クリスマス
「だからっ!さっきから何度も言ってるでしょっ!もとの場所に戻したってば!」
「あのなっ!その場所にねーから言ってんだよっ!」
クープナイフ(バケット等の切り込みをいれるための剃刀)1つでこの騒ぎだ。
だが、クリスマスが目前に迫るパン屋は戦場さながらであり、周りの者達は「またやってるな…」と聞き流す。
出身高校が同じで同期入社した“春”と“シュウ”は同い年だが姉弟のような感覚だ。
春は実際長女であり下に弟がいるが、決してしっかり者ではない。その上筋金入りの負けず嫌いなので達が悪い。
シュウは兄がいるが、年がだいぶ離れている為1人っ子のようなもので、自由奔放で甘ったれだ。
今年で入社して4度目のクリスマス。ケーキの仕込みとパンの製造の両立もだいぶ慣れてきた二人は、喧嘩をするくらいの余裕もある。
「衣笠、ちょっといいか?」
「はい!」
春に声を掛けて来たのは大江副店長だ。大江は入社当時から春を実の妹のように可愛がってくれている。春もそんな大江のことを兄のように慕い、素直だ。
「このカンパーニュの生地だが………」
その日仕事が終わったのは20時。ここ最近の中ではかなり早い時間だった。
珍しくシュウが「飲んで帰ろう。」と誘うので付き合った。春は梅酒をロックで4杯程飲んだ。いつもなら平気でシラフと変わらないところだが、疲れていたせいか、かなり酔ってしまい足下が覚束ない。シュウは仕方なく春の荷物とその腕を抱え店を出た。外はいつの間にか雪がちらついており、時折凍てつくような風が吹き付ける。
「…寒い。」
近道の公園でシュウに手を引かれながら春が呟く。
「我慢しろよ。」
「やだぁ。寒いもん。寒いぃ。」
酔っている春はいつも以上に容赦ない。
「…いい加減……しろよ。黙らないんなら…………するぞ。」
「へ?」
ぼんやりしていた春はほとんど聞き取れなかった。
ん?
あれ?
気がつくと口に何かが触れている。
あ…………私ちゅーされてる。
意識が朦朧としてはいたものの何故か冷静な自分がいることに春は驚く。拒むことも出来たがしなかった。
しばらく経ってシュウはゆっくり唇を離した。そして優しくおでこにキスをしてから急にそっぽを向いた。
歩き出したシュウに春も黙ってついていった。
無言のまま歩き続け公園を抜けた所で雪が雨に変わり始めたのでシュウはタクシーを拾い春を乗せた。シュウの家は公園からそう遠くないのでシュウは乗らない。
ドアを閉める間際
「…気持ち悪かった?」
とシュウが訊ねた。春は首を横に振るのが精一杯でタクシーはそのまま走り出した。
次の日春は早番、シュウは夜勤だったため顔を会わせなかった。春は内心助かったと思った。
春にとって昨日のそれはまごうかたなきファーストキスであった。
というのも春は今まで恋愛をしたことがないのだ。
いや、してはいけないと思いこれまで過ごしてきた。
春はしっかり者ではない。
が、人一倍明るく、よく笑う。一見悩み事等とは無縁のように思われる程に明るかった。
しかしそれは、そうでもしないと自分自身を保っていられなかったからだ。
春の家庭は複雑で冷えきっていた。春がまだ小さい時から父親はたまにしか帰らず、
帰ると酒を浴びるように飲み、暴れた。
その殺伐とした家の空気に耐えられなかった春は少しでも和らげようと全勢力をそこに注いだ。たとえどんなに辛くとも明るく、いい子でいた。恋などしている余裕はまるでなかった。したいとも思わなかった。
高校1年生の夏、松永秀が転入してきた。長身で整った顔立ちのシュウはすぐさま女子の憧れの的となった。
