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戦国島津史伝  作者: 貴塚木ノ実
島津乱れる
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第十話 貴久、宗家を継ぐ

 忠良にとって虎寿丸(とらひさまる)を養子に出して宗家に継がせることはあまり進まない話だった。

 忠良から見ても、虎寿丸の振る舞いは大器と期待させた。

 相州家を虎寿丸に、伊作家を次男に継がせることができれば、家に殉じた母の苦労に報いることができる。

 そう考えていた。


 しかし宗家の窮状を訴える阿多加賀守ら家老たちの話を聞き及んで、自分の進もうとしていた道に迷いが生じる。

 その迷いを振り切るため、連日に渡って禅寺で瞑想して仏道に励み一つの考えにたどり着いた。


(相州家の領内だけではなく三州平穏な世を望むならば、嫡男を宗家を継がせることで、仁政を敷くことも大事なことではなかろうか)


 またそのような大それた望みを自分が果たせるだろうか、という不安もあった。

 しかし虎寿丸とその次男、そして自らが後見につき、忠節を尽くしてくれる家臣団を築き上げれば、その考えも間違いではないと思うようになった。


 大永(たいえい)六年(一五二六年)十一月六日

 鹿児島本拠清水(しみず)城にて、忠良と虎寿丸、そして十四代忠兼は面会を果たし、養子縁組の起請文(きしょうもん)を交わした。

 忠兼も薩州家支配からの脱却や三州守護であることを示すために、また忠良の英断に対する賞与として伊作・相州家に日置(ひおき)を始めとした幾つかの領地が与えられた。

 さらには、桑波田(くわはた)孫六という将が城主を務める伊作にほど近い南郷とその城が与えられた。

 忠良もまたそれを受けて孫六を城主に据え置いたので、孫六もそのまま忠良の配下という扱いになった。


 同年翌日、十一月七日

 伊集院の一宇治(いちうじ)城に移動して守護職を譲ることについても起請文を交わした。

 こうして虎寿丸は正式に島津宗家の家督と守護職を継ぐことが約束された。

 計画を中心的に進める立場にあった相州方の家老たちは、大いに安堵した表情で起請文を取り交わす儀を見守った。


 同年十一月二十七日

 島津宗家十四代忠兼の養子となり、守護職禅譲と同時に島津忠良の嫡男、虎寿丸は元服して島津陸奥守(むつのかみ)又三郎貴久と名を改めることが宗家家中の家臣団にも了承された。

 また同じ時期に忠良は入道して日新斎(じっしんさい)と名を改めた。


 島津日新斎とその嫡男、島津貴久。

 ここに、後の世に「島津家中興の祖」と崇め奉られる英傑の名が世に顕れた。


 しかし英傑の治世は最初からつまづいてしまう。



 先日、忠良にあてがうことを約束した帖佐(ちょうさ)の地頭には、薩州方に与する辺川(のべかわ)筑前守(ちくぜんのかみ)忠直が治めていた。

 辺川忠直は事前に相談もなく決められた配置換えに憤慨して反発し、宗家の使者を追い返すと、兵を城に入れて籠城の構えを見せた。


 日ノ本の統治体制は、天照大神(アマテラス)を祖にもつ天皇が朝廷にあって統治あそばれているものであり、その天皇に委託された氏族が実務を執り行う、というのが万民共通の認識であった。

 つまり日ノ本の成り立ちを示す日本書紀によれば、天皇の代わりに世を治めるのは蘇我氏であり、大化の改新のような政争を経て中臣氏、変わって時代が移れば公家となった藤原氏。

 実務担当者が武家に移って平氏、源氏、そして足利氏ということになる。


 さらに政務を任された頭領は、各氏族の配下に守護の名目を与えて、各地方の管理と経営の役目を任せる。

 その各地の守護の下に生活する農民や商人などがいる、というのが日ノ本の統治体制である。


 この仕組み自体は長い時を経て元号が昭和になり、日本国が世界を巻き込む戦争に敗北したことによって、天皇が憲法上で政治運営や主権を持たない象徴と成った現代においても、基本的には変わっていない。

