、さらに西の山を超えて川辺まで軍を引いた。


 実久は川辺で軍勢を整えると、鹿児島奪還のために谷山の紫原まで進出したが、士気の高い日新斎の軍勢にあえなく敗走して、ついに加世田まで主力の軍を引いた。


 ここで日新斎は大勢決したと判断した。

 加世田に入った実久に、薩州家が領する南薩の川辺、加世田と、日新斎が支配する鹿児島、吉田、谷山、伊集院の領地交換を条件に和睦を申し入れた。

 しかし、実久は隣国との貿易で栄える坊津を日新斎に抑えられることが気に食わなかったため、破談となった。



 同年八月

 和睦破談を受けて日新斎の軍勢は実久が領する加世田に攻め入り、いくつかの支城や砦を制圧したが、加世田本拠城の前に横たわる天然の水堀、万ノ瀬川に阻まれて、迫れず撤退した。



 また実久も日新斎の反撃作戦に黙っていなかった。



 同年十二月

 実久は守護職に就任にすることで大義名分を得ようと画策する。

 島津宗家老中や三州の領主、北郷忠相、豊州家島津忠朝、禰寝清年、本田薫親、肝付宗家兼続らに守護職就任を認めさせたが、飫肥の新納嫡流、新納忠茂に信用されないばかりか、薩州家の横暴ぶりに強く反対されてしまった。


 多数決で実久は名目上三州の守護職に就いたことになったものの、先代勝久が存命で正式に譲渡する起請文がなかったこと、家督を継ぐにも養子縁組の取り決めもなかったこと、相州家の侵攻に薩州家が押されて衰退激しいこともあって、守護職が誰にあるのか、誰も判断ができない曖昧な状態になった。

