表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦国島津史伝  作者: 貴塚木ノ実
島津乱れる
12/82

第十一話 清水城襲撃

 大永七年(一五二七年)四月

 島津陸奥守(むつのかみ)又三郎貴久は十三歳にして島津宗家十五代を継いだ。


 日新斎は早速後見として、貴久の支配体制を強化するために行動を移す事にした。

 まずは加治木(かじき)城の外城の一つである生別府(おいのびゅう)城に船で渡ると、島津家四代から分かれた古い分家である樺山広久の元に訪れ、嫡男の鍋千代を自ら加冠を務めて元服させた。

 そして名前を樺山(かばやま)太郎善久(よしひさ)とした。

 善久はこの時十四歳であったが、武士の習いをよく修めていたことで日新斎はとても気に入り、島津宗家直臣として仕えるように命じた。

 さらに後年になるが、太郎善久と年が近い日新斎の双子の次女、御隅を正室に嫁がせて重用した。

 善久もまた、この期待に応えて、よく働くのであった。


 また日新斎は、帖佐(ちょうさ)辺川(のべかわ)の地と、加治木の中洲の地を、忠兼以来の島津宗家直臣の肝付三郎五郎兼演(かねひろ)に与えた。

 また帖佐の地頭職には薩州家の庶流の家ながら日新斎の姉が嫁いで血縁関係にあった島津昌久を任命して支配体制の強化に務めた。

 こうして日新斎の後見を得た十五代貴久の治世は始まったが、やはり薩州家が黙ってはいなかった。


 大永七年(一五二七年)六月

 日新斎を驚かせたのは、島津宗家十五代貴久の命で帖佐の地頭職を任せた昌久が謀叛を起こした、という急報だった。

 家督を相続してから僅か二ヶ月後の事である。


「そんなはずがあるか! 姉婿殿と拙者は気心の知れた間柄である!」


 気色ばんでその報せを疑う日新斎は、大きく(かぶり)を振って使者に何度も確認した。


 昌久は確かに地頭の任を受けた時には恭しく頭を下げたはずである。

 しかし薩州家実久による貴久の宗家相続の異議に賛同して、伊集院重貞と共に加治木城に立て籠もってしまった。

 言わば、忠良との姉婿という縁よりも、薩州方の血縁を重視したのである。


 島津昌久の謀叛をどうしても信じることができなかった日新斎は、神力坊を放って探らせた。

 しかし確かに加治木城には篝火(かがりび)が焚かれて、一戦交えん勢いで兵が入っているとの報告があがってきた。

 ただその兵の人数は百もいない、とあったので清水城に常駐させていた手勢八百余りを連れて日新斎は加治木城まで軍を進めた。


 島津昌久と伊地知重貞が立て籠もった加治木城は、背後には名瀑(めいばく)龍門滝(りゅうもんたき)を擁する網掛川(あみかけかわ)日木山川(ひきやまかわ)に挟まれた丘陵地に築かれた山城である。

 小規模ながら切り立ったシラス台地が攻める者を拒む堅城であった。


 帖佐城まで軍勢を進めて加治木城と睨み合いになった日新斎は、降伏を進める使者を何度か出すが、会うことも叶わず無碍に返されるということが続いた。


 大永七年(一五二七年)六月七日

 その昌久も加治木城を包囲されて幾日か立ち、思う所があったのか、ようやく使者に会う旨を申し伝えてきた。

 そこで、日新斎は使者を立てて開城するように、という言伝を頼んだ。


 しかしその使者は迎えた島津昌久、伊集院重貞を館の玄関で討ち果たしてしまった。


「どういうことだ! 拙者は命を奪えとは言うておらん!」

「宗家より密命を預かり、事と次第によっては誅殺すべしとのことでした」

「宗家が……!? 貴久がそんな命を下すはずがなかろう! それは一体どういうことだ!」


 使者の任を与えたのは宗家より派遣されていた川上某という者で、自ら使者に志願したので命じたものだった。

 日新斎の命令に反したこの男に激しく激昂した。

 しかしいくら問答しても何かと言えば


「宗家の意向にて」


 と応えるばかりで全く話にならなかった。


 日新斎は命令を違反した川上某を捕らえるべきか迷ったが「宗家の意向」と言い張る相手をどうすることもできず、ひとまず保留とした。

 しかし一方で結果的にとは言え、自ら姉婿を誅殺した事実に日新斎は深く嘆き悲しんだ。


「これも戦国の世の慣わしなのか」


 日新斎は供養の塚を作らせて、手を合わせながら涙を流した。


(僧籍に入ってから戦で人を殺めることになるとは、我が仏道のなんと険しいことか……)


