普通の女の子になります
◆ ◆
イグニスは、パクス大陸上空にいた。
彼のような上級魔族になると、羽の有無は関係ない。体内を巡る膨大な魔力を体外に噴出し、ジェットエンジンの要領で飛行が可能なのだ。
こうして彼は魔王の城があるフリーギド大陸から、霊山スピルトゥンスのあるパクス大陸まで飛んできたのである。
かつて聖剣が眠っていたとされる霊山スピルトゥンスに異世界人が来た、という報告を受け、その動向が気になったのは認める。しかしそれだけで四天王と呼ばれるほどの地位の彼が動くには、理由としては弱すぎる。
では何故わざわざ海を越えてやって来たのかと言うと、実は彼自信よくわかっていない。
理由の半分以上は、毎日飽きもせず繰り返されるウェントゥス主催の会議を体よくサボるためだ。でもサボるだけなら、そんな遠回しな理由などなくても彼なら「めんどくさいから」と直球を投げつける。
そうしなかった理由はすごく曖昧で、言葉にすれば「何となくこっちに行けば面白い事がありそうな気がした」程度の、言ってしまえばただの気まぐれであった。
だがこういった漠然とした予感を、イグニスはむしろ信頼していた。理屈ではない、直感や閃きから来る衝動こそ、何より彼が重視しているものだからだ。
それは彼の戦闘スタイルにも顕著に現れている。ウェントゥスがあらゆる兵法や戦術戦略に基づいた緻密な作戦を駆使して戦うタイプだとすれば、イグニスはその場その時のノリで戦う気分屋タイプである。
よって内容に大きなムラがあり、ウェントゥスに言わせれば「美しくない」の一言なのだが、結果彼がこうして四天王の一角を担っているのだから、その実力の高さが伺える。
こうしてあてもなく空を飛んでいたイグニスであったが、空気の中にかつて嗅いだことのある嫌な臭いを見つけ、顔を大きく歪めた。
「この臭い……」
何百年経とうが忘れるはずもない。
それは、かつて自分を殺した相手の臭い。
イグニスは犬のように鼻をひくつかせて臭いがどこから来ているのか方角を探る。
「こっちか」
言うなり全力飛行に移る。爆発的な魔力の噴出に周囲の空気が押し出され、水蒸気と化して爆散する。雲が弾け飛んだ。
「待ってろよ……今度は俺が殺してやる」
激しい怒りの中に、かつて辛酸を嘗めさせられた相手と再戦できる歓びを混ぜつつ、イグニスは風を斬り裂くような速度で一直線に飛んだ。
その先には、霊山スピルトゥンスがあった。
山小屋の中は、静まり返っていた。
聖剣は引退した。そう彼女が告白してから、どれだけの時間が過ぎたのだろう。実際は五分も経っていないのかもしれないが、平太の中では一時間にも二時間にも感じた。
言葉の意味が理解できず、ぐるぐると頭の中を巡る。
「え……? え…………?」
咄嗟に言葉が出てこなかった。声がどもって上手く声にならない平太の代わりに、ドーラがグラディーラに問いかけた。
「えっと……どうして引退を決意したの?」
まるでアイドルにコメントを求める芸能リポーターのようなセリフだが、知りたくないと言えば嘘になる。なので平太たちはグラディーラが答えるのをじっと待った。
「それは……」
先ほどまでの切れ味鋭い物言いが打って変わって、グラディーラは口ごもる。よほど言いにくい事なのか、それともとてつもなく壮大な理由があるのか。
何しろ相手は聖剣である。しかも勇者とともに旅をし、魔王と戦って勝利したのだ。その過程はとても長く、様々な出来事があったに違いない。それこそお伽話にはならなかった多くのエピソードの中に、彼女が決意を固くした何かがあったのかもしれない。
「話せば長くなるが――」
ようやく語られた真相は、平太たちの想像を遥かに超えるものだった。
始まりは、やはり五百年前だった。
平和だったグラディアースに、突如魔王と名乗る者が現れた。
魔王は魔族や魔物を次々と生み出し、わずか数日で世界を闇で覆い尽くした。
絶望した人々が神にすがると、神は魔王と戦える武器と防具を生み出した。聖なる剣と鎧、そして盾の誕生である。
しかし、それらはあまりにも強力で、グラディアースの人にはとても扱いきれぬ代物であった。そこで神は、他の世界から新たに人を呼び込める術を与えた。