 この三州守護職の推移における騒動は三州の各領主の分裂を招き、新納氏は豊州家と北郷氏に志布志で攻められる事態に陥って、飫肥における支配権を失っていくことになる。


 それから約一年は薩州、相州ともに軍勢を整えるために大きな争いは起きなかった。



 明けて

 天文七年(一五三八年)十二月

 日新斎は再び加世田城へ攻め入るための軍勢を起こした。



 同年十二月十九日。

 万ノ瀬川を夜のうちに渡ろうと難儀している所に加世田の城兵に気づかれ、討って出てこられて恐慌状態に陥るとあえなく退却した。


 しかしこれで大人しく引き下がらないのが日新斎である。



 同年十二月二十九日。

 加世田城を見張らせていた松崎某と満留郷八左衛門より急報が入る。


「城兵の大半が晦日を迎えるために退城し、私邸に戻る」


 これを受けて日新斎は貴久を大将に命じて大手口に、忠将を副将に命じて搦手口に配すると、いよいよ一気呵成に攻め立てた。

 実久方も少ない城兵ながら堅い造りの城を活かしてよく守った。

 だが、夜通しかけて攻め寄られて音を上げた。

 寅の刻(午前四時)頃に、実久が密かに城を脱出し、ついに加世田城は落城した。


「おお、又四郎。顔を槍に突かれたと聞いたが大事ないか」


 日新斎は真っ先に加世田城の兵の詰め所を見舞った。

 忠将が負傷したと聞いて、そこで横になっていると聞いたからだ。


「いいや、父上。心配かけて申し訳ない。弓矢を散々に放られて十四本刺さったがいずれも鎧を貫いておらぬから薄皮の傷です」


 うんうん、と呻く兵が大勢いる一室に忠将も寝かせられていた。

 その忠将も腕を振り上げ、健在ぶりを示そうとした。


「槍で突かれた、というもの、ほれこの通り」


 そういってニカっと笑って日新斎に顔を向けた。

 日新斎は驚いたが、槍に突かれて前歯が一部欠けた、なんとも間の抜けた顔つきになってしまった姿に、思わず笑いを堪える。

 聞けば顔面を槍で突かれたものの、歯で受け止めてもんどり返り、頭をしたたかに打って気絶したらしい。

 忠将はすぐに意識を取り戻したが、脳震盪を起こしてまともに立つ事もできず、寝かせられていたという事である。


 そこへ七歳になったばかりの日新斎の三男坊、鎌安丸が心配そうな顔つきで貴久に連れられて入ってきた。


 鎌安丸は元服もまだだったが、たいそう勇気があって、というよりは「兄上たちと一緒がいい」と泣きゴネて、加世田城攻めの軍勢の、安全な場所でこの戦を見守っていた。


「又四郎、無事だったか」


 貴久が安堵の表情を浮かべて肩を叩く。

 鎌安丸は父に甘えるように横に座って忠将の顔を見た。


「わっ。四郎兄が歯無しお化けになった!」

「なんだと鎌安! こうしてくれるっ」


 そう言って欠けた歯で噛み付く素振りを見せると、鎌安丸はきゃあきゃあと笑いながら逃げ惑う。

 そんな日新斎の父子の微笑ましいやり取りに加世田城は笑顔があふれた。


 しかし平穏の時を迎えるにはまだ早い。

 川辺に放っていた神力坊より急報が入った。


『川辺より薩州の軍勢が加世田に迫る』



「立て直すにはあまりに迅速。実久公を迎えに参ったのだろうか?」

「或いは落城を知らぬ援軍やもしれませぬ」


 貴久と忠将は頷き合う。


「よし、ならばこちらも手勢を率いて川辺の手前まで仕掛けてみよう。天運があれば実久公を捕らえられるやもしれぬ。(しか)らばこれ以上無益な血を流す必要もあるまい」


 そう言って貴久は立ち上がり、馬廻衆に手勢を集めるように指示を出した。


「お待ちあれ、兄上。そうは言っても急すぎる。ここは俺が行こう」

「怪我人はおとなしくしておれ、又四郎よ」


 そう言って貴久は笑みを浮かべる。


「又三郎よ、又四郎の言うとおりだ。焦って仕掛ける必要はない」


 日新斎も反対した。


「父上、又四郎、お気持ちは実にありがたいが、俺は名目上とは言え、島津宗家の家督を継いでいる身である。三州平穏のために我が身は大事であるから無理な戦は仕掛けぬよ」


 そう言って笑うと、貴久は手勢を率いて川辺の境界まで進軍した。

 しかし日新斎と忠将の不安は的中してしまう。




 天文八年(一五三九年)一月一日

 年が明けて正月に、加世田と川辺に接する山中において貴久軍が川辺の薩州軍に前後を挟まれてしまった。

