夢の中
◆ ◆
平太は、夢を見ていた。
夢とは、寝ている間に脳が記憶を整理している作業からこぼれた情報だと言われている。そのため荒唐無稽でありながらどこか現実味があったり、強烈な印象があったくせに目が覚めたらほとんど忘れていたりする。
平太は、よく夢を見る方ではない。
昔はそうでもなかったように思えるが、就学を終え自室に引きこもるようになってからは、特にこれといった夢は見なかったような気がする。
要は、整理するほどの記憶がないのだ。
日がな一日モニターの前に座り、やる事と言えばゲームかネット巡回と最低限の生命活動。これでは得られる経験などたかが知れている。
毎日家の外を鼻水垂らしながら走り回っていた幼少期に比べたら、得られる経験などハナクソほどもないだろう。脳だって、毎日ハナクソをこねる仕事はしたくあるまい。
しかしながら、今平太の脳が整理している経験は、彼自身が経験したものではない。グラディーラに移植された、彼女の記憶だ。
グラディーラが見てきた、前勇者の背中だ。
ゆえに勇者の言動や戦闘を第三者の視点で見た映像なので、勇者自身の経験がそのまま移植されているわけではない。
そこで、大きな齟齬が生じる。
ただでさえ他人の記憶が混入しているのに、それが第三者視点のものとなると、まるで他人がプレイしているゲームを後ろで見ているような感覚になる。
しかもそれが自分のセーブデータにセーブされるという意味不明な状況に、脳が処理を拒否しだすのだ。
それを強引に処理させたり、なだめすかしたりしてどうにか整理しているのが、今の平太の脳内である。当然良い夢など見るはずもない。
しかしながら、では悪夢なのかと言われれば、そうでもない。他人のプレイ動画でも、見れば得られるものが少なからずある。実際、グラディーラの視点ではあるが、前勇者の戦いは平太にとっては最高の攻略動画であった。
片手剣のみという欠点はあるものの、剣の握りや歩法など基礎の部分から、平太がまだ見た事もない技の数々など参考になるものばかりだった。果ては剣のひと振りで海を割り、山に大穴を開けるところはまさに勇者といった感じで、自分にも同じ事ができるのか心配になったが、技の存在を知っただけでも重畳と言えるだろう。
そして攻略動画の一番の利点は、初見殺しがなくなる事である。勇者が戦った魔物は、図鑑ができるんじゃないかと思うくらい多かった。それらすべての魔物の情報が手に入ったのは、これからの旅で必ず役に立つだろう。もうグラディーラの解説も無用かもしれないと思うと、これはこれで寂しくもあるが。
こうして平太は、グラディーラが見てきた前勇者のあらゆる情報を手に入れた。
ただ、彼の顔だけは、ずっとぼんやりとしていてよく見えなかった。
☽
ドーラたちは戦闘後、デギース武具店の倉庫に倒れた平太を運び込んだ。
倉庫は工房から1ブロック隣だったおかげか、運良く被災を免れていた。倉庫内は埃とカビの臭いにまみれていたが、今は全員が腰掛ける木箱と、平太を寝かせる空間があるだけでありがたかった。
焚き火の中の薪が弾け、平太たちの影を揺らめかせる。影は全部で六つあった。平太たち五人と、デギースである。
空の木箱を寄せ集めて作った簡易の寝台に寝かされた平太は、夜が白み始めても目が覚める気配はなかった。あれから幾度となくスィーネが回復魔法をかけ、身体的な損傷はすべて回復している。ただ肉体以外の損傷――精神や魂の疲弊が激しすぎて、平太は未だ昏睡状態であった。
「ヘイタ様、大丈夫でしょうか……」
シズは、死んだように眠り続ける平太の髪を、そっと撫でる。髪にべっとりとこびりついていた血は、とうに拭き取られていた。
「わかりません」
シズの問いに、珍しくスィーネが戸惑いを含んだ声で答える。
「肉体はすでに全快していると言って良いでしょう。それは、生体波動を見ればわかります。ただ――」
