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戦国島津史伝  作者: 貴塚木ノ実
島津乱れる
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第十二話 雌伏の時

 大永(たいえい)七年(一五二七年)六月

 薩州家実久による叛乱は、日新斎と貴久の虚を突く形で成功した。


 加治木城を落として在陣していた日新斎(じっしんさい)は清水城の変の報せを受けて、すぐさま神力坊を放って貴久の無事を確認させた。

 そして貴久らの一行が清水城を退去して田布施で無事であることを確認が取れると、その場で軍勢を解散させた。

 また日新斎は加治木城から小舟を数隻出して海路を伝い、密かに鹿児島の南にある谷山へ、さらに南にある平山へ上陸した。

 満留みつどめ忠実と中条政義をはじめ、わずかな供回りに守られながら、数日かけて山を超えた。

 田布施の亀ヶ城にようやく帰城したのは六月末の事である。


「父上、ご無事で何よりでございます」

「おお、又三郎も随分と難儀したと聞いておる」



 大永七年(一五二七年)七月上旬。

 お互いの無事を喜んだ日新斎と貴久の父子は今後の対応について家老衆を交えて評定を行った。


「薩州殿が軍勢を起こす気配あり、という話は聞き及んでいたので、表立って事を起こすと思っていた。……だが、よもや加治木を囮に本拠を襲うとは、してやられた」

「清水城を襲った兵共の動きに無駄はないように見えました。用意周到に計画されていたことでしょう」

「左様か……」


 日新斎は扇子をひと扇ぎして考えに耽る。


「薩州殿は、ここまで我らを追い込むほど優れた計略を思いつく方でしたでしょうか?」


 家老の誰かが、誰にということもなく疑問をぶつける。


「いや、かの御仁はまだ若年で、さほど優れているようには思えぬ。宗家に異心を抱く薩州方の家老、あるいは宗家内部にも手引した者がいたと存じる。此度の騒動の仕掛けは『三人寄らば文殊の知恵』の言葉の通りではなかろうか」

「ではここで闇雲に鹿児島を目指しても返り討ちに遭うやもしれぬ、と」

「左様」

「この度の騒動で薩州方の手に落ちた城は以前の報告より変わりないか」


 貴久は家臣の一人に尋ねる。


「はい。手前の者によれば、出水の軍勢が日置、伊集院を。加世田と川辺の軍勢が谷山と鹿児島、吉田を抑えております」

「伊作の先代は?」

「それが……どうやら薩州方の川上源三郎という者が入って占拠し、話をしているとか」

「話をしている?」


 思わず貴久は眉をひそめて再度確認する。


「よもや薩州殿は守護職を取り戻そうとしているわけではあるまいな……」


 しかしその不安は的中することになる。

 薩州方家老の川上源三郎忠克(ただかつ)は島津実久の命を受けて伊作亀丸城に隠居していた先代忠兼の元を訪れると、先頃の無礼を深く詫びると共に、守護職へ復帰するように説き伏せていた。


「既に家督も守護職も倅に譲っておるゆえ、復帰することは叶わぬよ」


 最初、忠兼は聞く耳を持たずに忠克を帰そうとした。


「それが叶う(すべ)がございます」

「すべ?」

悔返(くいかえし)と言って、家督を継がせた子孫に罪があれば、これを取り上げて元に戻す法にございます」

「罪……とな」

「はい。聞けば相州殿は姉婿(あねむこ)殿を帖佐の地頭に命じたにも関わらず、不所業ありとして責めるような非情をなさるとか」


 忠兼は眉を潜めて思わず身を乗り出す。


「それは真か。相州殿がそのようなことをなさるとは思えぬが……」

「よく思い出し、お考え下さい、この度の養子縁組と家督相続、果たして自らの御意思だったでしょうか」

「それは……。島津家の繁栄を思えば、家老連中が進言したことだし、俺も納得してのことだ」

「それでございます」


 忠克もまた、ずい、と身を乗り出してさらに言葉を続ける。


「うまく言いくるめられておりませんか。殿はまだだまお若い。ここに隠居するような方ではございませぬ」

「……」


「御意志をくじき、跡目と守護を横から盗むは、三州の太守の地位を蔑ろにする罪にございます。これ以上相州が罪を犯し、島津のご高名が(けが)されぬよう、今一度、鹿児島へお戻り下さい。薩州は先頃のように無理を望むようなことは致しませぬ。離縁なさった薩州の女についてもとやかく申しませぬ」


