グラディアースとは
◆ ◆
「やれやれ、酷い目に遭った……」
平太は股間をさする。大事なものはきちんと二つあるし、痛みは嘘のように消えていた。
だが気を失う寸前に味わった苦痛は今思い返しても筆舌に尽くし難く、しばらく悪夢にうなされるのは確実だった。
「……どうでもいいけど、人の部屋で堂々と股間をまさぐるのはやめてもらっていいかな?」
分厚い本を両手で持ちつつ、ドーラはげんなりした感じで言う。
執務室にはドーラと平太の姿しかない。それは夕方から夜にかけては語学や社会など一般常識の勉強の時間であり、その教室がドーラの執務室だからだ。
「おう、スマンスマン。で、今日はどこからだっけ?」
平太がソファに座り直し、白墨を片手にテーブルの上に置いてある緑色の板を引き寄せる。
「今日はグラディアースの貨幣相場についてだよ」
「一応この世界にも貨幣があるんだな」
「銅貨、銀貨、金貨の三種類が主な流通貨幣だね。それぞれ十枚で一つ上の貨幣一枚に両替できるけど、金貨は最高額貨幣だからそれ以上の両替は無理なのを覚えておいてね」
「いや、むしろベタなんだが……」
グラディアースの貨幣制度は、かなり単純だ。だが貨幣制度があるだけでも大したものだ。しかもそれがきちんと市場に流通し、普遍的な価値を保持しているのは意外だった。平太が思ったよりもグラディアースは経済が発展しているのかもしれない。
「物価の細かい話は、実際に町に買い物にでも行って体験してもらおうか」
「外に出るのか……、いやまあその方が手っ取り早いが、別に無理に外に出る必要はないだろ」
「なに言ってるんだい。外に出なけりゃ魔王を倒しに行けないだろ。勇者になるって言ったのはキミなんだから、もっと頑張ってくれないと」
「たしかに言ったけど、」
「町に行くのはまだ先の話として、まずは日常会話くらいは習得してもらわないとね」
「む……」
平太は唸る。社会や経済も苦手だが、語学はもっと、さらに他人との会話はさらに苦手だった。今はまだ一日中ドーラの魔法で言葉が通じているが、いずれは自力で言葉を覚えなければならない。
ただ救いなのは、グラディアースの公用語が日本語と似たような構造だったため、読み書きは比較的楽に覚えられそうだった。
それでも未知の言語をイチから覚えるのは、さすがに骨が折れるのだが、平太は不思議と充実感を感じていた。
学校の勉強など、どうせ社会に出たら役に立たない。社会に出た事もないヒネたガキがよく言うセリフを、かつて平太もよく口にしていた。
その結果、社会に出る事もなく、日がな一日中親の金でゲームをしているだけの、酸素とメシを消費して二酸化炭素とクソと精液を生産するダメプラントに成長したわけだが、そんな彼でもわかった事が多少はある。
それは、学校の勉強は将来必要があるからするのではなく、もしかしたら必要になるかもしれないからとりあえずやっといた方が良い、というものだ。
ぶっちゃけ、平太のこれまでの人生に微分積分も関数も古典も世界史も化学も必要なかった。だがそれは彼が必要としなかっただけで、もし仮に彼がそれらに興味を持ち、よりさらなる学問を究めようとして大学やそれらの専門学校に進む時、最低でも基礎となる知識は持っておかなければならない。
要は、いつどの方面へ進路を向けてもいいように満遍なく知識を詰め込んでおくのが学校という機関なのだが、それに気づいたのは彼がとうに卒業してニートになった後だった。
しかし、グラディアースに来てこの世界の歴史や社会、経済や常識や言語を学んでいるうちに、平太は妙な充実感を覚えていた。
それはかつて、学校の授業では得られなかったものだが、それがなぜこの異世界で得られたのか。
考えた結果出た答えが、それが今自分にとって必要だからだ。目的がはっきり見えた行動だから、疑問や不安を差し挟むことなく真剣に取り組める。