 どこか心のうちに虚しさを覚えながらも、日新斎は島津昌久に命じていた帖佐の地頭職を肝付兼演に与えると、帰国の準備を始めた。



 こうして日新斎による加治木征伐が終えた頃、一方で貴久の命に関わる危機が迫っていた。


 日新斎が軍勢を起こして加治木に出兵した時と同じく、薩州家島津実久は出水で軍勢を起こした。

 そして南下すると日置城、続いて伊集院にある一宇治城を攻めて落城させたのだ。

 落城させた伊集院城の城主に薩州家の家老、町田久用(ひさもち)を命じると、伊作の亀丸城に隠居していた島津忠兼の元に家老の川上忠克(ただかつ)を使者に立てて訪れさせた。


 また同時に薩州方の加世田、川辺かわなべの兵を、東へ一山超えさせて、鹿児島湾を望む谷山城を襲わせ、ここを占拠した。

 谷山城は島津宗家の本拠、清水城の南に位置しており、ここを抑えられることは鹿児島の喉元に食いついたも同然だった。


 なお、ここまでで日新斎が加治木に出兵してからわずか一週間後になる六月十一日の出来事である。

 さらに谷山城を出立した少数の軍勢が密かに清水城に迫ろうとしていたが、清水城には未だ事態の急報が届いていなかった。

 また貴久もそれを知らず、加治木の仕置や三州平定の道筋について案じていた。


 異変に気づいたのは諸用があって城下の庄屋まで出ていた貴久の乳母だった。年は六十になろうかという老婆である。

 谷山から来たという農商が、娘を奉公を出している清水城下の庄屋の元を訪ねて話しているところを、老婆がちょうど耳にした。


「十字の旗を掲げているから島津様の軍勢とは思うんだがね、どうも様子がおかしい」


 そう言って農商が首をかしげる。


「おや、と思って谷山の山城を見ても争いごとがあるような雰囲気でもないんですよ。うちのお隣さんが兵に知ってる顔がいたっていうんでどこの誰かと聞けば、どうやら加世田の人らしいんです」

「加世田? 加世田っていえば薩州の島津様の軍勢じゃないか」

「やはりそうですよね。何か揉め事でも起きたんですかねえ」


 そこまで聞いて貴久の乳母は急いで清水城に走り戻ると、貴久に町人の会話をそのまま告げた。

 貴久は話を聞いても驚いて慌てることもなく、善後策を話し合うべく主だった家臣を集めた


 にわかに緊迫感が高まる清水城の本丸に集まったのは七名ばかりの家臣である。

 家格の差こそあれ、いずれも貴久と日新斎に忠誠を誓った者たちばかりだった。


「それはつまり、薩州殿が谷山に攻め入ったか、あるいは谷山が薩州殿と通じているということだ」

「おそらくは、そうでしょう」

忌々(いまいま)しいのだ薩州殿だ。一体何をお考えなのか。清水に迫るとあっては宗家に対する反逆行為ですぞ」

「大殿が加治木に出兵するのと同時に攻め立てるということは、加治木の叛乱は囮。清水に迫ることが本筋だったということか」

「伊予守殿、善左衛門殿、お気持ちはわかるが今は薩州殿への恨み節よりも、今はこの危難を打破する手立てを立てましょう」


 十四歳ながら冷静な貴久は、息巻いて顔を赤らめる年長の山田伊予守と長井善左衛門を諌めた。


「承知している話とは存じるが、取るべき道はいずれか二つ。逃げるか、戦うか、ということだ」


 貴久の言葉はいずれも困難を伴うことが明らかだったため、家臣団は答えを出せずにいた。


「薩州殿は確かに反逆者であるから、これにおめおめと逃げ去ったのであれば武士の面目も立たぬ。また義父が()だからこそ、と信じて任せた守護職を力づくで奪い取る所業を放っておけば三州はますます荒れてしまおう。ここは断固として抗すべきではないかと思う」