 日ノ本を武力によって治める統治者から、実務上の主権を国民が有していて、国民の主権によって選ばれた統治者が政治を執り行っている、という違いに過ぎない。



 当世、足利幕府によって任ぜられた各地の守護大名には自らの分家や家臣に領地を与えたり、支配領地を変更する専権が与えられている。

 その権限があるからこそ、分家や家臣に領地の経営を委託しているにすぎない、というのが名分である。


 守護の名目と実務上の支配者の行き違いによって政治上の混乱が多いこの頃は大義名分が重視されていた。

 辺川忠直の行いは、三州守護職の任を任せられている島津宗家の命令に背く反逆行為であることは明らかだった。

 しかし応仁・文明の乱以降の足利幕府の形骸化は、島津宗家の統治能力の衰えも意味するところであり、大義名分の道理が通らないのが戦国の世である証とも言えた。


 ともあれ、これを受けて十四代忠兼は正式に家督を貴久に譲渡する前に、宗家反逆者征伐を決定し、帖佐出兵命令を下した。

 その任を受けたのは、島津忠良、改め、島津日新斎である。

 

 命を受けた日新斎は急いで伊作家と相州家の本拠である田布施(たぶせ)の亀ヶ城に戻った。

 そして軍勢を起こし、仕えていた臣下の将を亀ヶ城の館に集めた。

 日新斎が領地で軍を起こしたのは十一月中旬のことで、農閑期に入った時期だった。

 そのためか仁政を敷く大殿のためならば、と領民たちも奮って徴兵に応じると、あっという間に二千人を超える軍勢が出来上がった。


 日新斎は金の装飾を施し、赤糸で縫い合わせた大鎧を身にまとって出陣の支度を済ませると、板敷きの大広間に将たちを集めた。

 将たちもまた、各々家に伝わる大鎧を身につけてはやる気持ちを抑えて伊作・相州家の君主の前に座する。


 日新斎はその手に兜を持って、忠節を尽くしてくれる臣下の顔を見渡した。


「いよいよ我らも戦乱の世に投じることになった。なんとも心苦しいことではあるが、各々尽力してくれ」

「頭を上げてくだされ、殿。畏れ多いことです」

「戦の槍働きは武士たる見せ所でござれば、その機会を与えてくれた殿には感謝したいくらいですぞ。存分に我らに命を下してくだされ」


 臣下の将たちの心強い言葉を聞いて日新斎も満足すると鬨の声を上げて出陣を命じた。


 また、これを機に日新斎の馬を引き、その間近で槍を奮う者として満留(みつどめ)郷八左衛門尉(ごうはちさえもん)忠実(たださね)と中条次良右衛門尉(じろうえもん)政義(まさよし)に定めた。

 満留郷八左衛門は伊作家に古くから仕える満留吉左衛門の子で、吉左衛門は先日、鹿児島清水城で十四代忠兼と面会する儀にも参列している。


 いよいよ出陣となって、日新斎は馬にまたがる前に元服したばかりで緊張する若い二人に笑みを浮かべて心安く話しかける。


「戦場での俺の命はお前たちの働き次第である。任せたぞ」


 満留忠実と中条政義は感動して顔を見合わせると、力強く頷く。


「勿体ないお言葉……。我が命、殿に捧げて尽くします!」


 戦において、進軍中に将が乗る馬の手綱を引いたり、将を守る役目に当たる者を馬廻衆と呼ぶ。

 敵方の槍が迫る危難の時には我先に逃げることは絶対に許されないし、槍を奮って馬上の大将を守ることもある。時には伝令役としても働かなければならない。

 馬廻衆を務めるには勇気があり、槍を奮う力があり、賢くある必要があった。

 そのため、限られた者、さらに認められた者しか務めることができない、大変名誉なことであると同時に、重大な任務と責任を帯びていた。

 日新斎に信を置かれて固い絆で結ばれた二人は、まさに命を懸けて、文字通り生死を共にすることになる。


 また別に、日新斎は重大な任務を与えるために、ある者を呼び出して仕えさせていた。

 名を井尻(いじり)神力坊(じんりきぼう)宗憲(むねのり)