 川辺の薩州軍は実久を迎えにいく小隊と加世田の様子を探りにいく小隊に隊を分けていたから、もちろん貴久軍がいるとは思っていなかった。


「えい、しくじったわ……!」


 貴久は舌打ちして脇差しを抜く。

 貴久はもちろん警戒していたが、山中に伏せていたことを見抜けていなかった。


 また薩州軍も「あれは相州の大将貴久と見たり」と心得ると、「ここで討ち取るべし」の意気や高く一斉に抜刀した。


「かかれ!」


 薩州軍より声が上がり、乱戦状態になる。

 貴久軍もここで太守を失ってはならぬ、と死兵と化して、必死の守りで前後の敵をよく防いだ。


 しかし一人、二人と漏れて貴久の元にたどり着くようになり、貴久もこれを斬り伏せる。

 お互い数は少なかったが、川辺勢がやや数は多く、さらに挟み撃ちで余裕があったため次第に貴久軍は劣勢に追い込まれていった。

 ついに貴久の頬先を敵方の刃が空を切るに至り、


「もはやここまでか」


 と呟き、死の覚悟を決めたその時だった。


「兄上ーーーーーーーーー!!」


 山中に響き渡る忠将の大音響が、戦場を凍りつかせた。

 忠将が馬廻衆を置いて一人馬を操り、後ろの薩州軍に取り付いた。


「島津御大将が舎弟、又四郎忠将ここに見参! 我が槍の餌食となりたい愚か者より前に出ろ!!」

「応っ!!」


 忠将の名乗りに応えるように、薩州軍より二人同時に斬りかかった。

 だが、馬上から左手の槍で一人の喉元を一突きで殺し、返した槍の柄で一人鼻柱を折り、薩州兵は悲鳴を上げる。


「どうした! 薩州実久の雑魚どもめ! 臆したか!!」


 さらに挑発されて薩州軍より三人同時に斬りかかる。

 忠将は槍を薙ぎ斬りにするが、二人に柄を掴まれて馬から引きずり降ろされそうになった。

 すかさず手を離すと勢い余って二人はもんどり打って転倒し、余った一人を忠将は脇差しで顔面を斬り裂いた。

 悲鳴を上げて薩州兵の動きがようやく止まった。


「天下に名高い相州の将とは言え、たかが一人に恐れるなよ! 薩州が将、大寺越前守(えちぜんのかみ)の意地を御覧(ごらん)じろ!!」


 大寺越前守と名乗り叫んだ将が槍を脇に抱えて忠将に二度三度と突きかかる。

 忠将もこれは手強い、と見切ると馬を降りて距離を取り、睨み合いになった。

 しかし虚をついて忠将の横から薩州の兵が斬りかかり、これをギリギリの所で避けたが転倒してしまった。


「生意気な忠将め! その首もらった!!」


 転倒した忠将に突きかかろうとした大寺の槍は、しかし力なくその足元へ転がり落ちた。


「若殿! 無事か!!」


 一人突撃した忠将の後を追った島津久定の槍が危うく届いた。

 その槍は大寺越前守の脇腹を深々と突き刺し、とどめに喉元へ刀を突き立てた。

 さらに久定の後ろから大勢の相州の兵たちが続いて駆け寄せてきた。


「兄上!!」

「又四郎!!」


 それを見た兄弟の声は、薩州の兵たちを引かせるには十分だった。

 ついに数でも逆転した貴久と忠将の救援軍は合流し、川辺の薩州軍を散々に打ち果たしたのだった。



「無事であったか兄上」

「助かったぞ又四郎」

「これを知れば父上は怒るぞ」


 忠将はお互いの生傷だらけの姿に笑いながら、馬上の兄をからかう。


「うむ、父上は怒ると怖いからなあ。ここで死んだ方がマシだっただろうか」

「何を言うかよ兄上。兄上には三州平穏の大望がある。俺は舎弟としてこの槍と命をもって尽くすぞ」

「ありがたいが、無理はするな」


 加世田へ戻る道すがら兄弟は笑い合いながら、無事を労った。

 ただ、加世田城に戻った貴久は、やはり日新斎にこっぴどく叱られた。


「大将が先陣を行く馬鹿がいるか!」

「ここにおりましたなあ」

「又四郎! お前もじゃ! 馬廻(うままわり)の連中を置いて猛って突っ込んだそうだな!」

「う……」


 茶化そうとした忠将を日新斎は扇子で小突く。

 兄弟揃って正座させられ、日新斎から大将の在り方とは、兵の遣い方とは等々、滔々(とうとう)と説教されるのだった。


 加世田を攻め取ったことで、天文八年(一五三九年)の始めにおいて、薩州家の領地は薩摩半島南にある谷山の一部と川辺(かわなべ)、そして北に離れて出水と市来串木野の一部。