「ですが、清水の手勢は相州様が連れて加治木におります。ここに残っている人数は二百もありませぬ」

「加世田の人数は確か八百、谷山は九百は動員できると聞いている。少しは城の守りに残すだろうから、清水に迫る人数はおよそ千五百ほどと思えばいい。清水は二百程度とは言え守りは堅いから要所に人を配して、加治木から父と人が戻る時間は稼げるはずだ」


 しかし貴久の冷静な分析は、むしろこの状況の悪さを際立たせた。

 だが、だからといってこれを打破する妙策もなく、家臣団は一様に黙りこむ。


「……報せはございませぬが、薩州は出水の兵も動かしているいるはず。となれば南へ日置を攻めたか、或いは渋谷党と組んで蒲生、吉田まで迫っていれば加治木の大殿の兵と鉢合わせすることになります。そうなると兵どもは無事に戻れますでしょうか」

「こちらには守護の大義名分と島津家正当を示す御重物がある。……であれば必死の気概で守り、無理なら腹を切るまで」


 貴久の悲壮な決意に家臣連中はその気勢を(おもんばか)って何も言えなかった。

 守りを敷いて薩州の敵勢に対抗する、と決まりかけた雰囲気に口をはさむ者がいた。


「殿、それはなりませぬぞ」


 口を開いたのは、相州家から代々仕える園田筑後守(ちくごのかみ)清左衛門実明だった。


「筑後守、出過ぎですぞ」


 若い祐宗が思わず制する。


「黙らっしゃい!」


 余りの剣幕に若い祐宗は首をすくめて口を閉じた。


「それがしは殿がこんな所でむざむざと死ぬために仕えたつもりはございませぬ」

「しかし、これは武士の面目……」

「しかしもヘチマもございませぬ! 生きて機を図るのです! 薩州を討って恥をすすぐことも武士の面目ではございませぬか!?」


 若い貴久は、この血気盛んな中年の言葉に気圧された。


「御宗家は十一代忠昌様がお亡くなりになって十年も経たぬうちに次々と当主が変わりました。さらに先代様は大変評判悪く、鎌倉以来続く天下に名高い島津の武名はもはや天運に見放されたのだ、と皆思ったものです。ですが天は見捨てぬもので、伊作より殿のような賢人を遣わしました」

「……」

「お殿様は宗家だけではなく、三州平穏の世をもたらすために天が遣わした最後の望みなのです。私はそれを誇りにここまで仕えてきたつもりです。それがここで死を選ぶとは天の使命に背くことのようにさえ思います」

「ではなんとする」

「ここから西、小野村という拙者が拝領した地があり、自宅を構えてございます。一度そこに潜まれて、静まった頃に抜け出しましょう」


 実明強い想いに一同黙りこみ、場を包んでいた決死の覚悟は早速くじかれてしまった。

 園田実明が領する小野村は清水城より西へ六キロ、甲突川(こうつきかわ)を超えた先にある宗家直轄地で、そのすぐ北には武岡(たけおか)と呼ばれるシラス台地があった。


「……では、私めが先を行きましょう」


 その話を聞いて進み出たのは貴久は乳母であった。

 貴久の乳母は宇多貞次という、伊作家に古くから仕える家臣の娘で、井尻祐元に嫁いだ。

 祐元には日新斎に仕える神力坊宗憲と、この清水の評定にも出ていた祐宗という二人の子がいたが、なんとこの宇多貞次の娘は四十五にして次男の祐宗を産み、貴久の乳母も務めていた。