軽く、お調子者で、思った事を思ったまま言う、自由奔放なシュウが春は嫌いだった。
我慢をすることが普通になっている春にとっては羨ましさもあり、見ていて無性に腹が立つのだった。
そんなシュウと就職先がかぶってしまった。否応なしに一緒に過ごす時間が増えていく。そもそも嫌いな相手だったため、春はいつもの様に気を遣う事もせず、ずけずけと何でも言い テキトーに接した。春は生まれて初めて人前で何も気にせず素の自分でいた。
すごく楽だった。
ずっとずっと張っていた肩の力が知らないうちにすこんと抜けていた。
どんな態度をとってもシュウは春を嫌わなかった。怒りはしても嫌うことは無い。
嫌われても別に構わないと思っていた相手なのに、春はそれが嬉しかった。安心した。春もシュウが嫌いではなくなった。同じようにシュウがどんなことをしても、信頼していた。甘えられる唯一の相手となった。
そのシュウに突然キスをされた。
動揺は半端ではない。心臓の音が外に漏れていやしないかと心配になるほどだったが、それが恋愛感情なのか、たんにびっくりしたのか分からなかった。
「そもそもシュウは私が好きなのか?あのチャラ男の事だ、深い意味等なく単純にそんな気分になっただけじゃないのか?」
「酔っていたし、こういう事を他の娘にもしてるんだろう。…………。」
そんなことを1日中考えてしまう。
春の状況処理能力は完全に限界を超えていた。
考えた挙げ句酔っていたのを幸いに覚えていない事にしようと決めた。実際記憶も曖昧な部分が多い。
そう決めた春はその後何事も無かったかのように普通に過ごした。何かあってもそれを隠し平然と振る舞う事に関して春はプロだ。
シュウもいつもと何も変わらなかった。
パン屋は更に忙しくなり、皆が慌ただしくなる。そんななか大江副店長の縁談話の噂まで流れ、隠れファンの女子達は居ても立ってもいられない。
毎日がてんやわんやなのでお陰様で春は事件の事をあまり考えずに済んだ。
あっという間に2週間が経ち、クリスマスまであと3日となった。
街ではリア充を狙ったクリスマス商戦が佳境に入り始める。
店でも女の子達はイルミネーションや巨大クリスマスツリーの話題で持ちきりだ。
その頃から春の心は曇り始めた。
シュウが露骨に素っ気なくなったのだ。
何を話しかけてもめんどくさそうに返事をし、常に不機嫌できつく、冷たいのだ。
春が何よりも傷付いたのは目を全く合わせなくなったことだった。
シュウに相手にされないのがこんなにも辛いとは思わなかった。
事件後もしばらくは普通だっただけに原因が分からず悶々とした。
「お?松永、もう帰るのか?」
「あ、はい。ちょっと用事があって……。」
「なんだなんだぁー?お前もリア充かよー。この時期だししょうがねーけど、仕事には影響させんなよ!」
「分かってますよー。」
そんなやり取りが春の耳に届いた。
「そっか。シュウ彼女できたのか。」別に高校時代だって色んな人と付き合ってたシュウだ。不思議ではないし、関係ない。
はずなのに。
気になって気になって気になって仕方ない。 「この前のアレはやっぱりただのノリだったんだろうか。
どんな女の子だろう?シュウはその子にどんな風に笑っているのかな。
………この前覚えてない振りなんかするんじゃなかったな。」
ぐるぐると答えのでない問が頭を圧迫してゆく。
ちがう。ちがう。ちがう。
そう心の中で必死に唱えるが、どうどうと音をたてて溢れだす感情を押さえる術を春は持たなかった。
ついに心のダムは決壊した。
シュウが好きだ!大好きだ!
