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戦国島津史伝  作者: 貴塚木ノ実
島津乱れる
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第十三話 守護実久

 大永(たいえい)七年(一五二七年)八月

 守護職を取り戻したものの、十四代勝久はやはり政務を執り行うには力が足りなかった。

 薩州家は島津宗家に老中を送り込りこんでよく手を尽くしたが、各地で混乱が相次ぎ、争いごとが絶えなかった。


 それから二年あまりの月日が流れ、大永から享禄(きょうろく)の世に移った頃である。


 享禄二年(一五二九年)七月

 豊州家島津忠朝(ただとも)、新納忠勝、禰寝(ねじめ)清年、肝付兼演(かねひろ)、本田薫親(ただちか)、樺山幸久(ゆきひさ)、阿多忠雄(ただかつ)、島津運久(ゆきひさ)。さらには大隅で日頃、何かと(いさか)いのある肝付宗家より兼続など、まさに三州各地を領する錚々(そうそう)たる面々が鹿児島の清水城で一同に会した。


「あれは……一体なにごとか」


 謁見の間の騒々しい様子を奥の間からのぞき見ながら勝久は近習を呼びつけた。

 と同時に、それを無視するように酒の準備を進めていた。


「……何やら殿に面会の上、昨今の三州の情勢について語らいたいとのこと」

「語らい? そんなわけあるか」


 勝久は憮然とした表情を見せる。


「大方、生意気にも俺に諫言(かんげん)しようということだろう。そんなことで俺に会おうとは不届き千万だ」

「ですが……」

「会わんと言ったら、会わん! やつらなんぞ放っておけ! いずれ帰るだろうよ」


 三州の領主たちは何かと小さな諍いが絶えない間柄だったが、今日に限ってはよそよそしさがありつつも茶を飲み交わし、気安く語らっていた。


「肝付のご宗家とは初めてお会いいたしますな」

「肝付河内守(かわちのかみ)三郎兼続と申します」


 そう言って頭を下げた宗家を継いだばかりの十九歳の若者が頭を下げた。


「いや、楽にしてくれ。今日は日頃のことは忘れて島津のご当主と(ねんご)ろになることを第一と考えよう」


 分家衆でも発言力のある豊州家忠朝が仕切りとなって、場は和やかな様子になった。


「肝付高山というと何がございますかな」

「そうですね……山の幸は豊富ですが、やはり志布志湾で採れる魚が旨いです」

「そうであろう、そうであろう」


 同じく志布志湾に面する場所に領地を持つ忠朝が頷く。


「志布志では(はも)という鰻のようなものがよく採れて、焼いて食べるのですが少し泥臭いところがありまして、何か旨い食べ方でもご存知ありませんか」

「そうさなあ」


 兼続の問いに一同は首をかしげる。


「鱧であれば、京料理に鱧の吸い物というものがございまして、あれはなかなか粋なものでございました」


 京の僧を招いてよく和歌の会を興じていた本田薫親が口を開いた。

 島津家中でも最も京に精通している人だった。


「京料理ですか」

「左様」

「しかしこのような西南の果てまで京料理を持ってこさせるわけにもいきませんね」


 兼続は苦笑して冗談を言う。


「いや、京料理を習う者も多いですので雇い入れてはいかがですかな」

「なるほど、その手がございました」

「であれば次に京の方がいらした時にでも、肝付様が京料理を習った方をお探しであることをお伝えしておきましょう」

「それはありがたい、是非ご紹介預かりたい」


 そんな他愛もない話を咲かせながら半刻ほど過ぎて、何杯茶をおかわりしたのかわからなくなった頃、さすがに禰寝清年が苛つきながら呟く。


「いや、それにしてもご当主殿の支度は随分と掛かっておりますな。まさか内裏(だいり)の公家服でも召して会われるつもりなのか」

「そうですな、おい、まだか」

「……お待ちくださいませ」


 近習の者が頭を下げて勝久の元に向かったが、すぐに戻ってきた。


「どうだった」

「あ……いえ……その……支度中にて今しばらくお待ちいただければと……」


 しどろもどろになりながら答える近習の態度に、禰寝清年の声が少し大きくなる。


「まさか会うつもりはないとでも言っているわけではあるまいな」

「そのようなこと、決して……」

「では今しばらく待つが、次の時を告げる鐘が聞こえたら拙者は帰らせてもらいますぞ」

「いやいや、落ち着いてくだされ禰寝殿。ご当主にもご当主なりの考えがあるのだ」


 忠朝は場をなだめるように言って聞かせたが、雰囲気は悪くなっていく一方だった。


「そういえば鹿児島湾の奥や桜島の周囲では海面が泡立つことがあると聞いておりますが、何かございますでしょうか」


 兼続が気を使うように話題を振る。


「ああ、あれは……」


 近くに領地を持つ樺山幸久が答える。


「あれはタギリ、と言って詳しいことは分かりませぬが、どうやら海の底に火ノ山の入り口があって、そこで海の水が熱せられて沸騰しているのではないか、という話です」

「海の底に……火ノ山? それはすごい」


 兼続がやや大げさに反応して場を取り繕った。


「それにしても桜島は収まることを知らず、よく煙を上げておりますなあ」

「まことにその通り。しかしあれも夜に噴火すると、火柱があがって大変美しいですぞ」


 そんな話でなんとなく場を繋いでいる所で次の時を告げる鐘がなった。


「鐘がなりましたな」


 ぶっきらぼうに禰寝清年が立ち上がった。


「腰をお下げくださいませ。禰寝殿」


 本田薫親が制したが、聞かなかった。


「こうしてわざわざ鹿児島まで来たというに、会わぬ会えぬと、ご当主殿が駄々をこねるのであれば、当方とてこれ以上付き合いきれぬと言うだけだ」


 そう吐き捨てて足音を鳴らしながら退室した。


「……」


 一同を重苦しい空気が包み込む。

 それでもこの場を設ける意味を理解している者が残り、なんとしてもご当主にお会いしたい、と再度近習を通して願ったが、それでも勝久が領主たちの前に出てくることはなかった。