必要な知識を得るという事は、こんなにも楽しい事だったのか。「人間は無用な知識が増えることで快感を感じることができる唯一の動物である」とは、かのアイザック・アシモフの言葉であるが、必要な知識を得るとさらに快感が増すような気がした。
平太はこの年で、しかも異世界で初めて、勉強が楽しいと思えた。
「もっと早く気づいてればなあ……」
「え? 何だって?」
「いや、何でもない」
「そう。では次の文字は――」
ドーラが緑の板に白墨でグラディアースの文字を書き込む。この世界では紙はまだまだ貴重品であり、公式の書面でも動物の皮をなめしたものがまだ主流らしい。
なので書き取りなどはこうして板と白墨、あるいは地面を使い、書いては消してを繰り返すのだ。平太は大昔にタイムスリップした気分だったが、グラディアースではこれが当たり前である。
そして、この当たり前が受けられない者も当然存在した。
文化水準が低いということは、識字率が低いということでもある。こうして文字や算術などを習うのは、貴族や一部の恵まれた商人だけで、他の者は読み書きすらできずに一生を終える。むしろその方が圧倒的に多い。
この世界では、女性でありながら読み書きと計算ができるドーラやスィーネの方が特殊なのだ。ちなみにシャイナはドーラに習って読み書きはできるが、計算は途中で投げ出したそうな。
グラディアースについての授業が始まった頃、平太が自分の世界について語ったとき、ドーラはたいそう驚いた。
「キミの世界は本当に恵まれているんだね」
正確には、平太のいた日本が他の国に比べると恵まれていただけなのだが、異世界の彼女からすればそれは関係なく、誰もが平等で学問ができ、生命や明日の食料の心配をしなくていい世界など、天国以外の何者にも思えないだろう。
異世界に来て、平太は当たり前の事が如何にありがたい事だったかを噛み締める。そう思えば、この緑板に白墨でする書き取りも悪くないと感じる。
「そう言えば、ここってグラディアースのどのあたりにあるんだ?」
平太がふと思い立った疑問を口にすると、ドーラは興味を引かれたようにネコ耳を立てた。
「ここって、この屋敷のことかい?」
「それもあるが、現在位置? 国や街の名前とか、知らないことが多すぎるからな、俺。そもそもこの屋敷の敷地から外に出た事ないし」
「なるほど」
そう言うとドーラは、壁一面にしつらえた書棚に向かう。脚立を持ち出して一番上に上ると、書棚の棚ではなく棚の天板と天井の間に差し込んであった巨大な巻き物のようなものを取り出した。
「何だそりゃ?」
「グラディアースの地図だよ」
「地図なんかあるのかよ」
「またそうやってこの世界の文化水準を馬鹿にするう……」
不満そうに唇を尖らせるドーラに、平太は「すまん」とひと言詫びを入れる。が、彼女の言う通り、この世界に地図があるというのは意外だった。
「で、これが地図なんだけど、」
天井にあるフックに巻き物の紐を引っかけて開くと、社会科の時間に使うロール式の世界地図のようにグラディアースの地図が姿を現した。
「……意外にシンプルだな」
「まあ、誰も全部を見たことないからね」
てっきり大きな亀の背中に象が乗ってるような神話チックな地図が出てくるのかと思いきや、案外普通の地図だったので拍子抜けした感はある。
だが予想を裏切らない稚拙さと言うか適当さで、地図には大雑把に四つの大陸しか描かれていなかった。
地図は中心に大きな菱形を据え、その周囲に大小様々な大陸を配してあった。
「まずボクらがいるのが、この一番大きなディエースリベル大陸」
ドーラが地図上の中心に最も大きく描かれた大陸を指し棒で示す。そこから棒の先を右、地図で言うと東の方角へとずらしていき、
