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戦国島津史伝  作者: 貴塚木ノ実
島津乱れる
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第十四話 反撃の狼煙

 日新斎(じっしんさい)による電光石火の反撃の物語始めは、薩州実久が十四代勝久を武力で排除する数年前にさかのぼる。


 南郷(なんごう)という地は、伊作に接しており、薩摩半島の西端、南北に伸びる吹上浜(ふきあげはま)の北にある。

 南郷の拠点は南郷城であり、その城を守るのは桑波田孫六栄景(ひでかげ)である。

 栄景は元を辿ると十四代忠兼に仕えていたが、大永六年(一五二六年)に十五代貴久が宗家を継いだ時に日新斎の配下に組み込まれた。


 翌年の薩州家による清水城貴久襲撃事件の際にも南郷城に攻め手が寄せたが、貴久を失脚に追い込むという目的が達成されたことで無事を得た。

 しかし南郷城は日新斎が領する伊作亀丸城の北、わずか八キロの位置にあった。

 シラス台地を削りとって出来た垂直の空堀は攻めるにあまりに困難な堅城で、ここを実久方が押さえることは薩州家にとっては宿敵相州日新斎の包囲をより強化することにも繋がった。

 それ故に、その後も実久から味方につくよう桑波田栄景に対する調略が続いていた。

 また桑波田栄景も日新斎の勢いは弱く、実久方に与する事に利がある、と値踏みした。


 天文二年(一五三三年)二月十日

 桑波田栄景は実久方に与することを宣言すると、伊作からの日新斎の侵攻に備えるべく南郷城に兵を入れた。

 また日新斎も伊作亀丸城ですぐさま軍勢を起こし伊作と南郷の境界に兵を置いて防備を固めた。


「父上!此度の南郷には是非俺も連れて行ってくだされ。必ずや連中を打ち破ってご覧いれます!」


 伊作亀丸城の本丸で、溌剌(はつらつ)とした若者が上座に座る日新斎に対面していた。

 つい先日十四歳で元服したばかりの日新斎の次男、島津又四郎忠将である。

 その堂々とした若武者ぶりに日新斎は思わず笑みをこぼす。


「気負うなよ又四郎。この度の南郷桑波田との戦はお主の兄も初陣となる。南郷城は堅城故に手間取ると思うが、見事な晴れ舞台を用意してやるから、先ずは兵どもを安んじろ」

「はっ」


 忠将は了解すると退席しかけて、ふと止まる。


「そう言えば昨日兄上に嫡男が産まれたと聞いておりましたが母子とも息災で?」

「おお、そうだ。耳に入っておったか」


 鹿児島清水城を追われた貴久は、ほどなくして大隅国の雄、肝付宗家兼興(かねおき)の次女を娶って正室としたが、子を生むことなく享禄(きょうろく)元年に病を患ってわずか二十歳にして亡くなってしまった。