「よろしいのですか、母上」


 井尻祐宗が不安そうに六十にもなろうかという母を気遣う。


「武士が急ぎ足で城下を走れば城に潜む薩州方に何事かと目をつけられぬやもしれません。私のような老婆が野菜を売る農人にでも姿を変えれば目に止まらぬでしょう」


 乳母はそう言うと、小野村まで何知らぬ農民の姿で野菜を売りに行く風体で城を出て、先を行きながら道を確認すると、決死の脱出作戦が始まった。




 大永七年(一五二七年)六月十五日夜

 清水城の大手門と搦手門に加世田、川辺(かわなべ)、そして谷山の兵まで加えた薩州の軍勢が迫る。

 陽が沈んだ後になって、その裏手口を乳母の手引で十五代貴久一行わずか七人を引き連れて清水城を脱出。

 さらに先に戻った実明の手はずで小野村に入った。


 薩州家の軍勢も、特に抵抗なく清水城に入城できたことから、貴久が既に脱出したことを知ると、五十づつの手勢に分けて探索させた。

 それから程なくして貴久一行が潜む小野村の園田宅に騒々しく追手が訪れたのだった。


「こんな夜中になんと騒々しい。失礼ではないか」


 自ら薩州の兵を迎えた実明は寝巻き姿で今起こされた、と言わんばかりに不機嫌そうに応対する。


「礼を失すること誠に申し訳ない。此度(こたび)、薩州殿の命で宗家の跡目を乗っ取った者共を探しておる。こちらに参ってはおらぬか」

「宗家に仕える我が身に乗っ取りと言いのけるとは穏やかではないな」


 憮然とした表情で睨みつける。


「こちらには参っておらん。太守公は聡明であるから無理に宛もなくこちらへ逃げるよりは、加治木におられる相州様と合力するために北に向かうのではないか」

「念のため敷地をあらためさせてもらってよいか」

「……よかろう。(はなは)だ無礼であるが、この際いらぬ疑いを持たれても仕方がない。手短に済ませよ」


 軽く舌打ちして何人かの手勢を敷地に入れると、薩州兵たちは貴久の足跡がないか調べ始めた。

 実明は平静を装いながら高まる胸を抑えこむ。

 実明は貴久一行を何人かに分けて自宅の外の古くからある小さなお堂と、屋敷の裏手にある山林に潜ませていた。


 そして五人組の兵が、貴久が潜むお堂の前に差し掛かったところで草木がこすれ合う、がさりという音が聞こえた。

 兵は反射的に刀の鯉口を切って、身構え闇夜を睨みつける。

 それを後ろから見ていた実明と、お堂に潜んでいた貴久とそのお供の間に


(よもやこれまでか……!)


 と緊張が走った。


「誰ぞいるのか!」


 しかし鋭い声に応えたのは、狐の親子だった。

 屋敷のどこからか入り込んだのだろう。睨みを利かす人間たちにちらりと一瞥をくれる。

 お堂の裏の茂みから出てきて一つ欠伸をすると、また特に慌てる様子もなくどこかへ姿を消してしまった。


「……なんじゃ、狐か」

「見たかよ、あの狐。かように安心しきって林に戻るとは、ここで荒事は起きておらぬということだ」

「それもそうか……」


 五人組の兵は互いを納得させるように顔を見合わせると実明に頭を下げた。


「この度はこのような夜遅くに大変失礼つかまつった。平にご容赦願いたい」

「うむ。このようなことは二度あってはならぬと心得よ」

「……は。では」


 実明一世一代の大芝居は、狐によって救われた。

 また薩州方も貴久一行は加治木へ向かったのだろう、と判断して追手を解散させると鹿児島一帯の城下は次第に平穏を取り戻していった。


 さらに夜は更けて往来の安全が確認されたところで、実明と貴久一行は谷山の山奥にある五ヶ別府(ごかべっぷ)の郷士を呼び出した。

 そして道案内をさせると、実明はそのまま五ヶ別府で別れた。

 さらに五ヶ別府の村で田布施まで道案内できる者を呼び出し、数日かけて金峯山の裏手に出た。


 貴久らの一行が田布施の本拠城、亀ヶ城までようやく戻ったのは襲撃から三日後のことだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