「で、この辺りが王都オリウルプス。一番大きな東の都で、政治的にも軍事的にもここが中心となっていると思ってくれれば間違いじゃないよ」
そこからさらに少しだけ棒を下にずらし、
「屋敷はこの辺りかなあ」
「王都の中にあるんじゃないのか」
「宮廷魔術師と言っても下っ端の下っ端だからねえ。これでもまだ近い方だよ。街まで歩いて行けなくもないし」
少し困ったような笑みを浮かべて、ドーラは何の自慢にもならないような事を言った。
その何とも含みを持った表情に、彼女が街から離れた屋敷に追いやられているのは、階級的な優劣だけが原因ではないような気がした。
「他の大陸を説明しようか。これがカリドス大陸。海の幸が美味しいらしいよ」
カリドス大陸はディエースリベル大陸の南西に位置し、気候は熱帯に近く一年中気温が高い。そのため海での漁などが盛んで、住民は常に真っ黒に日焼けした陽気な人々らしい。
「続いてパクス大陸。山の幸が美味しいらしいよ」
「お前の情報全部グルメリポートなのな」
パクス大陸はディエースリベル大陸の南に位置し、カリドス大陸ほどではないものの一年を通して温暖な気候が続く。そのため木々の成長が良く、山での狩猟や木材などが主な収益となっている。
「話だけ聞くとずいぶん平穏な世界だな。とても魔王とか魔族とかが住んでるようには思えん」
「それはね、魔族の大半はこのフリーギド大陸にいるからさ」
ドーラが指し示した場所は、ディエースリベル大陸の北、地図では白く記された大陸だった。
「見るからに寒そうな色だな」
「色は関係ないよ、寒い土地なのは確かだけど。ただ、魔王の城がある魔族の本拠地だから、詳しい情報がなかなか手に入らないんだよ」
色と方角からして北極のような氷の大地を想像したのだが、どうやらただの情報不足のようだ。
「大半ってことは、他の大陸にも魔族はいるのか」
「鳥や動物がどこにでもいるように、魔物だって世界中にいるさ。海を越えてその生息地を広げる種もいるからね」
「そのフリーギド大陸に人間は住んでないのか?」
「人間ほどどこにでも住める生き物はいないだろうね。町だっていくつもあるよ。魔王が復活しなければ、他よりちょっと魔物の量が多いだけの土地だからね。先祖代々住んでる土地を離れるよりは、魔王がいようが魔族が出ようが関係ないって人は少なからずいるさ」
「そういや魔族の動きを監視してるって言ってたな」
「監視って言っても、安全な大陸の端っこで見てるだけだけどね。わざわざ中心まで行って動向を探るほど勇敢な兵士はいないし、上もそんな馬鹿な真似はさせないだろう」
もっと馬鹿な真似をやろうとしているのがドーラなのだが、平太は黙っておく事にした。
「どうにも地図だけじゃ大きさとか距離感がピンと来ないな。参考にはなったが、これも実際外に出てみないとわからんな」
「そうだね。キミの語学力がそれなりになったら、旅の予行演習を兼ねて手近な別の町に実際に行ってみる事にしよう」
「語学って、覚える言語は一つだけでいいのか?」
「どうして? 一つあれば十分だよ」
「いや、俺のいた世界じゃ国によって言葉が違ってたからな」
「ええ!?」
もう何度目か覚えてないほどだが、平太が地球の話を語るたびに、ドーラは素直に驚く。
「一つの世界なのにどうして幾つもの言葉が必要なのさ? 意味がわからないよ」
「大昔、ヒトがカミサマのところに行こうと天まで届くような高い塔を建てたら、カミサマが生意気だってブチ切れやがってな。塔は雷で壊されるし、罰として二度と集まって悪巧みできないように言葉をバラバラにされたんだっけかな」
「うわあ……、了見の狭い神様だねえ」
「だろ?」
そう言ってにやりと平太が笑うと、ドーラも「うん」と言ってにこりと笑った。
こうして夜がふけるまで、平太のグラディアースに関する勉強は続いた。