 その継室として入ったのが島津氏と敵対関係だった渋谷一族の一つ、入来院(いりきいん)十一代当主、重聡(しげさと)の娘である。


 当初、相州家からの婚姻話を持ちかけられた渋谷一族は反対の姿勢をとっていた。

 だが日新斎自ら入来院まで出向き、薩州家と対決することを説いて回った。

 また薩州家の地への領地拡大を狙っていた渋谷一族も日新斎と手を組むことで南方の憂いを断てる、と判断し賛同を取り付けた。

 そしてちょうど年頃だった入来院の娘を貴久の継室に迎えることに成功した。

 継室を渋谷一族から迎えて関係を結ぶことは、日新斎の反攻作戦において極めて重要な意味を持っていた。

 むしろここで継室を迎えることが出来なければ、日新斎はもちろん、島津家の歴史は大きく違ったものになっていただろう。


「どうやら虎寿丸と名付けると言っておったな」

「男子であれば、鎌安丸のいい相手になります」


 忠将は二歳になる弟、鎌安丸のことを思いだしていた。

 忠将は次男という気楽な立場であったから性格に奔放な所があったが、最近、鎌安丸が上手く言葉を話すようになってきたので、その相手をするのがめっぽう楽しかった


「そうだな。又四郎も十四にして叔父だ」

「いやぁ、あまり実感が湧きません」


 そういって日新斎と忠将の父子は笑い合う。


「兄としても、叔父としても、お主には相州を支えるために気張ってもらわねばならぬ。焦ってその生命、無駄にするなよ」

「はっ!」


 父の言葉を胸に、忠将は初陣に備えるのだった。

 ただ日新斎はすぐに南郷城に兵を押し攻めるようなことをしなかった。


 日新斎は桑波田孫六という人の性格をよく見抜いていた。

 まず伊作勢に南郷城を攻め入る気配なし、という情報をしきりに流した。

 そして同時に、伊作にある寺、中島常楽院の住職である淵脇了公という盲僧を偵察に向かわせた。


 いずれ栄景が朝から狩猟に出て南郷城に不在、という情報を掴むと淵脇了公はすぐさま伊作へ戻り日新斎へ伝えた。


「愚かなり、桑波田孫六。油断したな!」


 日新斎はほくそ笑むと、わずか数名を狩人の姿に変えさせて南郷城に向かわせるのだった。



「おおぃ、門を開けてくれえ! 猪が大猟で運ぶのに手助けがほしいと殿の言伝(ことづて)じゃあ!」

「おぉ、そうか!待っておるがよい、すぐに運び手を用意しよう!」


 南郷方の狩人に扮した伊作兵が南郷城の搦手門(からめてもん)の門番に気安く叫ぶ。

 南郷城の門番もその様子を見て何も不審がることなく応えた。


 何の警戒もなく門が開かれると、伊作兵が門番を斬り伏せて合図をした。

 そして近くの山林に隠れていた数百の伊作の軍勢が南郷城に押し入り、あっという間に本丸まで占拠した。

 わずかな抵抗はあったものの、あまりにあっけない攻城戦だった。


 この電光石火の攻城戦の裏には、桑波田一党が謀叛を起こす前から、日新斎が神力坊より栄景に関して入手していた情報が関係している。

 南郷に広がる山野には鹿や猪が大変多く、春になると農作物を荒らしていた。

 栄景は自ら月に幾度と無く頻繁に狩猟に出かけて留守にすることがあり、さらに大猟の場合には運び手を追加するために城に戻らせている、という情報を得ていた。

 その時からこの作戦を思いついており、孫六の供回りの特徴や姿を覚えていた。

 なお、この時に日新斎の二人の息子、貴久と忠将は無事に初陣を果たしている。


 捕縛された孫六の家臣が怒りを露わにして日新斎の家臣に抗議の声を上げた。


「おのれ、日新斎め。卑怯だぞ!」

「何が卑怯か。戦時だと言うのに呑気に狩猟に出るお主の殿と、それを止めぬお前らの先見の無さを笑え」

「なにを……!」

「無益に血を流さぬように、と此度の計略を案じた我が殿の慈悲深さ。仏の道を歩むに相応しい見事な技であろう」

「何が慈悲だ! 何が仏の道だ! 地獄に堕ちろ!!」


 そう口汚く罵った桑波田の家臣は黙りこみ、睨みつける。


 日新斎はその言葉通り、無駄に命を奪うことを避けていた。

 降参して行く宛てがある者は逃がし、行く宛てがないものは相州か伊作へ仕えるように勧め、なお土地にこだわりがある者には南郷城の守りの任を与えると安堵させた。