春の中で急に春が叫んだ。
もうどうしようもなかった。他の何も考えられない程シュウが好きだという思いが春を壊してゆく。
激しい後悔と悲しみが春を襲う。苦しくて苦しくて息が詰まりそうだ。“恋すると胸がつまり息が苦しくなる”という話を全くバカにしていた春だが、「本当だった。」と思い知らされた。我慢する事には慣れっこのつもりが、“好き”という強い感情には通用しないのだった。
泣き出しそうに何度もなったが堪えた。
クリスマス2日前。
シュウの声が聞こえるだけで息の仕方を忘れる。
仕事に集中出来ずミスが続いた。
「っ!なにやってんだお前はっ!くそ忙しんだからしっかりやれよっ!」
「…………ごめん。」
本気で叱り飛ばすシュウ。
ひと月前に戻りたい…………。
春は本気でそう思っていた。
「衣笠…大丈夫か?珍しいな。何かあったか?」
大江が心配してきた。
「あ…。すみません。大丈夫です。」
「そうか…。ならいいが。お前も疲れてるんだよ。たまには息抜きでもしておいで。」
と指差した先には無駄に目立つ配色のポスターがあった。
毎年この時期同じ場所に貼られる近くのフラワーパークのクリスマスイルミネーションのポスター。
何十回見ても気に止まらなかったのに。
急に春の心を掴んだ。
シュウと行きたい。
この状況でまともな神経ではないと自分でも思ったが、もう止められない。
1度思ったら直ぐに実行するのが春だ。案の定渋るシュウに「どうしてもお願い!」と食い下がり24日の仕事終わりに無理矢理約束した。
自分の気持ちにケジメをつけ、元の自分に戻る為に一生で1度切りのわがままと決めていた。
イルミネーションをシュウと二人で見に行く。事情はどうあれ、素直に嬉しい。心底楽しみだった。
そしてクリスマスイブ。
予期せぬ事が起こった。春達の住む街は記録的な大雪に見舞われパンの製造に使う副資材の到着が遅れたのだ。
当然パン屋は大パニックでその日の営業はなんとか乗り切ったものの全員の残業が確定した。
全てが片付いたとき時計の針は23時を越していた。
「どう考えても今日は無理だな。諦めろ。」
店の電気を消しながらシュウが言った。
「…………。」
何も言えず、今にも泣き出しそうな春を見て、シュウは溜め息を漏らした。
「なんだよ。ガキじゃあるまいし、こんなこと位で泣くなよ。めんどくせぇ。」
「こんなこと?シュウにとってはこんなことでも私は楽しみにしてたの!そんな言い方しなくてもいいじゃんっ!」
「分かったよ!悪かったな!なにムキになってんだよ。気持ち悪ぃ。」
「気持ち悪い?そんなに私が嫌い?
じゃあ何でっ…………」
「あ?」
「…………じゃあ何であの時あんな事したの……」
「は?あぁ。…………別に。そんときしたくなっただけだよ。あ、間違っても俺に惚れたりすんなよ。」
最低だ。こいつは最低な男だ。
こんなやつ好きだと思う自分が情けなくなった。
もう何も言う気にならなかった春はそのまま無言で立ち去った。
忘れよう。何もかも。シュウなんかもう嫌いだ。
そう頭では思うのに、それでもなお心はシュウが大好きだと言う。
忘れようとすればするほどあの時の優しいキスが浮かんでしまう。
ついに春は道端で泣き出してしまった。
しばらくしゃがみこんでいると、聞き慣れた声がした。
「衣笠じゃないか!どうしたんだ!」
大江副店長だった。頭を横に振るだけで何も話さない春をそっと支え、
「とにかく今日は帰って早く寝ろ。明日もあるしな。」
そう言って大江は春を家まで送ってくれた。春はそのままの格好でベットに横たわり泣きつかれて寝てしまった。
25日クリスマス当日。
春は無心で仕事をした。何か考えるような隙を自分に与えなかった。
明らかに春の様子がおかしい事に全員が気が付いたが、誰も触れなかった。
休憩時間に春は大江に呼ばれた。
事務所に行くと大江はパソコンに向かっていたが、春が入ると作業を止め隣の椅子を勧めた。
「シュウと何かあったな?」
大江はズバリと言った。
大江には敵わない。何でもお見通しだ。
「…………はい。……私、シュウに嫌われてしまったみたいでして。私事で本当に申し訳ないのですが、結構こたえてしまって…。」
うつむいたまま春はそう大江に話した。
すると大江はいきなり吹き出した。
驚いた春は思わず顔を上げ大江を見つめた。
「松永が衣笠を嫌う?はははっ!ないね。絶対にあり得ない。」
笑いながら大江は続ける。
「これは絶対に言わないでおこうと思っていたんだがな。2、3ヶ月くらい前にアイツと飲みに行った時に、アイツ結構飲んで珍しく酔っぱらってな、つい喋っちまったんだろうけど…………」
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「そういえば、松永お前大学進学決まってたのにどうしてまた急にウチに就職したんだ?」
「…あぁ、……俺マザコンなんすよw」