「それが勇者召喚か」
平太の言葉に、グラディーラが頷く。
「っつーか使えない武器与えたり、魔王を他の世界の奴に倒させようとしたり、案外カミサマって使えねーな」
「滅多な事を言うものではありませんよシャイナさん。神は、こうして人に試練を与えているのです。そして神の試練に打ち勝った暁には、人の魂はさらなる高みへと昇ることができるのです」
スィーネの態度は、さすが神が実在する世界の僧侶といったところか。が、シャイナの発言は、平太の頭の片隅に湧いた疑念を惜しいところで掠めている。
「神の試練ねえ……」
あまり話の腰を折るのも悪いし、ここで本職を相手に宗教論を語っても仕方ないので、平太は「すまない。続けてくれ」と続きを促す。
こうして呼び込まれた勇者と、グラディーラを始め聖なる武具たちは魔王を倒す旅に出た。
と、言葉にすれば簡単だが、その道のりはとても言葉では語り尽くせぬものがあった。
何より、勇者と言っても異世界人である。グラディアースという外国よりも遠い場所にいきなり連れて来られ、混乱する勇者に事情を説明し、一緒に魔王と戦ってくれと頼むだけでも相当の労力を用いた。
それからは試行錯誤の連続だった。勇者として召喚されてはいるが、元の世界でもそうとは限らない。むしろ一般人だった彼が魔王を倒す勇者に育つまでは、それはもう大変な苦労があったと言う。
それこそ何日でも語れる英雄譚ができ上がる勢いだが、ここではそれは割愛される。
何だかんだ言って、自分たちの話は終わってしまえば良い思い出である。戦闘による負傷も失敗も、経験という財産だ。
問題は、自分たち以外の出来事だった。
最初に悩んだのは、勇者だった。
人間に、助ける価値を見出せなくなったのだ。
魔物に襲われ、恐怖していた人々は、皆勇者の到来を心から喜んだ。そして彼が魔物を打ち倒し、自分たちの住んでいる地域が平和になると、口々に感謝の言葉を投げかけた。
そこで終われば良い話だった。
やがて人々は勇者に対する感謝や尊敬の念を失い、まるで自分たちに奉仕するのが当たり前のように思い始めた。
彼らの要求は日に日に増していき、勇者の無償の善意を浴びるように受け止めた。
さらには、もう用は無いだろうとそこから去ろうとした勇者たちを、あの手この手で引きとめようとし、それでも駄目だとわかるや掌を返し、危害を加えようとしてきた事さえあった。
何度も言うが、勇者である以前に彼は普通の人である。
あまりにヒトの醜さを見てきた彼は、ついにヒトを救う事に疑問を持ち始めたのだ。
「彼は悩みに悩んだ……。それこそ、頭に硬貨大のハゲが数箇所できるくらい」
「この世界にも円形脱毛症とかあるのかよ……」
どれだけのストレスを感じていたのだろう。平太もヒトの醜さのようなものはいくらか見てきたが、それでもハゲるほど悩んだ事はなかった。それゆえに、勇者が受けた心労は想像すらできない。
「それでも彼は立ち上がって戦った。牙持たぬ人々のために。自分がやらねば誰がやると」
そうして勇者は世界を巡り、やがて魔王と戦い、そして封印に成功した。
その間に、いったいどれだけ同じ思いをしたのだろう。何度裏切られ、傷つけられ、見たくもない醜いものを見せつけられたのだろう。神は、ただの若者を徹底的に破壊するために、わざわざ異世界から呼び寄せたのだろうか。
そして何度も何度も傷めつけられた若者は、とうとう心折れて自ら命を絶とうとした事もあるという。
だが、死ねなかった。
「皮肉な事に、魔と戦い続けるうちに彼はヒトを超えてしまっていた」
「どういう意味だ?」
平太の問いに、グラディーラはわずかに眉をしかめる。
「原因はわたしにもわからない。魔物の血を浴び過ぎたせいか、それとも最初から神がそう呪いをかけたのか。とにかく、彼は不老不死になっていた」
わたしたちのように――そう告げるグラディーラの表情は、自分が死ねないと知った時の勇者の顔を思い出したのか、見ているだけで胸が痛くなる悲痛なものだった。
「そんな……神が勇者に呪いをかけるだなんて。きっと何かの間違いです。原因は他にあるはず……」