 その結果、日新斎に心服して仕える者が多く出るようになり、伊作・総州家は精強な軍へと成長していくのだった。



 天文二年(一五三三年)三月二九日

 桑波田永景守る南郷城はわずかな手勢で寄られて落城。

 実久はこの報せに歯ぎしりして南郷城を攻めることを計画したが、八月になって攻め入る相談していることが日新斎の耳に入ることになって頓挫した。

 なお、永景はこれを恥じ入ったのか、伊集院に逃れた。


 また、日新斎はこれ以降、南郷という地名を永吉と改めさせて治めるようになった。

 仏道に帰依して信心深く、後に在家菩薩を自称する日新斎だが、この頃には本人も深く後悔する失敗を犯している。



 同年十二月

 南に伊作、北に市来、東に伊集院に挟まれる所に山田という地があり、その地名を取った山田氏という氏族が代々ここを拠点に置いて治めていた。

 山田氏は日置郡山田を中心に市来辺りまで支配地を置く氏族で、平氏の出であることから源氏の出である島津家とは一線を引いていたが、実久の叛乱の際にこれに与して日新斎と対決する姿勢を見せていた。



 同年十二月二日

 南郷城、もとい永吉城を支配下に治めた日新斎の軍勢は北進、山田式部少輔有親の守る山田城へ迫ったが有親は大して抵抗することもなく、山田氏が治める全ての領地を差し出しすことを記した起請文を差し出して降参した。

 日新斎も有親の姿勢に好感を持ち、代々治める山田のみ安堵することにした。


 しかし相州家家老の鎌田刑部左衛門政年、阿多加賀守は、有親に対する不信感を拭い切れないでいた。


「式部少輔殿は真に当家に服したのでしょうか」

「起請文を差し出したのだ、よほどのことだと思うが」


 日新斎は二人の家老と山田氏の処遇を決めるため、評定を行っていた。


「拙者はどうにも信が置けませぬ」


 島津宗家で老中を務めた阿多加賀守が腕を組む。


「それは何ゆえか」

式部少輔(しきぶしょう)殿……というより、山田殿は代々とても気骨のある一族でして、これと決めたらそう容易く考えを変えない頑固者であると知られておりました。それが先年に薩州に与して当家に反抗の姿勢を見せていたにも関わらず……。此度は大して争いもせずに全ての領地を差し出すとは……。どうにもにわかに信じがたいのです」

「ふむ」

「山田の地は薩州方の市来、伊集院に接する言わば前線拠点になります。薩州も目をつけておりましょうから、また攻められる可能性が高いと存じます。その際に果たしてどのように動くでしょうか」

「……そう言えば、幾年か前に降伏と見せかけて大殿に近づいて斬る計略があるという話がございましたな」


 加賀守がふと思い出したように声を潜めた。


「それよ」

「誠に心を改めているのだろうか」

「ううむ」


 政年と加賀守の間では、有親には二心あり、ということでほぼ一致していた。

 しかし日新斎に最終決定を委ねてこの日は散会した。


 日新斎は大いに悩んだが、有親を問答にかけた後に神慮に委ねた。


「一切の申し開きはございませぬ」


 しかし、有親は一切抗弁することなく、全てを受け容れることを言って処分を待った。



 天文二年(一五三三年)十二月二十四日

 日新斎は山田式部少輔有親の起請文を焼き捨て、切腹を命じた。

 有親もまたそれを受け入れて腹を切り、果てた。


 その後しばらくして、山田城を日新斎自ら訪れた時、まだ退去していなかった母と家臣が涙ながらに訴えでたのである。


 攻められて敢えなく降参するのは、領民を無益に失いたくなかったから、ということ。

 普段から日新斎の評判を聞いており、いずれ鞍替えしたいと言っていたこと。

 また日新斎に届ける予定だった降伏の書簡を見せて、有親の無実を訴えたのだった。


 日新斎は有親の無実を悟ると深く後悔した。

 日新斎はおのれの不徳に涙を流して有親の母や家臣に詫びると、嫡男を召し出して山田蔵人(くろうど)有徳(ありのり)と名を改めて元服させ、日置山田の地を領地を定めて直臣として仕えさせるように取り計らった。


 また貴久にも事情を説明し、山田家の子々孫々まで重用するように願い、貴久代以降もそれに応えて山田氏の氏族は重臣として仕えさせるようになった。

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