「はぃ?」
「俺母親の事が大好きだったんす。優しくて明るくていつも笑ってました。」
「……。」
「でも俺バカだから、全然気付かなかったんすよ。母さん、具合悪かったのに皆に気を遣って無理して明るく振る舞ってくれてたんです。そんで……」
「ついに俺が中学ん時に倒れて、あっという間に…死んじゃった。」
「……辛かったな。」
「はい。そんで、高校1年で転校した先で春に会って、アイツ明かに目ぇ腫れてんのにみんなの前で明るく笑ってたんす。それ見て俺母さん思い出しちまって。それからずっと何か気になっちまって、いつも見てました。アイツが就職するって聞いて、また母さんみたいに無理して死んじゃうんじゃないかって思ったら……怖くてしょうがなくて…………」
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知らなかった。
シュウのお母さんの事も、自分をそんな風に見ていてくれた事も。
就職先が同じだったのもただの偶然だと思っていた。
大江に「内緒だぞ?」と言われ、深く頭を下げ春は仕事に戻った。
春は猛烈に恥ずかしくなった。自分がなんてつまらない奴かと思った。
自分はシュウの様に誰かの事をずっと思い、自分を後回しにした事があっただろうか。
周りに気を遣って生きてきたが、それだって結局は自分の為だ。自分の事しか考えず、自分の事だけでいつもいっぱいいっぱいになっている。そう思った。
まるで誰かに思いっきりグーで殴り飛ばされたような気がした。
21時。パン屋のクリスマス戦争はやっと終結した。
そしてここから、毎年恒例の“クリスマス打ち上げ”が始まる。
飲み会好きの店長を筆頭に全員でお疲れ様会をするのがこのパン屋のしきたりとなっていた。
大盛り上がりの飲み会がお開きになった頃には既に26日になっていた。
「おい!シュウ!もうこんな時間だ危ないから春を家まで送ってやれ!」
大江にそういいつけられて、シュウは春に「帰るぞ。」と言って歩き出した。
「……。」
「……。」
しばらく無言が続いた。近道の公園にさしかかったあたりで
「……やっぱりイルミネーション行きたかったな。」
春が漏らした。
「あぁ、なら大江副店長に連れてってもらえよ。きっと俺なんかと行くよりずっと楽しいぞ。」
「なんで?なんでそうなるの?私はシュウと……」
「俺なんかと行ったって楽しくねーって。言いにくいなら俺から頼んどいてやるから。」
「バカ!私はシュウと行きたいのっ!」
ついに春が叫んだ。
「どうして急に冷たくするのっ!目も合わせてくれないのっ!私がどんなに辛かったか分かってんのっ?」
もう止められない。
「なんで好きでもないくせにキスなんかしたのっ?ひどいよ!私はシュウが大好きなんだからぁっ!」
「バカはお前の方だろっ!」
シュウも叫ぶ。
「人が一生懸命嫌われようと努力してんのになんで嫌わないんだよっ!」
「はぁっ?」
「お前は俺じゃなくて大江副店長が好きだったんだよ!だけど俺がキスなんかしたから俺の事を好きだと勘違いしちまったんだよ!お前が本当に好きなのは大江副店長なんだ!」
「なにそれ?意味わかんないっ!そんなことないもん!シュウが好きだもん!私がシュウを好きだと迷惑なんだね?だから嫌われたいんだ?」
「ちげーよバカ!俺はただお前の幸せの邪魔がしたくないんだよ!」
「は?」
「大江副店長と縁談話があったんだろっ!」
「…………はい?なにそれ?」
急にシュウが赤面した。
「…大江副店長と結婚の話があったんじゃないのか?俺はお前はもともと大江副店長を好きだと思っていたから………くだらねぇ自分の感情でお前の足を引っ張っちゃいけねぇと…思って…………。」
「ないよそんなもん。完全にあんたの勘違いだよ。」
「…………。」
シュウは黙ってしまった。
春は続ける。
「私今までずっとずっとシュウに甘えてきた。シュウが私の全部を受け止めてくれてたから安心しきってただシュウにおぶさってた。ごめんなさい。」
「私、シュウが好きです。大好きです。シュウが今まで私の事を思って守ってきてくれた分…ううん、その何倍も恩返しがしたい!ずっとシュウのそばにいて、今度は私もシュウを支えたい!…………迷惑じゃなければなんだけど…。」
春は素直に思っていること全てをシュウに伝えた。
いつの間にか雪がちらついていた。
「お前はほんっとうにバカだなっ!」
シュウはそう言うとグイッと春の腕を引っ張り、強く抱きしめた。
「迷惑なわけないだろ。俺はもうずっとお前の事が好きなんだから。」
春はシュウの腕の中で静かはに泣いた。
シュウが
「もう26日だけど、メリークリスマス。」
と言った。
春も心からの笑顔でシュウを見上げ
「メリークリスマス。」
と言った。
そして二人はそっとキスをした。
今晩は風が吹いていない。静かな公園で、白く美しく舞う雪だけが二人を見守っていた。