「ただ?」とドーラが皆を代表するようにその先を促す。するとスィーネは「わたしも信じられない事なのですが、」と前ふりをしてから、
「今ヘイタさんの身体には、別人のオーラが混ざっています。最初は、魂の契約をしているグラディーラさんの影響かと思いました。実際、契約してからヘイタさんのオーラが変化したのは事実です。けれど、今回のはそれとは違う気がします。何より、最初は明らかに別ものだと思われたオーラが、今さっき見たらほとんどヘイタさんのオーラと同化しているのです。こんな事初めてで――」
「それについては、わたしが説明しよう」
スィーネの言葉を遮り、グラディーラが話の主導権を握る。
「それはきっと、わたしがヘイタに記憶を移した影響だろう」
「記憶? 誰の?」とドーラ。
「わたしのだ。正確に言うと、わたしの持つ前勇者の記憶だ。コンティネンスと戦っている間に移した」
グラディーラの言葉をすぐには理解できず、一同が沈黙する。
「えっと……、それってつまり、今彼の頭の中には、グラディーラの記憶が混じってるってこと?」
デギースが要約すると、グラディーラは「そうだ」と頷く。
「最初はわたしの記憶が馴染まず、ヘイタの頭の中には彼とわたし二人分の記憶が混在していたが、じょじょに記憶の整理が進んで、最終的にはすべて彼の記憶として取り込まれるだろう。オーラが同調しだしたのがその兆候だ」
平太の頭の中にグラディーラの記憶があるという事実に、一同は驚きの声を上げる。
「オイオイオイオイちょっと待てよ。ってこたぁナニか? コイツがのびてるのは、頭ン中にお前の記憶を混ぜたせいだってのか!?」
返答次第では即殴りかかると言わんばかりのシャイナの問いに、グラディーラはしばらく黙る。
「何か言えよこの野郎」
「それは、わたしにもわからん。何しろこんな事をしたのは初めてだ。どういう結果になって、どういう副作用があるのかまったく予想がつかん」
「てめぇ、何が起こるかわかんねーのに、コイツに自分の記憶をぶち込んだのかよ!?」
誰も止める間もなく、シャイナがグラディーラの胸ぐらをつかむ。だがグラディーラは眉ひとつ動かさず、平然とシャイナに視線を据え続ける。
「確かに持ちかけたのはわたしだし、危険があるのは認識していた。だがしかし、ヘイタはそれを承知の上で、わたしの提案に乗ったのだ。だからお前にとやかく言われる筋合いはない」
「ンだとこの――」
残った手を握り拳に変え、今まさにグラディーラをぶん殴ろうとしたその時、
「まあまあ待ちなよ。今二人が争っても何の解決にもなりゃしないよ」
二人の間にデギースが割って入る。彼の上背ではシャイナのへそまでしか届かないが、言葉は十分に二人を仲裁する力があった。
シャイナは舌打ちをすると、乱暴にグラディーラをつかんだ手を離す。
「それより詳しく聞かせてくれないかな」
「何が知りたい?」
「あんたとその子が伝説の武具だという話はさっき聞いた。――まあ信じられない話ではあるが、実際さっきの戦いを見たら疑う余地はない。だったら、カミサマが創ったとされる伝説の武具ならば、記憶を移すなんていう離れ業のひとつくらい平気でやってのけるだろうけど――」
「話が回りくどいぞ。さっさと本題に入れ」
グラディーラが睨みつけると、デギースは「ヘヘヘ」と薄笑いを浮かべる。
「じゃあ訊くけど、あんたはヘイタに勇者の記憶を移して、どうしたかったんだい?」
グラディーラの表情は変わらない。デギースも、斬りつけるような彼女の視線を正面から受けてなお、薄笑いを崩さない。
「……何を言っているのかわからんな」
「じゃあわかりやすく言うよ。あんた、ヘイタに勇者になって――いや、前勇者の代わりになって欲しかったんじゃないのかい?」
「貴様っ!!」
座っていた木箱を後ろに吹っ飛ばす勢いで立ち上がると、今度はグラディーラがデギースの胸ぐらをつかみ上げた。さすがは聖剣と言ったところであろうか。小柄な亜人とはいえ、大の男を片手で持ち上げている。