 次の時を告げる鐘が聞こえて一人、次の時を告げる鐘が聞こえて二人、と退室していき、最後に残ったのは事の言い出し始めであった豊州家島津忠朝と、守護代本田紀伊守薫親だった。


「……守護代殿、この度はすまなかったな」


 豊州家当主島津忠朝がため息をついて、ようやく口を開いた。


「いや、予想していたことです。豊州殿」


 日新斎に肩入れする樺山幸久、阿多忠雄、島津運久はともかく、この諫言の場に相州家と距離を置く者、特に関係の薄い豊州家も加わって勝久を諌めようとしたことに、重要な意味があった。

 宗家に仕える臣下一同に会うこともせず一蹴したことで、島津家による三州支配は崩壊寸前とも言えた。


「だからと言って、各々が勝手に振る舞うわけにはいかぬ。特に伊東や相良辺りは我らが領土への野心をむき出しにしておるから、隙を見せてはならぬ」


 自分を奮いたたせるように豊州家忠朝は呟いたが、誰も聞いていなかった。



 勝久の悔返から六年。

 享禄から天文(てんもん)に世が移った天文二年(一五三三年)。

 十四代勝久の行いは改まるこなく、ますます荒んでいった。


 勝久の家老、川上大和守(やまとのかみ)昌久は勝久の行いの悪さの根源に勝久自ら直々に召し抱えた末弘(すえひろ)伯耆守(ほうきのかみ)忠重であると突き止めた。

 そして


『伯耆守は奸臣故、これを遠ざけるように』


 と直臣十六名の連判で諫言かんげんした。


 しかし勝久はこれも一蹴して、むしろ昌久を遠ざけるようになった。

 これが一つの事件を呼び起こす。



 天文三年(一五三四年)十月二十五日

 川上大和守昌久は末弘伯耆守忠重を谷山の皇徳寺(こうとくじ)に呼び出した。


 昌久は忠重に宗家仕えから遠慮するように説き伏せたが、これが聞き入れられないと分かるや

「島津御家のため」

 と言って忠重を誅殺し供回りも全て斬り伏せた。


 その報せを受けて勝久は昌久の謀叛かと驚いて、鹿児島湾を渡って大隅国南部にある根占の領地に逃れた。

 しかしそうでないと分かると、二ヶ月後の翌年には密かに鹿児島へ戻った。



 天文四年(一五三五年)四月三日

 十四代勝久は大和守昌久を大興寺(だいこうじ)に呼び出すと、勝久の許可無く忠重を誅殺したことを厳しく糾弾した。

 また道理としても勝久の側に筋が通っていたので、昌久はついに抗うことができずに、大興寺の門外にある毘沙門堂で自刃した。


 続いて勝久は臣下に兵を預けて川上氏代々の居城である川上城を攻め立てた。

 しかし大義のない戦に士気は低く、昌久の室が中心と成って軍勢をまとめて籠城し、見事撃退してみせた。



 これら一連の動きに薩州家実久が激昂し、ついに動いた。

 川上大和守昌久は川上氏嫡流であり、島津五代の頃に分かれた古い分家である。

 庶流の川上忠克が薩州家の家老を務めていた縁から川上氏は薩州家に肩入れしていた。

 実久が川上昌久の弔いを大義名分とすると軍勢を起こして清水城に迫った。



 天文四年(一五三五年)九月

 清水城は慌ただしかった。


「太守殿、どうかお逃げください! 実久の軍勢が迫っております!」

「ええい! 逃げてどこへ行くというのだ! 三州太守が座するは鹿児島以外にない!」


 そう言うと実久は勝久は日向国真幸院(まさきいん)の北原氏、渋谷一族に応援を頼み、谷山の薩州軍と谷山の滑川(なめかわ)神前(かみまえ)城で争った。

 渋谷一族の兵は士気も高く、一時は実久方を谷山の奥まで押し返した。

 しかしこれらの動きに実久軍も手勢を清水城下へ忍ばせると、放火を繰り返して対抗した。



 天文四年(一五三五年)十月十日

 炎に包まれて焼け野原となった清水城下を目の当たりにした勝久は、愕然となった。

 そして自らの力でそれを復興させることも敵わないと悟ると、降参して出奔を決意した。


「おのれ! おのれ実久! おのれ薩州! この辱めはいずれ果たしてくれる!」


 怨嗟の言葉を残し、勝久は渋谷一族の祁答院(けとういん)氏、次いで日向の北郷氏を頼って逃れていった。

 ここに実久が鹿児島を支配する至り、守護職を自称するようになる。


 それら薩州家と宗家を巡る争いを見て、いよいよ日新斎が動き出すことになる。

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