呪いという不吉な言葉に、神にその身を預ける立場のスィーネが怯える。
「呪いという言い方が悪いのなら、制約か束縛だ。どちらにせよ、彼がもう元に戻れない事に変わりはない」
「それで……今その勇者はどうしたんだ? 当然、自分の世界に帰ったんだろ?」
恐る恐る尋ねる平太の問いに、グラディーラは首を横に振る。
「彼は帰らなかった――いや、帰れなかったと言った方が正しいか。どの道帰ったところで、老いも死にもしない身体では不幸な未来しか見えぬからな」
「ちょっと待てよ。ってことは、五百年前にこの世界を救った勇者が、この世界のどこかでまだ生きてるってことなのか?」
「そうだ」とグラディーラは神妙に頷く。
「それならさ、どうして彼は何もしないんだろう? 不死身の勇者なら、今度こそ魔王を完全に倒せるかもしれないのに」
ドーラの意見はもっともだ。そもそも先代の勇者がまだ健在だったら、平太など召喚しなくても良かったのに。
「何も知らないくせに、勝手な事を……」
小さく、だがはっきりと怒りのこもった声でグラディーラはつぶやいた。
「何もしなかったんじゃない。できないんだ。何故なら彼はもう戦えないのだから」
「どうして? 不老不死になったんだから、老いや病気とは無縁なんだろ?」
「確かに、恐らく彼は今もどこかであの時と変わらぬ姿でいるだろう。けれど、それでも彼はもう戦えないんだ。いや、戦ってはいけないんだ」
「どうして?」
「身体はともかく、彼の心は耐え切れなかったのだ。魔王との最後の戦いの後、それまでの無理がたたって……」
つう、とグラディーラの瞳から涙が流れる。そして彼女は泣きながら微笑む。
「けれど、悪い事ばかりではなかったよ。それこそ、神の思し召しというやつだろうか。彼はね、最後の戦いが終わった後、それまでの記憶を全部失っていたんだ。良い事も、悪い事も、わたしたちの事すらきれいさっぱり――」
それまで苦楽を共にしてきた勇者に忘れられ、グラディーラたちはこの世界から消えたくなるほど悲しんだ。だがそれでも、彼にとってそれが救いとなるのならと、彼女たちはそれを受け入れたのだった。
「勇者としての彼はもうどこにもいない。この世界が、そして彼が救おうとした人々が壊してしまった」
グラディーラの声からは、世界やヒトに対する恨みや怒りがひしひしと伝わってきた。
「そして今、魔王が再び復活したが、そんな事はどうでもいい。わたしは人間に助ける価値を見出せるまで、二度と聖剣にはならないと心に決めた。この山に篭って、結界まで張ったのはそういう事だ」
あの結界は、彼女の意志の表れだった。あれほどまで強固に拒絶する意味が、今ようやく理解できた。聖剣は、勇者を壊したこの世界や人を未だに許せないでいるのだ。
「だから誰が何度来て、どれだけ頼まれても、わたしの気持ちは変わらない」
断然と言い切るグラディーラの声や態度には、まるで鋼の芯が通っているかのようだった。
その迫力に気圧され、室内に沈黙が流れる。
誰も何も言えなかった。平太もこれ以上何を言えば彼女の意志が変わるのか、到底思いつかなかった。
いや、本人が言ったではないか。誰が何度来てどれだけ頼もうと変わらないと。つまりはそういう事だ。例え王や神が来たとしても、彼女の意志は曲がらないであろう。
平太は大きく息を吐いた。無駄足だったことに失望したのではない。グラディーラの生き様を見せつけられ、感嘆の息を吐いたのだ。
ここまで先代勇者のことを想う心の強さと固さに、不謹慎ではあるものの彼に羨望さえ感じた。
自分は、ここまで仲間に想われる男になれるだろうか。そして、ここまで仲間の事を想える男になれるだろうか。そんな事を考えてしまう。
平太はもう一度嘆息する。
「わかった。聖剣は諦めよう」
きっぱりと言い切った。
「お、おい、いいのか?」
「いいも悪いも、本人が二度とやらないって言ってるんだ。だったら諦めるしかないだろう」
平太の潔さに、シャイナは「お、おう……」と中途半端な返事をする。
「でも、せっかくここまで来たんだし――」