 一方の日新斎は薩摩に接する大隅国の吉田、薩摩国の鹿児島、伊集院、阿多、田布施、伊作、加世田を掌握していた。

 事実上、薩州方との争いについては既に大勢は決していた。

 しかしそれでもなお実久は意地を見せて降参することはなかった。


 日新斎は兵を休ませている間に川辺と谷山に残っている兵の人数を確認すると、谷山攻めの総大将に貴久を、副将に伊集院忠朗を任命。

 また川辺攻めの軍勢には自ら大将に、副将には新納忠澄の子、康久を据えて同時攻略作戦を展開した。



 天文八年(一五三九年)三月十三日

 谷山紫原(むらさきばる)の地で、鹿児島や吉田の衆を加えた貴久の本軍、谷山の実久本軍が激突。

 実久はこれを決戦と見定めていたが、数に勝る貴久の軍勢に敗走すると、谷山には戻らず、川辺に逃れた。


 貴久の軍は勢い止まらず翌日には皇徳寺にほど近い苦辛(くらら)城に迫ったが、守将の平田式部少輔(しきぶしょう)宗秀は忠朗を通じて降参。

 さらに八キロ南へ下って神前城を包囲すると、ここで反攻作戦に出る前から約束していた通り、喜入(きいれ)氏と頴娃(えい)氏の軍勢を援軍に加えた。



 同年三月二十四日

 神前城を守る伊集院山城守(やましろのかみ)や松崎丹波守(たんばのかみ)、谷山駿河守(するがのかみ)など奮戦もあったが、貴久の城攻めの前に遂に降伏。

 谷山を完全に掌握した。


 谷山平定の報せを受けると日新斎は田布施より川辺に進軍を開始した。



 同年三月二十八日

 川辺の高城を守る鎌田加賀守(かがのかみ)政真(まさざね)が降伏。


 その翌日には川辺平山城も降伏した。

 しかしそこには実久の姿はなく、既に出水に逃れたことが判明した。



 同年四月一日

 ついに川辺も完全に制圧したことで、薩摩半島における薩州の領地は市来と串木野、そして本拠の出水を残すのみとなった。



 同年閏六月

 薩摩半島の南部を完全に制圧し、北東は吉田辺りまで版図を広げた日新斎の軍は、再びしばらく兵を休ませたあとに市来、そして串木野へ北進を開始した。



 同年閏六月十七日

 忠将を大将に任命して市来平城を攻め、落城。

 忠将は搦手口より攻め寄せて軍功があった。



 同年閏六月二十七日

 市来城に日新斎の軍勢が迫り、湯田口で薩州軍と合戦に及んだ。

 薩州軍は実久の弟、島津忠辰が大将を務めていたが、日新斎の軍勢の前に忠辰は討死し、市来城は陥落した。



 同年八月二十八日

 さらに串木野城に進んだ日新斎の軍勢を阻むことは出来ず、串木野城も陥落。

 ついに日新斎と貴久は、薩摩半島の大部分を支配下に治めることになった。



 この時の薩摩半島における版図は、以下の通りである。

 薩州家が出水。

 肥後国の相良氏に与する菱刈氏が大口。

 渋谷一族が祁答院、入来院、東郷院などの川内川流域。

 それ以外が日新斎と貴久が率いる相州家と、これに恭順した氏族が治める直轄地となった。


 薩州家との争いに勝利した日新斎は実久と和睦を図ろうとしたが、実久はなお頑なに面会を拒否し使者を追い返した。

 しかし渋谷一族が出水へ攻めかかるようになり、もはや守護職や宗家乗っ取りを狙うどころではなくなったため、日新斎はこれ以上侵攻されることも、侵攻する必要もない、と判断し一応の決着を見た。

 それからしばらくの間は小さな争いの鎮圧や貴久による支配体制確立のための法度を制定するなど、戦の後始末に追われた。


 ここに一時は宗家さえも凌ぐと言われた薩州家との抗争は終結した。

 三年にも及んだ戦いによって日新斎と貴久は、その武力を以って薩摩国国主の座を手に入れた。



 天文九年(一五四〇年)十一月二十一日

 田布施亀ヶ城は大変な賑わいにあふれていた。

 泰平の世となった事を祝うために、多くの者を招いたのだった。

 軍功のあった者、反攻作戦に協力した者、多くの者が館の大広間に集まっている。


「皆々、今日は遠路よりよく参ってこられた」


 頃合いよく日新斎が音頭を取った。


「又三郎が宗家を継いでから随分と苦労したが、ようやくここらに泰平の世を迎えることとなった。今日は我らが治める各地より名産を取り寄せて馳走するから、存分にくつろいでくれ」

「おお」


 宴の場に出席した者たちは、口々に苦労話を思い出し、軍功を自慢し、酒を飲み、名物料理を口にして、大いに笑った。

 こうして後の世に貴久の御世始の祝言と伝わる祝宴はつがなく進んでいくのだった。


 貴久が宗家を継ぎ、実久に清水城を追われてから約十三年の時が経っていた。

 気骨溢れる頑固者が多い薩摩の人間を相手に十年も調略を重ねて、日新斎は誰が敵で、誰が味方なのかを見極めた。

 そして天文五年(一五三六年)から薩州家との三年間の抗争を経て、ようやく確立した薩摩国支配であった。

 後の世に天下統一まであと一歩まで迫った稀代の英傑、織田上総介三郎信長が家督を継いだ天文二十年(一五五一年)から尾張国を統一したのが永禄二年(一五五九年)。約八年間かかったことを考えると、――もちろんこの二つの氏族の事情は全く異なるので、その偉業を統一された評価軸で判断することは困難であるが――、山城ばかりで進軍にも困難が伴い、兵糧に乏しい薩摩国における支配の確立は、日新斎と貴久ら息子たち、そして優れた家臣団の類まれなる能力がもたらしたものと言えるだろう。


 この時、島津日新斎四十九歳、貴久二十七歳、忠将二十一歳、鎌安丸(後の尚久)十歳。


 日新斎はこれまで後見として貴久と共に実権を握り、田布施にあって軍勢を率いていた。

 この体制は実質的には天文十九年(一五五〇年)頃まで及ぶことになる。

 しかしこの頃より日新斎は第一線を引いて加世田城に入って半隠居を決め込んだ。

 そして貴久に全権を任せる機会が増えていった。


 また、この薩州家との争いを経て武力を以って薩摩国の国主に付いたことは、守護大名島津家から、戦国大名島津家に生まれ変わりつつある瞬間でもあった。



 その後の日新斎の物語は別の機会に任せることにして、物語の主役は、次代の希望を託された貴久へ移っていく。

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