 生まれ年は不詳であるが、日新斎三十五歳の時に一回り若い容姿であった。


 宗憲は古くから伊作家に仕える家臣、井尻祐元(すけもと)の子で、金峯山修験道(しゅげんどう)の山伏として修行に励んでいた。

 たいそう頑丈な身体をしており、修行のため道無き道を歩き、山をまたいで谷を超え、川を泳いでも疲れを見せずに、ケロリとしていたことから


「まるで神の力が宿っているようだ」


 と褒めると、神力坊と称させた。

 日新斎は井尻神力坊を呼びつけると、山伏の姿をさせて密命を与えた。


「帖佐に入り敵情を探れ。できるな?」

「はっ。問題なく」


 井尻神力坊は力強くうなずき、落ち合う場所を帖佐の手前にある集落、吉田郷の八幡(はちまん)神社に定めると、闇夜の山野に姿を消した。


 この頃は山の道に詳しい者といえば山伏や木こりなどであり、密かに敵情を探る命を帯びることは珍しくなかった。

 つまり、井尻神力坊は後の世に「忍者」と称される者の先がけである。

 また薩摩の地では「忍者」のことを「山くぐり」と称した。

 「山くぐり」がもたらす情報は時には合戦の勝敗を分かつ重要な手がかりとなっていく。


 万全の準備を済ませると、日新斎の軍勢は田布施を出立した。

 なお、貴久は大永六年(一五二六年)十一月十八日に鹿児島清水城に入っており今回の軍勢には参加していない。


 また、十四代忠兼の命令で肝付兼演(かねひろ)など直臣の者を配下に加えた。

 この帖佐征伐が相州家と薩州家の私闘ではなく、あくまで宗家の大義名分の元にあることを示す目的があった。


 道中滞り無く進軍し、日新斎は吉田の南の端にある八幡神社で戦勝を祈願しているところで神力坊と落ち合った。


「この先にある吉田松尾城は御宗家の御達しが及んでおり門を開けておりますので、軍勢を入れて整えることに支障はございませぬ。帖佐に近い岩剣城を過ぎた辺りで島津善左衛門殿の軍勢が陣をはっております。その数およそ三百余り」

「島津善左衛門殿は薩州殿の手先か……。この近くで兵を休ませることを考えているが、場所はあるか?」

「この先の台地を登って降りた元吉田という地に、かつて吉田氏が治めた古城跡がございますので、そこであれば問題はございませぬ」

「よしわかった。また山に潜れ」

「はっ」


 日新斎は落ち合う際の合図を定めて神力坊を再び夜に放つと、古城跡で一旦休憩した。

 そこからさらに移動して吉田松尾城に入って兵たちに武具を装備させて、陣容を整えると、いよいよ帖佐に迫ろうとしていた。


 大永六年(一五二六年)十二月。

 寒い日が続いたが、日新斎の軍勢は士気が高かった。

 鬨の声をあげると猛勢となって帖佐城へ攻撃を開始した。

 先陣を張った島津善左衛門はよく戦ったが、数に勝る日新斎の軍勢にたまらず敗走し、帖佐本城に入った。

 その帖佐城でも忠直と島津善左衛門の軍勢はよく対抗したが、惣禅寺口で七、八回と攻めかかられて討死し、遂に帖佐城は落城した。


 大永六年(一五二六年)十二月七日のことである。



 こうして宗家の威信をかけた帖佐征伐はこともなく成し遂げられたが、薩州家とは敵対関係になってしまったのは明白だった。

 しかし、薩州家島津実久……というよりは、薩州の家老衆はすぐさま反抗の軍をあげることをせず、冬を越すまで表向き静観を決め込んだ。


 なお、この軍功で日新斎は伊集院を与えられている。

 伊集院は伊作から二十キロほど北にあり、鹿児島と市来、串木野、そして出水を繋ぐ要所だった。

 また伊集院は本来豊かな田畑が広がる場所であったが、相次ぐ内乱の影響ですっかり荒れ果てていた。

 そこで日新斎は谷山や伊作の農民に命じて伊集院に移させると、田畑を耕させて、伊集院も次第に豊かな土地になっていく事になる。



 大永七年(一五二七年)四月十五日

 正式に島津又三郎貴久が島津家十五代当主を継ぎ、三州の守護に就いたのは年が明けてからの事だった。

 また、十四代の当主だった忠兼は出家すると、日新斎の奨めもあって伊作の地に入って隠居した。


 こうして順調そうに見えた日新斎と貴久の治世だったが、早くも危機が迫ろうとしていた。

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