食い下がろうとするドーラの肩に、誰かがそっと手を置いた。顔を上げてそちらを見ると、シズがゆっくりと首を横に振った。
「無駄ですよ。ヘイタ様がああ言ったら、絶対曲げませんから」
少し困ったような顔で言うシズの頭の中では、かつて自分が平太に言われた言葉が思い返されていた。
あれはそう、シズが詐欺師によって馬にされ、ドーラに買われたあの夜。
『俺だってもし、昔酷い目に遭わされたことがあったら、二度と人なんて乗せるかって思う。だから、俺は力づくでお前に乗ろうとはしないし、無理にお前を躾けようとは思わないよ』
やりたくない事はやらせたくない。例えそれが馬であっても。平太はそういう男である。だから、聖剣にはもうならないと決めたグラディーラに、平太が無理強いをするはずがないのだ。
「ったく、甘い奴だぜ」
「でも、そこがいいところですから」
しれっと言うシズを、シャイナは少し驚いたような顔で見る。
「当人たちがそれで良いのなら、我々がどうこう言う問題ではないでしょう」
シズに加勢するようなスィーネの言葉に、何か言いそうになっていたドーラは言葉の代わりにため息をつく。
「まったく、しょうがないなあ」
口ではそう言いながらも、ドーラはそれ以上文句も何も言う気が起こらなかった。
不思議なことに、彼女だけでなくシャイナもスィーネもシズも、平太が決めた事をどうにかして覆そうという気はまったくしなかった。
あり得ないほどあっさりと諦めた平太たちに、グラディーラは最初芝居をして何か企んでいるのではないかといったふうに訝しんでいたが、やがてそれが演技でも何でもなく、彼らのごく自然な姿だという事を理解すると、ようやくその事実を受け入れ、
「お前たちの理解に感謝する」
深々と頭を下げた。
聖剣が手に入らないとなれば、ここに長居しても仕方がない。平太たちはグラディーラに別れを言って小屋を出た。
すると、いま別れたはずのグラディーラが後を追って小屋から出て来た。平太たちの申し出を断わりはしたが、せめてもの心尽くしに見送りに来てくれたのだろうか。その気持ちに平太は少し感動する。
「見送らなくてもいいのに」
気を使って平太が見送りを断ると、グラディーラは淡々とした口調で言った。
「いや、お前らが出て行った後に結界を張り直すだけだ」
「あ、そう……」
恥ずかしい勘違いに、平太の顔が赤くなる。さっきの感動が台無しだった。
一方その頃、霊山スピルトゥンスにほど近い上空では、ますます濃くなる獲物の臭いにイグニスが大興奮していた。
「近いっ! 近いぞぉっ! こっちからガンガン臭ってきがやる! あのクソみたいな臭いがよおっ!!」
猟犬のように鼻をひくつかせ、イグニスは凶悪な笑みを浮かべる。闘争本能に火が点き、魔力が暴走したように噴出されて速度が限界を超えて上がる。
ついには音の壁を超える勢いで加速したイグニスは、一瞬にして臭いを追い越してしまい慌てて制動をかける。
「おっといけねえ」
いくつもの雲に穴を開けてどうにか止まると、イグニスは両手の平で頬を数回叩いて自分を落ち着かせようとする。
「慌てるな。もうすぐじゃねえか。もうすぐ、もうすぐあいつを殺せるんだ」
落ち着いたところで、改めて周囲を観察する。どうやらここはスピルトゥンスの上空のようだ。
眼下には、味も素っ気もない灰色の山と、それに群がる蟻のような人間の列。何度見ても、おかしな光景である。
「山なんか登って何が楽しいんだかねえ」
そんな暇があれば戦争でもすればいいのに、とイグニスは思う。彼にとって人間なんて、殺すか殺し合いをしているのを眺めるかしか価値の無い生き物だ。
「あのクソアマをぶっ殺したら、ついでにこの山ごと吹き飛ばしてやるか」
面白い事を思いついたという顔で、とんでもない事を言う。小さな子供が蟻の巣を無邪気に破壊するかのようだ。
「そうだ、それがいい。楽しみが増えたぜ」
実に楽しそうにそう言うと、イグニスは再び臭いを嗅ぐ。
臭いは今やはっきりと、足元の山から来ているのがわかる。ここまで来れば、見つけるのはそう難しくはないだろう。
「楽に死ねると思うなよ」
舌なめずりを一つすると、イグニスは霊山に向かって一気に急降下し始めた。