「おや? 何か気に触る事でも言ったかい? 僕はあくまで質問をしただけだよ」
この期に及んで、デギースはまだ薄笑いを浮かべていた。両足が完全に宙に浮いた状態でありながら、不敵な笑みをグラディーラに向け続けている。
「下衆の勘ぐりだったのなら謝るよ。でも、事実無根だったらここまで怒らないんじゃないかなあ。おっと、これも邪推だったね」
デギースは「ゴメンゴメン」と謝るが、謝意がまったくこもっていない。グラディーラは「くっ」と怒りを噛み殺すような吐息を歯の間から漏らすと、デギースを地面に下ろした。
それから一度大きく深呼吸をすると、頭に登っていた血が少しは身体に散ったのか、いつものグラディーラに戻ったように見えた。
だが未だ表情が厳しいのは、己の感情を制御できなかった恥ずかしさなのか、それともデギースに胸の奥を見透かされた悔しさのせいなのか。
グラディーラはさらに咳払いをひとつして、ようやく顔の険が取れると、
「……確かに、わたしは心のどこかで、ヘイタに前勇者を重ねていたところがあったのかもしれぬ。だが、ヘイタが力を望むのであれば、それに応えたいと思っていたのは紛れもない本心だ」
「なるほどねえ。ヘイタは勇者の力が欲しかった。あんたはヘイタに勇者になって欲しかった。ちょっとした目的の相違だけど、そのズレは致命的かもね」
「……何が言いたい」
「いやね、ちょっと気になったんだよ。この後ヘイタが目覚めたとして、彼は『前勇者の記憶を持ったヘイタ』と、『ヘイタの記憶を持った前勇者』のどっちなんだろうかってね」
デギースの言葉に、倉庫内の空気が一瞬で冷気を帯びる。二つのヘイタは、似ているようでまったくの別人だ。特に後者など、他人に身体を乗っ取られているのと同じではないか。
「まあ、勇者の記憶っていっても、あんたの中の勇者の記憶……ややこしいな、とにかく、前勇者本人の記憶じゃないってところが救いなのかな? さすがに第三者視点の記憶には、前勇者の意志は入ってなさそうだからね」
それを聞いて、一同がほっと胸をなで下ろす。
「ったく、驚かすんじゃねーよ」
驚かされたのが悔しかったのか、シャイナがぽかりとデギースの頭を小突いた。
「あいて。でも、まったく影響がないってわけじゃないだろ。これまで通りのヘイタじゃない可能性だって、十分あるんだから」
「う……」
「そんな……ヘイタ様が別人になるなんて、わたし厭です……」
一度晴れたと思った空気が、またどんよりし始める。
「だーかーらー、何でお前はそう余計な心配を増やすような事ばっか言うんだよ!」
シャイナがデギースの首を締める。その迫力は、折檻の領域を遥かに超えていた。
「ぐ、ぐるじい……。きみたちが楽天的すぎるんだよ。常に最悪の可能性を考慮して、なおかつそれを打開すべく策略を練るのが、発明家として最低限の――」
「うるせー! 屁理屈こねるんじゃねー!」
本気で息の音を止めようとしてるんじゃないかと思うくらい、シャイナがデギースの首を締めていると、
「う、う~ん……」
平太が目を覚ました。
☽
平太が目を覚ますと、まずは視覚が機能を取り戻した。ぼんやりとした状態からじょじょに明瞭になっていくと、ここが見知らぬ場所だとわかる。
次に聴覚が仕事を再開する。シャイナとデギースが話す声に、平太は王都オリウルプスのデギースの店を思い出した。
が、ここはデギースの店ではない。あそこが瓦礫と化した事は、よく憶えている。
だったら、ここはどこだろう。
「ここは……」
身体を起こそうとすると、頭が痛んだ。だが最高潮だった頃に比べたら微々たるもので、平太は痛みを無視して首を持ち上げる。
すると、
「ヘイタっ!!」
あっという間に視界をドーラたちの顔が埋め尽くした。
彼女たちは平太の寝ている木箱を取り囲み、心配と安堵の入り混じった表情で見下ろしている。
「お、おはよう……」