 そう言って忠克は懐から実久の起請文を取り出し、広げて見せた。


「これは我が殿の心うちでございます」


 そこには確かに自らが奉る神仏に誓って宗家の補佐に専任し、(おびや)かすことはしないと書かれていた。


「……そこまで言うなら、あい分かった」


 その後、伊作亀丸城は日新斎に攻められる恐れがあるから、ということで、勝久と忠克は加治木に移り、実久と面会した。


 加治木城の本丸の館で、上座に忠兼を招き、下座に実久と忠克が座して恭しくこれを迎えた。

 この時十四代忠兼は二十五歳、実久は十六歳である。


「御太守にあらせられましては、この度は大変な苦労をさせて申し訳なく存じまする」


 実久は以前のような不遜な振る舞いは鳴りを潜め、深々と頭を下げた。


「よい。頭をあげよ」

「鹿児島は相州の手の者が残っておりますので、今しばらくここで辛抱仕りたく存じます。おそらく八月には鹿児島へ移れるかと」

「あい分かった。存分に尽くせ」


 実久の以前からはまるで違う態度に忠兼は気分をよくした。

 しかし、深々と頭を下げる実久の顔に邪悪な笑みが満ちていることを見抜けていなかった。


 程なくして出家していた十四代忠兼は還俗(げんぞく)して勝久(かつひさ)と名を改めた。

 そして貴久との養子縁組の解消と家督相続の無効を記した書状を送りつけてきた。

 その書状の一文には「悔返」とあった。


「悔返とは……我に不徳があったというのか!?」


 貴久は苛立ちを隠そうともせず、書状を引き裂かん勢いで拳を握りしめた。


「薩州の川上某の入れ知恵でございましょうな。先代に此度のような小癪(こしゃく)なことをやってのける程の器量はございませぬ」


 貴久の宗家相続に手を尽くした宗家老中の阿多加賀守が吐き捨てるように書状を一瞥(いちべつ)した。


「だからと言って『ハイ、分かりました』とこれに従うわけにはいくまい」


 日新斎は先代に真意を問うため、使いの者を差し向けたが、勝久からは納得のいく答えは聞き出せなかった。



 それから数日後、日新斎は心を定めて貴久と家臣たちに方針を示した。


「伊作は代々我らが治める領地ゆえ、これは今すぐ返してもらう。しかし薩州殿はよほど腹を据えかねていたようであるから、今はそれ以上の軍勢は起こさず、先代と三州の様子を見て力を蓄えることにする」


 そう言うと、貴久には田布施城の守りを命じて加世田と川辺の抑えとし、日新斎は六百余りの人数を集めて伊作亀丸城を攻める軍勢を起こした。

 城攻めと言うにはあまり少ない人数だった。


「伊作城は殿自ら造成を繰り返して守りを高めた堅城にございます。この人数は少ないように見えますが大丈夫でしょうか」


 進軍中に不安がる家臣を見て、日新斎は口元を緩める。


「なあに、自ら手塩にかけたからこそ各々の城の兵の置き場所や人数にコツがいることを分かっているのだ」



 大永七年(一五二七年)七月二十三日

 その言葉の通り、日新斎は亀丸城を包囲すると伊作の領民たちの助けもあって城攻めとしては余りに速い、わずか半日で落城させると、すぐさま守りを固めた。

 伊作の領民たちも元の主が戻ってきたことを祝い、泰平の祝宴を上げた。

 そして日新斎と貴久は薩州家に反抗することなく雌伏を決め込んだ。


 この時の日新斎の判断は実に正しかった。


 伊作、田布施、阿多などの地を領する相州家は、北には日置と伊集院、南には加世田と川辺、東には山を超えて谷山が薩州家が領しており、包囲されている状態だった。

 また薩州では、もし日新斎が三方の地いずれかに戦を仕掛ければすかさず本拠の田布施を攻める、という取り決めがあった。

 しかし、日新斎の伊作亀丸城攻略が余りに迅速だったため対応できなかった。

 そのことから薩州では「日新斎恐るべし」の評判と共に、無理に手をだすこともできなくなって、事実上お互いに動きがとれない状態となっていた。


 無論、日新斎と貴久はこれを黙して忍ぶばかりではなかった。


 加世田の南、日ノ本三大津の一つ、坊津で大水軍を抱える坊津(ぼうのつ)衆。

 知覧を治める佐多氏。

 薩摩半島の南端の霊峰開聞岳(かいもんだけ)の麓を治める頴娃(えい)氏。

 谷山の南にある喜入(きいれ)氏。


 ……と、薩州家のやり方を快く思っていない薩摩半島の南部の地を領する氏族に探りをいれ、(よしみ)を通じ、「機が向けばいずれ」と調略工作を始めるのだった。



 大永七年(一五二七年)八月

 再び守護職をその手に取り戻した十四代勝久は、一時的に滞在した加治木から鹿児島清水城へ入城。

 守護大名島津宗家として振る舞うようになったが、この騒動の影響ではやはり上手くいかず、領地を預かる諸将からも不満の声が露骨に出るようになっていた。


 まず、島津家と相容れずに独自の統治を貫く北薩の雄、渋谷一族が度々大隅国の蒲生を経由して帖佐まで攻めこんで領地の拡大を狙ってきた。

 さらに肥後の相良氏は大口の菱刈氏と組んで北薩進出を狙い、出水の薩州家と三つ巴の様相を呈していた。


 そして日向では都之城に本拠を置く北郷氏、飫肥の豊州家、新納氏、そして伊東氏と肝付氏が入り乱れて幾度と無く、まさに泥沼の争いを繰り返していた。


 薩州家と相州家の争いを発端にした島津家の騒動はまさに史上最悪の混乱期でもあった。

 その騒動も、大永から享禄(きょうろく)の世に変わった頃に、重要な転機となる事件が起きる。

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