何を言っていいのかわからず、ずいぶんと間抜けな言葉が口から出た。確かに、窓から見える景色は、朝日によって白みがかる風景だ。あながち間違いではないだろう。
「おはようございます。ですが、今はまだ無理をしてはいけません」
冷静な口調のスィーネに身体を支えられると、平太は再び寝かされた。
「どこか、身体に異変は感じられますか?」
医師の診断のような口調でスィーネが尋ね、他の連中が身を乗り出すようにして平太の答えを見守る。その緊迫した空気に、平太はどれだけ皆に心配をかけたのか不安になる。
「そうだな……、頭がちょっと痛むが、特にこれといって異変はないと思うよ」
「本当にそうですか?」
ずいぶんと念を押すようだが、改めて自己診断してみてもやはり異常は感じられない。今のところは。
「うん。それより、俺はどれくらい寝てた?」
「倒れた時の事は、憶えていますか?」
「まあ、だいたいは」と平太は頷く。
「それからひと晩ぐっすり、とは言い難いですが、ざっと半日といったところでしょうか」
「そんなにか……」
平太は、自分を見つめるドーラたちの顔を見る。まるで小さな変化も見逃すまいと凝視している。ドーラなど、ネコ耳がぺたりと頭に貼りついている。
そんな中、シズがひときわ心配そうな目をしているのに平太は気づいた。よほど不安だったのだろう。一晩中起きていたと思われる彼女の眼に、再び平太の心が痛む。
もう大丈夫だから――平太がそう言おうとした矢先、シズが平太の手を取る。
「あの、ヘイタ様……」
「うん?」
シズは慎重に言葉を選ぶような沈黙のあと、
「ちゃんとヘイタ様……ですよね?」
結局よく意味の分からない事を言った。
「……うん?」
「あ、あのね、実は――」
さすがに意味不明すぎると周囲も理解したのだろう。慌ててドーラが説明した。
「そうか。グラディーラに全部聞いたのか……」
ようやくすべてが飲み込めた。ドーラたちは、平太がグラディーラの記憶を得た影響で、人格障害を起こしているのではないかと心配したのだ。
「……それで、どう? 何か変わった感じとかする?」
ドーラが尋ねるが、今のところ平太には何も異変は感じられない。ただ、自覚できないだけという可能性もあるのだが。
「いや、特に変わった感じはしないな」
「昔の事とか思い出せる?」
「たぶん、大丈夫だと思う」
「えっとね、じゃあボクとキミが初めて会った時の事、憶えてる?」
「うん」
「あの時、キミはどんな格好してた?」
平太は一度目を閉じ、当時の事を思い出す。もうずいぶんと昔の事のように感じるが、それでも鮮明に思い出す事ができた。
「上はグレーのスウェットで、下は……裸だったな」
「良かった、正解だ」
平太の答えにドーラは表情を明るくするが、それ以外の連中は一瞬で怪訝な顔をする。
「おいちょっと待て」
突然シャイナがドーラの頭をわし掴みにする。
「ん? なに、シャイナ? 痛いんだけど……」
「なんかさっき聞き捨てならない言葉が聞こえたような気がしたんだが……、あたしの空耳か?」
「おかしいですね。わたしも聞こえたような気がします。ヘイタ様の下半身が裸とかどうとか」
気がつけば、ドーラはシャイナとシズに挟み込まれていた。兜を握り潰すシャイナの手に頭を掴まれているので、逃げる事など不可能な状況である。
「ふ、二人ともどうしたの? 目が怖いよ。っていうか、顔も怖いよ……」
引きつった笑顔を浮かべるドーラの足が、ゆっくりと床から離れる。
「まーいいからちょっとこっち来いや」
「ドーラさん、さっきの話、詳しく聞かせてくださいね」
「え? ちょ……」
そうしてドーラは、シャイナに頭を掴まれ、シズに付き添われる形で倉庫の隅へと連行された。その姿はまるで、猛禽類に捕らえられた小動物のようであった。
朝日の当たらぬ倉庫の闇に三人が消えてからしばらくすると、小さくドーラの悲鳴が聞こえてきた。




